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番外編
初めての子育て Side 涼 04話
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少し前のことを思い出しつつ、茶会に列席する真白さんを思い浮かべる。
今日は、藤倉銀行頭取である上野原氏の夫人が主催する茶会とのことだった。
上野原邸へは何度か一緒に行ったことがある。
あそこは敷地内の一画に茶会用の建物があり、本宅を経由せず、駐車場から直接その建物へ行けるつくりになっている。そして、その建物から本宅へ向かう際には手入れの行き届いた日本庭園を十分ほど歩かされた。
でも、今日は雨――。
着物で出席する客人に、雨降りの中を歩かせることはないだろうからおそらくは、上野原邸名物のひとつ――名だたる美術品が飾られる、小規模美術館のような回廊を延々歩かされることになる。
彼女にとって、
「その移動時間が一番、気を抜けない時間になるな……」
彼女は今日までに、事前準備として、その回廊に飾られるすべての美術品のデータをインプットしていたし、庭に咲く花の種類まで把握する勤勉ぶりだった。
そこまでしなくてはいけないものなのか、と思いもしたが、すべてを網羅することで得られる安心があることは知っている。
だから、真剣に取り組む姿をただただ見守ってきた。
茶会当日の今日は、いつどこから声をかけられるか、と全方位に神経を張り巡らせ、声をかけられた際には必要以上の驚きは見せず、穏やかな表情で応じなければならない。決して無様な「藤宮真白」を見せることは許されない――。
彼女に出逢うまで、金持ちのご婦人が集まる会がそんなにも過酷で、気の抜けないものだとは思いもしなかった。
しかし彼女の家族において、そういった会に苦手意識をもつのは彼女のみ。妹である紅子さんは、「私は楽しんで出席させていただいております。お姉様は少々真面目すぎるのですわ」と軽やかに答えていたが――。
「人種が違う」――そんな言葉なら納得ができる気がした。
その「人種が違う」人間が、まとまった休暇を過ごしたところで性格が変わるわけではない。むしろ、久しぶりの場に緊張し、委縮し、だがそれを悟られないように、と必死に自分を繕っているはず。
そのうえ出産を経た今は、自宅に残してきた娘のことも気にしているのだから、
「神経がいくつあっても足りないな……」
娘の様子は定時に彼女付の警護班に伝え、娘の様子が彼女に伝わるようにはしているが……。
「妊娠が発覚してからだから、一年半ほどか……?」
出産してから仕事を一年休む女性は少なくないという。そこからすると、彼女は早くに社会復帰したほうなのではないか。
昨夜帰宅してから彼女と娘が眠る寝室を訪ね、起きたときに気付くように、とサイドテーブルにメモと薬を置いてきた。
今朝はその薬をきちんと所持したのを確認してから送り出したわけだが――。
「真白さんのことだ。車を降りる前には服用しているだろう」
念のため、彼女の薬はすべて警護班にも所持させ、どんなときに何を飲ませるのかも一通り把握させてある。
万が一、何かあったとしても、すぐに自分へ連絡が入るよう、藤堂さんと綿密に打ち合わせをし、抜かりなく整備してきたつもりだ。
自分にできることはすべてし尽くしたつもりではあるが、この先の彼女のスケジュールを思い出せば頭を抱えたくなる。
週に一、二度、何かしらの会合へ出向かなければいけない状態がすでにできつつあった。
真白さんの性格を鑑みれば、また胃を傷めるのでは……? ……――いや、
「これは自分の胃を心配をするべきか……?」
なんとなしに自分の胃に手を当てると、二メートルほど離れた場所から「キャッキャキャッキャ」と機嫌よさそうな声が聞こえてくる。
声の発信源、ラグの上で遊んでいる娘に向き直り、
「ずいぶんとご機嫌ですね。次は何をして遊ぶんです?」
娘は「あーあー」と声を発し、今まで遊んでいたおもちゃを放り投げ、別のものへ向かって手を伸ばす。
まだ自分では場所を移動することができないため、「あれ」と必死にものを示しているのだろう。
娘が示すそれは、彼女がよく娘に読み聞かせているピンク色の表紙に熊らしき動物が描かれた絵本だった。
「あぁ、これですか?」
「あーあー」
発する言葉は然して変わらない。でも確かに、「それ」と言われているのがわかる。
「不思議なものですね。意思疎通とは、こんなにも簡単なものだったでしょうか……」
他人が何を考えているのかさっぱりわからない。何をどうしたらそういう結論にたどり着くのかも理解しがたい――そう思って生きてきた人間が、最愛の妻が考えることや、まだ言葉という言葉を話せない娘の考えは、なんとなくわかるのだからおかしい。
自然と笑いが零れたが、それを見ているのは娘しかいない。
そして、こんな笑みは娘の記憶に遺るものでもない。
そんな当たり前のことを「寂しい」と感じる自分がいるのだから、やっぱりなんだかおかしい。
「今日は湊と一日中一緒に過ごせますね」
そう話しかけてみたが、娘は「あーあー」と言うだけだった。
夕方、雨音が強まりだしたころに沐浴を済ませ、ミルクも十分に飲み、げっぷも排泄も済ませてすべてが万全で完璧のはずだった。
しかし娘の機嫌がしだいに悪くなり、終いにはには激しく泣き出す始末。
手足をバタバタとさせ、「イヤイヤ」の感情ををこれでもかというほど上手に表現している。
体温を測っても、聴診器を当ててもこれといった異常は見られない。
「室温湿度に問題はなし。汗もかいてない。さっき触れたときの肌表面の体温と比べると――少し熱くなったか……?」
しかし、発展途上にある子どもの体温は非常に不安定で、環境や服装、浸かる湯の温度あれやこれやに左右されることが多いもの。
よって、普段大人が言う「平熱」という概念はない。
ほかに思いつくものといえば、「眠くなるとわかりやすいほどに身体が熱くなる」だ。
試しに抱き上げてあやしてみるが、逆効果であることがわかる。
きっと眠いのだろう。
そんな推測をしつつ、改めて娘をベッドへ寝かせると、娘が生まれる前に用意していた、こういうときにチェックすべきリストをすべて潰しにかかる。
「服の締め付けはなし。オムツかぶれもない。ほかに湿疹と言える湿疹もないな……。肌が赤い部分もない。腹部の膨張も見られない」
ベッドの中に娘を傷つけるようなアイテムは何もない。
「問題ないだろう……」
そして、泣き喚く娘を間近に見ながら、今日何度目の出来事だろうか、となんとなしに数えていた。
すると、玄関の方でけたたましい音を立ててドアが開き、または閉まった。
直後、リビングのドアから血相を変えた彼女が顔を見せる――というよりは、娘目がけて一目散に駆け寄った。
「湊ちゃん、どうしたのっ!? おしっこしたのかな? それともうんち? ミルク? 汗かいたのかな? お熱は?」
いつもなら、外から帰宅すればまず洗面所へ行き、手洗いうがいを済ませてからリビングへ立ち入る彼女が、今は必死に我が子に話しかけては額や手足に触れ、体温の確認を始める。
だが、相手は言葉の話せぬ赤子である。当然返事はない。
「真白さん、まずは手洗いうがいを」
そう声をかけると、彼女にしては珍しく、目を吊り上げて声を荒らげた。
「それも大事ですけどっ――涼さん、何をしていらしたのですかっ!? 湊ちゃん、泣いているじゃないですかっ」
彼女は愛しいわが子を抱き上げるが、その娘はいっそう激しく泣き喚く。
……自分のときと変わらないな。
そんな観察をしていると、
「ご自分がお休みの日、私に休むように、寝るように勧めながら、いつもこのように湊ちゃんの世話をされていたのですかっ!?」
詰め寄るように問い質され、
「このように、とは……?」
「湊ちゃんから少し離れて、コーヒーを片手に本を読まれていることですっ」
「あぁ……」
そういうことか……。
でも、「少し離れて」とは言うが、本当に「少し」だと思う。
娘のベッド近くへひとり掛けソファを移動させ、座っていても娘の表情を問題なく確認できる位置にいるわけだから。
「質問に質問を返すようで申し訳ないのですが、真白さんはいつもそのように湊の世話をなさっているのですか?」
彼女は何を言われたのかがわからない、といった顔で、そのままの言葉を口にした。
「え……? 何を言って――」
「ですから、いつもそのように、湊が泣けば抱き上げ、ぐずれば相手をし、というようにお過ごしなのですか?」
「え……? えぇ……。今はまだ、川瀬さんたちに家事をお願いしておりますので……。基本的にはこのように……」
急に失速した口調に一息つく。と、第二弾の口撃が始まった。
「逆にお訊ねしますが、涼さんは本当に湊ちゃんを『見ていた』だけなのですかっ?」
こんな彼女はそうそう見ることはできない。おそらく、出逢ってから初めて見る顔だ。
物珍しさのほうが勝ってしまいそうになり、自分の中で少しの軌道修正を図る。
「おしっこやうんちをすればオムツは変えてましたよ。それから、沐浴も済んでいます。ミルクも曖気もさせてあります。寝汗をかいた際には身体をきれいに拭いたうえで、新しい服に着替えさせもしました。ほか絵本も読みましたし、積み木でも何度も遊びましたし……。今は疲れて眠りたいのかと」
「それなら抱っこして背中トントンするとかっ――」
「どうしてです……?」
「……どうして……? え? ……えっ?」
「私が手を加えなくとも、泣き疲れればいずれは寝ます。それに、今はベビーベッドの中におり、危険なものは身の回りに何ひとつありません」
自分の回答に、彼女は目をパチクリさせている。そして、何か言おうとしたのだろう。もしくは反撃したかったのかもしれない。
けれど、彼女の口から出てきた言葉はたどたどしく短いもので、「えぇと……」のみだった。
「今日は一日真白さんがおらず、湊とふたりきりで過ごせましたからね。色々と試してみたのですよ」
にこやかに笑みを添えて話すと、真白さんはきょとんとした顔で「何を……?」と発する。
「湊がぐずっているときにあやすのがいいのか、万全の状態で放っておくのがいいのか」
自分の返答に、彼女は愕然とした表情を見せる。まさに、「あんぐり」という言葉がしっくりくる表情で。
「宮の姫」と呼ばれた楚々たる彼女には似つかわしくない表情だ。
今日はなんていい日なのか……。
思うぞんぶんわが子を観察し、または一緒に過ごし、遊び、さらには愛しい妻の見たことのない表情をふたつも拝めた。
その貴重な表情を脳内フォルダに収め、研修医時代の話をすることにした。
今日は、藤倉銀行頭取である上野原氏の夫人が主催する茶会とのことだった。
上野原邸へは何度か一緒に行ったことがある。
あそこは敷地内の一画に茶会用の建物があり、本宅を経由せず、駐車場から直接その建物へ行けるつくりになっている。そして、その建物から本宅へ向かう際には手入れの行き届いた日本庭園を十分ほど歩かされた。
でも、今日は雨――。
着物で出席する客人に、雨降りの中を歩かせることはないだろうからおそらくは、上野原邸名物のひとつ――名だたる美術品が飾られる、小規模美術館のような回廊を延々歩かされることになる。
彼女にとって、
「その移動時間が一番、気を抜けない時間になるな……」
彼女は今日までに、事前準備として、その回廊に飾られるすべての美術品のデータをインプットしていたし、庭に咲く花の種類まで把握する勤勉ぶりだった。
そこまでしなくてはいけないものなのか、と思いもしたが、すべてを網羅することで得られる安心があることは知っている。
だから、真剣に取り組む姿をただただ見守ってきた。
茶会当日の今日は、いつどこから声をかけられるか、と全方位に神経を張り巡らせ、声をかけられた際には必要以上の驚きは見せず、穏やかな表情で応じなければならない。決して無様な「藤宮真白」を見せることは許されない――。
彼女に出逢うまで、金持ちのご婦人が集まる会がそんなにも過酷で、気の抜けないものだとは思いもしなかった。
しかし彼女の家族において、そういった会に苦手意識をもつのは彼女のみ。妹である紅子さんは、「私は楽しんで出席させていただいております。お姉様は少々真面目すぎるのですわ」と軽やかに答えていたが――。
「人種が違う」――そんな言葉なら納得ができる気がした。
その「人種が違う」人間が、まとまった休暇を過ごしたところで性格が変わるわけではない。むしろ、久しぶりの場に緊張し、委縮し、だがそれを悟られないように、と必死に自分を繕っているはず。
そのうえ出産を経た今は、自宅に残してきた娘のことも気にしているのだから、
「神経がいくつあっても足りないな……」
娘の様子は定時に彼女付の警護班に伝え、娘の様子が彼女に伝わるようにはしているが……。
「妊娠が発覚してからだから、一年半ほどか……?」
出産してから仕事を一年休む女性は少なくないという。そこからすると、彼女は早くに社会復帰したほうなのではないか。
昨夜帰宅してから彼女と娘が眠る寝室を訪ね、起きたときに気付くように、とサイドテーブルにメモと薬を置いてきた。
今朝はその薬をきちんと所持したのを確認してから送り出したわけだが――。
「真白さんのことだ。車を降りる前には服用しているだろう」
念のため、彼女の薬はすべて警護班にも所持させ、どんなときに何を飲ませるのかも一通り把握させてある。
万が一、何かあったとしても、すぐに自分へ連絡が入るよう、藤堂さんと綿密に打ち合わせをし、抜かりなく整備してきたつもりだ。
自分にできることはすべてし尽くしたつもりではあるが、この先の彼女のスケジュールを思い出せば頭を抱えたくなる。
週に一、二度、何かしらの会合へ出向かなければいけない状態がすでにできつつあった。
真白さんの性格を鑑みれば、また胃を傷めるのでは……? ……――いや、
「これは自分の胃を心配をするべきか……?」
なんとなしに自分の胃に手を当てると、二メートルほど離れた場所から「キャッキャキャッキャ」と機嫌よさそうな声が聞こえてくる。
声の発信源、ラグの上で遊んでいる娘に向き直り、
「ずいぶんとご機嫌ですね。次は何をして遊ぶんです?」
娘は「あーあー」と声を発し、今まで遊んでいたおもちゃを放り投げ、別のものへ向かって手を伸ばす。
まだ自分では場所を移動することができないため、「あれ」と必死にものを示しているのだろう。
娘が示すそれは、彼女がよく娘に読み聞かせているピンク色の表紙に熊らしき動物が描かれた絵本だった。
「あぁ、これですか?」
「あーあー」
発する言葉は然して変わらない。でも確かに、「それ」と言われているのがわかる。
「不思議なものですね。意思疎通とは、こんなにも簡単なものだったでしょうか……」
他人が何を考えているのかさっぱりわからない。何をどうしたらそういう結論にたどり着くのかも理解しがたい――そう思って生きてきた人間が、最愛の妻が考えることや、まだ言葉という言葉を話せない娘の考えは、なんとなくわかるのだからおかしい。
自然と笑いが零れたが、それを見ているのは娘しかいない。
そして、こんな笑みは娘の記憶に遺るものでもない。
そんな当たり前のことを「寂しい」と感じる自分がいるのだから、やっぱりなんだかおかしい。
「今日は湊と一日中一緒に過ごせますね」
そう話しかけてみたが、娘は「あーあー」と言うだけだった。
夕方、雨音が強まりだしたころに沐浴を済ませ、ミルクも十分に飲み、げっぷも排泄も済ませてすべてが万全で完璧のはずだった。
しかし娘の機嫌がしだいに悪くなり、終いにはには激しく泣き出す始末。
手足をバタバタとさせ、「イヤイヤ」の感情ををこれでもかというほど上手に表現している。
体温を測っても、聴診器を当ててもこれといった異常は見られない。
「室温湿度に問題はなし。汗もかいてない。さっき触れたときの肌表面の体温と比べると――少し熱くなったか……?」
しかし、発展途上にある子どもの体温は非常に不安定で、環境や服装、浸かる湯の温度あれやこれやに左右されることが多いもの。
よって、普段大人が言う「平熱」という概念はない。
ほかに思いつくものといえば、「眠くなるとわかりやすいほどに身体が熱くなる」だ。
試しに抱き上げてあやしてみるが、逆効果であることがわかる。
きっと眠いのだろう。
そんな推測をしつつ、改めて娘をベッドへ寝かせると、娘が生まれる前に用意していた、こういうときにチェックすべきリストをすべて潰しにかかる。
「服の締め付けはなし。オムツかぶれもない。ほかに湿疹と言える湿疹もないな……。肌が赤い部分もない。腹部の膨張も見られない」
ベッドの中に娘を傷つけるようなアイテムは何もない。
「問題ないだろう……」
そして、泣き喚く娘を間近に見ながら、今日何度目の出来事だろうか、となんとなしに数えていた。
すると、玄関の方でけたたましい音を立ててドアが開き、または閉まった。
直後、リビングのドアから血相を変えた彼女が顔を見せる――というよりは、娘目がけて一目散に駆け寄った。
「湊ちゃん、どうしたのっ!? おしっこしたのかな? それともうんち? ミルク? 汗かいたのかな? お熱は?」
いつもなら、外から帰宅すればまず洗面所へ行き、手洗いうがいを済ませてからリビングへ立ち入る彼女が、今は必死に我が子に話しかけては額や手足に触れ、体温の確認を始める。
だが、相手は言葉の話せぬ赤子である。当然返事はない。
「真白さん、まずは手洗いうがいを」
そう声をかけると、彼女にしては珍しく、目を吊り上げて声を荒らげた。
「それも大事ですけどっ――涼さん、何をしていらしたのですかっ!? 湊ちゃん、泣いているじゃないですかっ」
彼女は愛しいわが子を抱き上げるが、その娘はいっそう激しく泣き喚く。
……自分のときと変わらないな。
そんな観察をしていると、
「ご自分がお休みの日、私に休むように、寝るように勧めながら、いつもこのように湊ちゃんの世話をされていたのですかっ!?」
詰め寄るように問い質され、
「このように、とは……?」
「湊ちゃんから少し離れて、コーヒーを片手に本を読まれていることですっ」
「あぁ……」
そういうことか……。
でも、「少し離れて」とは言うが、本当に「少し」だと思う。
娘のベッド近くへひとり掛けソファを移動させ、座っていても娘の表情を問題なく確認できる位置にいるわけだから。
「質問に質問を返すようで申し訳ないのですが、真白さんはいつもそのように湊の世話をなさっているのですか?」
彼女は何を言われたのかがわからない、といった顔で、そのままの言葉を口にした。
「え……? 何を言って――」
「ですから、いつもそのように、湊が泣けば抱き上げ、ぐずれば相手をし、というようにお過ごしなのですか?」
「え……? えぇ……。今はまだ、川瀬さんたちに家事をお願いしておりますので……。基本的にはこのように……」
急に失速した口調に一息つく。と、第二弾の口撃が始まった。
「逆にお訊ねしますが、涼さんは本当に湊ちゃんを『見ていた』だけなのですかっ?」
こんな彼女はそうそう見ることはできない。おそらく、出逢ってから初めて見る顔だ。
物珍しさのほうが勝ってしまいそうになり、自分の中で少しの軌道修正を図る。
「おしっこやうんちをすればオムツは変えてましたよ。それから、沐浴も済んでいます。ミルクも曖気もさせてあります。寝汗をかいた際には身体をきれいに拭いたうえで、新しい服に着替えさせもしました。ほか絵本も読みましたし、積み木でも何度も遊びましたし……。今は疲れて眠りたいのかと」
「それなら抱っこして背中トントンするとかっ――」
「どうしてです……?」
「……どうして……? え? ……えっ?」
「私が手を加えなくとも、泣き疲れればいずれは寝ます。それに、今はベビーベッドの中におり、危険なものは身の回りに何ひとつありません」
自分の回答に、彼女は目をパチクリさせている。そして、何か言おうとしたのだろう。もしくは反撃したかったのかもしれない。
けれど、彼女の口から出てきた言葉はたどたどしく短いもので、「えぇと……」のみだった。
「今日は一日真白さんがおらず、湊とふたりきりで過ごせましたからね。色々と試してみたのですよ」
にこやかに笑みを添えて話すと、真白さんはきょとんとした顔で「何を……?」と発する。
「湊がぐずっているときにあやすのがいいのか、万全の状態で放っておくのがいいのか」
自分の返答に、彼女は愕然とした表情を見せる。まさに、「あんぐり」という言葉がしっくりくる表情で。
「宮の姫」と呼ばれた楚々たる彼女には似つかわしくない表情だ。
今日はなんていい日なのか……。
思うぞんぶんわが子を観察し、または一緒に過ごし、遊び、さらには愛しい妻の見たことのない表情をふたつも拝めた。
その貴重な表情を脳内フォルダに収め、研修医時代の話をすることにした。
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