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第三部 交錯
その7 大井正幸の思考
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ドアホンの主は、堀雅代に違いない。
由紀子は慌てて部屋を出ようとしたが、埃塗れの家具につまづいた。
「危ないですよ」
驚いて、修吾が手を差し伸べたが、それより早く由紀子は手近な何かにしがみ付いた。
きい、き。
しがみついた小さな家具は、安定していなかった。
微かな音をたてて揺れる。由紀子は辛うじて床に膝をつき、倒れるのを防いだ。修吾の手につかまって立ち上がり、自分が今探り当てたものをよく見つめた。
真っ白な埃のベールを纏った、それ。
小さな船のようなもの。
由紀子の手形の部分だけ、埃がとれている。色あせてはいるが、愛らしい桃色に塗られていた名残が見えた。
木製の、古い「ゆりかご」。
由紀子は修吾を見上げた。
修吾は大して気にもしないように「ああ、ゆりかごですね。さっきお話したように、ここで日陰の生活をしていた名残でしょう」と答えた。
きい、き。
ゆりかごは軋みを止め、再び沈黙を取り戻した。
埃の下には、鮮やかな毛布がふかふかと乗せられているようだ。ころんころんと音が小さく聞こえるのは、赤ちゃんが遊ぶ玩具もそこに乗っているのだろうか。
また、ドアホンが鳴った。
「酷い恰好ですよ」
笑いながら修吾は言い、由紀子の肩を払った。
雅代を待たせてはならない。由紀子は急いで階下に向った。
**
修吾の大きな手。
頼りがいのありそうな微笑み。
おおらかなふるまい。
由紀子はそこに、男を感じた。
決して色めいた感情ではない。
職業柄、同僚は女性ばかりだし、身近に男がいない生活を、送って来た。
久々に触れた男は、嫌でも由紀子に、前夫のことを思い出させる。
大井正幸。
急な階段を急いでおりながら、由紀子はぞうっとする。
あの、大学の同期からの連絡以来、由紀子は不安を覚えていた。
すなわち、正幸に、この場所を勘付かれるのではないかと。
**
大井正幸。45歳。両親の家にだらだらと住み続けている。
三年前、妻と離婚した。けれど、そのことは、誰にも知られてはならない秘密だった。
もし誰かにそれを知られ、由紀子のことを愛していたかと聞かれたら、間違いなく愛していた、いや、今も愛していると正幸は答えるだろう。
ならばどうして別れるような事になったのかと、人は必ず追及してくる。そんな時、正幸はこう答えるだろう。
「あいつのほうが別れていった。話す余地もなかった」
いろいろな理由を作り上げることはできる。
正幸は暇ができれば脳内で、そういう場合のシュミレーションをする。えっ、奥さんと別れたの、いつ、どうして云々。
「あいつさー、あの年になってまだ実家離れできてなかったっていうか。帰ったっきり戻ってこなくなってよー」
満面の笑み、人のよさそうなとぼけた話し方で、正幸は語る。みんな、その様子を見て、正幸が単純で穏やかで「いい奴」であると思う。そういう印象づくりの大事さを、正幸はよく知っている。
大場正幸が結婚できたというのは周囲に取って驚くべきことだった。
しかも、由紀子は決してぶさいくではない。ほっそりとして、顔色こそ悪いが、よく整った顔立ちをしていて、今風ではないにしても、美人の部類にはいる。
そんな綺麗なひとを、正幸が手に入れた――周囲は、特に正幸と日頃時間を共にする同僚は――驚いた。
正幸は「いい奴」ではあるが、決して、「まともに相手をする」ような男ではない。
どこか足りないのではないか、と、皆から思われている。
顔立ちも、はにわのようにぽかんと目、鼻、口の穴が空いているようで、表情が乏しい。語る言葉は、表面上によさげなことばかりで、決して本音は入っていない。
彼女すらいたことがない正幸が、大学の同学年であり、たまたま同窓会の時に出会った時点で唯一フリーだった女、由紀子を手に入れた。
「あっちも年齢が年齢だから焦っていたんだろう」
とは、頭の深い部分で正幸は理解していたが、面白い方、楽しい方に流されてゆくのが彼の特性だった。「俺に惚れたから」という思いが、本能で理解している部分を巧みに塗り替えてゆくのもいつものことだった。
正幸の両親は幼い頃からそうだったように、結婚後も正幸の事ばかり考えた。
由紀子と正幸の新居も、自分たちが住む家から五分ほどの距離のアパートに決めさせた。
新婚一月目、由紀子が夜勤に行った。正幸はそれが納得できなかった。夜勤をするなと言うと、それは正職員をやめてパートになれということかと由紀子が喉返しした。
決して高給取りではない正幸は、正職員でいてくれなくては困る、だが、夜勤はするなと答えた。由紀子はそれ以来、呆れたように正幸を醒めた目で見るようになった。
それが、正幸を怒らせた。
魚が焦げていた。
部屋干しの洗濯物が落ちていた。
あらゆることで難癖をつけ、手を出すようになった。それが日常のことになった。
由紀子は堪えているように見えたが、ある日、冷たい目で睨んできた。あの、夜勤を辞めろと言った時と同じ、醒めた目だった。
その目で見られると、正幸は自分の劣等感の奥深くまで抉られるように感じた。由紀子をなじり、打っておきながら、その実、正幸は妻を恐れていた。
(俺の見られたくない部分を見抜いていやがる)
正幸は捨て台詞を吐き捨てると、財布と通帳と携帯を持ってアパートを飛び出し、真夜中だというのに自分の両親の家に逃げ込んだ。
それきり、正幸は由紀子に連絡を取ろうともせず、もちろんアパートに戻ることもなく、半年ほど放置してやった。
(思い知れ)
由紀子は最初、必死になって正幸の携帯に電話してきた。もちろん無視した。
次に、正幸が逃げ込んでいる実家の方に連絡をした。電話を取った正幸の母親は、「あらあらまあまあ大変大変、なんてかわいそうなの由紀子ちゃん。そりゃあ困るわよねえ新婚早々、まあまあどうしましょう、でもねえ、まーちゃん疲れてて、うちで休んでいたいんですってえ」と言うばかりだった。何度由紀子が電話をしてきても同じ回答であり、しまいには「由紀子ちゃんしつこいわねえ、警察沙汰にしましょうか」と笑いながら言った。
それで、ついに由紀子からの表立った反応は止んだ。
(まだだ、まだ思いしれ。俺がどんなに大事な存在かと思いしり、十分に反省しろ、この糞女)
しかし、由紀子は無言になった。
正幸は気になって、たまにアパートの前を通りかかってみたが、不規則な勤務の由紀子の車が駐車場に残っていることは滅多になかった。
そのまま年月が流れた。
ある日、やっと由紀子から連絡が入った。酷く憔悴した声で、それを聞いた瞬間、正幸はにやりとした。大丈夫だ、と思った。獲物はまだ、正幸の蜘蛛の巣のなかにいる。
弱り切った由紀子に正幸は「俺に詫びろ」と言い、由紀子はぽつんと「ごめんなさい」と答えた。
「二度と俺に逆らうな」と、いうと、由紀子は「はい」と答え、すすり泣いた。
それで正幸は、アパートと実家を往復する生活を始めた。
実家は居心地が良い。両親は彼を甘やかしているし、昔から食べて来た自分好みの味の食事が出るし、なにより由紀子の、あの冷たい目つきに怯えることもなかった。
ただ、肉体が欲しくなると、アパートに戻った。
それが三年続いた。
ある時、由紀子がインフルエンザにかかった。
両親はそれを理由に正幸を実家に囲い込み、そのまま三か月ほど、アパートに戻らせなかった。
ある日、由紀子から離婚届が郵送されてきた。
正幸は呆然とした。そして、むかむかと腹がたってきた。
離婚だと。そんなことになったら、恥をかく。
周囲は俺が結婚できたことに驚き、同時に羨んでいた。それなのに結局逃げられたと知られたら、俺はどうなるだろうか。
それは正幸の両親も同様だった。
「離婚ですって、そんな悲しい事許せないわ。どうしてそんなことを言えるのかしら、由紀子ちゃん酷いわ」
「育ちが悪いから、ちょっとしたことも辛抱できずに離婚なんて言葉を口に出すのだろう。困ったひとだ」
正幸は離婚届を破り捨てることができなかった。法律などに詳しくない正幸は、この紙切れを粗末に扱う事で、次になにが起きるか見当がつかなかった。その認識不足故に、離婚届を扱いかねて、怯えて棚の上にあげて、毎日頭をかかえて過ごした。
気になってアパートをちらちら覗くと、来るたびに由紀子の荷物が減っていることに気づいた。
由紀子が本当に自分から逃げようとしていることに気づき、正幸は絶望した。
なんとか由紀子を食い止めなくてはならない。
正幸が思いつく、女を引き留める方法は、最も愚かしい一つの手段しかなかった。
それから徹底してアパートをストーキングし、由紀子が戻って来て、しかもアパートの他の住人が留守にしている時刻を狙い、不意打ちのように突入した。
荷造りをしていた由紀子は驚き、悲鳴をあげ、抵抗した。
正幸は暴力の限りを尽くしてー―このアマ、大人しい顔をして猛獣みたいに暴れやがる――由紀子の服を破り取り、体をほしいままにした。
何度も何度も精を放った。
そのうち由紀子は抵抗しなくなり、虚ろな目で天井を見上げたまま黙り込んだ。
自分のテクニックに恍惚となっているのだと、正幸は都合よく思った。そして、耳元で「俺と別れたらこんないい思いは二度とできなくなるんだぜ、ざまをみろ」と囁いた。
正幸としてはベストを尽くしたつもりだった。
最高の時間を由紀子に提供してやったはずだった。
おもむろに正幸は待った。
実家で安閑と過ごしながら、由紀子から泣いて詫びる連絡が入るのを待った。
ところが、現実はどこまでも正幸を裏切ったのだ。
**
夫婦であろうと、同意のないセックスはレイプにあたる。
正幸が最善の策と思ってしたことが、離婚に有利に働いた。
調停に応じない正幸に、ある日、弁護士から連絡が入り、そういった言葉を聞かされた。
急に正幸は恐ろしくなった。両親も恐ろしくなったようだった。今まで放置し、埃をかぶっていた離婚届を引きずり出すと、書き込んで印鑑を押し、由紀子の実家に送り付けた。
それで、すべてが終わった。
**
離婚はあっさりとしたものだ。
あれから三年がたったが、未だ、正幸は周囲に結婚生活が継続中であるかのように見せている。
正幸の両親もそうしている。
もうとっくに去ってしまった女の事を「由紀子ちゃん、料理をぜんぜんしないから、わたしが作ってあげてるの」と、母親は近所に言いふらした。
同僚たちは、でっぷり太った正幸に対し「幸せ太りか」と囃した。
正幸はえへへと笑って「そんなんじゃないっすよー」と言った。
偽の平穏の中を、正幸は過ごした。
頭の中には常に由紀子が―ー由紀子の、あのしなやかな魚のような体が――あった。
離婚はしているのだが、正幸に取って、由紀子との関係は継続していた。
会いたいと思う気持ちすら、正幸は正面から受け取らなかった。
会いたい恋しいという思いは、「なぜあいつは俺に連絡をとってこないのだ」という粘っこい怒りに変換された。
もんもんとした日が続いた。
そんなある日、正幸に大学の同級生から連絡が入った。
みんなで会おう、という楽し気な企画。正幸はうっすらと期待した。しかし、相手がどこまで自分たちの事を知っているか読めずに、自分からは具体的なことを聴くことができなかった。
幸い、おしゃべりな相手は聞きもしないことをぺらぺら言った。
「みんな集まるけれど坂東さんだけ無理だって。なんか今、療養中とかで、×町にいるらしいよ」
×町。
寂しい田舎町だ。
車が好きな正幸は、一人でドライブすることが多い。×町にも足を延ばしたことがある。
「へー。×町のどこ」
なにげなく正幸は聞いた。
相手は何も知らない。正幸は腹の中で笑った。
「住所は知らない。なんか古くて大きい屋敷みたいなとこ、親戚筋の持ち家を安く借りてるみたいだよー。ねー、いいよねー、みんなでそこ遊びに行きたいくらいじゃない」
**
×町。古くて大きい屋敷。
正幸は×町には詳しくなかった。
しかし、なにか予感が働いた。
(行けば分かる)
通話を終えた時、正幸は自分でも気づかなかったが、陰険で粘着質な、醜い笑いを浮かべていた。
由紀子は慌てて部屋を出ようとしたが、埃塗れの家具につまづいた。
「危ないですよ」
驚いて、修吾が手を差し伸べたが、それより早く由紀子は手近な何かにしがみ付いた。
きい、き。
しがみついた小さな家具は、安定していなかった。
微かな音をたてて揺れる。由紀子は辛うじて床に膝をつき、倒れるのを防いだ。修吾の手につかまって立ち上がり、自分が今探り当てたものをよく見つめた。
真っ白な埃のベールを纏った、それ。
小さな船のようなもの。
由紀子の手形の部分だけ、埃がとれている。色あせてはいるが、愛らしい桃色に塗られていた名残が見えた。
木製の、古い「ゆりかご」。
由紀子は修吾を見上げた。
修吾は大して気にもしないように「ああ、ゆりかごですね。さっきお話したように、ここで日陰の生活をしていた名残でしょう」と答えた。
きい、き。
ゆりかごは軋みを止め、再び沈黙を取り戻した。
埃の下には、鮮やかな毛布がふかふかと乗せられているようだ。ころんころんと音が小さく聞こえるのは、赤ちゃんが遊ぶ玩具もそこに乗っているのだろうか。
また、ドアホンが鳴った。
「酷い恰好ですよ」
笑いながら修吾は言い、由紀子の肩を払った。
雅代を待たせてはならない。由紀子は急いで階下に向った。
**
修吾の大きな手。
頼りがいのありそうな微笑み。
おおらかなふるまい。
由紀子はそこに、男を感じた。
決して色めいた感情ではない。
職業柄、同僚は女性ばかりだし、身近に男がいない生活を、送って来た。
久々に触れた男は、嫌でも由紀子に、前夫のことを思い出させる。
大井正幸。
急な階段を急いでおりながら、由紀子はぞうっとする。
あの、大学の同期からの連絡以来、由紀子は不安を覚えていた。
すなわち、正幸に、この場所を勘付かれるのではないかと。
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大井正幸。45歳。両親の家にだらだらと住み続けている。
三年前、妻と離婚した。けれど、そのことは、誰にも知られてはならない秘密だった。
もし誰かにそれを知られ、由紀子のことを愛していたかと聞かれたら、間違いなく愛していた、いや、今も愛していると正幸は答えるだろう。
ならばどうして別れるような事になったのかと、人は必ず追及してくる。そんな時、正幸はこう答えるだろう。
「あいつのほうが別れていった。話す余地もなかった」
いろいろな理由を作り上げることはできる。
正幸は暇ができれば脳内で、そういう場合のシュミレーションをする。えっ、奥さんと別れたの、いつ、どうして云々。
「あいつさー、あの年になってまだ実家離れできてなかったっていうか。帰ったっきり戻ってこなくなってよー」
満面の笑み、人のよさそうなとぼけた話し方で、正幸は語る。みんな、その様子を見て、正幸が単純で穏やかで「いい奴」であると思う。そういう印象づくりの大事さを、正幸はよく知っている。
大場正幸が結婚できたというのは周囲に取って驚くべきことだった。
しかも、由紀子は決してぶさいくではない。ほっそりとして、顔色こそ悪いが、よく整った顔立ちをしていて、今風ではないにしても、美人の部類にはいる。
そんな綺麗なひとを、正幸が手に入れた――周囲は、特に正幸と日頃時間を共にする同僚は――驚いた。
正幸は「いい奴」ではあるが、決して、「まともに相手をする」ような男ではない。
どこか足りないのではないか、と、皆から思われている。
顔立ちも、はにわのようにぽかんと目、鼻、口の穴が空いているようで、表情が乏しい。語る言葉は、表面上によさげなことばかりで、決して本音は入っていない。
彼女すらいたことがない正幸が、大学の同学年であり、たまたま同窓会の時に出会った時点で唯一フリーだった女、由紀子を手に入れた。
「あっちも年齢が年齢だから焦っていたんだろう」
とは、頭の深い部分で正幸は理解していたが、面白い方、楽しい方に流されてゆくのが彼の特性だった。「俺に惚れたから」という思いが、本能で理解している部分を巧みに塗り替えてゆくのもいつものことだった。
正幸の両親は幼い頃からそうだったように、結婚後も正幸の事ばかり考えた。
由紀子と正幸の新居も、自分たちが住む家から五分ほどの距離のアパートに決めさせた。
新婚一月目、由紀子が夜勤に行った。正幸はそれが納得できなかった。夜勤をするなと言うと、それは正職員をやめてパートになれということかと由紀子が喉返しした。
決して高給取りではない正幸は、正職員でいてくれなくては困る、だが、夜勤はするなと答えた。由紀子はそれ以来、呆れたように正幸を醒めた目で見るようになった。
それが、正幸を怒らせた。
魚が焦げていた。
部屋干しの洗濯物が落ちていた。
あらゆることで難癖をつけ、手を出すようになった。それが日常のことになった。
由紀子は堪えているように見えたが、ある日、冷たい目で睨んできた。あの、夜勤を辞めろと言った時と同じ、醒めた目だった。
その目で見られると、正幸は自分の劣等感の奥深くまで抉られるように感じた。由紀子をなじり、打っておきながら、その実、正幸は妻を恐れていた。
(俺の見られたくない部分を見抜いていやがる)
正幸は捨て台詞を吐き捨てると、財布と通帳と携帯を持ってアパートを飛び出し、真夜中だというのに自分の両親の家に逃げ込んだ。
それきり、正幸は由紀子に連絡を取ろうともせず、もちろんアパートに戻ることもなく、半年ほど放置してやった。
(思い知れ)
由紀子は最初、必死になって正幸の携帯に電話してきた。もちろん無視した。
次に、正幸が逃げ込んでいる実家の方に連絡をした。電話を取った正幸の母親は、「あらあらまあまあ大変大変、なんてかわいそうなの由紀子ちゃん。そりゃあ困るわよねえ新婚早々、まあまあどうしましょう、でもねえ、まーちゃん疲れてて、うちで休んでいたいんですってえ」と言うばかりだった。何度由紀子が電話をしてきても同じ回答であり、しまいには「由紀子ちゃんしつこいわねえ、警察沙汰にしましょうか」と笑いながら言った。
それで、ついに由紀子からの表立った反応は止んだ。
(まだだ、まだ思いしれ。俺がどんなに大事な存在かと思いしり、十分に反省しろ、この糞女)
しかし、由紀子は無言になった。
正幸は気になって、たまにアパートの前を通りかかってみたが、不規則な勤務の由紀子の車が駐車場に残っていることは滅多になかった。
そのまま年月が流れた。
ある日、やっと由紀子から連絡が入った。酷く憔悴した声で、それを聞いた瞬間、正幸はにやりとした。大丈夫だ、と思った。獲物はまだ、正幸の蜘蛛の巣のなかにいる。
弱り切った由紀子に正幸は「俺に詫びろ」と言い、由紀子はぽつんと「ごめんなさい」と答えた。
「二度と俺に逆らうな」と、いうと、由紀子は「はい」と答え、すすり泣いた。
それで正幸は、アパートと実家を往復する生活を始めた。
実家は居心地が良い。両親は彼を甘やかしているし、昔から食べて来た自分好みの味の食事が出るし、なにより由紀子の、あの冷たい目つきに怯えることもなかった。
ただ、肉体が欲しくなると、アパートに戻った。
それが三年続いた。
ある時、由紀子がインフルエンザにかかった。
両親はそれを理由に正幸を実家に囲い込み、そのまま三か月ほど、アパートに戻らせなかった。
ある日、由紀子から離婚届が郵送されてきた。
正幸は呆然とした。そして、むかむかと腹がたってきた。
離婚だと。そんなことになったら、恥をかく。
周囲は俺が結婚できたことに驚き、同時に羨んでいた。それなのに結局逃げられたと知られたら、俺はどうなるだろうか。
それは正幸の両親も同様だった。
「離婚ですって、そんな悲しい事許せないわ。どうしてそんなことを言えるのかしら、由紀子ちゃん酷いわ」
「育ちが悪いから、ちょっとしたことも辛抱できずに離婚なんて言葉を口に出すのだろう。困ったひとだ」
正幸は離婚届を破り捨てることができなかった。法律などに詳しくない正幸は、この紙切れを粗末に扱う事で、次になにが起きるか見当がつかなかった。その認識不足故に、離婚届を扱いかねて、怯えて棚の上にあげて、毎日頭をかかえて過ごした。
気になってアパートをちらちら覗くと、来るたびに由紀子の荷物が減っていることに気づいた。
由紀子が本当に自分から逃げようとしていることに気づき、正幸は絶望した。
なんとか由紀子を食い止めなくてはならない。
正幸が思いつく、女を引き留める方法は、最も愚かしい一つの手段しかなかった。
それから徹底してアパートをストーキングし、由紀子が戻って来て、しかもアパートの他の住人が留守にしている時刻を狙い、不意打ちのように突入した。
荷造りをしていた由紀子は驚き、悲鳴をあげ、抵抗した。
正幸は暴力の限りを尽くしてー―このアマ、大人しい顔をして猛獣みたいに暴れやがる――由紀子の服を破り取り、体をほしいままにした。
何度も何度も精を放った。
そのうち由紀子は抵抗しなくなり、虚ろな目で天井を見上げたまま黙り込んだ。
自分のテクニックに恍惚となっているのだと、正幸は都合よく思った。そして、耳元で「俺と別れたらこんないい思いは二度とできなくなるんだぜ、ざまをみろ」と囁いた。
正幸としてはベストを尽くしたつもりだった。
最高の時間を由紀子に提供してやったはずだった。
おもむろに正幸は待った。
実家で安閑と過ごしながら、由紀子から泣いて詫びる連絡が入るのを待った。
ところが、現実はどこまでも正幸を裏切ったのだ。
**
夫婦であろうと、同意のないセックスはレイプにあたる。
正幸が最善の策と思ってしたことが、離婚に有利に働いた。
調停に応じない正幸に、ある日、弁護士から連絡が入り、そういった言葉を聞かされた。
急に正幸は恐ろしくなった。両親も恐ろしくなったようだった。今まで放置し、埃をかぶっていた離婚届を引きずり出すと、書き込んで印鑑を押し、由紀子の実家に送り付けた。
それで、すべてが終わった。
**
離婚はあっさりとしたものだ。
あれから三年がたったが、未だ、正幸は周囲に結婚生活が継続中であるかのように見せている。
正幸の両親もそうしている。
もうとっくに去ってしまった女の事を「由紀子ちゃん、料理をぜんぜんしないから、わたしが作ってあげてるの」と、母親は近所に言いふらした。
同僚たちは、でっぷり太った正幸に対し「幸せ太りか」と囃した。
正幸はえへへと笑って「そんなんじゃないっすよー」と言った。
偽の平穏の中を、正幸は過ごした。
頭の中には常に由紀子が―ー由紀子の、あのしなやかな魚のような体が――あった。
離婚はしているのだが、正幸に取って、由紀子との関係は継続していた。
会いたいと思う気持ちすら、正幸は正面から受け取らなかった。
会いたい恋しいという思いは、「なぜあいつは俺に連絡をとってこないのだ」という粘っこい怒りに変換された。
もんもんとした日が続いた。
そんなある日、正幸に大学の同級生から連絡が入った。
みんなで会おう、という楽し気な企画。正幸はうっすらと期待した。しかし、相手がどこまで自分たちの事を知っているか読めずに、自分からは具体的なことを聴くことができなかった。
幸い、おしゃべりな相手は聞きもしないことをぺらぺら言った。
「みんな集まるけれど坂東さんだけ無理だって。なんか今、療養中とかで、×町にいるらしいよ」
×町。
寂しい田舎町だ。
車が好きな正幸は、一人でドライブすることが多い。×町にも足を延ばしたことがある。
「へー。×町のどこ」
なにげなく正幸は聞いた。
相手は何も知らない。正幸は腹の中で笑った。
「住所は知らない。なんか古くて大きい屋敷みたいなとこ、親戚筋の持ち家を安く借りてるみたいだよー。ねー、いいよねー、みんなでそこ遊びに行きたいくらいじゃない」
**
×町。古くて大きい屋敷。
正幸は×町には詳しくなかった。
しかし、なにか予感が働いた。
(行けば分かる)
通話を終えた時、正幸は自分でも気づかなかったが、陰険で粘着質な、醜い笑いを浮かべていた。
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