桜の旅人

星名雪子

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第1話

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咲人さきと

その声に、僕はハッと目を覚ました。壁に掛かった時計を見る。時刻は深夜1時を回ったところだ。昨晩、日記を書いていて、そのまま眠ってしまったらしい。僕はゆっくりと体を起こした。今、確かに僕を呼ぶ声が聞こえた。その声には酷く聞き覚えがあった。しばらくの間、頭を巡らして閃く。

(ヤヨイ様だ)

僕は手元の日記を繰ってみた。現在は平成元年の3月だ。今年の初めに昭和から平成になり、時代が大きく移り変わった。その時期の日記にはそのことが事細かに書かれている。それ以降の日付には「ヤヨイ様」の文字は殆ど出ていない。たまに「そろそろ会いにいかなきゃ」という記述があるぐらいだ。僕は日記から目を離した。

今年はまだ彼女には会えていない。何かあったのだろうか。微かに胸騒ぎを覚える。立ち上がって、部屋のカーテンを開けた。真冬の澄んだ夜空にぽっかりと満月が浮かんでいた。暗闇の中に静かにそびえ立つ黒々とした並木。それらは全て桜の木だ。

高校を卒業してから一人暮らしを始めて7年が経つ。僕がこの物件を決めた一番の理由は家賃でも間取りでもなく、その桜並木だった。今はその上に真っ白な雪が積もっており、月明かりの下でキラキラと輝いている。時折、木々が風に揺れている。外に出れば、きっと風の音や自然の音が聞えるだろう。普通の人ならば。しかし、僕にはそれらはなにひとつ聞こえない。
 
僕は幼い頃ある病を患い、聴力を全て失った。それ以来、何の音も聞こえない無の世界で生きて来た。それはまだ幼かった僕にとって酷く孤独だった。しかし、その孤独を癒してくれたのは桜の木々だった。今は眠っているあの木々もあと、ひと月もすればきっと美しい花を咲かせることだろう。長く厳寒な冬を耐え忍び、満開の花を咲かせるその姿は遥か古来より、僕達日本人の心を捕らえて離さない。僕はふと、そんな桜達に早く会いたくなった。春が待ち遠しい。

(明日、ヤヨイ様に会いに行ってみよう)

月明かりの下に眠る真冬の桜の木々を眺めながら、僕はそう決めたのだった。

翌日、僕は同じ県内にあるひとつの村を訪ねた。実はこの村は僕の故郷でもある。僕の名前を呼んだ「ヤヨイ様」との出会いの場所でもあり、僕の原点の場所でもあるのだ。

(咲人、久しぶりだな!)

僕に手話で話し掛けてくれた彼は、この村にある「民宿たけだ」の一人息子、竹田仁哉たけだじんや。勝気な笑顔を浮かべて嬉しそうに僕のことを見ている。僕より背が高く、骨太な彼は幼馴染であり、親友である。両親の後に民宿を継ぐべく、日々修行に励んでいる。

(久しぶり!仁哉も元気にしてた?)

僕は仁哉とハイタッチをした。この民宿はこの村を訪れる時にいつもお世話になっている。少し古くてこじんまりとした建物だ。宿泊客を迎える他に、村人達の憩いの場にもなっている。食堂に行くと、長年お世話になっている村長、そして村の人々が僕を温かく歓迎してくれた。

(咲人!昼飯食っていけよ!)

薄手のシャツに前掛けをした仁哉が、大きな盆を持ってきた。そこにはこの地域の郷土料理が乗っていた。

(ありがとう!)

この地域でとれる新鮮な野菜を使った豚汁は冷えた体が芯まで温まり、とても美味しい。食事がひと段落すると僕は村長や村人達に手話で尋ねた。

(彼女の様子はいかがですか)

村長は眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げながら応じた。

(去年、野樹のぎくんが駆け付けてくれたおかげで何とか1年は持ったがね、日に日に弱っていくのが分かるんじゃ。わしだけじゃない、村の皆がそう感じておる)

村長はもうすぐ80歳になる。とても小柄で僕よりも背が小さい。しかし、とても健康で毎日、背筋をぴんと伸ばして元気よく動き回っている。老若男女問わず村の人々に慕われている、心優しいおじいちゃんである。

(具体的な症状を教えて頂けますか)

(雪の重さで枝が折れてしまったり、幹の表面に害虫が沸いたり、キノコが生えたりといったところかね。他にも色々あるが)

(そうですか)

(添え木をしたり、薬を撒いたり、土を入れ替えたりと、わしらも色々と手は尽くしているのじゃが、二千年も生きた桜じゃ。老いには勝てんようでの)

村長の明らかに沈んだ表情に、村人達も皆一斉に俯いてしまった。

僕と村の人々が言う「彼女」とは、ヤヨイ様のことだ。彼女はこの小さな村に咲く一本の巨大な桜の老木のことだ。推定樹齢は二千年。桜の寿命は長い。樹齢百年なんてざらで、特に珍しいものでもない。その桜によって個性はあるものの若い桜も、年寄りの桜も、皆変わらずに美しい花を咲かせる。しかし、この小さな村に咲くヤヨイ様は、日本全国のどの桜も比べものにならない程の生命力と、強い意志を持っていた。

彼女がこの世に生を受けた二千年前の日本。それはまだ人々が土器を作り、竪穴住居を作っていた、弥生時代のことだ。江戸から明治へ移り変わると同時に、この村はできた。開拓が進み、人口が増えていった。毎年春になると、壮大で美しい花を咲かせる彼女。いつしか人々は彼女のことを心から愛するようになった。昔は特に名前がなかった。が、やがて人々は親しみと尊敬の意を込めて彼女のことを「ヤヨイ様」と呼ぶようになったのだった。

僕は幼い頃に聴力を全て失ったが、その代わりに得たものがある。それが「桜の声を聞くことができる」という能力だった。「桜の声を聞くこと」それは即ち「桜の心が分かる」ということだ。この特殊な能力を持つ者は世界中に僕1人しかいない。桜の木とその土地に住む人々の心を繋ぐ「橋渡し」をすること。それが世界にひとつしかない僕の仕事であり、使命なのだ。そんな僕のことを、桜をこよなく愛する日本の人々は親しみを込めて「桜の旅人」と呼んでくれる。僕はその名前をとても誇りに思っているのだ。

僕は基本的に補聴器を使わない。高額だということもあるが、何より補聴器を使うことによって、代わりに桜の声が聞こえなくなってしまうのではないかという心配があるからだ。僕の会話手段は手話と筆談。手話が分からない人には軽いジェスチャーをすることもあるし、ゆっくりであれば口の動きで言葉を読み取ることもできる。

この村の人々は、僕とスムーズにやり取りができるようにと、手話を覚えてくれている。僕にはその気持ちがとても嬉しかった。手話を覚えるのは決して簡単ではない。ましてや、僕のような完全に耳が聞こえない人とやり取りするのはとても大変なのだ。この村に住む殆どの人々は僕のことを幼い頃から知っている。皆とスムーズに会話ができるようになりたいと思っていた僕は当時、通っていた難聴者が行く学校で一生懸命、手話の勉強をした。すると、彼らは僕のその思いに応えてくれたのだ。

(野樹くんとヤヨイ様のためにも皆で手話を勉強しようじゃないか)

村長の呼びかけに応じた村の人々は手話を勉強し、数年の歳月を経て遂にマスターした。涙が出るほど嬉しかったことを僕は今でも覚えている。

1年前に見た彼女の姿を僕は思い出した。黒々とした太い幹は今にも朽ちそうで、その幹や四方八方に伸びる弱った細い枝を多くの添え木がやっとの思いで支えていた。その添え木は村長や村人達が懸命な思いで取り付けたもの。あまりにも痛々しい姿にまるで死んでしまった大木のように見える。が、満開の花を咲かせたその姿は実に堂々たるもので、樹齢二千年という老木に相応しい貫禄と威厳を見せつけていた。僕はその姿に全身が震えるような深い感動を覚えたのである。

肩を叩かれ、僕はふっと我に返った。先程まで塞ぎこんでいた村長が僕の目を真っすぐに見つめている。その表情は決意に満ちていた。

(わしらからあんたに頼みたいことがあるんじゃ)

(僕にできることなら何でもします)

(あんたも知っての通り、この村はもうすぐ消える。そして、ヤヨイ様は恐らくもうすぐ旅立たれるじゃろう。何とか花を咲かせられたとしても、これが最期になるはずじゃ。長年世話してきたわしらにはそれが良く分かる。だから、わしらは、ヤヨイ様と最後に思い出を作りたいのじゃ)

村長の言う通り、この小さな村は近年、過疎化が進み、この春に隣町と合併されることが決まった。それは昭和から平成という時代の移り変わりによるものでもあった。

表向きは「合併」という名目だが、新しい町の名前にはこの村を残すものは何もなく実際は隣町に吸収されてしまう。それはこの村が無くなってしまうことを意味している。村長を始め、人々はこの村を心から愛していた。それだけにこの村がもうすぐ無くなってしまうことを酷く嘆き悲しみ「合併」という事実を未だに受け入れられずにいた。

村長は微かに震える自身の両手で僕の手を握りしめた。その手は土で黒ずみ、節くれだっていた。この手が長い間、彼女を懸命に支え、世話をしてきたのだ。村長はこの村で生まれ育った。子供の頃に初めて出会ったヤヨイ様の姿に心を奪われて以来、ずっと彼女の世話を続けている。恐らく、村人達の中で一番ヤヨイ様への思いが強いのは村長だろう。彼と同じくこの村で生まれ育った僕には、それがよく分かった。

しかし、いくら長年世話をしてきたとしても、村長や村人達には彼女の言葉を直接聞くことはできない。だからこそ、こういう時に僕のような「橋渡し」となる者が必要なのだ。村長と村人達、そして彼女の力に少しでもなれるのであれば、僕は何でもやろう。彼女の声を聞くだけでなく、彼女の添え木にだってなってもいい。僕は心の底からそう思った。改めて、「桜の声を聞く者」としての使命を実感した。

(分かりました。僕もこの村の皆さん、そして彼女とは深い縁があります。だから、このままでは終わらせたくない。僕に任せてください)

村長は僕の手を握りしめたまま何かを呟きながら、大粒の涙を流した。手話でやり取りをしなくても、僕には村長が何を呟いたのかが分かった。彼はありがとう、と言ったのだ。

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