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第二部 外からの誘い
その4 香代美
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由紀子の愛車は古い軽四である。療養生活に入ってから、週に何度かしか使わないのでガソリンはなかなか減らないが、流石にそろそろスタンドに寄ったほうが良いくらいになった。
今日は久々に忙しかった。段取りというものが発生したのも久々だった。思えば日常生活は段取りの連続で、ひとつ段取りを間違えたら全てがドミノのように倒れかねない。何でもない顔をしながら、その危うさの上を綱渡りのようにして歩くのが、かつての由紀子の日常だった。
(これはこれで引き締まるのかもしれない)
スーパーの開店時間ほぼぴったりに買い出しに行く。今日は奈津子と香代美が藪家荘に来るのだ。何日か滞在していくらしいし、いろいろと必要なものはあるはずだ。こまごまとしたものから食料に至るまで、買い物の寮は結構なものになる。
いつも、ほんのわずかなものしか買わず、スーパーに入ったと思ったらすぐに出てゆくそっけない由紀子だが、今日ばかりは買い込んだ。持ってきたエコバッグに入りきらなかったものは、ダンボールに詰めて車に運んだ。
買い物をしている間、初秋頃に何度か奈津子に連れられて実家に来た香代美の顔がちらついた。香代美はおしゃまな子で、よく喋る。最近空想癖がついちゃって、と、奈津子が溜息をついていたっけ。
あの時、香代美はプリンをもりもりと食べていた。今回の買い出しでも、プリンを買っておいた。
(おやつくらい、なくてはね)
子供の事を考えると、胸が躍る。
ショーガラスに並んでいるプリンアラモードを、香代美と奈津子と自分の三つ分、籠に入れそのまま行き過ぎようとして、思わず足をとめた。
ほとんど体が勝手にうごくように、もう一つ、由紀子はプリンを取り上げて籠に入れたのである。
**
ほかの子が貰っているのに、この子だけが貰えないのは、あまりに可哀そう。
**
ぽーっとしながら車を走らせていたが、信号機が赤になったタイミングで、ぎくりと我に返る。
田舎町だが、駅近くになると、日中はそれなりに人通りも車どおりもある。藪家荘のあるあたりとは異なり、このへんは賑わっている。
信号の先に、ペンキがはがれかけ、壊れかけている時計塔があった。昔は時間ごとに人形が飛び出し、オルゴールが鳴る仕掛けだったのだろう。今ではもう、飛び出す仕掛けは動いておらず、バイオリンを持った人形は、時計から飛び出したまま固まっていた。
駅の構内には理容や喫茶、パン屋があるので、ここにもぱらぱらと人の出入りがある。
電車の本数が少ないわりに賑やかしい気がした。それにしても、年老いた人が多いのだが――たいがいの田舎がそうであるように、この町も若い人が少ないらしく見えた。
一方通行がわかりにくい細道を通り、駅裏の無料駐車に車を入れた。駐車場は広々としていたが、ガラ空きだった。
(昔は栄えていたのだろう)
かちり。車から出ると、由紀子はゆっくりと伸びをし、上を見上げた。電線が走る上は薄い雲が張った空が青く広がっている。久々に温かな日だった。
ごうごうと音がし、構内からアナウンスが響いた。
地方鉄道が到着したらしい。
由紀子は駅の中に歩いて行った。
**
お化けの住んでるお屋敷に行くの、と、車に乗り込む側から香代美は楽しげだった。
お化け怖くないの、と聞くと、ぜんぜん、と嬉しそうである。奈津子は大きな旅行鞄からコンパクトなチャイルドシートを出して、すとんと後部座席に置いた。そこに香代美のお尻を乗っけると、シートベルトを手早くしてしまった。慣れたものだ。
(この車で、何度奈津子と香代美を乗せて、足がわりにされたものか)
「わープリンがあるー。たべたいたべたーい」
「これっ、かよちゃん、行儀の悪い」
車を発進させながら由紀子は微笑む。
荷台に乗せた荷物の中から、さっき買ったプリンを早くも発見したらしい。奈津子が注意する傍らで、すでに香代美はプリンを物色しはじめており、軽々と体をねじまげて、後部の荷台からカップにはいったプリンを取り出していた。
ひとつ、ふたあつ。
あどけない声で香代美はプリンを数え、嬉しそうにしている。
「みんなの分があるー」
と、香代美は言い、奈津子が自分の娘の所業に呆れつつ、運転中の由紀子に「悪いわね」と申し訳なさそうに言った。
「別に。高いものでもないわ。さっきスーパーでついでに買ったのよ」
由紀子はそう答えた。
ガススタンドに寄るね、と断ってから、駅前のスタンドに入った。
陰気な顔の老人が運転席のドアをばしんとあけ、油種と支払方法を確認し、再びばしんとドアを閉めた。
きゅーっと、給油の音がする間、車内は由紀子が好きな洋楽が穏やかに響いていた。
不愛想なガソリンスタンドの店員のため、奈津子と香代美は黙っていたが、まもなく香代美の口はほぐれた。プリンおいしそう、おうちについたらすぐ食べようと、と言い出した。
「電車の中でもお菓子食べたじゃない」
と、奈津子は呆れている。太ったらだめよ、女の子なんだから、と窘めているが、まだ香代美は色気より食い気の年頃らしい。
カップの中のプリンは、生クリームにいちごやキウイが乗って、楽しげだった。
やがて給油が終わり、支払ってしまうと、由紀子は車を発進させた。
古びた町の中の道、駅前の郵便局やツタの張った図書館の前を通り過ぎた時、奈津子は「映画みたい」と呑気なことを言った。
「思っていたより田舎だった。姉ちゃん不便じゃないの」
と奈津子は言った。
その不便さが、自分の神経には良いのだと、由紀子は答えないながらも思った。
車はどんどん進み、まもなく、藪家荘に向かう、山の坂道に入った。
鬱蒼とした藪が道の上にのしかかるように影を作り、細いアスファルトはひび割れていていかにも古そうだ。融雪装置は辛うじてついていたが、本当に大雪が降った場合、なかなか怖い道になりそうだ。
「あっ」
香代美が声があげた。なに、と奈津子が言った。旅先の子供のテンションに、奈津子のほうが疲れているようだった。
「子供たちがいっぱいいる」
楽し気に香代美は言った。
まるで、自分もそのなかに入って遊びたいように、身を乗り出して。
子供?
由紀子は首を傾げた。このあたりに、子供はそれほどいないだろう。ガールスカウトでもいたのだろうか、と思って目を凝らしたが、鬱蒼とした山道には人ひとりいなかった。
そのかわりに、手前の右方向に、件の坂道羅漢がずらりと並んでいた。真新しい赤い前掛けや風車が寒い空気の中で鮮やかだった。
車はゆっくりと、坂道羅漢の前を通り過ぎた。
ころころと、風車が風を受けて回っている。
**
「だーれもいないじゃない」
奈津子は呟き、思わせぶりに「また、かよちゃんの悪い癖が始まった」と由紀子に聞こえるように言った。
由紀子は苦笑しつつ、横目で車窓の外を見た。坂道羅漢は口元に微笑みを刻みながら、ずらりとそこに並んでいる。
「きえちゃったー」
と、無邪気に香代美は言った。
「あの家よ」
すぐそこに、藪家荘の門が見えている。
このあいだ雪囲いをほどこされた庭木が、そろそろ曇りだした空に、凛と突き立っていた。
今日は久々に忙しかった。段取りというものが発生したのも久々だった。思えば日常生活は段取りの連続で、ひとつ段取りを間違えたら全てがドミノのように倒れかねない。何でもない顔をしながら、その危うさの上を綱渡りのようにして歩くのが、かつての由紀子の日常だった。
(これはこれで引き締まるのかもしれない)
スーパーの開店時間ほぼぴったりに買い出しに行く。今日は奈津子と香代美が藪家荘に来るのだ。何日か滞在していくらしいし、いろいろと必要なものはあるはずだ。こまごまとしたものから食料に至るまで、買い物の寮は結構なものになる。
いつも、ほんのわずかなものしか買わず、スーパーに入ったと思ったらすぐに出てゆくそっけない由紀子だが、今日ばかりは買い込んだ。持ってきたエコバッグに入りきらなかったものは、ダンボールに詰めて車に運んだ。
買い物をしている間、初秋頃に何度か奈津子に連れられて実家に来た香代美の顔がちらついた。香代美はおしゃまな子で、よく喋る。最近空想癖がついちゃって、と、奈津子が溜息をついていたっけ。
あの時、香代美はプリンをもりもりと食べていた。今回の買い出しでも、プリンを買っておいた。
(おやつくらい、なくてはね)
子供の事を考えると、胸が躍る。
ショーガラスに並んでいるプリンアラモードを、香代美と奈津子と自分の三つ分、籠に入れそのまま行き過ぎようとして、思わず足をとめた。
ほとんど体が勝手にうごくように、もう一つ、由紀子はプリンを取り上げて籠に入れたのである。
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ほかの子が貰っているのに、この子だけが貰えないのは、あまりに可哀そう。
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ぽーっとしながら車を走らせていたが、信号機が赤になったタイミングで、ぎくりと我に返る。
田舎町だが、駅近くになると、日中はそれなりに人通りも車どおりもある。藪家荘のあるあたりとは異なり、このへんは賑わっている。
信号の先に、ペンキがはがれかけ、壊れかけている時計塔があった。昔は時間ごとに人形が飛び出し、オルゴールが鳴る仕掛けだったのだろう。今ではもう、飛び出す仕掛けは動いておらず、バイオリンを持った人形は、時計から飛び出したまま固まっていた。
駅の構内には理容や喫茶、パン屋があるので、ここにもぱらぱらと人の出入りがある。
電車の本数が少ないわりに賑やかしい気がした。それにしても、年老いた人が多いのだが――たいがいの田舎がそうであるように、この町も若い人が少ないらしく見えた。
一方通行がわかりにくい細道を通り、駅裏の無料駐車に車を入れた。駐車場は広々としていたが、ガラ空きだった。
(昔は栄えていたのだろう)
かちり。車から出ると、由紀子はゆっくりと伸びをし、上を見上げた。電線が走る上は薄い雲が張った空が青く広がっている。久々に温かな日だった。
ごうごうと音がし、構内からアナウンスが響いた。
地方鉄道が到着したらしい。
由紀子は駅の中に歩いて行った。
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お化けの住んでるお屋敷に行くの、と、車に乗り込む側から香代美は楽しげだった。
お化け怖くないの、と聞くと、ぜんぜん、と嬉しそうである。奈津子は大きな旅行鞄からコンパクトなチャイルドシートを出して、すとんと後部座席に置いた。そこに香代美のお尻を乗っけると、シートベルトを手早くしてしまった。慣れたものだ。
(この車で、何度奈津子と香代美を乗せて、足がわりにされたものか)
「わープリンがあるー。たべたいたべたーい」
「これっ、かよちゃん、行儀の悪い」
車を発進させながら由紀子は微笑む。
荷台に乗せた荷物の中から、さっき買ったプリンを早くも発見したらしい。奈津子が注意する傍らで、すでに香代美はプリンを物色しはじめており、軽々と体をねじまげて、後部の荷台からカップにはいったプリンを取り出していた。
ひとつ、ふたあつ。
あどけない声で香代美はプリンを数え、嬉しそうにしている。
「みんなの分があるー」
と、香代美は言い、奈津子が自分の娘の所業に呆れつつ、運転中の由紀子に「悪いわね」と申し訳なさそうに言った。
「別に。高いものでもないわ。さっきスーパーでついでに買ったのよ」
由紀子はそう答えた。
ガススタンドに寄るね、と断ってから、駅前のスタンドに入った。
陰気な顔の老人が運転席のドアをばしんとあけ、油種と支払方法を確認し、再びばしんとドアを閉めた。
きゅーっと、給油の音がする間、車内は由紀子が好きな洋楽が穏やかに響いていた。
不愛想なガソリンスタンドの店員のため、奈津子と香代美は黙っていたが、まもなく香代美の口はほぐれた。プリンおいしそう、おうちについたらすぐ食べようと、と言い出した。
「電車の中でもお菓子食べたじゃない」
と、奈津子は呆れている。太ったらだめよ、女の子なんだから、と窘めているが、まだ香代美は色気より食い気の年頃らしい。
カップの中のプリンは、生クリームにいちごやキウイが乗って、楽しげだった。
やがて給油が終わり、支払ってしまうと、由紀子は車を発進させた。
古びた町の中の道、駅前の郵便局やツタの張った図書館の前を通り過ぎた時、奈津子は「映画みたい」と呑気なことを言った。
「思っていたより田舎だった。姉ちゃん不便じゃないの」
と奈津子は言った。
その不便さが、自分の神経には良いのだと、由紀子は答えないながらも思った。
車はどんどん進み、まもなく、藪家荘に向かう、山の坂道に入った。
鬱蒼とした藪が道の上にのしかかるように影を作り、細いアスファルトはひび割れていていかにも古そうだ。融雪装置は辛うじてついていたが、本当に大雪が降った場合、なかなか怖い道になりそうだ。
「あっ」
香代美が声があげた。なに、と奈津子が言った。旅先の子供のテンションに、奈津子のほうが疲れているようだった。
「子供たちがいっぱいいる」
楽し気に香代美は言った。
まるで、自分もそのなかに入って遊びたいように、身を乗り出して。
子供?
由紀子は首を傾げた。このあたりに、子供はそれほどいないだろう。ガールスカウトでもいたのだろうか、と思って目を凝らしたが、鬱蒼とした山道には人ひとりいなかった。
そのかわりに、手前の右方向に、件の坂道羅漢がずらりと並んでいた。真新しい赤い前掛けや風車が寒い空気の中で鮮やかだった。
車はゆっくりと、坂道羅漢の前を通り過ぎた。
ころころと、風車が風を受けて回っている。
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「だーれもいないじゃない」
奈津子は呟き、思わせぶりに「また、かよちゃんの悪い癖が始まった」と由紀子に聞こえるように言った。
由紀子は苦笑しつつ、横目で車窓の外を見た。坂道羅漢は口元に微笑みを刻みながら、ずらりとそこに並んでいる。
「きえちゃったー」
と、無邪気に香代美は言った。
「あの家よ」
すぐそこに、藪家荘の門が見えている。
このあいだ雪囲いをほどこされた庭木が、そろそろ曇りだした空に、凛と突き立っていた。
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