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最終章 恋のあとさき
11話
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玄関のドアを開けると、
「おかえり。いらっしゃい」
蒼兄と唯兄が出迎えてくれた。
「佐野くん、久しぶり」
蒼兄が声をかけると佐野くんは相変わらず照れてもじもじしてしまう。そして、そんな佐野くんをからかうのは唯兄。
「俺に対する態度とはえらい違いだねぇ?」
唯兄は紅葉祭前からちょこちょこと図書棟に出入りしていたこともあり、佐野くんとも顔見知りになっていた。……というよりは、いつもの仲良しメンバーと生徒会のメンバー全員と言葉を交わしてきたというのだから驚いた。
そんなわけで、佐野くんの知らない人ばかりがいるわけではない。ただし、それは私自身への言い訳であって、誰にでも使える言い訳ではない。
「私、ルームウェアに着替えてくるね」
ひとり自室に入りドアを閉める。
「やっぱり訊けなかった」
「誰がいるの?」の一言。
簡単な一言なのに、声に出せない。そして、知ったところでどうすることもできないのだ。
気分が重いからか、ルームウェアに着替える動作ひとつとっても緩慢だ。
洗面所へ行ってもいつもよりも時間をかけて手洗いうがいをする始末。
リビングへ続くドアに手をかけるまで、いったい何分要しただろう。
「翠葉ちゃん、おかえりなさい」
「おかえり、遅かったわね?」
栞さんとお母さんが、キッチンから交互に顔を覗かせた。
「うん。補講が終わったのが五時半だったの。帰りに佐野くんと会って、マンションまで送っていただいたからお夕飯に誘ってしまったのだけど……」
ふたりの顔色をうかがうと、
「問題ないわよ」
すぐに栞さんが答えてくれた。
私はリビングへは行かずにキッチンへ入り、キッチンの中から、まるでうかがい見るようにリビングにいる面々を確認した。
「みんな揃ってるわよ」
突如かけられた言葉に、肩が震えるほどに驚いた。
「秋斗くんも司くんも、静も湊先生も楓先生も。海斗くんも昇先生もね」
「お母さん……」
「それぞれに思うところはあるでしょう。でも――どう?」
お母さんに、リビングにいる人を見るように促される。
「みんな普通にしてるでしょう?」
見たところ、話の主導権を握っている人はとくにいない。
海斗くんは佐野くんの登場に驚きつつも、「テスト勉強どう?」と訊きながら体当たりでじゃれつく。そこに混ざった唯兄は、
「わかんないとこがあったら教えるよー? ただし、理系オンリーね」
蒼兄はその様子を近くで見て笑っていた。
ツカサはいつものように本を読んでいて、秋斗さんはタブレットをいじっている。ふたりとも、湊先生や昇さんに話しかけられれば受け答えはするし話も続く。
いつもと何も変わらない。
大きく変わることがあるとすれば、私がこの会食に加わってから初めて、昇さんが参加している。そして、いつもは誰かしら欠けている集まりだけれど、今日は最初から全員が揃っていた。
ほかは何も変わらない。変わらなすぎて少し怖い。
「彼らが普通にしているのなら、翠葉も普通にしなくちゃ。……郷に入っては郷に従え、よ」
……普通、に――
何が普通だっただろう。私の接し方は何が、どれが普通だっただろう。
何も見えなくなりそうだった。自分というものが、何も――
「翠葉ちゃん」
声をかけられ、ビクッとする。
私はキッチンの片隅に座り込んでいた。
正確には、キッチンとリビングの間にある、カウンターの中に。
顔を上げると、カウンターから楓先生が身を乗り出していた。そして、
「おいで」
言いながらカウンター内に回ってくる。
「夕飯の準備整ったから、おいで」
怯えている動物に差し伸べるように手を向けられた。
私に目線を合わせると、楓先生は「ごめんね」と謝る。
「うちのゴタゴタに巻き込んでばかりで」
違うっ、そうじゃないっ。それがつらわけじゃないっ。
私はただ――ただ、自分の気持ちをどうにもできなくて逃げているだけで……。
誰かに謝られるのは絶対に違う。
――なら、どうしなくちゃいけない?
どうしなくちゃいけないの、翠葉……。
「ごめんなさい、違うんです。今日、性教育の補講があって、少し頭がいっぱいになっているだけです。期末考査の勉強もしなくちゃいけないし……」
咄嗟に出てきたのはそんな言い訳。
……言い訳と自分でわかっている時点でだめ。嘘つき。
なのに、楓先生はふわりと笑った。
「ありがとうね」
その笑顔に湊先生や秋斗さん、海斗くんが口にした「ありがとう」 が重なる。重なって泣きそうになって、次に聞こえてきた声に涙が引っ込んだ。
「食べるのに時間がかかるのはかまわない。でも、この場にいるのに席に着かないのはどうなの? みんな暇じゃないんだけど」
紛れもなくツカサの声。
さっき楓先生がしていたのとは違う。身を乗り出すなんてことはしていなくて、カウンターに右手をかけ、静かに上から見下ろされていた。
「ごめん、すぐ席に着く」
衝動で立ち上がろうとしてはっとする。
一気に立ち上がっちゃだめ――
「昨日よりはまし? ……いい加減、完璧に会得しててもいいんじゃないか、ってくらい注意されてると思うけど」
ツカサはなんでもないことのように昨日の出来事を口にした。
久先輩のマンションであったことをなんでもないことのように、当たり前のように、普通に……。
目を見開く私に向って、
「俺に関しては気にしなくていいから。……気にするならほかのことにして」
ツカサは言うだけ言って、カウンターを離れた。
「ごめんね……。あんな言い方しかできない愚弟で」
楓先生が謝る。
だから、誰かに謝られるのは違くて――じゃぁ、どうしてこんなことになっているのか、と問うなら自分が悪いわけで……。
「すみません。私が席に着かないのが悪いんです」
今度こそいつもの定位置――ツカサの右側、ラグの上に移動した。
席に着くのが遅れたことを謝ると、何事もなかったように会食が始まった。
会食は普通に進む。誰が難しい顔をするわけでもなく、普通に普通に――
私にはそれが奇妙に思えてならなかった。
時には笑いだって起こる。佐野くんと海斗くんが中心となって。
心から笑っている人もいただろう。でも、そうでない人もいたと思う。
本物の笑顔と見せかけの笑顔。表面を取り繕うような話はない。話す言葉に嘘は含まれない。でも――
隣のツカサは笑わずに黙々とご飯を食べ、話しかけられたときにだけ、面倒くさそうに答える。
秋斗さんは隣に座る海斗くんに、「少し黙ったら?」などと言いながら箸を進める。
いつもと変わらない光景なのに心がザラザラする。どうしようもなく、心がザラザラする。
聞こえてくる会話がどこか別の次元で話されているような、くぐもった音に変わった。
鮮明ではなくなる。音がポワンと聞こえる。
口にした食べ物の味がわからない。何を食べたのか、目に映っているはずなのに、きちんと脳に伝わらない。
自分が呼吸をしているのか――ふとしたらそんなことまでわからなくなりそうだった。
何も変わらないのに、みんな普通に振舞っているのに。それはもしかしたら藤宮の流儀なのかもしれなくて、でも、本当は私を気遣ってのことなのかもしれなくて。
今の私は、酸欠で水面近くを彷徨っている金魚みたいだ。
水の中にいるから外の音がくぐもって聞こえるに違いない。
どうしても、みんなと同じ空間にいるという実感がわかなかった。
どうしたら、みんなと同じ空間にいると思えるのかがわからなかった。
――目を開ける。と、切迫した顔で私を覗き込む顔があった。
湊先生と昇さん、それから楓先生。
左手が痛い。
視線を手に向けると、湊先生が脈の場所をぐっと掴んでいた。
同じように首の側面にも人の手が添えられていて、腕をたどると栞さんの顔にたどり着く。
何が起きているのか……。
「気づいたなら返事しなさいっ」
先生の大声にはっとする。
「は、い……」
今まで誰かに何かを言われていただろうか……。
目を開けたときに映った顔を思い出す。
昇さんも湊先生も口を開けていた。それはつまり、何か声を発していたのだろう。
そんな認識。
状況がわからずに数回瞬きを繰り返すと、
「脈が跳んだだけだから大丈夫よ」
湊先生の言葉に、「あぁ」と思う。
きっと、不整脈で一時的に意識がなくなったのだ。
急に立ったわけでも血圧が下がったわけでもない。ただ、脈が跳んだだけ。
時々こうやって意識がなくなることがある。
紫先生にかかり始めたころにとても多かった症状だけど、最近はあまりなくて……。だから、少しびっくりした。
でも、びっくりしたのは私だけじゃない。むしろ、周りにいる人のほうが驚いただことだろう。
「ごめんなさい……」
自然と口から出た言葉。
「謝る必要なし。こんなの防ぎようがないでしょ。起きられる?」
湊先生に訊かれて、ゆっくりと身体を起こす。
私はラグの上に横になっていた。ピアノの方へ向って背中から倒れたらしい。
「痛いところ、ない?」
楓先生に訊かれて身体の節々を触ってみたけれど、とくに痛む場所はなかった。
「大丈夫です」
「なら良かった」
声が……人の声がはっきりと聞こえた。
静かだから、とか。自分だけに向けられている言葉だから、とか。そういうことではなく、同じ空間にいることを認識できた感じ。
酸素が吸えた。す、と息を吸い込むと、きちんと肺の奥まで酸素が満ちる。
「どうかした?」
栞さんの言葉につい――
「酸素が足りなくて……」
答えてから「しまった」と思う。
だけど、そんなときにいつでも助け舟を出してくれる人がいた。
「確かにっ! 今日は人数多いからね。少し寒い思いして換気でもする?」
唯兄が持ち前のフットワークで窓際へ移動した。
冷たい空気が外から入り込み、その場の空気を攫っていく。そのとき――海斗くんと並んでこっちを見ている佐野くんと目が合った。
目は見開き、唇をきゅっと噛みしめていた。それがどんな感情を意味する表情なのか、私には読み取ることができない。
それでも、「ごめん」と思った。
佐野くんを連れてきたのは私なのに、私はその場にまったく参加していなくて。
「助けて」と言ったのに、佐野くんが助けられるフィールドに私はいなかった。
きっと、佐野くんは私を責めたりしないだろう。だから、代わりに私が自分を責める。
そうする必要があった。
会食はいつものように二時間から二時間半でお開きになる。
佐野くんは海斗くんの家――というよりは秋斗さんの家に泊まることになったみたい。
「どうする?」
海斗くんに投げられた言葉に即座に反応できなかった。
「ねぇっ、湊ちゃん、本当に大丈夫なのっ?」
海斗くんが湊先生に訊くと、
「大丈夫なはずよ」
湊先生がこちらを向き、私自身に答えを求められる。
「海斗くん、ごめん。なんだっけ? 少しぼーっとしていたの。体調は大丈夫だから」
すると、佐野くんが言葉を引き継いだ。
「いつもテスト前って夕飯のあとはここで勉強してるんだって? それ、やるかやらないかなんだけど」
「あ……うん。大丈夫。ごめん、やろう。テスト勉強」
「無理に付き合わなくていいけど?」
ツカサの少し鋭い声が背に響く。
私はゆっくりと振り返り、
「無理、してないから」
教材を取りに行くと伝え、私は自室に向って歩き出した。
誰かの視線が背中に張り付いてる気がしたけれど、その確認はしない。……しないのではなく、できないだけ。
自室に入って心行くまで息を吐き出す。
「翠葉」
二酸化炭素を吐き切る前に声をかけられて心臓が止まるかと思った。
胸を押さえて振り返ると、
「何よ……」
湊先生が眉根を寄せて立っていた。
「い、いえ……」
先生は部屋のドアを閉めると、
「補講、どうだった?」
話の内容にほっとする。
「この授業を受けられて良かったです。知らないでいるよりもずっといい」
そう答えると、先生の表情も少し和らぐ。
「心と身体の答えは出そう?」
それはまだ……。
「まだなのね。……でも、どちらも大切なものだから、どっちかを選ぶんじゃなくて両方選びなさい。両方大切にしなさい」
湊先生は「どちらか」を選ぶことを迫らない。欲しいものすべてに手を伸ばしなさい、とそう言う人。
それができたらどんなにいいか――
湊先生はできないことは言わないと思う。だから、できないのは私の技量の問題。
本当は両方を手にする方法があるのかもしれない。でも、私にはその方法がわからない。
そしてその方法は、人に教えてもらうようなものではないのだろう。
自分が――自分で見つけなくちゃいけないのだと思う。
「熱も出てないし、たまに脈が跳ぶ程度。……だけど、できるだけ夜更かしはしないように。いいわね?」
「はい」
「それと、予定どおり周期を変えるんでしょう?」
部屋に置いてあるビニールのピルケースを見て言われた。そのピルケースは低容量ピルのケース。
本当なら明日から始まるはずの生理。けれど、そうするとどうしても期末考査に差し掛かって勉強の妨げになる。だから、薬を飲み続けて期間をずらすことになっていた。
「次の周期の分」
先生に薬を渡され、
「ありがとうございます」
「効果は?」
「まだよくわからないです」
「そうね、まだ飲み始めて二ヶ月だし。とりあえず続けてみよう」
「はい」
「おかえり。いらっしゃい」
蒼兄と唯兄が出迎えてくれた。
「佐野くん、久しぶり」
蒼兄が声をかけると佐野くんは相変わらず照れてもじもじしてしまう。そして、そんな佐野くんをからかうのは唯兄。
「俺に対する態度とはえらい違いだねぇ?」
唯兄は紅葉祭前からちょこちょこと図書棟に出入りしていたこともあり、佐野くんとも顔見知りになっていた。……というよりは、いつもの仲良しメンバーと生徒会のメンバー全員と言葉を交わしてきたというのだから驚いた。
そんなわけで、佐野くんの知らない人ばかりがいるわけではない。ただし、それは私自身への言い訳であって、誰にでも使える言い訳ではない。
「私、ルームウェアに着替えてくるね」
ひとり自室に入りドアを閉める。
「やっぱり訊けなかった」
「誰がいるの?」の一言。
簡単な一言なのに、声に出せない。そして、知ったところでどうすることもできないのだ。
気分が重いからか、ルームウェアに着替える動作ひとつとっても緩慢だ。
洗面所へ行ってもいつもよりも時間をかけて手洗いうがいをする始末。
リビングへ続くドアに手をかけるまで、いったい何分要しただろう。
「翠葉ちゃん、おかえりなさい」
「おかえり、遅かったわね?」
栞さんとお母さんが、キッチンから交互に顔を覗かせた。
「うん。補講が終わったのが五時半だったの。帰りに佐野くんと会って、マンションまで送っていただいたからお夕飯に誘ってしまったのだけど……」
ふたりの顔色をうかがうと、
「問題ないわよ」
すぐに栞さんが答えてくれた。
私はリビングへは行かずにキッチンへ入り、キッチンの中から、まるでうかがい見るようにリビングにいる面々を確認した。
「みんな揃ってるわよ」
突如かけられた言葉に、肩が震えるほどに驚いた。
「秋斗くんも司くんも、静も湊先生も楓先生も。海斗くんも昇先生もね」
「お母さん……」
「それぞれに思うところはあるでしょう。でも――どう?」
お母さんに、リビングにいる人を見るように促される。
「みんな普通にしてるでしょう?」
見たところ、話の主導権を握っている人はとくにいない。
海斗くんは佐野くんの登場に驚きつつも、「テスト勉強どう?」と訊きながら体当たりでじゃれつく。そこに混ざった唯兄は、
「わかんないとこがあったら教えるよー? ただし、理系オンリーね」
蒼兄はその様子を近くで見て笑っていた。
ツカサはいつものように本を読んでいて、秋斗さんはタブレットをいじっている。ふたりとも、湊先生や昇さんに話しかけられれば受け答えはするし話も続く。
いつもと何も変わらない。
大きく変わることがあるとすれば、私がこの会食に加わってから初めて、昇さんが参加している。そして、いつもは誰かしら欠けている集まりだけれど、今日は最初から全員が揃っていた。
ほかは何も変わらない。変わらなすぎて少し怖い。
「彼らが普通にしているのなら、翠葉も普通にしなくちゃ。……郷に入っては郷に従え、よ」
……普通、に――
何が普通だっただろう。私の接し方は何が、どれが普通だっただろう。
何も見えなくなりそうだった。自分というものが、何も――
「翠葉ちゃん」
声をかけられ、ビクッとする。
私はキッチンの片隅に座り込んでいた。
正確には、キッチンとリビングの間にある、カウンターの中に。
顔を上げると、カウンターから楓先生が身を乗り出していた。そして、
「おいで」
言いながらカウンター内に回ってくる。
「夕飯の準備整ったから、おいで」
怯えている動物に差し伸べるように手を向けられた。
私に目線を合わせると、楓先生は「ごめんね」と謝る。
「うちのゴタゴタに巻き込んでばかりで」
違うっ、そうじゃないっ。それがつらわけじゃないっ。
私はただ――ただ、自分の気持ちをどうにもできなくて逃げているだけで……。
誰かに謝られるのは絶対に違う。
――なら、どうしなくちゃいけない?
どうしなくちゃいけないの、翠葉……。
「ごめんなさい、違うんです。今日、性教育の補講があって、少し頭がいっぱいになっているだけです。期末考査の勉強もしなくちゃいけないし……」
咄嗟に出てきたのはそんな言い訳。
……言い訳と自分でわかっている時点でだめ。嘘つき。
なのに、楓先生はふわりと笑った。
「ありがとうね」
その笑顔に湊先生や秋斗さん、海斗くんが口にした「ありがとう」 が重なる。重なって泣きそうになって、次に聞こえてきた声に涙が引っ込んだ。
「食べるのに時間がかかるのはかまわない。でも、この場にいるのに席に着かないのはどうなの? みんな暇じゃないんだけど」
紛れもなくツカサの声。
さっき楓先生がしていたのとは違う。身を乗り出すなんてことはしていなくて、カウンターに右手をかけ、静かに上から見下ろされていた。
「ごめん、すぐ席に着く」
衝動で立ち上がろうとしてはっとする。
一気に立ち上がっちゃだめ――
「昨日よりはまし? ……いい加減、完璧に会得しててもいいんじゃないか、ってくらい注意されてると思うけど」
ツカサはなんでもないことのように昨日の出来事を口にした。
久先輩のマンションであったことをなんでもないことのように、当たり前のように、普通に……。
目を見開く私に向って、
「俺に関しては気にしなくていいから。……気にするならほかのことにして」
ツカサは言うだけ言って、カウンターを離れた。
「ごめんね……。あんな言い方しかできない愚弟で」
楓先生が謝る。
だから、誰かに謝られるのは違くて――じゃぁ、どうしてこんなことになっているのか、と問うなら自分が悪いわけで……。
「すみません。私が席に着かないのが悪いんです」
今度こそいつもの定位置――ツカサの右側、ラグの上に移動した。
席に着くのが遅れたことを謝ると、何事もなかったように会食が始まった。
会食は普通に進む。誰が難しい顔をするわけでもなく、普通に普通に――
私にはそれが奇妙に思えてならなかった。
時には笑いだって起こる。佐野くんと海斗くんが中心となって。
心から笑っている人もいただろう。でも、そうでない人もいたと思う。
本物の笑顔と見せかけの笑顔。表面を取り繕うような話はない。話す言葉に嘘は含まれない。でも――
隣のツカサは笑わずに黙々とご飯を食べ、話しかけられたときにだけ、面倒くさそうに答える。
秋斗さんは隣に座る海斗くんに、「少し黙ったら?」などと言いながら箸を進める。
いつもと変わらない光景なのに心がザラザラする。どうしようもなく、心がザラザラする。
聞こえてくる会話がどこか別の次元で話されているような、くぐもった音に変わった。
鮮明ではなくなる。音がポワンと聞こえる。
口にした食べ物の味がわからない。何を食べたのか、目に映っているはずなのに、きちんと脳に伝わらない。
自分が呼吸をしているのか――ふとしたらそんなことまでわからなくなりそうだった。
何も変わらないのに、みんな普通に振舞っているのに。それはもしかしたら藤宮の流儀なのかもしれなくて、でも、本当は私を気遣ってのことなのかもしれなくて。
今の私は、酸欠で水面近くを彷徨っている金魚みたいだ。
水の中にいるから外の音がくぐもって聞こえるに違いない。
どうしても、みんなと同じ空間にいるという実感がわかなかった。
どうしたら、みんなと同じ空間にいると思えるのかがわからなかった。
――目を開ける。と、切迫した顔で私を覗き込む顔があった。
湊先生と昇さん、それから楓先生。
左手が痛い。
視線を手に向けると、湊先生が脈の場所をぐっと掴んでいた。
同じように首の側面にも人の手が添えられていて、腕をたどると栞さんの顔にたどり着く。
何が起きているのか……。
「気づいたなら返事しなさいっ」
先生の大声にはっとする。
「は、い……」
今まで誰かに何かを言われていただろうか……。
目を開けたときに映った顔を思い出す。
昇さんも湊先生も口を開けていた。それはつまり、何か声を発していたのだろう。
そんな認識。
状況がわからずに数回瞬きを繰り返すと、
「脈が跳んだだけだから大丈夫よ」
湊先生の言葉に、「あぁ」と思う。
きっと、不整脈で一時的に意識がなくなったのだ。
急に立ったわけでも血圧が下がったわけでもない。ただ、脈が跳んだだけ。
時々こうやって意識がなくなることがある。
紫先生にかかり始めたころにとても多かった症状だけど、最近はあまりなくて……。だから、少しびっくりした。
でも、びっくりしたのは私だけじゃない。むしろ、周りにいる人のほうが驚いただことだろう。
「ごめんなさい……」
自然と口から出た言葉。
「謝る必要なし。こんなの防ぎようがないでしょ。起きられる?」
湊先生に訊かれて、ゆっくりと身体を起こす。
私はラグの上に横になっていた。ピアノの方へ向って背中から倒れたらしい。
「痛いところ、ない?」
楓先生に訊かれて身体の節々を触ってみたけれど、とくに痛む場所はなかった。
「大丈夫です」
「なら良かった」
声が……人の声がはっきりと聞こえた。
静かだから、とか。自分だけに向けられている言葉だから、とか。そういうことではなく、同じ空間にいることを認識できた感じ。
酸素が吸えた。す、と息を吸い込むと、きちんと肺の奥まで酸素が満ちる。
「どうかした?」
栞さんの言葉につい――
「酸素が足りなくて……」
答えてから「しまった」と思う。
だけど、そんなときにいつでも助け舟を出してくれる人がいた。
「確かにっ! 今日は人数多いからね。少し寒い思いして換気でもする?」
唯兄が持ち前のフットワークで窓際へ移動した。
冷たい空気が外から入り込み、その場の空気を攫っていく。そのとき――海斗くんと並んでこっちを見ている佐野くんと目が合った。
目は見開き、唇をきゅっと噛みしめていた。それがどんな感情を意味する表情なのか、私には読み取ることができない。
それでも、「ごめん」と思った。
佐野くんを連れてきたのは私なのに、私はその場にまったく参加していなくて。
「助けて」と言ったのに、佐野くんが助けられるフィールドに私はいなかった。
きっと、佐野くんは私を責めたりしないだろう。だから、代わりに私が自分を責める。
そうする必要があった。
会食はいつものように二時間から二時間半でお開きになる。
佐野くんは海斗くんの家――というよりは秋斗さんの家に泊まることになったみたい。
「どうする?」
海斗くんに投げられた言葉に即座に反応できなかった。
「ねぇっ、湊ちゃん、本当に大丈夫なのっ?」
海斗くんが湊先生に訊くと、
「大丈夫なはずよ」
湊先生がこちらを向き、私自身に答えを求められる。
「海斗くん、ごめん。なんだっけ? 少しぼーっとしていたの。体調は大丈夫だから」
すると、佐野くんが言葉を引き継いだ。
「いつもテスト前って夕飯のあとはここで勉強してるんだって? それ、やるかやらないかなんだけど」
「あ……うん。大丈夫。ごめん、やろう。テスト勉強」
「無理に付き合わなくていいけど?」
ツカサの少し鋭い声が背に響く。
私はゆっくりと振り返り、
「無理、してないから」
教材を取りに行くと伝え、私は自室に向って歩き出した。
誰かの視線が背中に張り付いてる気がしたけれど、その確認はしない。……しないのではなく、できないだけ。
自室に入って心行くまで息を吐き出す。
「翠葉」
二酸化炭素を吐き切る前に声をかけられて心臓が止まるかと思った。
胸を押さえて振り返ると、
「何よ……」
湊先生が眉根を寄せて立っていた。
「い、いえ……」
先生は部屋のドアを閉めると、
「補講、どうだった?」
話の内容にほっとする。
「この授業を受けられて良かったです。知らないでいるよりもずっといい」
そう答えると、先生の表情も少し和らぐ。
「心と身体の答えは出そう?」
それはまだ……。
「まだなのね。……でも、どちらも大切なものだから、どっちかを選ぶんじゃなくて両方選びなさい。両方大切にしなさい」
湊先生は「どちらか」を選ぶことを迫らない。欲しいものすべてに手を伸ばしなさい、とそう言う人。
それができたらどんなにいいか――
湊先生はできないことは言わないと思う。だから、できないのは私の技量の問題。
本当は両方を手にする方法があるのかもしれない。でも、私にはその方法がわからない。
そしてその方法は、人に教えてもらうようなものではないのだろう。
自分が――自分で見つけなくちゃいけないのだと思う。
「熱も出てないし、たまに脈が跳ぶ程度。……だけど、できるだけ夜更かしはしないように。いいわね?」
「はい」
「それと、予定どおり周期を変えるんでしょう?」
部屋に置いてあるビニールのピルケースを見て言われた。そのピルケースは低容量ピルのケース。
本当なら明日から始まるはずの生理。けれど、そうするとどうしても期末考査に差し掛かって勉強の妨げになる。だから、薬を飲み続けて期間をずらすことになっていた。
「次の周期の分」
先生に薬を渡され、
「ありがとうございます」
「効果は?」
「まだよくわからないです」
「そうね、まだ飲み始めて二ヶ月だし。とりあえず続けてみよう」
「はい」
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クラスでバカにされてるオタクなぼくが、気づいたら不良たちから崇拝されててガクブル
諏訪錦
青春
アルファポリスから書籍版が発売中です。皆様よろしくお願いいたします!
6月中旬予定で、『クラスでバカにされてるオタクなぼくが、気づいたら不良たちから崇拝されててガクブル』のタイトルで文庫化いたします。よろしくお願いいたします!
間久辺比佐志(まくべひさし)。自他共に認めるオタク。ひょんなことから不良たちに目をつけられた主人公は、オタクが高じて身に付いた絵のスキルを用いて、グラフィティライターとして不良界に関わりを持つようになる。
グラフィティとは、街中にスプレーインクなどで描かれた落書きのことを指し、不良文化の一つとしての認識が強いグラフィティに最初は戸惑いながらも、主人公はその魅力にとりつかれていく。
グラフィティを通じてアンダーグラウンドな世界に身を投じることになる主人公は、やがて夜の街の代名詞とまで言われる存在になっていく。主人公の身に、果たしてこの先なにが待ち構えているのだろうか。
書籍化に伴い設定をいくつか変更しております。
一例 チーム『スペクター』
↓
チーム『マサムネ』
※イラスト頂きました。夕凪様より。
http://15452.mitemin.net/i192768/
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
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