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富山篇
デオドラントスプレー
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可愛らしいクマ柄パステルカラーのモコモコパジャマの上から、濃厚な椿色の年寄りくさい丹前を羽織る和洋折衷のミスマッチ。
寝起きの茶髪ロングは、実弟の誠以上にひどいボサボサだった。実際はサラサラストレートなのに、今や見るも無残な裸子植物のソテツそのものである。寝癖の域を超えて、もはやそれは前衛的なヘアースタイルにすら見えてくる。
普段からキツい猛禽類さながらの目つきは、寝不足のせいで鋭さをいっそう増していた。さながら地方のヤンキーだ。
こんな時間に珍しいとでも言えば、それを皮肉と受け止めた彼女は今以上に気分を害するだろう。
そういや、今日は高校の卒業式か。在校生の理玖には直接関係ない筈だけど……?
疑問を抱きつつ、それを遣り過ごそうとする。
「おはよう。行ってきます」
「ちょい待ち。あんた□&○■☆♭%$*……」
声量が小さ過ぎて、うまく聞き取れない。
極度の低血圧のくせに、わざわざこんな時間に起きて絡んでくるなんて余程のことと思われる。
聞き返すと更に不機嫌になるだろうから、暫し待つことに。
返事をしない僕にイライラしながらも(どのみち彼女はイライラする性分なのだ)、ゆっくり足音を忍ばせて近づいてくる。
どうやら、家人には内密に済ませたいらしい。
「ほら、コレ」
声を潜め椿色の大きな袖から取り出したのは、意外にも一本の黒いスプレー缶だった。
「こんな日に合羽着て走るバカにはデオドラントスプレー。やる」
「え……いいよ。汗ならすぐ拭くし着替えるし」
「だから問題ないとでも?」
「問題ないとまでは言わないけど、まだ3月だし今のところは必要ないかな。そっちが使ったら?」
「ここんとこよく見てみ。"メンズ"って書いてるし。おまけに、その合羽には壊滅的な臭いが既に染み付いてるよ。もはや、こんなんじゃ手遅れで、違う意味で必要ないかもしんないけどさ」
確かに無臭とは思わないけれど、壊滅的はひどい言い草だ。
ショックと現実と手遅れ感を受け入れつつ、僕は形式的にそれを手に取った。
「で、幾ら?」
「バカ」
「バカバカ言わないでくれる? これでも僕の学力は学年トップなんだからさ」
「知ってる。ついでに中二離れしたそのバカデカい図体も学年トップだろ。不思議だよね。毎日同じ物食べてんのに、あたしってばちっとも背が伸びないでやんの」
好きでデカくなったわけじゃないけれど、毎日走る距離を考えれば早過ぎる成長もやむなしだ。決して、食生活だけの影響じゃない。
ついでに言えば、理玖は大概食事を残して、その割に間食は欠かさないので"同じ"とは程遠い。
「改めて訊くけど、幾ら払えばいい?」
「いらない」
珍しい。
高木家一番の守銭奴且つ浪費家がこの申し出を辞退するとは、まさかである。
「まだ月初めだけど、お小遣いってどうせもうないんでしょ?」
「ないね。一昨日に髪をセットしたばかりだから、グミ買う金もありゃしない」
何のアピールだ。しかも寝起きとはいえ、セットしてソテツかよ。
「じゃ、尚更払わなくちゃ」
「いらないってば。母さんに出させたからいいって」
爽子さん……
どうして、わざわざ理玖を経由する必要があるのだろう。
直接、僕に臭い消しを渡せば傷つくと考えたからか?
それとも彼女の発言通り、あくまで言い出しっぺは理玖であって、爽子さんは単なるお財布係なのかもしれないな。
どっちにしろ、これ以上の不毛な会話は望まないし、何より時間が惜しい。
「ありがとう。じゃ、行くよ」
Don't Stop Me Now
ところが、忙しなく玄関を出ようとする僕の背中越しに、理玖が更にトーンを下げて言葉を発する。
「誠は関係ないんじゃないの?」
まただ。
いつものように、僕は返答に窮する。
「何のこと?」
「邪険に扱うなって意味。母さんに対してもね。あんたが憎しみ続けていいのは、このあたしだけだから。よく覚えときな」
勿論、よく覚えてるよ。
惚けてはいても、それを聞かされるのはこれが初めてじゃないからね。
懺悔の積もりだろうか、理玖は定期的にその件を蒸し返してくる。
だからと言って、憎しみなんて感情は誰に対しても全く抱いちゃいない。それを清算できてないのは寧ろそっちじゃないか。
相手が誰であろうと、僕は議論を好まない。
ましてや、一番触れるべきではないこの話題だ。
全ての感情を殺してまでも、僕は素性的にこの家を第一に考えなければならない立場にある。
あの日以来、ずっとそうやって生きてきた。
よって、今回も理玖の発言の真意は問わないこととする。
「行ってきます」
それが理玖に届いたかどうかはわからない。
でも、僕はちゃんと声に出して会話の終わりを告げた。
それが重要だ。
無視はしない。
反抗もしない。
そして、高木家の模範的長男であれ。
社会は殊の外、勉強と運動には寛容だ。
一般的に、中学生は扶養される側に甘んじなければならない。
だから率先してそれらに没頭し実践する。
おかげで僕は誰からも咎められることなく、社会からごく自然に距離を置くことができ、そして今日に至る。
これこそ僕が身につけた、唯一の処世術である。
あんな家に留まるより、雨に打たれる方がずっと心地良い。
だから僕は走るように逃げ、逃げるように走り続けるんだ。
寝起きの茶髪ロングは、実弟の誠以上にひどいボサボサだった。実際はサラサラストレートなのに、今や見るも無残な裸子植物のソテツそのものである。寝癖の域を超えて、もはやそれは前衛的なヘアースタイルにすら見えてくる。
普段からキツい猛禽類さながらの目つきは、寝不足のせいで鋭さをいっそう増していた。さながら地方のヤンキーだ。
こんな時間に珍しいとでも言えば、それを皮肉と受け止めた彼女は今以上に気分を害するだろう。
そういや、今日は高校の卒業式か。在校生の理玖には直接関係ない筈だけど……?
疑問を抱きつつ、それを遣り過ごそうとする。
「おはよう。行ってきます」
「ちょい待ち。あんた□&○■☆♭%$*……」
声量が小さ過ぎて、うまく聞き取れない。
極度の低血圧のくせに、わざわざこんな時間に起きて絡んでくるなんて余程のことと思われる。
聞き返すと更に不機嫌になるだろうから、暫し待つことに。
返事をしない僕にイライラしながらも(どのみち彼女はイライラする性分なのだ)、ゆっくり足音を忍ばせて近づいてくる。
どうやら、家人には内密に済ませたいらしい。
「ほら、コレ」
声を潜め椿色の大きな袖から取り出したのは、意外にも一本の黒いスプレー缶だった。
「こんな日に合羽着て走るバカにはデオドラントスプレー。やる」
「え……いいよ。汗ならすぐ拭くし着替えるし」
「だから問題ないとでも?」
「問題ないとまでは言わないけど、まだ3月だし今のところは必要ないかな。そっちが使ったら?」
「ここんとこよく見てみ。"メンズ"って書いてるし。おまけに、その合羽には壊滅的な臭いが既に染み付いてるよ。もはや、こんなんじゃ手遅れで、違う意味で必要ないかもしんないけどさ」
確かに無臭とは思わないけれど、壊滅的はひどい言い草だ。
ショックと現実と手遅れ感を受け入れつつ、僕は形式的にそれを手に取った。
「で、幾ら?」
「バカ」
「バカバカ言わないでくれる? これでも僕の学力は学年トップなんだからさ」
「知ってる。ついでに中二離れしたそのバカデカい図体も学年トップだろ。不思議だよね。毎日同じ物食べてんのに、あたしってばちっとも背が伸びないでやんの」
好きでデカくなったわけじゃないけれど、毎日走る距離を考えれば早過ぎる成長もやむなしだ。決して、食生活だけの影響じゃない。
ついでに言えば、理玖は大概食事を残して、その割に間食は欠かさないので"同じ"とは程遠い。
「改めて訊くけど、幾ら払えばいい?」
「いらない」
珍しい。
高木家一番の守銭奴且つ浪費家がこの申し出を辞退するとは、まさかである。
「まだ月初めだけど、お小遣いってどうせもうないんでしょ?」
「ないね。一昨日に髪をセットしたばかりだから、グミ買う金もありゃしない」
何のアピールだ。しかも寝起きとはいえ、セットしてソテツかよ。
「じゃ、尚更払わなくちゃ」
「いらないってば。母さんに出させたからいいって」
爽子さん……
どうして、わざわざ理玖を経由する必要があるのだろう。
直接、僕に臭い消しを渡せば傷つくと考えたからか?
それとも彼女の発言通り、あくまで言い出しっぺは理玖であって、爽子さんは単なるお財布係なのかもしれないな。
どっちにしろ、これ以上の不毛な会話は望まないし、何より時間が惜しい。
「ありがとう。じゃ、行くよ」
Don't Stop Me Now
ところが、忙しなく玄関を出ようとする僕の背中越しに、理玖が更にトーンを下げて言葉を発する。
「誠は関係ないんじゃないの?」
まただ。
いつものように、僕は返答に窮する。
「何のこと?」
「邪険に扱うなって意味。母さんに対してもね。あんたが憎しみ続けていいのは、このあたしだけだから。よく覚えときな」
勿論、よく覚えてるよ。
惚けてはいても、それを聞かされるのはこれが初めてじゃないからね。
懺悔の積もりだろうか、理玖は定期的にその件を蒸し返してくる。
だからと言って、憎しみなんて感情は誰に対しても全く抱いちゃいない。それを清算できてないのは寧ろそっちじゃないか。
相手が誰であろうと、僕は議論を好まない。
ましてや、一番触れるべきではないこの話題だ。
全ての感情を殺してまでも、僕は素性的にこの家を第一に考えなければならない立場にある。
あの日以来、ずっとそうやって生きてきた。
よって、今回も理玖の発言の真意は問わないこととする。
「行ってきます」
それが理玖に届いたかどうかはわからない。
でも、僕はちゃんと声に出して会話の終わりを告げた。
それが重要だ。
無視はしない。
反抗もしない。
そして、高木家の模範的長男であれ。
社会は殊の外、勉強と運動には寛容だ。
一般的に、中学生は扶養される側に甘んじなければならない。
だから率先してそれらに没頭し実践する。
おかげで僕は誰からも咎められることなく、社会からごく自然に距離を置くことができ、そして今日に至る。
これこそ僕が身につけた、唯一の処世術である。
あんな家に留まるより、雨に打たれる方がずっと心地良い。
だから僕は走るように逃げ、逃げるように走り続けるんだ。
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