ゆりかごを抱いて

井川林檎

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第二部 外からの誘い

その2 遊ぼうよ

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 藪家荘の「いわく」について、加奈代に電話をして詳しく聞きたいと思ったが、すんでのところで由紀子は思いとどまった。
 加奈代にそんな電話をすることは、つまり、現時点で異様な事態が起きていることを知らせるようなものだ。最初から加奈代は「あの家は良くない」と藪家荘については危惧を示していた。最も、具体的になにが良くないのか語らなかったところを見ると、加奈代にしても詳しいことは知らないのかもしれない。

 貸してくれた親戚、藪家さんに連絡してみることも一瞬考えたが、月々の家賃を、ただのような安価で貸してくれている恩を思えば、そんな失礼なことを尋ねることはできない。
 この家が明治時代にできた古い物であることや、長い間住み手がつかなかったことが、すべてを物語っているようなものだ。それを知りつつ、それでもこの家を借りたのは由紀子である。

 この家には確かになにかがいる。
 きいきいとゆりかごを軋ませ、時には由紀子をママと呼ぶ。
 目に見えない住人は、幼く頑是ない子供であるのは確かだが、問題はその幽霊が――由紀子はそれを思うと、ぞくりとするのだった――何らかの強烈な力を駆使して、気に沿わない人間を排除する性質を持つのではないかということだった。全くの憶測にすぎないのだが、由紀子は、あの日、婦人会の会長である浅香がこの家を訪ねた後、唐突に事故死していることが気になっていた。

 (出て行きたくない)

 由紀子はあの時、強くそう念じた。
 浅香はいかにも由紀子のためといった口調で、強引に婦人会に誘い出そうとしていた。恐らく、あのまま浅香が健在だったら、間違いなく由紀子は毎週のように婦人会の活動に駆り出されていただろう―ーせっかく療養のために藪家荘に住んでいるというのに、高齢の女性たちの機嫌を取り、顔色を伺い、時には噂話や愚痴話に相槌を打ちながら、辛抱の時間を重ねなくてはならなかったのに、違いなかった。

 (死んでくれて、助かった)

 そんなふうに心の深い部分では思ってしまった。
 と、由紀子は十字架を背負うように思い込んでいた。

 (わたしがあの時、この藪家荘から外に引っ張りだされるのが嫌だとあまりにも強く思ったから、浅香さんは死んでしまった)

 普通なら、そんな理屈に合わないことを考えるなんて、どうかしていると思うだろう。
 由紀子も分かっていた。そんなことがあるはずがない。自分が念じたから浅香が死に、結果として婦人会のうっとしい活動に参加する憂き目からは逃れた―ー少なくとも、現時点では。もしそれが本当ならば、由紀子は殺人者となる。

 ぐるぐる巡る不毛な思考の海から、由紀子は逃げたかった。
 このところ毎日のように由紀子は家じゅうを掃除した。体を動かすことで、頭の中の余計な考えに蓋をしてしまいたかった。

 自分が念じたから相手が亡くなったのかもしれないという考えの癖は、三年前、前夫の大井の子を宿し、腹の子がいなくなればいいと念じて、結果として本当にそうなってしまったことが原点なのかもしれなかった。
 
 (ママ、マーマ)

 宿った命に罪はない。
 それに何より、由紀子は子供が好きなのだった。

 あの子がもし産まれていれば、自分はシングルマザーとなり、必死に毎日動き回っていただろう。子供は女だったか、男だったか。
 同僚にもシングルマザーはいるが、大変そうにしながら、どこか幸せそうな様子を見るにつけて、由紀子は胸が締め付けられるのだった。

 (マ、マ。ママといたい。マーマ・・・・・・)

 「お願いよ」
 雑巾で床を拭きながら由紀子は無表情に呟く。

 「お願いよ。もう、わたしを責めないで頂戴」

**

 藪家荘にはたくさんの部屋があったが、今、由紀子が実際に使っているのは、そのうちのほんの一部である。
 小さな台所、庭の見える奥の座敷、二階の日当たりの良い一室は寝室として。嬉しいことに、その寝室にはトイレやシャワーもあつらえてあった。恐らくここは、客室として作られた部屋なのだろうと、由紀子は見当をつけていた。

 そのほかの部屋は、あの広く陰気な厨房をはじめ、とても使い勝手が良いとは言えない状態だ。
 実際に由紀子は全ての部屋を見て回ったわけではなく、最初に、風山の案内でそう聞かされたのである。

 「広すぎて管理に困ると思われるでしょうけれど、なぁに、実際に使うのは一部だけです。日常の掃除などは、お使いになる部分だけで結構ですよ」
 
 あの、感じの良い笑顔で、風山はそう説明した。

 「もちろん見て回られたり、使われても構いませんが、お勧めはしません。ボイラによる調整が効いていなかったり、壁紙やら、天井やら、いろいろな部分でガタがきていて、それこそ幽霊屋敷みたいになっている部屋もありますから」

 入らない方が良いのでしょうか、と、由紀子は尋ねた。風山は少し笑って、そうですね、入っても構いませんが、物置のようになっている部屋がほとんどですよ、と答えた。
 
 「月に一度は、庭を含めた屋敷全体の点検をしますから、その時はお邪魔することになりますが、ご了承ください」
 なにしろ、古い建物ですし、ある意味貴重な建造物ですからねーー風山はそう説明した。
 「藪家さんからも、そのように依頼されているので。管理は全てわたしどもにお任せいただいているので、誠意を尽くしておりますよ」

 そう説明した時の風山の表情は、穏やかで感じが良い反面、由紀子には、どこか威圧的に感じられた。
 そこに住むのは由紀子だが、この家はお前のものではない、と言われているような気がした。
 最も、由紀子はすぐに、自分の中に浮かび上がった、澱のような思考を打ち消した。メンタルに不調をきたしてからというもの、由紀子は自分の思考に自信を失っている。

 (部屋に入っても良いけれど、勧めないというのは、要するに入って欲しくないということではないかしら)

**

 要するに由紀子は、日々、掃除をしているせいで、物足りなくなっていた。
 日頃自分が使うスペースは、ピカピカに磨き上げられていた。これ以上どうすることもできないほど綺麗になってしまっていた。

 (別の部屋を掃除してみようか)
 と、由紀子は思いついた。

 二階には客室がいくつも並んでいた。そのどれもが、覗いたこともない部屋だった。
 由紀子は試しに自分が使用している部屋以外の客室を覗いてみたが、風山の管理が行き届いていることを感じただけだった。それらの部屋はどれも温調が効いており、感じよく、くつろげる、非の打ちどころのない客間となっていた。

 この部屋は、由紀子の手を入れるのは、返って悪いような気がした。
 バケツと雑巾を持って、二階の客室を全て見て回り、由紀子はちょっとがっかりしていた。前に風山が説明した内容から、外の客室は幽霊部屋のように蜘蛛の巣がはり、薄気味悪い古い品が押し込められていると思い込んでいたのだ。実際は、どれもきちんとした部屋で、その気になれば由紀子以外の住人も、すぐにでも入居できそうな様子だった。

 一階の、あの陰気な厨房を雑巾がけしてみようかと由紀子は思ったが、あそこは、あれはあれで良いような気がした。
 埃が積もっているわけでもなく、ただ陰気なだけで、特に何かを片づける必要はなさそうだった。どうせ掃除をするなら、やりがいのある方が良かった。

 それで、由紀子は藪家荘の三階のことを考え始めていた。

**

 藪家荘は三階建てである。
 一階からゆったりと昇る螺旋階段は、由紀子の寝室のある二階でいったん途切れている。しかし、二階の突き当りには、三階に昇る別の階段があつらえてあった。
 そこは階段室となっており、重々しい扉の向こうに、やや急な階段があった。まるで塔のように階段は上へと突き抜けており、小さな窓からは庭の光がうっすらと飛び込んでいる。

 三階のフロアは天井の上になっていた。
 由紀子は何度か階段室を覗き、上を見上げたことがあったが、どこか秘密めいた雰囲気に気後れして、未だ階段を上ったことがなかった。

 (ここは、造りが違う)

 一階や二階の優雅でゆったりとした造りとは、違っていた。
 一体、藪家荘の三階がどんな使用目的で作られたものか分からないが、身をひそめるような、人目を避けているような様子があるのは確かだった。

 それでもその階段は、重厚な赤いカーペットが敷かれており、壁には百合の花をかたどった照明があつらえてあった。
 手すりはしっかりとしていて、上から滑り降りたらさぞ楽しかろうと、由紀子は子供じみた空想をした。

 その日、掃除をする場所に困った由紀子は、今日こそ三階にあがろうと心に決めた。
 何度か訪れては上ることを断念した、陰気で秘密めかしい雰囲気の階段室を開き、ほの暗い螺旋階段を見上げた。
 やはり、不気味であった。突き抜けの階段室は、罪人が収容される恐ろしい塔のようだった。小さな真四角の窓からは光がさし、その部分は細かな埃が帯となり、ちらちら光っていた。

 階段室の扉から一歩踏み出すと、赤い絨毯の上だというのに、妙に足音が響いた。
 籠った音はあちこちに当たって跳ね返り、たぶん、ここで物音を立てたら、藪家荘全体に響き渡るのではないかと由紀子は思った。

 (本当に、どういうわけで、こんな造りになっているんだろう)

 ちょっと手すりに指を乗せると、僅かに埃がついた。
 つまり、風山氏の管理も、ここまでは至っていないという事だ。二階から三階にかけての階段は、藪家荘の他の部分とは異なり、それほど完璧に清掃されてはいないようだ。

 一瞬、由紀子はこのまま雑巾がけをしようかと思った。
 しかし、ちょっと手すりに指をこすりつけただけで「きゅっ」という音が異様に間延びし、わんわんと反響したので気分が悪くなった。

 (ここは嫌だ)
 ぞっとして、由紀子は階段室から逃げるように出た。
 (まるで、ここに誰かを閉じ込めて、逃げようとしたらすぐに気付くことができるように造られたみたい)

 階段室の壁は石造りだった。瀟洒な煉瓦模様になっているが、冬は寒く、夏は暑く、およそ快適とは言い難い環境だろう。
 こんな場所に人が住んでいたことがあるとは思えない。
 たぶん、三階は物置になっていたのだろうと由紀子は思った。

 (やめとこう)

 由紀子は階段室の扉を閉めようとした。
 その時――き、きい、きい、き――今までになく鮮明な、ゆりかごの軋む音が聞こえたのだった。

 きい。
 きい、きい。

 ほんの僅かな軋みが、あちこちに反響して由紀子にまで届いている。
 
 由紀子は茫然とした。
 閉じかけた階段室を再び開き、薄暗い螺旋階段を見上げた。

**

 ゆりかごの音を、ここに来てから、幾度となく聞いている。
 家のどこかから聞こえると思っていた。どの部屋だろうかといぶかしんでいた。

 (三階からだ)

 不気味さで背筋が寒くなり、絶対に行ってはならないと思った。
 しかし、その一瞬後、由紀子は思いがけないものを見たのだった。

 とん。ととん、とん。

 爽やかな黄色のテニスボール。
 それが三階にあるなんて、ありえないことだ。由紀子はテニスボールを、確かに、一階の奥の座敷の物置にしまったはずだったのだが。

 それまでも何度か、藪家荘に住む目に見えない存在は、ボールを使って由紀子を振り向かせている。
 由紀子の注意を引くように、ボールを転がしている。
 今もまた、テニスボールは弾みながら軽やかに、三階からこちらに向かい、螺旋階段を転がり落ちているのだった。

 マ、マ。マーマ。
 遊ぼうよ。

 ころころとテニスボールは由紀子の足元まで転がり、つま先に当たって止まった。
 由紀子はバケツを床に置くと、ゆっくりとしゃがみ込み、ボールを拾い上げたのである。

 「何を、言いたいの」

 由紀子は知らずに問いかけていた。
 口から飛び出した言葉は、わんわんと奇妙な反響を伴い、階段室に響き渡った。

 きい、き。
 ゆりかごの音が聞こえている。
 由紀子は息を詰め、階段の一段目を登ろうとした。しかし、一秒後、ぐうっとのしあがってきた恐怖に耐えきれず、悲鳴をあげ、ボールを放り出して、由紀子は階段室から逃げ出したのだった。
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