光のもとで1

葉野りるは

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最終章 恋のあとさき

33話

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 翌朝、目が覚めたのは四時半過ぎ。胃がキリキリと痛みだして目が覚めたのだ。
 外も暗ければ部屋も暗い。おまけに凍えそうなくらいに寒かった。
 二度寝してやり過ごしたいと思うのに寝つけない。
 冬の朝、寒くてお布団から出たくないな、と思うまどろみの時間も好きだけど、今日は時間がもったいない気もしていた。
 思い切って身体を起こしフリースのガウンを羽織ると、部屋の照明とヒーターの電源を入れた。
 簡易キッチンでお茶を淹れる準備をしながら耳を澄ませる。
 ドアの向こう、リビングではまったく音がしない。まだ誰も起きていないのだろう。
「だって四時半だものね……」
 レモングラスとミント、カモミール、ローズペタルをブレンドしたお茶を淹れ、ヒーターの前でゆっくりとすする。
「美味しい……」
 大好きな香りを楽しんでいるのに胃がキリキリと痛みを訴える。
「……何か食べたら楽になるのかな」
 部屋を抜け出てキッチンへ向うと、そこは冷蔵庫の中かと思うほどに寒かった。
 冷たすぎるタイルが足裏に触れて、失敗したと思った。部屋を出るならガウンだけではなく靴下も履いてくるべきだった。さらには、マンションから室内ブーツを持ち帰ることを忘れたことに気づく。
 気を取り直して冷蔵庫を開けると、昨日買ってこられたであろうプリンとヨーグルト、ゼリーがあった。
 あまりにも寒くて一度冷蔵庫を閉じたものの、足裏が限界を告げたため、その場で足踏みを始める。
 頭に三つのカップを浮かべながら、何を食べるべきかと逡巡する。
 どれが食べたいかと言われたらみかん入りのゼリーだけど、冷たい固形物を胃に入れるのはどうなんだろう……。
 少し考え、ほかのふたつと比べてみる。
 ヨーグルトは乳製品だけれど酸があるから却下。
 ふと思い立ち、再度冷蔵庫を開ける。
 三つの成分表を見ると一番カロリーの高いものはプリンで、内容的にも胃にも優しそうだったからプリンに決めた。
 スプーンとプリンを持って自室に戻り、またしてもヒーターの前に座る。
 部屋は大分暖まったけれどもまだ十七度しかない。
 プリンを食べ、二杯目のハーブティーが飲み終わるころには胃の痛みが軽減していた。
 ガウンを脱ぎ洋服に着替えると、コンコンコン、とノック音が響く。
「はい……?」
 返事をするとドアが開き、蒼兄が顔を覗かせた。
「起きてたのか?」
「昨日、寝たのが早かったからかな? 四時半に目が覚めちゃったの」
 反射的に、胃が痛くて起きたことは伏せてしまう。
「蒼兄はこれからランニング?」
「そう」
「あ……今日はロード? それとも公園……?」
 蒼兄はその日の気分で街中を走ったり、幸倉運動公園内のジョギングコースを走っている。
「今日は公園に行こうかと思ってるけど……?」
「それ……ついて行ってもいい?」
「翠葉……わかってると思うけど、間違いなく寒いぞ?」
「うん。そう思う……」
 ほんの少し頬を引きつらせながら窓から外を見る。
 外気との温度差で曇った窓の外はまだ暗い。それでも――
「朝陽が……見たいの」
「朝陽なら俺がランニングから帰ってくる六時でも間に合う」
「…………」
「翠葉?」
「時間を……無駄に過ごしたくないの。冬の寒さを感じたい。霜の降りた土を見たり、草についた露を見たり、外の空気を吸いたい」
「昨日も訊いたけど……何かあったか?」
「……ごめん、上手に話せない――」
 蒼兄を正視できなくて視線を床へ落とす。
 すると、肩に重力を感じた。それは蒼兄の手。
 少し押されて蒼兄が部屋に入ると、片手でドアを閉めた。
「上手になんて話さなくていいよ。聞く時間がないわけじゃないし」
 私はゆっくりと息を吐き出す。
「あの、ね……泣きたくないの。自分が弱いせいで……泣きたく、ないの」
「……今日はランニング休むよ」
「それもやなのっ」
「翠葉?」
「自分のせいで人の予定や何かを狂わせるのも嫌……。あと、ここに留まったままなのも嫌」
 蒼兄は諦めたように息を吐き出した。
「じゃ、あと二十分したら出てきて。ちゃんとあったかい格好してジョギングコースから大体育館に行く道の分岐地点。そこで待ち合わせ」
「でも、そしたらいつもより走る時間短くなっちゃう……」
「大丈夫。いつもよりハイペースで走るから」
「え?」
「本気で走れば十キロ三十分台で走れる。あと二十分後に翠葉が家を出ればちょうどいい。そしたら翠葉にクールダウン付き合ってもらえる」
「……あり、がと」
「その代わり、翠葉はちゃんと防寒対策してこいよ?」
「うん。お腹と背中にカイロ張って、タイツにレッグウォーマーと肘までの手袋とダウンコート着る」
 そこまで言うと、
「残念。ふたつ漏れてる」
 ドアの外から声がした。
 すぐにドアが開き、
「マフラーとイヤーマフがついたら完璧」
 唯兄が面白くなさそうな顔をして立っていた。
 驚きに声を失う。
 それは蒼兄も同じだった。
「俺だけ除け者とかやめてよね。……寂しいじゃん」
 除け者にしたつもりはない。でも、唯兄がそう感じたのならそういう状況だったのかもしれない。
 そんなつもりはなかった、と答えていいのか悪いのか……。
 自分の言動で相手を不快にさせたり傷つけたり――私はわかっているつもりでまるでわかっていなかったから。
 咄嗟に否定することもできず、考えてみたところでこれといった言葉も浮かばない。
 どんな言葉を返したらいいものか……。
「別に除け者にしたつもりはないよ。ただ、俺が起きてきたら翠葉が起きてたからさ。その流れで話しててこうなってるだけ」
 蒼兄が説明すると唯兄はあっさり納得し、防寒対策の念を押すとふたり揃って部屋を出ていった。
「言葉って……難しい」
 もしかしたらそれ以前の問題で、人と話すこと、人と接することを難しいと感じてしまっている気がしなくもない。
「家族なのに……」

 私は防寒対策一式をクローゼットから取り出しベッドに並べた。
 カイロを貼り終えると、コーヒーとスティックシュガーを持った唯兄が入ってきた。
 さっきはパジャマ代わりのスウェット姿だったけど、今はちゃんと洋服に着替えている。
「こんな寒い中、よくランニングとか行く気になるよね? リィもだよ。なんでこんな時間に散歩かなぁ……あー、さむっ」
 唯兄はヒーター近くに腰を下ろし、スティックシュガーの端の部分を一気に千切って四本同時にカップへ投入する。
 唯兄が甘党なのはわかっているのでそこをとやかく言うつもりはない。けれど、服装が気になって仕方ない。
 今の格好は家の中ならともかく、外へ行くには極めて薄着だ。
「唯兄……その格好で外に出るの?」
 深みあるグリーンのコーデュロイパンツに、綿素材らしき黒のタートル。その上に焦げ茶のザックリとした半袖ニットを着ている。アンティックゴールドの三日月型トップは茶色の皮紐に通されていた。
 小物使いも色の組み合わせも好きだな、と思う。けれど、この上にコートを着るだけでは心もとない。
 どうしても寒そうに見えるのだ。
「リビングにダウンジャケットとストール、帽子が置いてある。あと手袋もね」
 それを聞いても、大丈夫かな、と思ってしまう。
 細身の人を見ると寒そうに見えるのは、刷り込みや単なる錯覚なのだろうか。
 じっと唯兄を見ていると、
「リィ、できれば俺にもカイロを恵んでください」
 言われてすぐに貼るカイロを渡した。
「ポケットに入れる用の貼らないカイロはないの?」
 言われてそれも引き出しから取り出す。と、
「ブッブー。二個じゃ足んない。四つが正解です」
「え?」
「リィのポケットにも入れるから」
 言われて四つ取り出し、内ふたつは私のダウンコートのポケットに入れられた。
 手袋をはめながら唯兄の隣に座る。
「蒼兄のランニングは習慣なんだよ。走らないと一日のリズムが狂うみたい」
「じゃ、雨の日は大変だ」
「んー……前は雨の日でも走りに行ってたよ? 今でこそ毎回ではないけれど、それでも時々行ってる」
「ますますもって理解に苦しむ……」
「唯兄は一日の始まりに必ずすることってある?」
「んーーー……ベッドの上で伸び? そのほか必ずっていうと……コレ」
 カップを指差し、「カフェインと糖分摂取」と答えた。
「じゃぁ、それ。蒼兄にとってのカフェインと糖分がランニングなの」
「ふーん。……俺は天と地がひっくり返ってもコレの代替案がランニングになることはないけど、あんちゃんがって言うなら納得。で、リィは?」
「私?」
 唯兄はずずっとコーヒーをすすりながら頷く。
 私が起きてからすることと言ったら――
「基礎体温を計る、かなぁ……?」
 しっくりこないままに答えると、
「それは体調管理に必要なことであって、リィがやりたくてやってるわけじゃないでしょ? それ以外にはないの?」
 それ以外……。
 言われて目に映るものを口にした。それは窓の外――
「空……」
「ん?」
「ずっとね……朝起きたら空を見るのが日課だったの」
 朝起きたら一番に窓の外を見て、その日の天気を確認する。
 空が青いのか水色なのか白っぽいのか。雲があるのかないのか。風は吹いているか、蕾だった花は咲いているか。
 寒い冬や暑い夏は窓に触れて外気温を感じる。それが、この家にいたときの日課だった。
「だった、か……。マンションのあの部屋じゃできないもんね」
「…………」
 私が使わせてもらっている部屋の窓は通りに面していることから曇りガラスになっている。
 外の景色を見ることはできないし、もし見えたとしても、風の強さを知る指針になるようなものはなく、草花が目に入るわけでもない。
 ただ、明るいか暗いかがわかるだけ。
「メリットデメリットってなんにでもあるよね。通学が楽になっても毎日の日課ができないとか」
「でも……身体を起こしてリビングまで行けば空は見ることができたよ」
「けど、ここから見える風景と九階の窓から見える風景は全然別物でしょ?」
 少しびっくりした。
 私は「空を見る」としか話していないのに、風景が違うと指摘されるとは思ってはいなくて。
 何よりも、空を見る日課なんて通学の負担が軽くなったことに比べたらとても些細なことだと思っていた。
「うっし、二十分経ったから行こうっ!」
 唯兄が元気よく立ち上がる。
 完全武装で自室を出ると、温度差のせいかさっきよりもリビングの空気が冷たく思えた。
 けれど、それ以上に冷たかったのは外の空気。
 外に出た唯兄はブルブルッと震える。
 普段から、唯兄は動物にたとえるなら猫だなとは思っていたけれど、こういった仕草を見ると余計にそう思う。
 さらには、平均台を歩くみたいに歩道の縁石を歩くからますますもって猫っぽい。
 縁石と言っても車道からは二十センチほどの高さがあるだけで、歩道とは同じ高さであり、ただただ歩道の端を歩いているにすぎないのだけど……。
 そこからぴょん、と弾みをつけて私の隣へジャンプした。私の右手を取ると、
「幸倉に帰ってきたから日課が再開できるね」
 唯兄はにっこりと笑って前を向いた。
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