ゆりかごを抱いて

井川林檎

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第三部 交錯

その3 風山不動産

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 今日が誕生日だったことを、昼頃になって、やっと気づいた。

 風山修吾は去年、不惑を迎えた。今日で41歳になる。
 曾祖父の時代から続く不動産会社は、家族経営の気安さと、こじんまりとしているが為の自由がある。修吾は当たり前のようにこの会社に入社した。入社したその日から、副社長の名をもらった。父親の洋平は、おっとりとした酒好きの男で、同業者とも、町の人々ともうまくやっている。

 「そろそろ、代替わりだな」
 
 還暦を迎えた年に、洋平は社長の座を修吾に渡した。今、洋平は会長という名目の上で、のんびりと過ごしている。事務所に出たり出なかったり。大抵はゴルフをしたり、仲間と山登りに行ったり、妻のみち子と社交ダンスを嗜んだりと、悠々自適な生活をしていた。75歳という年齢でありながら、しゃんしゃんとしている。穏やかで気さくな性格は誰からも愛されるが、その下では絶対に無理をしない、石橋をたたいて渡る用心深さが働いていた。

 修吾は昼休みを外の店で摂った。
 事務所では親戚筋の娘が一人、留守番をしている。
 牛丼を喰らいながら、修吾は改めて、自分がまた一つ年を取ったことを思った。

 「おまえ、いい加減、身を固めたら」

 両親は口うるさくはないが、流石にそろそろ結婚を焦らせる方向に動いている。見合いは何回もしているが、修吾の方で断っていた。
 (俺は資格がない)

 今朝、ゴルフに出かける前に、洋平がいやにねっとりと、「好きな人でもいるのか」と聞きほじってきたことを思い出した。
 修吾はもくもくと牛丼を詰め込んだ。ピークを過ぎた時間帯の店は、あわただしさの名残を残しつつ、落ち着いている。
 (俺は、資格がない)

 資格が、ない。妻を持ち、子供をもうけ、幸せをはぐくむ資格が、俺には、ない。

 携帯が鳴ったので修吾は取り上げた。社からだったので、牛丼を飲み下してから電話に出た。留守番をしてくれている女の子が「お客が来られていますが」と告げた。誰かと問うと、「坂東さんという方です。藪家荘を借りておられる人です」と返って来た。

 修吾ははっとした。
 箸を摂り落としかけた。

 (そうか、俺は知りたいことがあれば社に来るよう、坂東さんに言っていたのだった)

 「わかった。すぐ戻るから、お茶を出して待っていてもらって」
 と、修吾は指示を出した。
 携帯を切り、残りの牛丼を詰め込みながら、なにか、諦めたようなまなざしを宙にむけた。

**

 今朝は寒かった。
 よく晴れていたが、それがために、厳しく冷え込んだ。晩秋にしてこの寒さである。今年の冬はさぞ凍れるだろう。

 さすがに昼が過ぎた位になると、道に薄く張っていた氷は溶け、空気もぬるさが混じっている。すこんと晴れた空は、原色の青だった。今は日差しで温められているが、この青の向こうから冬の凍結がやってくる。

 この町の冬は、寒い。

 かろんかろん。「風山不動産」と書かれた重たいガラスの扉を開くと、デスク前のソファに、ほっそりとした長身の女が座っているのが見えた。相変わらず青い顔をし、俯いて茶を啜っている。こっぽりと黒い上着を纏い、首を下げて茶を飲む様子は、水田に降り立った細いトリを思わせた。

 坂東由紀子が、事務所に来ている。
 修吾は「どうぞ、おまたせしました」と言い、どっしりと、由紀子の前にかけた。由紀子は会釈すると、はずかしそうに視線をさ迷わせている。どう切り出そうか、困惑しているらしかった。

 奇妙な物音や気配がする、変なことがある、と、由紀子は言っていた。
 藪家荘や、あの界隈の歴史について知りたがっていることは、修吾も知っている。知りたければ社に来るよう言ったのは修吾である。由紀子のもじもじした様子に、修吾は苦笑した。水を向けてやらねばならないらしかった。

 「また、なにかありましたか」
 
 由紀子はますます困惑したようだった。眉間にしわを刻み、どう言おうかと口をもごつかせている。
 修吾は少し気の毒になった。

 「古い家ですし、少々、閉鎖的な場所ですからね。もし良ければ、この町で、閑静だけどもう少し新しい、別の物件を紹介しましょうか」
 修吾は穏やかに言った。
 由紀子ははっと顔をあげ、今度は素早く「いいえ、あの家はとてもいいんです。わたし、あそこがとても好きで」と言った。

 「できればずっと住み続けたい位に気に入っているんです」
 由紀子は喋り続けている。引っ越すことを勧めた瞬間、由紀子の中で、言葉の激流がなだれたらしい。

 「だからなおさら、知りたくて。あのう、前に言っておられた、資料など見せていただけます」

 最初からそれを言えばいいのだと、修吾は思った。頷くと立ち上がり、奥の書斎に入った。古くから町で商売をしている「風山不動産」は、町の歴史にも詳しい。町報や新聞記事の切り抜きなど、きちょうめんに整理されている。
 この几帳面さは、曾祖父の時代から風山家の男に引き継がれている。修吾自身も几帳面な方で、社長の座についてからは、毎日のようにせっせと記事を切り抜き、情報を整理しているのだった。

 古い、古い資料となる。
 それこそ、曾祖父の時代、それも初期の頃にさかのぼる。
 書庫はレールスライド式の本だなが並んでおり、藪家荘関係のものは、最も奥にあった。暗く、かび臭い書庫の奥で、修吾は資料一式を抱え上げた。
 
 どっしりとした一式を事務所のソファまで持ってきて、テーブルに置くと、修吾は「どうぞ」とにっこりした。
 由紀子は資料の多さに目を丸くし、おずおずと修吾を見上げた。

 「持ち出しはできませんが、必要なものを選んでもらえれば、コピーしてお渡ししますから」
 と、修吾は言った。

 りりりりん。古風な電話の呼び出し音が響く。事務の子が急いで電話に出て「はい、風山不動産です」と言っている。
 午後から一件、出なくてはならないことがあるのだ。修吾は壁の時計を見た。ゆっくりしていられない時間にさしかかっていた。

 「坂東さん、悪いんだけど、俺はこれから外に出なくてはなりませんから、欲しい資料があれば、事務の子に頼んでコピーしてもらってください」
 と、修吾は言った。
 由紀子は申し訳なさそうに頷いた。自分が訪問したことで、修吾に迷惑をかけているのではないかと気兼ねしている。
 
 絡みつく惑いのような由紀子の視線を、修吾は豪快に振り切った。
 「行って来る。四時ごろの戻りになる」
 と、事務の子に言うと、さっと背広を羽織り、デスクのカバンを持って、事務所を出たのだった。

 (あの資料の中から、坂東さんは、何を選んでコピーし、調べようと思うのだろうか)

 車に乗り込みながら、修吾はふと、胸騒ぎを覚えた。しかし、すぐに、いやいやと思い直した。
 
 (俺はなにを不安がっているのだ。あの資料は明治時代のものだ。肝心の部分は・・・・・・)

 車は発進した。

**

 薄暗くなってから帰る藪家荘は、やはり鬱蒼としていて、此の世のものではないようだった。
 由紀子は、今に至るまで、黄昏時に外に出たことがなかったことを思い返した。町は夕餉のささやかな賑わいに包まれていたが、坂道のあたりからひっそりと、幽玄な雰囲気が漂い出す。ぽつぽつと街灯がともっているが、坂道は全体的に暗かった。湿って冷たい晩秋の夕方は、まだ空の濃い赤の反射を残しつつ、深い闇に埋もれようとしていた。

 坂道羅漢の前を通り過ぎる時、からからと寂しく回る赤い風車が喜んだような気がした。
 「オカエリ、オカエリ」
 からから、からから。
 車窓ごしにでも微かに聞こえる風車の硬い音の中に、あどけない声が混じるようだった。
 「オカエリ、ママ」

 柔らかく小さく冷たい愛らしい掌が闇の奥から伸びてきて、さわさわと自分の頬や胸をさするような感触があった。
 ああ、自分は好かれているのだ、求められているのだ、「あの子」に――由紀子はアクセルを踏み込み、車を急がせる。

 藪家荘の敷地に入ると、歓迎するような空気はより濃厚になる。
 きゃっきゃとはしゃぐような気配を、由紀子は感じた。

 「ママ」
 「マ、マ」
 「うふ、うふふふ」

 腰にまとわりつくような小さな気配を、由紀子は恐ろしいとは思わなかった。
 藪家荘の、古く重々しい扉の鍵を開きながら、ふと由紀子はあらぬ妄想に走る。

 ここは小さな一軒家。借家かもしれない。
 中はオレンジの明かりが輝き、小さな部屋ではストーブが温かにうごいている。
 しゅぼしゅぼしゅぼ。今まさに炊き上がろうとする、炊飯器の湯気。
 
 上の子は小学校五年生で、お手伝いをしてくれる。作り置きのみそしるを、温めてくれている。ほかほかとした良い匂いが外にまで漂っており、子供は後姿で「おかえり」と言う。
 やんちゃな下の子がはしゃぎながら飛びついてきて、「遅かったねー」と言い、抱っこをねだる。

 奥ではテレビアニメがカラフルに画面を変えている。
 
 由紀子は微笑みながら前に踏み出し、差し出される小さな手に応じて両手を差し伸べようとした。
 その瞬間、幻は全て消え去り、暗いホールが広がった。茫然と由紀子は立ち止まった。

 (これは、夢)

**

 子供が欲しい。
 二人いればどんなに楽しいだろう。
 もちろん、三人いてもいいけれど。

 女の子ならいいな。男の子も可愛いけれど、やっぱり。

 「女の子なら、お嫁にいったって、また、母さんのところに戻ってきてくれる。母さんと、ずっと繋がり続けてくれる」

**

 豊かさも派手さも、由紀子は欲しくなかった。
 若い頃からずっと夢見て来た幸せは、子供のいる生活。
 温かな小さな家の中で。

 片腕で、今日、管理会社でコピーしてもらった資料が、ずっしり重たく抱えていた。
 藪家荘にかつて住んでいた住人の家族の歴史は、ぶあつい立派な本になっており、さすがにそれをすべてコピーしてもらうわけにはいかなかった。
 幸い、由紀子は読むのが早い。飛ばし読みだが、二時間ほどでその本に目を通すことができた。その中で、あの悲劇的な部分をコピーしてもらった。

 悲劇的な。

 (この家は。この界隈は)

 由紀子はホールの照明をつけた。
 
**

 古い時代、たくさんの子供が犠牲になったことがあった。
 その歴史に、この家も無縁ではなかった。
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