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31 Side 一樹 01話
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「ちょっとお邪魔させていただいてもよろしいでしょうか?」
そう言って音も立てずに現れたのは、この病院の重鎮といえる人間だった。
経営を見ながら患者の診察や手術もこなす切れ者、藤宮涼――
「かまいませんよ。ですが、どうしてここに?」
「今日は御園生さんがいらっしゃる日だとうかがいましたので」
「えぇ……あと数分もすれば来ると思いますが」
「先日、院内で嘔吐したことはご存知かと思いますが、そのあと受診していただけませんで。こちらとしましては胃カメラを呑んでいただきたいのですが、何か秘策はありませんか?」
にこやかに訊かれた。
「あ~……その顔を使うってのはどうでしょう?」
「この顔、ですか?」
「はい。スイハはたぶんその顔が好きだと思いますよ」
「そうですか。いいことを聞きました。では笑顔でゴリ押ししてみましょうか」
俺はなぜゆえスイハの陥落方法を教えているんだろうか……。
そんなことを考えていれば、廊下をヒタヒタと歩く足音が聞こえてきた。
その足音は、ナースセンターまであと少し、というところで止まる。
「傷つきますね。そんなに警戒なさらないでください」
俺からは、すでに後ろ姿しか見えないが、老いを感じさせないその端整な顔には笑みを浮かべていることだろう。対してスイハは、口元を引きつらせ上ずった声で返事をした。
「私のところへ来ないということは、戻してはいないようですが……」
あぁ、次に吐いたら受診しろとかそういう約束がしてあったのか……。なるほど。
あいつが戻した日から換算すれば、そのあとに生理が来たはず。だとしたら、戻していてもおかしくないわけだが、行かなかったということは戻してないのか、戻していても受診しなかったのか――
「あ、あの……最近はご飯を食べてもあまり胃が痛まないし、治ってきているのだと思いますっ」
必死すぎる訴えに、涼先生は実に穏やかな声音で答える。
「御園生さん、そういうことは安易に考えないほうがよろしいかと思いますよ」
言いながら少しずつ距離を詰めているところがまたなんとも……。
俺はこみ上げてくる笑いを噛み殺し、
「おい、スイハ……。それじゃ診れねーだろーが……」
「だって、戻してませんっ。だから消化器内科にはかからなくてもいいんですよね!?」
そんな会話をしながらでも涼先生は足を緩めることなく、スイハはじりじりと後退している始末だ。
くっ、笑えんな。弱肉強食、捕食者と捕獲者の縮図。
「診察ではなく挨拶ですよ」
は……?
ピタリと進撃の足を止めた涼先生を凝視してしまったのは俺だけじゃない。スイハも、
「挨拶……ですか?」
鳩が豆鉄砲くらったような顔をしている。だが、涼先生は動じることなく答えた。
「そうです。挨拶です」
「……挨拶に握手、ですか?」
「はい。挨拶に握手はおかしいですか?」
挨拶に握手と言われればさほどおかしいことでもないが、何分診察前の患者と医者だ。普通に考えればおかしいだろ……。
でも、スイハは言葉のトラップに引っかかり、握手と称する魔の手に捕まった。
これにて捕獲完了。
捕獲したあと、すぐに問診が始まる。
「冷たい手ですね」
「冷え性なんです……。でも、来る前にはお風呂であたたまってきたんですけど……」
「それはいい心がけですね。あたたまることで胃は楽になりましたか?」
「はい」
「そのあとに昼食を摂られたのでしょうか」
「はい」
「で、食べたあとには痛みがひどくなることはなかったのですね?」
「え? はい……どちらかというと、少し楽になったような気がします」
「……そうですか」
そこまで話してやっと気がついたのか、
「先生……手はまだこのままですか?」
ようやくつながれたままの手のことを訊く。と、
「えぇ。どうやら、私は御園生さんにとって大敵の医師になってしまったようですので、こうやって捕まえておかなければ問診もできませんからね」
きっと笑顔。全面にイケメンのそれを駆使した笑顔で対応しているに違いない。
スイハは、ポカンと開けた口からこんな言葉を紡いだ。
「涼先生は……ツカサのお父さんですよね」
「えぇ、間違いなく司は私の愚息ですが……?」
「……そっくりです」
その言葉に、俺は不覚にも吹き出した。
涼先生は夏にスイハが過ごした病室で診察を済ませ、帰り際にナースセンターへ立ち寄る。
「すみませんでした。相馬先生の診察前に割り込む形になってしまって。ですが、捕獲方法を伝授していただいたおかげで失敗に終わらず済みました」
「そりゃ何より。……で、どうでした?」
「良くはないですね……。触診と問診からすると、潰瘍があってもおかしくない状態です。が、相変わらず胃カメラに対しては渋い反応で」
「どうしても必要なら予約を入れてしまえばいいのでは? あとは親に電話して連れてこさせればいい話でしょう」
「確かに……。ですが、もう十七歳ですからね。自分の身体を守ること、自分の身体に責任を持つことを覚えてもいいころでしょう」
「なるほど……」
「と、申しましても見過ごせる状態ではありませんでしたので、年明けではありますが予約を入れさせて頂きました。では、私は職務に戻ります」
「お疲れ様です……」
涼先生と反対方向に向かって歩き、病室に入る。と、なんとも言えない顔をしたスイハがいた。
実に残念な表情だ。
「胃カメラくらい呑めばいいじゃねーか」
すると、キッ、と睨まれた。
今までこんな目で睨まれたことはなかったように思える。
珍しい反応を眺めていると、
「あれっ、つらいんですからっ。すっごくすっごくつらいんですからねっ!?」
「いや、俺だって呑んだことくらいあるさ。でも、呑んどいたほうがいいんじゃねぇか?」
「やです」
珍しく拒絶一辺倒じゃねぇか。……ま、これは俺の分野じゃねぇしな。
現実問題、予約さえ入れちまえばこいつは来ざるを得ないだろう。
半ば他人事で、俺は自分の診察を始めた。
相変わらずストレスの脈がひどく、胃や腎臓、肝臓の脈もめちゃくちゃだ。夜は寝ているようだが、睡眠の質が良くないのか、脈診ではいいと言えるものがひとつもない。
足に触れればどこもかしこも痛いときたもんだ。この部位は胃と深く関わりのある場所だが……。
相当ひどいんじゃねぇか?
首と腰の歪んだ骨を調整すると、いつものように仰向けに寝かせ、鍼を打ち始めた。
自律神経を整えるツボ。胃、ストレスに効くツボ。あとは肩周りのひどく緊張した筋肉を弛緩させる必要があるな。
表十分、裏十五分。そんな具合に鍼を刺し終わり、次の診察日を決める。
「来週の月曜、二十日は俺のほうの治療を入れておく。通常次は水曜だが、おまえ幸倉に戻るんだろ?」
「はい。今日の夜か明日には……」
「だとしたら、月曜に来て水曜に来て翌日木曜日がパレスへの移動日っつーのはキツイな。――水曜日はいい。木曜日にパレスで昇に治療してもらえ」
「え? でも――」
「そのくらい問題ねーよ。麻酔薬は余分に持たせておくから痛みが出たらすぐに施術してもらえ」
スイハの目は「申し訳ない」と語っていた。
夏から見てきたが、人に何かをしてもらうとき、スイハは申し訳なさが先に立つ。それが人の好意でも。
もらえるもんは「ありがと」ともらっておけばいいものを。本当に難儀な性格だ。
「あんなぁ……スイハはこれからも藤宮に関わっていくんだろ? だったらこれくらいやらせとけや。じゃねーと気苦労のもとが取れねーだろーが……」
「…………」
「黙んな……」
軽くデコピンをすると、スイハは両手で額を押さえた。
「関わると決めたのは私だもの。だから気苦労とかそういうのはないのに……」
軽く俯いた状態で言われる。
「今は、だ。この先、お前の立場を利用しようとする人間はごまんと出てくるし、それらの中に有する危険因子から身を護るために警護までつけられてんだろ?」
ありのままを話したつもりだった。それがスイハのスイッチに触れることとは知らず――
「そんなのどうでもいいっ。ただ、私が関わっていたいだけっ。離れたくないだけでっ……」
「……スイハ?」
ぎゅっと目を瞑ったそこには、すでに涙が滲んでいた。
「みんな、どうしてそいうこと言うんですかっ!? 藤宮とか利用とか護衛とかっ。そんなのっ、そんなのどうでもいいのにっ。私はただっっっ――」
気づいたら抱きしめていた。いっぱいいっぱいになってどうにもならなくなってる人間を。
俺、こんなキャラだったか? とどこか客観的に自分を見つつ。
背中に触れ、肩に触れ、はっとする。
俺、バカだ……。一瞬で自分の治療を水の泡にした気分。
せっかく緩めたばかりの筋肉がえらく硬直していた。
「悪ぃ……。ま、落ち着けや。ほれ、身体の力抜いて……」
ポンポンと優しく背中を叩いて筋肉の弛緩を促す。
ふと目に入ったスイハの手は、固く握りこぶしを作っていた。
これは俺が悪かったのか、スイハの地雷装置があちこちにありすぎるのか……。
まぁ、なんにせよ、踏んだのは俺か……。
身体を離し、固まった指をひとつひとつ剥がしていく。
こんな小さな手にこれだけの力が入るんだな、なんてどうでもいいことを考えながら。
「ほい、真っ直ぐ座れ」
スイハは背筋を伸ばし、行儀よく座った。
その状態で、鍼でツボをついていく。時間は置かない施術。
ピンポイントで鍼を刺しすぐに抜く。そうすることで上半身の筋肉を弛緩させた。
「おまえ、ストレス発散できてっか?」
「……ストレス、発散?」
「ストレスの脈がずっとマックスってーのはよくねぇよ。ちょっとしたことですぐ身体に余計な力が入るしな」
スイハはきょとんとした顔をしていた。まるで、「ストレスの発散ってなんですか?」と訊かれている気分。
そんなこともわかんねーのか、というのはひとまず置いておく。どうしてそう思えたかというのなら、さっきの涼先生の言葉が頭に残っていたから。
「十七ってどんな年だ?」と少し考えた。
人がストレス発散の方法を心得るのは、きっと義務教育を終えたあとくらい。……というのは、学校という場所では勉強のほかに運動も強制的にさせるからだ。
人間、動いて発散するという方法を一番に身につける。何かに打ち込むということを知って、初めてそれがストレス発散のひとつになり得ると知る。
けれどスイハの場合、運動というひとつをとってみれば、それは体調不良を引き起こす引き金になりこそすれ、ストレス発散にはなり得ない。
「スイハの趣味はなんだ?」
「……ピアノ、ハープ、石鹸作り、森林浴、お散歩、読書――」
割と多くのものを持っているようだった。しかし、散歩はともかく、森林浴って趣味なのか? いや、深いことは考えないようにしよう。
「それを最近やってるか? 最後にやったのはいつだ?」
「え……?」
「ピアノを最後に弾いたのはいつだ?」
スイハは視線を中に彷徨わせ固まった。
きっと、すぐに思い出せるほど最近には触れてないということ。
「そのくらい長く触れてないんじゃないか? 石鹸は?」
「高校に入学してからは一度も作っていません……」
「……森林浴は?」
「……先日、秋斗さんとツカサと一緒に――」
「それじゃストレス発散にはならねーな」
さすがにあのふたりが同行していたともなれば却下だ却下。
「散歩と読書は?」
「お散歩……って言えるくらいに歩いたのは、秋斗さんとツカサと紅葉を見たときだけで、読書は全然――」
「何もやれてなかったわけか……」
言うと、またスイハは俯いた。
「まぁな……藤宮ともなれば授業についてくのは半端ねーだろうし、夏休みは病院で治療漬けだったからな……。冬休みは少しくらい羽伸ばせや。頼めばシスコンブラザーズが遠出にも連れてってくれるだろ? 少し日常から離れろ」
今、こいつの日常には藤宮が大きく関わりすぎだ。そこから少し離れないことにはリフレッシュはできんな。
とりあえず、シスコンブラザーズにでも連絡入れておくか。
「スイハ。頭ん中、空っぽにすることも大切だ。覚えとけ」
言ったあと、スイハは眉根を寄せた。
きっと難しいんだろう。空っぽにすることが。
あんな、スイハ。頭を空っぽにするっていうのは、何もかもを手放すっていうのとは違うんだぜ?
持ち物全部置いて、両手が使える状態で外に出てみようぜ、ってそういう話だ。
帰ってきたら、置いていったものが少し違うように見えるかもしれないだろ。むしろ、置いていかれたものは帰ってくればきちんとそこで待ってるんだ。
今こんな説明をしたところで、半分も理解できないだろう。なら、第三者の人間がそういう状況を作るのが最短ルートだ……。
スイハを見送ると、上のシスコンに電話を入れた。
「おう、シスコン」
『やめてくださいよ、その呼び方』
「シスコンはシスコンだろ?」
『……診察、終わったんですか?』
「あぁ、今終わったところだ。そのうち連絡あるだろ」
『……なんで自分に電話なんでしょう? 何か、ありましたか?』
「何かってほどのことじゃない。ただ、あいつを外に連れ出してやれ」
『え?』
「スイハ、ストレス発散方法を知らないだろ? なんでも真面目にひとつひとつと向き合うのはあいつのいいところでもある。が、息抜きは大切だ。自分でコントロールできないなら、今は人の手を借りるほうがいい」
ストレスが胃にくるほどに事態は深刻……。
「もう冬休みだ。幸倉に帰るなら散歩にでも連れ出してやればいい。それだけのこった」
『……わかりました。ありがとうございます』
「じゃぁな」
そう言って音も立てずに現れたのは、この病院の重鎮といえる人間だった。
経営を見ながら患者の診察や手術もこなす切れ者、藤宮涼――
「かまいませんよ。ですが、どうしてここに?」
「今日は御園生さんがいらっしゃる日だとうかがいましたので」
「えぇ……あと数分もすれば来ると思いますが」
「先日、院内で嘔吐したことはご存知かと思いますが、そのあと受診していただけませんで。こちらとしましては胃カメラを呑んでいただきたいのですが、何か秘策はありませんか?」
にこやかに訊かれた。
「あ~……その顔を使うってのはどうでしょう?」
「この顔、ですか?」
「はい。スイハはたぶんその顔が好きだと思いますよ」
「そうですか。いいことを聞きました。では笑顔でゴリ押ししてみましょうか」
俺はなぜゆえスイハの陥落方法を教えているんだろうか……。
そんなことを考えていれば、廊下をヒタヒタと歩く足音が聞こえてきた。
その足音は、ナースセンターまであと少し、というところで止まる。
「傷つきますね。そんなに警戒なさらないでください」
俺からは、すでに後ろ姿しか見えないが、老いを感じさせないその端整な顔には笑みを浮かべていることだろう。対してスイハは、口元を引きつらせ上ずった声で返事をした。
「私のところへ来ないということは、戻してはいないようですが……」
あぁ、次に吐いたら受診しろとかそういう約束がしてあったのか……。なるほど。
あいつが戻した日から換算すれば、そのあとに生理が来たはず。だとしたら、戻していてもおかしくないわけだが、行かなかったということは戻してないのか、戻していても受診しなかったのか――
「あ、あの……最近はご飯を食べてもあまり胃が痛まないし、治ってきているのだと思いますっ」
必死すぎる訴えに、涼先生は実に穏やかな声音で答える。
「御園生さん、そういうことは安易に考えないほうがよろしいかと思いますよ」
言いながら少しずつ距離を詰めているところがまたなんとも……。
俺はこみ上げてくる笑いを噛み殺し、
「おい、スイハ……。それじゃ診れねーだろーが……」
「だって、戻してませんっ。だから消化器内科にはかからなくてもいいんですよね!?」
そんな会話をしながらでも涼先生は足を緩めることなく、スイハはじりじりと後退している始末だ。
くっ、笑えんな。弱肉強食、捕食者と捕獲者の縮図。
「診察ではなく挨拶ですよ」
は……?
ピタリと進撃の足を止めた涼先生を凝視してしまったのは俺だけじゃない。スイハも、
「挨拶……ですか?」
鳩が豆鉄砲くらったような顔をしている。だが、涼先生は動じることなく答えた。
「そうです。挨拶です」
「……挨拶に握手、ですか?」
「はい。挨拶に握手はおかしいですか?」
挨拶に握手と言われればさほどおかしいことでもないが、何分診察前の患者と医者だ。普通に考えればおかしいだろ……。
でも、スイハは言葉のトラップに引っかかり、握手と称する魔の手に捕まった。
これにて捕獲完了。
捕獲したあと、すぐに問診が始まる。
「冷たい手ですね」
「冷え性なんです……。でも、来る前にはお風呂であたたまってきたんですけど……」
「それはいい心がけですね。あたたまることで胃は楽になりましたか?」
「はい」
「そのあとに昼食を摂られたのでしょうか」
「はい」
「で、食べたあとには痛みがひどくなることはなかったのですね?」
「え? はい……どちらかというと、少し楽になったような気がします」
「……そうですか」
そこまで話してやっと気がついたのか、
「先生……手はまだこのままですか?」
ようやくつながれたままの手のことを訊く。と、
「えぇ。どうやら、私は御園生さんにとって大敵の医師になってしまったようですので、こうやって捕まえておかなければ問診もできませんからね」
きっと笑顔。全面にイケメンのそれを駆使した笑顔で対応しているに違いない。
スイハは、ポカンと開けた口からこんな言葉を紡いだ。
「涼先生は……ツカサのお父さんですよね」
「えぇ、間違いなく司は私の愚息ですが……?」
「……そっくりです」
その言葉に、俺は不覚にも吹き出した。
涼先生は夏にスイハが過ごした病室で診察を済ませ、帰り際にナースセンターへ立ち寄る。
「すみませんでした。相馬先生の診察前に割り込む形になってしまって。ですが、捕獲方法を伝授していただいたおかげで失敗に終わらず済みました」
「そりゃ何より。……で、どうでした?」
「良くはないですね……。触診と問診からすると、潰瘍があってもおかしくない状態です。が、相変わらず胃カメラに対しては渋い反応で」
「どうしても必要なら予約を入れてしまえばいいのでは? あとは親に電話して連れてこさせればいい話でしょう」
「確かに……。ですが、もう十七歳ですからね。自分の身体を守ること、自分の身体に責任を持つことを覚えてもいいころでしょう」
「なるほど……」
「と、申しましても見過ごせる状態ではありませんでしたので、年明けではありますが予約を入れさせて頂きました。では、私は職務に戻ります」
「お疲れ様です……」
涼先生と反対方向に向かって歩き、病室に入る。と、なんとも言えない顔をしたスイハがいた。
実に残念な表情だ。
「胃カメラくらい呑めばいいじゃねーか」
すると、キッ、と睨まれた。
今までこんな目で睨まれたことはなかったように思える。
珍しい反応を眺めていると、
「あれっ、つらいんですからっ。すっごくすっごくつらいんですからねっ!?」
「いや、俺だって呑んだことくらいあるさ。でも、呑んどいたほうがいいんじゃねぇか?」
「やです」
珍しく拒絶一辺倒じゃねぇか。……ま、これは俺の分野じゃねぇしな。
現実問題、予約さえ入れちまえばこいつは来ざるを得ないだろう。
半ば他人事で、俺は自分の診察を始めた。
相変わらずストレスの脈がひどく、胃や腎臓、肝臓の脈もめちゃくちゃだ。夜は寝ているようだが、睡眠の質が良くないのか、脈診ではいいと言えるものがひとつもない。
足に触れればどこもかしこも痛いときたもんだ。この部位は胃と深く関わりのある場所だが……。
相当ひどいんじゃねぇか?
首と腰の歪んだ骨を調整すると、いつものように仰向けに寝かせ、鍼を打ち始めた。
自律神経を整えるツボ。胃、ストレスに効くツボ。あとは肩周りのひどく緊張した筋肉を弛緩させる必要があるな。
表十分、裏十五分。そんな具合に鍼を刺し終わり、次の診察日を決める。
「来週の月曜、二十日は俺のほうの治療を入れておく。通常次は水曜だが、おまえ幸倉に戻るんだろ?」
「はい。今日の夜か明日には……」
「だとしたら、月曜に来て水曜に来て翌日木曜日がパレスへの移動日っつーのはキツイな。――水曜日はいい。木曜日にパレスで昇に治療してもらえ」
「え? でも――」
「そのくらい問題ねーよ。麻酔薬は余分に持たせておくから痛みが出たらすぐに施術してもらえ」
スイハの目は「申し訳ない」と語っていた。
夏から見てきたが、人に何かをしてもらうとき、スイハは申し訳なさが先に立つ。それが人の好意でも。
もらえるもんは「ありがと」ともらっておけばいいものを。本当に難儀な性格だ。
「あんなぁ……スイハはこれからも藤宮に関わっていくんだろ? だったらこれくらいやらせとけや。じゃねーと気苦労のもとが取れねーだろーが……」
「…………」
「黙んな……」
軽くデコピンをすると、スイハは両手で額を押さえた。
「関わると決めたのは私だもの。だから気苦労とかそういうのはないのに……」
軽く俯いた状態で言われる。
「今は、だ。この先、お前の立場を利用しようとする人間はごまんと出てくるし、それらの中に有する危険因子から身を護るために警護までつけられてんだろ?」
ありのままを話したつもりだった。それがスイハのスイッチに触れることとは知らず――
「そんなのどうでもいいっ。ただ、私が関わっていたいだけっ。離れたくないだけでっ……」
「……スイハ?」
ぎゅっと目を瞑ったそこには、すでに涙が滲んでいた。
「みんな、どうしてそいうこと言うんですかっ!? 藤宮とか利用とか護衛とかっ。そんなのっ、そんなのどうでもいいのにっ。私はただっっっ――」
気づいたら抱きしめていた。いっぱいいっぱいになってどうにもならなくなってる人間を。
俺、こんなキャラだったか? とどこか客観的に自分を見つつ。
背中に触れ、肩に触れ、はっとする。
俺、バカだ……。一瞬で自分の治療を水の泡にした気分。
せっかく緩めたばかりの筋肉がえらく硬直していた。
「悪ぃ……。ま、落ち着けや。ほれ、身体の力抜いて……」
ポンポンと優しく背中を叩いて筋肉の弛緩を促す。
ふと目に入ったスイハの手は、固く握りこぶしを作っていた。
これは俺が悪かったのか、スイハの地雷装置があちこちにありすぎるのか……。
まぁ、なんにせよ、踏んだのは俺か……。
身体を離し、固まった指をひとつひとつ剥がしていく。
こんな小さな手にこれだけの力が入るんだな、なんてどうでもいいことを考えながら。
「ほい、真っ直ぐ座れ」
スイハは背筋を伸ばし、行儀よく座った。
その状態で、鍼でツボをついていく。時間は置かない施術。
ピンポイントで鍼を刺しすぐに抜く。そうすることで上半身の筋肉を弛緩させた。
「おまえ、ストレス発散できてっか?」
「……ストレス、発散?」
「ストレスの脈がずっとマックスってーのはよくねぇよ。ちょっとしたことですぐ身体に余計な力が入るしな」
スイハはきょとんとした顔をしていた。まるで、「ストレスの発散ってなんですか?」と訊かれている気分。
そんなこともわかんねーのか、というのはひとまず置いておく。どうしてそう思えたかというのなら、さっきの涼先生の言葉が頭に残っていたから。
「十七ってどんな年だ?」と少し考えた。
人がストレス発散の方法を心得るのは、きっと義務教育を終えたあとくらい。……というのは、学校という場所では勉強のほかに運動も強制的にさせるからだ。
人間、動いて発散するという方法を一番に身につける。何かに打ち込むということを知って、初めてそれがストレス発散のひとつになり得ると知る。
けれどスイハの場合、運動というひとつをとってみれば、それは体調不良を引き起こす引き金になりこそすれ、ストレス発散にはなり得ない。
「スイハの趣味はなんだ?」
「……ピアノ、ハープ、石鹸作り、森林浴、お散歩、読書――」
割と多くのものを持っているようだった。しかし、散歩はともかく、森林浴って趣味なのか? いや、深いことは考えないようにしよう。
「それを最近やってるか? 最後にやったのはいつだ?」
「え……?」
「ピアノを最後に弾いたのはいつだ?」
スイハは視線を中に彷徨わせ固まった。
きっと、すぐに思い出せるほど最近には触れてないということ。
「そのくらい長く触れてないんじゃないか? 石鹸は?」
「高校に入学してからは一度も作っていません……」
「……森林浴は?」
「……先日、秋斗さんとツカサと一緒に――」
「それじゃストレス発散にはならねーな」
さすがにあのふたりが同行していたともなれば却下だ却下。
「散歩と読書は?」
「お散歩……って言えるくらいに歩いたのは、秋斗さんとツカサと紅葉を見たときだけで、読書は全然――」
「何もやれてなかったわけか……」
言うと、またスイハは俯いた。
「まぁな……藤宮ともなれば授業についてくのは半端ねーだろうし、夏休みは病院で治療漬けだったからな……。冬休みは少しくらい羽伸ばせや。頼めばシスコンブラザーズが遠出にも連れてってくれるだろ? 少し日常から離れろ」
今、こいつの日常には藤宮が大きく関わりすぎだ。そこから少し離れないことにはリフレッシュはできんな。
とりあえず、シスコンブラザーズにでも連絡入れておくか。
「スイハ。頭ん中、空っぽにすることも大切だ。覚えとけ」
言ったあと、スイハは眉根を寄せた。
きっと難しいんだろう。空っぽにすることが。
あんな、スイハ。頭を空っぽにするっていうのは、何もかもを手放すっていうのとは違うんだぜ?
持ち物全部置いて、両手が使える状態で外に出てみようぜ、ってそういう話だ。
帰ってきたら、置いていったものが少し違うように見えるかもしれないだろ。むしろ、置いていかれたものは帰ってくればきちんとそこで待ってるんだ。
今こんな説明をしたところで、半分も理解できないだろう。なら、第三者の人間がそういう状況を作るのが最短ルートだ……。
スイハを見送ると、上のシスコンに電話を入れた。
「おう、シスコン」
『やめてくださいよ、その呼び方』
「シスコンはシスコンだろ?」
『……診察、終わったんですか?』
「あぁ、今終わったところだ。そのうち連絡あるだろ」
『……なんで自分に電話なんでしょう? 何か、ありましたか?』
「何かってほどのことじゃない。ただ、あいつを外に連れ出してやれ」
『え?』
「スイハ、ストレス発散方法を知らないだろ? なんでも真面目にひとつひとつと向き合うのはあいつのいいところでもある。が、息抜きは大切だ。自分でコントロールできないなら、今は人の手を借りるほうがいい」
ストレスが胃にくるほどに事態は深刻……。
「もう冬休みだ。幸倉に帰るなら散歩にでも連れ出してやればいい。それだけのこった」
『……わかりました。ありがとうございます』
「じゃぁな」
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