光のもとで1

葉野りるは

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最終章 恋のあとさき

04話

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 玉紀先生は私の話を聞くにしたがいこめかみのあたりを引くつかせていた。
「ごめん、もういいわ。どんな教育を受けてきたのかは十分にわかったから」
 先生にハンカチを握らされ、自分が泣いてることに気づく。
「ごめんね。つらい話だったわね」
 先生は席を立つと、私の真後ろに立って座ったままの私をぎゅっと抱きしめてくれた。
「あのね、ある一定以上の歳の教師はあまりちゃんとした性教育を受けてきていないの。セックスすることは悪いこと。そんな風潮……というよりは、大人が子供に隠してきた時代に育っているからそれを教えることに背徳感があるというか……。自分が教えられてこなかったものを人に教えるのはとても難しいことなのよ。……ま、だからと言って教職者がそれじゃ困るんだけど」
 先生からふわりと甘い香りがした。すぐに香水だとわかったけれど、ラストノートの優しい香りで気持ちごと包まれた気分になる。
「最近の子は発育がいいから初経を迎える時期も徐々に早まってきているわ。それに伴って性教育もきちんとしないといけないのに実状はまだまだってところね。国語や算数、道徳のような教科は文部科学省が示す学習指導要領で決まっているの。でも、教科に含まれない性教育は学校によりけり。充実した性教育を設けている学校もあれば、翠葉ちゃんの母校みたいな学校もある」
 そこまで話すと先生は私から離れる。
「よしっ! 飲もうっ! もう一気飲みできるくらいの温度でしょ?」
 先生はハーブティーの入ったカップを指差して言う。
 できるかできないか、というならできるだろう。でも……。
「一気に飲んで、今の話忘れちゃおう。で、新しく淹れなおしてうちの学校自慢の性教育をしてあげる」
 私は先生の勢いに呑まれて一緒にハーブティーを飲み干した。

 新しく淹れたハーブティーを前に、先生が話し始める。
「藤宮はね、入学書類のひとつに少し変わった書類があるの。その書類にサインしないと子どもを入学させられないのよ。それが性教育に関するもの。ひどく過激であったり、過剰な教育をするわけじゃない。でも、どんなことをどの時点で教えるのか。そういうことは保護者も理解しておくべきことだし了承していただかなくちゃいけないから」
 初等部や中等部での性教育の授業は保護者が望めば公開授業になるという。
「藤宮の性教育は幼稚部から始まると言っても過言じゃないわ。身体を汚したら綺麗にすること。ハンカチやティッシュ、爪。運動靴に上履き、体操服にいたるまで、このころから身だしなみや清潔といったものを意識させるの。かといって、小さいころから『清潔』を厳しくしつけすぎると泥に触れられない、トイレ掃除ができない、そういう潔癖症の子になってしまうこともあるから、汚れたらきれいにする、くらいの指導ね。きっとどこの幼稚園でも外から戻ったら石鹸で手を洗う、ということを実践していると思うけど、それは衛生面だけのことではなく、すでに性教育の一貫でもあるのよ」
 初めて耳にする話に私は真剣に聞き入っていた。

 藤宮の初等部では低学年のうちに、性器名称のすべてと男女の身体の違いを習うらしい。それ自体はさして珍しいことではないかもしれないけれど、とても珍しいものがひとつ……。
 紙袋を使って一週間という長期模擬実習をするのだ。何の実習かというと、赤ちゃんをずっと見ていなくちゃいけない、という実習。つまり、紙袋を赤ちゃんを見立てた模擬実習。
「どうして、ですか?」
「どうしてだと思う?」
 紙袋を赤ちゃんだと思ったとして……。
 軽すぎないかな? あ、でも、小学生三年生までだし……落としても壊れないものであるため? それとも、ずっと持っていても疲れないため?
「なんでもいいわ。言ってみて?」
 私が思っていることを口にすると、
「それは持たせる側が考えることであって、持たされる側が考えるべきことじゃないわね」
 と笑われた。
「本当はね、持たせるものは何でもいいのよ。ただ、バッグやポケットに入るものじゃ意味がないわね。大切なのは、ある程度の大きさがあって、形はあるけど力を加えると形が変わってしまうものであること。それをずっと見ていること。ずっと持っていること」
 ずっと見ていること。持っていること……?
「体育の授業やトイレのとき。それから、家でお風呂に入ってるときは除外されるのだけど、それ以外は登校するときもご飯食べるときも寝るときも一緒」
「……なんだか、大変そうです」
「そう。それを知ってもらうための実習なの」
「え……?」
「翠葉ちゃんは今……十七歳ね。十七歳でも大変そうだと思ったでしょう? それを遊び盛りの初等部一年生から三年生にやらせるのは至難の技よ?」
 先生はいたずらっぽく笑いながら話す。
「サッカーがやりたくても鬼ごっこやりたくても、必ず持ってなくちゃいけないんだから。お稽古ごとや塾のときでもね?」
「……みんな、ちゃんと守るんですか?」
「低学年のうちはみんな素直よ。言われたことは基本的に守ろうとする。だからこそ、この時期にやらせるっていうのもあるんだけど……。悪知恵が働くようになってからじゃ少し難しい実習だわね。先生の言うことを素直に聞いてくれるうちが勝負どころです。ま、この実習に関しては保護者の協力も必要なんだけどね」
 この実習は初等部一年生から三年生まで、三年間続けて行われるらしい。
 それと同時並行で「命の大切さ」についても学ぶ。むしろ、命の重みを知らずしてこの実習は意味を成さないという。
「想像してみて? 紙袋を赤ちゃんとして扱うのに、赤ちゃんが命あるものだと思わなかったらどんな扱いになると思う?」
 赤ちゃんだと思って――とはいえ、見た目は単なる紙袋なのだ。その辺に放置していても大丈夫、と思ったりするのかもしれない。
 私の考えはとても安直だった。
「恐ろしいほど粗雑な扱いよ? 足でポンポンリフティングしながら持っていたり、時には友達と投げっこするアイテムになっていたり……。一年生にはね、そこから教えるの」
 初等部ではたくさんの動物が飼育されているらしく、その中でもハムスターがメインだという。
 餌をあげたり寝床をきれいにしてあげる以外に、時として温度管理なども必要になるそうで、それらを各学年共同作業で飼育しているのだとか……。
「翠葉ちゃんはハムスターを飼ったことある?」
「いえ……。ほかの動物も飼ったことはないです」
「そうなのね。今度初等部見に行ってみるといいわ。かわいいわよ?」
 にこりと笑ってお茶を飲み、先生は話を続ける。
「ハムスターは生後ニヶ月から繁殖できるようになるの。寿命は長くて二年。生まれてすぐに死んじゃう子もいる。見た目のかわいさだけではなく、生まれたときの喜びや死んでしまったときの悲しみ。そういうことを動物から学ぶの。そして、紙袋を放置してる子を見かけたら、すかさずハムスターの話をするのよ」
 ここがポイント、と言われた。
「この子たちでリフティングする? ボールみたいに投げる? ハムスターを例にあげて問いかければたいていの子が態度を改めるわ。女の子は投げたり蹴ったりはしないけど机の上に放置する子が多くてね、その子たちにも言うの。ハムスターを放置してたらどうなる? って」
 どうなるんだろう……。
「脱走……?」
 私の言葉に先生はクスクスと笑った。
「脱走ならまだいいわね。落下したら骨折したり、打ち所が悪ければ即死よ」
「……落ちるんですか?」
「落ちるわね……」
 私は性教育を受けに来たはずなのに、どうしてかハムスターの行動にびっくりしていた。
「多くの小学校で動物を飼育しているのには『命』を学ぶため、という意味合いがあるの。この学園は『なんとなく』で終りにしないのがモットー。どうして育てているのか、そこから何を学ばなくちゃいけないのか。こちらが伝えたいことをきちんと児童や生徒にわかるように誘導するのが教師の役目。言葉にして提示するのは簡単だわ。でも、ひとりひとりが感じて気づくということもとても大切なことだから、まずはしっかりとものごとと向き合う状況を整える。ハムスターが生まれたとき、死んだとき、何かあったときには必ず感想文を書かせて発表の場を作るのよ。その時々でどんなふうに感じたか、自分だけではなく周りの友達が何を思ったかをみんなで話し合うの。この紙袋実習のときも同様にね」
 飼育を通して嬉しかったことや悲しかったこと。何が大変だったのかをみんなで共有するのだという。そうして、自分が感じたもの以上のことを見たり聞いたりしながら学ぶらしい。
「紙袋実習は、だいたいの子が『大変だった』って感想を述べるわけだけど、鋭い子はもうちょっと突っ込んだ感想を書いてくるわ。実際にこの紙袋がハムスターみたいな生き物だとしたら、ご飯をあげなくちゃいけないしうんちを片付けてあげなくちゃいけない。具合が悪かったら温めてあげなくちゃいけない。それらをしなかったのに、ものすごく大変だった、って。――あぁ、ちょうどここに今年の初等部一年生の感想文があるわ」
 先生はノートパソコンを私の方に向けてくれた。
 そこには、原稿用紙をスキャンしたものが表示されていた。
 まだ文字を書き慣れていないような筆跡。たどたどしい字だけど力強い文字で感想が綴られていた。
「ね? いくつかのものごとを組み合わせてあげるだけで、低学年の子でもきちんと学習内容の意図を汲み取った感想を書くのよ」
 先生は満足そうに微笑む。
 一年生のときにわからなくても、三年生になるころには学年全体で足並みが揃ってくるという。
「性教育って性行為のことばかり取り上げられるけど、本当は『人』や『命』を学ぶことなの。身体の変化に伴って心も変化していく。その勉強。恥ずかしいことでもなんでもないわ。翠葉ちゃん、最初から学びなおしましょう」
 先生は私の体調を気にかけつつ授業を続けた。
 この日、午後という時間をフルに使って、私は人の身体の発育や、心の変化について学んだ。
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