ゆりかごを抱いて

井川林檎

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第一部 藪家荘の中で

その4 行きは良い良い

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 古く大きな藪家荘だが、唯一庶民的でくつろげる場所が台所だ。由紀子はこの場所が好きである。
 それは都会のアパートのミニキッチンを思わせる、こじんまりとした造りだ。
 小さな流しとガス台、ごくささやかな棚があり、せいぜい三人くらいが座る程度の小さな丸テーブルと椅子が置かれている。
 使い勝手は良くはない。しかし、流しの前にある明かり取りの窓が横に広く、庭の光を存分に中に取り入れている。とても明るい場所だった。

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 実は、奥の方にもっと広く、何人もの使用人が働くような厨房があるのだが、およそ実用的ではないので、まず使う事はない。そこはガスどころか竈で食事をつくる古風な場所だった。すりガラスの小さな窓があるだけで、ひっそりと暗い。深緑の床は年月を物語るように色あせ、黒ずんでいた。
 最初、この家に越してきた時、由紀子は一応、全ての部屋に目を通した。
 あまりにも古いので今はもう使う事のない台所があることは聞いており、どうせ滅多に入ることはないだろうと思いながら扉を開いた。広々とした厨房には木の棚があつらえており、いかにも瀟洒な彫り物で飾られていた。その棚の中には、骨董品のような食器や調理器具がしまいこまれ、眠り続けている。
 管理会社が月に一度、念入りに掃除をしてゆくために、蜘蛛の巣やほこりはなかったが、湿っぽく、ひんやりとした空気は、なにかぞっとするものがあった。
 はじめてその台所を覗いた時、由紀子は一瞬、そこで働く着物姿の痩せた女たちの幻を見た気がした。彼女たちは飯を炊き、野菜を刻み、井戸から組んだ水を流しにあけていた。茫然と立ち尽くす由紀子の前で、女どもの幻は楽し気に仕事をしていた。
 (ああ・・・・・・)

 古い家には記憶がこびりつくものなのかもしれない。
 一瞬見えた、かつて生活の中心の場所だった頃の台所の有様。それは藪家荘の側から新参者の由紀子に対する自己紹介だったのかもしれなかった。
 由紀子は目を閉じ、呼吸を整えた。次に目を開いた時、台所の幻は消えており、そこには陰気で寒々とした古い厨房が沈んでいるだけだった。
 (ここには、足を踏み入れたくない)

**

 しかし今、風山を招き入れ、お茶を出しているのは、小さく不便だが明るい方のキッチンだった。
 由紀子は今朝沸かしたお湯をポットから出し、湯呑に緑茶を注いだ。白い丸テーブルには花柄のビニル製クロスがかけられており、パン皿にビスケットの茶菓子が乗っていた。
 湯気の立つ緑茶を一口飲んで、風山は黙って由紀子を見た。由紀子は向かいに座った。

 「静かといえばいいけれど、どことなく変な感じがするんでしょう」

 由紀子がもどかしそうにしているのを見て、風山の方が見切り発車をした。由紀子がこの屋敷やこの界隈のことを聴きたいと言ったので、見当をつけたのだろう。風山の見当はだいたい合っていた。由紀子はそうだとも違うとも言わなかった。風山は由紀子を見て、ちょっと苦笑いした。

 「まあ、だいぶ外れたところにありますし、古風な場所ですから。地域の自治会の中でも扱いに困るような場所みたいで。ご存知でしょう、この辺りには他には一軒しかない。ゴミステーションも、山の下の集落のと一緒にするわけにはいかないから、ごく小さい収集場所が用意されているんです。もしかしたら、坂東さんはその場所を御存じなかったかもしれませんね」

 ゴミステーションについては知りたかった。由紀子は身を乗り出して頷いた。風山は穏やかに微笑んだ。
 良かったら、この後、一緒に行ってみましょうか。風山の提案を、由紀子は嬉しく受けた。

 「近くに――というか、それでもだいぶ離れているんですが――ある一軒の農家、岡田さんというのですが、高齢の御夫婦が住んでおられましてね。顔を合わせることもあるでしょう」

 風山は言った。
 由紀子はふと、さっき風山のワンボックスカーのエンジンを切りに行った時、家の前をうろうろしていた老女のことを思い出した。険のある顔をして、探るように敷地内を覗いていた様子は不気味であり不快であった。きっとそれが、岡田家の奥さんなのに違いない。思い出すと、ちょっと気が滅入るようだった。

 まあ、細かなことでもなんでも聞いて下さい。大抵は答えられると思いますから。
 風山は言った。とても頼もしく、由紀子には思えた。

 「坂道にある、お地蔵様は」
 ぽそりと由紀子は質問を投げた。
 
 町から山道をのぼり、藪家荘にたどり着くまでにある、あの地蔵群は謎だった。
 赤い前掛けや供え物は新しく、誰かが管理しているのは間違いがない。

 「坂道羅漢といいましてね」
 緑茶を飲み干してから、風山は言った。そして、額の汗をハンカチで拭った。
 「明治時代からあるもので、とても古い。中には風化して壊れているものもありますが、大事にされていますね。ここの自治会の婦人部が毎週、欠かさず手入れしているそうです」

 坂道羅漢。おうむ返しに呟いた。なんのいわれのある地蔵だろうと、由紀子は思った。

 「ごく古い話、それこそ二百年以上も前のことですよ」
 そう断ってから、風山は説明をした。
 幕末から明治の頃、この辺りは貧しく、子供を養うのが難しくなった。その頃にはまだ、町中だけではなく、この山の中にも家が何軒もあった。山中の貧しい農家は子供を人買いに差し出したという。荷馬車に積まれた子供たちが泣きながら坂を下って行き、親たちはその声に耳をふさぎ、目を閉じて涙を流したという。
 「売りに出してしまったとはいえ、子供を思わない親はない。いつしか、縁の切れた子供を思い、地蔵がひとつふたつと作られていったといいます」

 からからと地蔵群の中から突き出し、赤い羽根を回す風車を由紀子は思い出していた。
 山の村で買われた子供たちが荷馬車に積まれ、町に降りてゆく。その道は、由紀子が車で藪家荘までのぼってきた、あの細い道であろう。

 「藪家のお屋敷は、貧しいうちから子供を引き受け、働かせて賃金を払っていたといいますから、当時はずいぶん感謝されたと聞きます」
 風山は微笑んでいる。
 
 「ずいぶん優しいご当主だったんでしょうね」
 と、由紀子は言った。

 「この家のどこかに、古い写真だの書き物だのが残っていると思いますよ。滞在中は何でも自由に使っていただいて良いことになっていますから、気が向かれたら見てみたらどうでしょうね」
 風山はにこにこしている。そして、自分は歴史だの民俗学だのには興味があるから、こういう話は大好きなんですと呟くように付け加えた。

 由紀子は、さっき一瞬見せた、風山の奇妙な表情がひっかかっていた。
 この家の事を何も知らないから教えて欲しいと自分が言った時、風山は確かになにかを感じたのだと思う。本当に、今聞いたことが風山の知っている全てなのだろうかと、由紀子はいぶかしく思った。

 「幽霊は出るんですか」
 ぽろりと零れるように由紀子が尋ねると、風山はけらけらと笑った。自分は霊感はないですよと風山は言った。由紀子は注意深く風山を観察した。

 「きいきいと、軋むような音がよくするんです。確かにこの家の中で。一体、なんの音かと思って」
 
 風山は笑いながら、「古い家は色々な音を立てるものです」と言った。
 由紀子は黙った。

 きい、きい。
 独特な軋み。扉が開閉するような音とも違う。あれは確かに、なにか古いものが動き、こすれて音を立てているのだ。
 
 「どんな音なんです」
 と、風山は言った。

 そうですね、と、由紀子は言葉を探した。少ししてから、「ゆりかごが軋むような音です」と言った。ゆりかごですか、と、風山は首を傾げた。
 結局、音の正体は分かりそうもなかった。

**

 ごちそうさまでした、と、風山は立ち上がると、にこにこしながら「ゴミステーションの場所を案内しましょうか」と言った。
 由紀子も立ち上がると、風山の後について藪家荘を出た。
 僕の車で行きましょうか、歩いたら結構な距離ですから。風山はそう言って、ワンボックスの助手席に由紀子を乗せた。

 軽快に走るワンボックスは、細い坂道をどんどん下った。ゴミステーションは坂道の途中にあるらしい。
 車窓から、赤い前掛けをした地蔵の群れが見えた時、由紀子の脳内では、ものさみしいわらべ歌が流れた。

 行きはよいよい、帰りは怖い。

 「この坂道を下って、子供たちが売られていったんですよ」
 地蔵の群れの前を通り過ぎながら、風山はさらりと言った。

 なんとも言えない気分で、由紀子は地蔵たちを眺めた。 
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