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最終章 恋のあとさき
49話
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「リィ、起きられる?」
「ん……。今、何時?」
「六時半」
「蒼兄たちは?」
「晩餐会」
「そっか……」
横になる前のことを思い出す。
ドレスを脱いだあと、夕飯はレストランではなくゲストルームで摂る旨を伝えてから休んだのだ。
「……あれ? どうして唯兄がいるの?」
声の調子からすると、酔いは覚めているのだろう。
目を開けると、暗がりの中に唯兄がいた。
部屋の明かりは一階の間接照明のみで、ロフトは暗い。
サイドテーブルに置いてあるランプに手を伸ばそうとすると、
「ちょっとたんま」
「唯兄?」
「リィ、ごめん」
「え?」
「俺、リィに謝らなくちゃいけないことがある」
「な、に……?」
こんなふうに改まられると変に緊張して身構えてしまう。
「俺……途中から知ってた。会長が朗元であることも、リィと面識あることも」
その言葉に力が抜ける。
「もう、やだ……。唯兄、驚かせないで? 今日はいったいどれだけ驚かなくちゃいけない日なのかハラハラしちゃった」
本当に力が抜けて、起こしかけた身体を再度ベッドに横たえる。
横になったまま唯兄を見ると、「本当にごめんなさい」という顔をしているから少し困った。
「唯兄、朗元さんが会長であることを知っていた人はほかにもいたよね?」
「いたけど……」
実際には誰が知っていたのかな……。
考えてみたら、このときまで人数を数える余裕もなかった。
「お母さんが知ってたってことはお父さんも知ってたよね。蒼兄は私と同じ、知らなかった人。海斗くんと栞さんもびっくりしてたから知らなかった人でしょう? でも、秋斗さんとツカサ、涼先生、湊先生、静さんあたりは知っていたと思う」
指折り数えると、
「もう動揺してないの?」
「ううん、してる。してるけど……お昼よりは落ち着いていると思う。時間が経ったからかな? 少しだけ余裕ができたみたい」
「怒る?」
「どうして?」
「なんとなく……」
暗い場所で小さな声で話す。まるで誰にも聞かれないよう内緒話をするみたいに。
話の内容とは裏腹に、肌に触れる空気がこそばゆい気がして、その空気に笑みが漏れた。
「怒らないよ。披露宴のとき、涼先生としていた会話は聞いていたでしょう?」
「聞いてたけどさ……」
「例外はなし。誰のことも怒っていないし、怒れない。だって怒る理由がないもの。……第一、疑問を抱かなかったのも、深く追求しなかったのも私なの」
少し考えれば気づくこと。でも、知ってすぐは衝撃や色んな感情の波が押し寄せてきて見えなくなっていただけ。
初めて朗元さんと会ったのは五月末。そのあとの私の体調を考えれば言うタイミングなどなかっただろう。
夏には記憶をなくした。二度目に会ったのは記憶が戻って混乱している最中。
いったいどのタイミングで言えたというのか……。
秋斗さんもツカサも朗元さんも、きっとタイミングを逃してしまっただけ。その原因は私にある。
「唯兄はいつ知ったの?」
「……終業式の日。秋斗さんから聞いたんだ。白野でリィと会った人が朗元で、藤宮の会長だって……」
タイミングって大事だよね。何もきっかけがなければそんな話をすることはできないだろう。
誰も他意があって黙っていたわけじゃない。悪意なんてどこにもなかった。
「不思議だね。知ったときは衝撃が大きすぎて受け入れられないと思った。でも、少し時間が経っただけなのに、今は普通に受け入れられる」
「本当に大丈夫?」
「うん。大丈夫」
今度こそ、本当に大丈夫だよ、と伝えたくて身体を起こした。
「大丈夫。だから、そんな顔しないでね」
唯兄の頬を人差し指が沈むくらいにつついて、お餅みたいなほっぺだな、と思ったら自然と笑みが漏れた。
朗元さんと話さなくちゃ――
朗元さんと会長は同一人物だけど、まだ私の中ではひとつにはなりきっていないから……。だからふたりと話をしなくてはいけない。
大丈夫……。
いつかはわからないし、どんな形でかもわからない。でも、朗元さんはきっと私と話す時間を取ってくれる。
そんな、根拠のない確信が私にはあった。
私たちがロフトから下りると、部屋のチャイムが鳴った。
唯兄が出ると、
「お食事のご用意にまいりました」
御崎さんがカートと共に立っていた。
「……ここのパレスはメニューを選ぶ権利ってものはないんですかね?」
唯兄が尋ねると、
「翠葉お嬢様のお好みは事前にうかがっておりますので、ご期待には沿えるかと存じます」
「ちょっ、俺の好みはっ!?」
「大変申し訳ございません。会長ならびにオーナー、オーナー夫人より、すべてにおいて翠葉お嬢様を優先するように申し付かっております」
「……知ってたけど、オーナーも湊さんも相変わらず俺への対応がひどすぎる件。リィ、どう思う?」
「どう思う?」と訊かれても返しようがない。
「まぁね、どうせ俺は藤宮警備の一社員ですよぉっだ」
冗談ぽく拗ねて見せた唯兄は、そのまま御崎さんを室内に招き入れた。
「総支配人が給仕に来ちゃうあたりがリィのビップ待遇を感じずにはいられないよね」
テーブルから少し離れた場所で居心地の悪さを感じていると、
「別にリィが縮こまることないよ。少し縮こまったほうがいいのはオーナーと湊さんだってば」
言いながら、唯兄に手を引かれてテーブルに着いた。
「お言葉ですが、オーナーと湊様は唯芹様のこともよくご存知だと思います」
御崎さんの言葉の途中で、唯兄は電気が走ったみたいに身を震わせた。
「やっ、やめてよっ! 唯芹様とか気色悪いっ。誰のことかと思ったじゃんっ」
気持ちはわからなくもない……。でも、
「それ、唯兄の正式名称……だよね?」
「私もそのようにうかがっております」
「いやいやいやいや、それが正しいとか正しくないとかじゃなくて、慣れてないって話っ」
「それを言うなら、私だってお嬢様なんて言われ慣れて――」
「る、でしょ? マンションのコンシェルジュとホテルの人間にはそう呼ばれてるんだから」
「……唯兄よりも多少免疫がある程度、です……」
微妙な言い合いに御崎さんがクスリと笑った。
「オーナー夫妻からうかがったとおりですね」
「は?」
「え?」
「大変仲のよろしいご兄妹だとうかがっております。翠葉お嬢様の喜ぶ顔をご覧になれば幸せを感じられるようなご関係だと」
御崎さんは口を閉じたけれど、何も言わない私たちを見て、再度口を開いた。
「ですから、翠葉お嬢様のお口に合うものをご用意すれば、必然と唯芹様も笑顔になられるとのことでした」
御崎さんが言い終わる前に唯兄は両手で顔を覆い、蹲るようにしてラグに転がった。
「ゆっ、唯兄っ!?」
慌てて近くに駆け寄る。と、小さな呻き声が聞こえてきた。そして、ブツブツと文句を発する。
「もうやだ……。あの人たち本当にやだ。一度地獄に落ちればいいと思う。……いっつもいっつもいっつもいっつもっ、なんでこうピンポイントでついてくんだよ」
最後の言葉は声が少し掠れていた。
「大丈夫?」と声をかけようとしたとき、御崎さんから奇妙な申し出をされて振り返る。
「お嬢様。大変申し訳ないのですが、テーブルセッティングのお手伝いをお願いできますでしょうか?」
お手伝い……?
通常、ホテルのスタッフがこんなことを言うことはない。それに、テーブルの上にはすでにカトラリーなどが行儀よく定位置についている。
どういう、こと……?
御崎さんの顔を見ると、「こちらへ」と声は出さずに唇のみを動かされた。
「……はい」
きっと、「今はそっとしておきましょう」という御崎さんの気遣い。
いつも思う。恐縮してしまうことも多々あるけれど、ウィステリアホテルやパレスで働くスタッフは心のこもった対応をしてくれると。
お礼を言いたかったけれど、口にしたら御崎さんの気遣いが台無しになってしまう。
ふと目についたのは料理にかぶせてあったシルバーの蓋。料理の蒸気で曇ったそこに、私は指を走らせた。「ありがとうございます」と一言伝えたくて。
御崎さんはそれに気づくと、にこりと微笑んでから蓋をカートへ下げた。
唯兄とふたりで夕飯を食べる時間はゆったりと流れた。
食べ物を口に運ぶ、咀嚼して飲み込む。食べ物の食感や温度、唯兄との会話。それ以外には力も神経も使わなかったと思う。
御崎さんがずっとついていたけれど、レストランで食べたときのように、必要以上に給仕を意識することはなかった。
久しぶりに人の目や周りを気にせずにご飯を食べることができた気がする。
実際は、パレスに来て二日目の夜なのだから、「久しぶりに」という表現は適切ではないかもしれない。
でも、本当に、久しぶりに身体中の力を抜いてご飯を食べられた気がした。
「ん……。今、何時?」
「六時半」
「蒼兄たちは?」
「晩餐会」
「そっか……」
横になる前のことを思い出す。
ドレスを脱いだあと、夕飯はレストランではなくゲストルームで摂る旨を伝えてから休んだのだ。
「……あれ? どうして唯兄がいるの?」
声の調子からすると、酔いは覚めているのだろう。
目を開けると、暗がりの中に唯兄がいた。
部屋の明かりは一階の間接照明のみで、ロフトは暗い。
サイドテーブルに置いてあるランプに手を伸ばそうとすると、
「ちょっとたんま」
「唯兄?」
「リィ、ごめん」
「え?」
「俺、リィに謝らなくちゃいけないことがある」
「な、に……?」
こんなふうに改まられると変に緊張して身構えてしまう。
「俺……途中から知ってた。会長が朗元であることも、リィと面識あることも」
その言葉に力が抜ける。
「もう、やだ……。唯兄、驚かせないで? 今日はいったいどれだけ驚かなくちゃいけない日なのかハラハラしちゃった」
本当に力が抜けて、起こしかけた身体を再度ベッドに横たえる。
横になったまま唯兄を見ると、「本当にごめんなさい」という顔をしているから少し困った。
「唯兄、朗元さんが会長であることを知っていた人はほかにもいたよね?」
「いたけど……」
実際には誰が知っていたのかな……。
考えてみたら、このときまで人数を数える余裕もなかった。
「お母さんが知ってたってことはお父さんも知ってたよね。蒼兄は私と同じ、知らなかった人。海斗くんと栞さんもびっくりしてたから知らなかった人でしょう? でも、秋斗さんとツカサ、涼先生、湊先生、静さんあたりは知っていたと思う」
指折り数えると、
「もう動揺してないの?」
「ううん、してる。してるけど……お昼よりは落ち着いていると思う。時間が経ったからかな? 少しだけ余裕ができたみたい」
「怒る?」
「どうして?」
「なんとなく……」
暗い場所で小さな声で話す。まるで誰にも聞かれないよう内緒話をするみたいに。
話の内容とは裏腹に、肌に触れる空気がこそばゆい気がして、その空気に笑みが漏れた。
「怒らないよ。披露宴のとき、涼先生としていた会話は聞いていたでしょう?」
「聞いてたけどさ……」
「例外はなし。誰のことも怒っていないし、怒れない。だって怒る理由がないもの。……第一、疑問を抱かなかったのも、深く追求しなかったのも私なの」
少し考えれば気づくこと。でも、知ってすぐは衝撃や色んな感情の波が押し寄せてきて見えなくなっていただけ。
初めて朗元さんと会ったのは五月末。そのあとの私の体調を考えれば言うタイミングなどなかっただろう。
夏には記憶をなくした。二度目に会ったのは記憶が戻って混乱している最中。
いったいどのタイミングで言えたというのか……。
秋斗さんもツカサも朗元さんも、きっとタイミングを逃してしまっただけ。その原因は私にある。
「唯兄はいつ知ったの?」
「……終業式の日。秋斗さんから聞いたんだ。白野でリィと会った人が朗元で、藤宮の会長だって……」
タイミングって大事だよね。何もきっかけがなければそんな話をすることはできないだろう。
誰も他意があって黙っていたわけじゃない。悪意なんてどこにもなかった。
「不思議だね。知ったときは衝撃が大きすぎて受け入れられないと思った。でも、少し時間が経っただけなのに、今は普通に受け入れられる」
「本当に大丈夫?」
「うん。大丈夫」
今度こそ、本当に大丈夫だよ、と伝えたくて身体を起こした。
「大丈夫。だから、そんな顔しないでね」
唯兄の頬を人差し指が沈むくらいにつついて、お餅みたいなほっぺだな、と思ったら自然と笑みが漏れた。
朗元さんと話さなくちゃ――
朗元さんと会長は同一人物だけど、まだ私の中ではひとつにはなりきっていないから……。だからふたりと話をしなくてはいけない。
大丈夫……。
いつかはわからないし、どんな形でかもわからない。でも、朗元さんはきっと私と話す時間を取ってくれる。
そんな、根拠のない確信が私にはあった。
私たちがロフトから下りると、部屋のチャイムが鳴った。
唯兄が出ると、
「お食事のご用意にまいりました」
御崎さんがカートと共に立っていた。
「……ここのパレスはメニューを選ぶ権利ってものはないんですかね?」
唯兄が尋ねると、
「翠葉お嬢様のお好みは事前にうかがっておりますので、ご期待には沿えるかと存じます」
「ちょっ、俺の好みはっ!?」
「大変申し訳ございません。会長ならびにオーナー、オーナー夫人より、すべてにおいて翠葉お嬢様を優先するように申し付かっております」
「……知ってたけど、オーナーも湊さんも相変わらず俺への対応がひどすぎる件。リィ、どう思う?」
「どう思う?」と訊かれても返しようがない。
「まぁね、どうせ俺は藤宮警備の一社員ですよぉっだ」
冗談ぽく拗ねて見せた唯兄は、そのまま御崎さんを室内に招き入れた。
「総支配人が給仕に来ちゃうあたりがリィのビップ待遇を感じずにはいられないよね」
テーブルから少し離れた場所で居心地の悪さを感じていると、
「別にリィが縮こまることないよ。少し縮こまったほうがいいのはオーナーと湊さんだってば」
言いながら、唯兄に手を引かれてテーブルに着いた。
「お言葉ですが、オーナーと湊様は唯芹様のこともよくご存知だと思います」
御崎さんの言葉の途中で、唯兄は電気が走ったみたいに身を震わせた。
「やっ、やめてよっ! 唯芹様とか気色悪いっ。誰のことかと思ったじゃんっ」
気持ちはわからなくもない……。でも、
「それ、唯兄の正式名称……だよね?」
「私もそのようにうかがっております」
「いやいやいやいや、それが正しいとか正しくないとかじゃなくて、慣れてないって話っ」
「それを言うなら、私だってお嬢様なんて言われ慣れて――」
「る、でしょ? マンションのコンシェルジュとホテルの人間にはそう呼ばれてるんだから」
「……唯兄よりも多少免疫がある程度、です……」
微妙な言い合いに御崎さんがクスリと笑った。
「オーナー夫妻からうかがったとおりですね」
「は?」
「え?」
「大変仲のよろしいご兄妹だとうかがっております。翠葉お嬢様の喜ぶ顔をご覧になれば幸せを感じられるようなご関係だと」
御崎さんは口を閉じたけれど、何も言わない私たちを見て、再度口を開いた。
「ですから、翠葉お嬢様のお口に合うものをご用意すれば、必然と唯芹様も笑顔になられるとのことでした」
御崎さんが言い終わる前に唯兄は両手で顔を覆い、蹲るようにしてラグに転がった。
「ゆっ、唯兄っ!?」
慌てて近くに駆け寄る。と、小さな呻き声が聞こえてきた。そして、ブツブツと文句を発する。
「もうやだ……。あの人たち本当にやだ。一度地獄に落ちればいいと思う。……いっつもいっつもいっつもいっつもっ、なんでこうピンポイントでついてくんだよ」
最後の言葉は声が少し掠れていた。
「大丈夫?」と声をかけようとしたとき、御崎さんから奇妙な申し出をされて振り返る。
「お嬢様。大変申し訳ないのですが、テーブルセッティングのお手伝いをお願いできますでしょうか?」
お手伝い……?
通常、ホテルのスタッフがこんなことを言うことはない。それに、テーブルの上にはすでにカトラリーなどが行儀よく定位置についている。
どういう、こと……?
御崎さんの顔を見ると、「こちらへ」と声は出さずに唇のみを動かされた。
「……はい」
きっと、「今はそっとしておきましょう」という御崎さんの気遣い。
いつも思う。恐縮してしまうことも多々あるけれど、ウィステリアホテルやパレスで働くスタッフは心のこもった対応をしてくれると。
お礼を言いたかったけれど、口にしたら御崎さんの気遣いが台無しになってしまう。
ふと目についたのは料理にかぶせてあったシルバーの蓋。料理の蒸気で曇ったそこに、私は指を走らせた。「ありがとうございます」と一言伝えたくて。
御崎さんはそれに気づくと、にこりと微笑んでから蓋をカートへ下げた。
唯兄とふたりで夕飯を食べる時間はゆったりと流れた。
食べ物を口に運ぶ、咀嚼して飲み込む。食べ物の食感や温度、唯兄との会話。それ以外には力も神経も使わなかったと思う。
御崎さんがずっとついていたけれど、レストランで食べたときのように、必要以上に給仕を意識することはなかった。
久しぶりに人の目や周りを気にせずにご飯を食べることができた気がする。
実際は、パレスに来て二日目の夜なのだから、「久しぶりに」という表現は適切ではないかもしれない。
でも、本当に、久しぶりに身体中の力を抜いてご飯を食べられた気がした。
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