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第十四章 三叉路
44話
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「怖い顔……」
言われて気づく。目の前の人を睨んでいることに。
「このストラップをあなたに渡したのは秋斗様? それとも、司様? そういえば……あなた、藤宮の次期会長ともお知り合いなのね?」
迂闊に言葉を口にしちゃだめ――
感情的になって口を開けば余計なことを言ってしまう。
「答えてくださらないとつまらないわ」
「……携帯を返してください」
「あら、携帯だけでいいの? このストラップ、私がいただいてもいいかしら?」
「っ!?」
「あなた何も知らないのね? 落し物を拾った人は報労金がいただけるのよ?」
「……報労金は落し物現物でなくてもかまわないはずです」
「そうね……。それなら私、落し物なんて拾わなかったことにしようかしら」
「え……?」
彼女は笑みを深め池へと近づいた。
「私、面白くないことになっているの。それも全部、あなたが司様と秋斗様に好かれているからいけないのよ? あなた、どんな手を使ったの? 教えていただけない? なぜこんなにも藤宮の方々と親しくできるのか。……そう思っているのは私だけではないわ。あなたさえいなければ――あなたさえいなければっっっ」
ギリ、と恐ろしい目で睨まれ、次の瞬間にはもとの薄ら笑いに戻る。
「幸い、あなたはこれがとても大切なようだし……。そうよね、このストラップをなくしたとあれば、プレゼントしてくださった方にお話ししないわけにはいかないものね?」
何をしようとしているのかは一目瞭然。
携帯を池に落とされる――
「やめてっっっ」
叫ぶと同時、携帯は彼女の手を離れ、パシャン、と音を立てて池に落ちた。
水面に生じた波紋はきれいに広がりやがてなくなる。
「携帯がなければ私がやったという証拠も残らないわ」
クスクスと笑っていたそれは高笑いへ変化する。そのとき――
「さぁ、それはどうだろう? 目撃者がいれば別だと思うけど?」
ツカサっ!?
振り返ると、太い木の陰からツカサが現れた。
ツカサの背後にはハンディカメラを持った警備員さんもいる。
「目撃者はふたり。そして、証拠の動画。これだけ揃っていれば申し開きはできないと思うけど」
「司様っ――」
「翠には手を出すな。そう牽制してきたつもりだったが、そんなこともわからなかったのか?」
私のすぐ側までツカサが来て、
「大丈夫か?」
声をかけられたけど、何を答えることもできなかった。
……遅いよ。ツカサ、遅い。携帯はもう池の中だ。
ビデオに撮る余裕があったのなら、どうしてその前に止めてくれなかったのっ!?
「武明さん、その人を学校長のところへ連れていってください」
「かしこまりました」
警備員さんが彼女へ歩みを向けたとき、
「待ってっっっ」
私は警備員さんと女生徒の間に入り、ぐっと歯を食いしばる。
「翠……?」
背後から名前を呼ばれたけれど、ツカサを振り返る余裕はなかった。
「あとから出てきて何よ……。カメラを持っているならこれから私がすることも全部撮っておいてっ」
「何を――」
ツカサの声を聞きながら、池を背にした彼女に近づく。
「な、何よ……」
「……なんでもないわよ」
答えた声は震えていた。
怖いからじゃない。恐れからじゃない。
今私が感じているのは怒り。
なんでもない――なんでもないなんでもないなんでもない……。
呪文のように唱えてみるけれど、だめ。無理だ。
なんでもないわけがない。
大切なものを侮辱された。何よりも大切なものを池に落とされた。
こんな感情、抑えられるわけないじゃないっっっ。
パンッ――
「きゃぁっっっ」
乾いた音と叫び声が辺りに響き、自分の右手に衝撃が走る。
叩いたのだ。思い切り、彼女の頬を。自分の利き手で。
「手を上げるだなんて野蛮なっ」
何を言われても怖くもなんともなかった。
あるのは憤りだけ。
「野蛮で結構よ……」
自分の声は驚くほどに冷ややかだった。
「私、人にされて嫌だと思ったことはしない主義なの。――本当は、本当はっ、あなたの携帯を同じように池に落としてやりたかったっっっ」
人を叩いたのなんて初めて。時間が経っても右手はじんじんとしている。
きっと、この手と同じくらいこの人は痛い思いをしただろう。
それでも許せそうにはない。
何度叩いても何度罵っても、許せる気がしない。
ならば、この人にはもう用はない。
背後にいるであろうツカサに言う。
「人を叩いたわ……。これ、暴力っていうのでしょ? 状況はその人と変わらないはず。証人はふたり。ちゃんと学校長に伝えてね。その人が処分を受けるのなら、私にも同等の処分を――」
あとのことはどうでも良かった。
処分とかそんなの、どうでも良かった。
携帯が――携帯が池に落とされた。今は池の底にある。
携帯が着水したのは岸辺から一メートルほどのところ。
今探せば見つかるかもしれない。
吸い寄せられるように池へ近づくと、後ろから力任せに引っ張られた。
「池に入るつもりじゃないだろうなっ!?」
「放してっっっ。それの何が悪いのっ!?」
「携帯なんて替えがきくだろっ!?」
「きかないっ。替えなんてきくわけないでしょっ!? いただいたストラップもとんぼ玉も、唯兄の大切な鍵もっ、メールのやり取りも録音してあった声も――替えのきくものなんてひとつもないっっっ」
力いっぱいツカサの手を振りほどき、
「お願いだから放っておいてっ」
再び池がある方へ向き直ると、バサリ――背中に何かがかけられた。
「もう十一月下旬なんだ。そんな薄着でいるな。コートは着ないと意味がない」
「なっ――」
手の甲で涙を拭うと、目に真っ白なシャツが映った。
どうしてシャツ……?
はっ、と我に返ったときには遅かった。
バシャンッ――
水しぶきを立てツカサが池に入った。
背にかけられたのはツカサの上着だったのだ。
「ツカサっ、いいっっっ。自分で探すからっっっ」
ツカサは池の中で静かに振り返る。
「翠の目は節穴か?」
「え……?」
「俺が入ってこの深さなんだ。翠が入ったらどうなるか想像してみろ」
私が入ったら……?
よくよく見ると、水が――池の水がツカサの顎まであった。
つまり、一般のプールよりも深いということ。
学校の池なんてそんなに深くないと思っていた。
池を覗き込んだことだって何度もある。でも、そんなに深いとは感じなかった。
「それ、ちゃんと羽織ってくれないか?」
ツカサが「それ」と言ったのは、私が手に持ち直した上着。
戸惑う私に、「早く」といつもより低い声で催促する。
「お嬢様、羽織られたほうがよろしいかと思います」
背後に控えていた警備員さんに上着を取られ、背にかけなおされる。
「これだけ持ってて」
ツカサは普段外すことのないメガネを外し、池の縁に置いた。
その一拍あとには姿を消す。
池に潜ったのだ。
メガネを手に取るとき、池の水に左手を入れたらひどく冷たかった。
その冷たさに息を呑む。
この冷たい水の中にツカサはいる。なのに、私の背にはツカサのぬくもりが残る上着。
息継ぎに上がってくるツカサを見るたびに後悔の念は強まった。
池に入ったのが自分ならこんな気持ちにはならなかっただろう。
こうなってしまった今、自分がどういう行動に出たらいいのかわからなくて涙が止まらなくなる。
気づいたときには叫んでいた。
「ツカサっ、もういいからっっっ。もう、いいからっっっ」
潜っているツカサに聞こえているかなんてわからない。でも、叫ぶ以外に何ができただろう。
息継ぎに上がってきたツカサにようやく伝えることができた。けれど、
「どうでも良くないから池に入ろうとしたんだろっ!?」
思い切り怒鳴り返された。
「そうやって、もういいって言いながらずっと気にして、挙句翠がここに入るんじゃ意味がないんだよっっっ」
一際きつい目と声で言われた。
少し荒くなった呼吸で酸素を吸い込み、ツカサは四回目の潜水をした。
私はその場に座り込み、池の波紋をじっと見ていた。
言われて気づく。目の前の人を睨んでいることに。
「このストラップをあなたに渡したのは秋斗様? それとも、司様? そういえば……あなた、藤宮の次期会長ともお知り合いなのね?」
迂闊に言葉を口にしちゃだめ――
感情的になって口を開けば余計なことを言ってしまう。
「答えてくださらないとつまらないわ」
「……携帯を返してください」
「あら、携帯だけでいいの? このストラップ、私がいただいてもいいかしら?」
「っ!?」
「あなた何も知らないのね? 落し物を拾った人は報労金がいただけるのよ?」
「……報労金は落し物現物でなくてもかまわないはずです」
「そうね……。それなら私、落し物なんて拾わなかったことにしようかしら」
「え……?」
彼女は笑みを深め池へと近づいた。
「私、面白くないことになっているの。それも全部、あなたが司様と秋斗様に好かれているからいけないのよ? あなた、どんな手を使ったの? 教えていただけない? なぜこんなにも藤宮の方々と親しくできるのか。……そう思っているのは私だけではないわ。あなたさえいなければ――あなたさえいなければっっっ」
ギリ、と恐ろしい目で睨まれ、次の瞬間にはもとの薄ら笑いに戻る。
「幸い、あなたはこれがとても大切なようだし……。そうよね、このストラップをなくしたとあれば、プレゼントしてくださった方にお話ししないわけにはいかないものね?」
何をしようとしているのかは一目瞭然。
携帯を池に落とされる――
「やめてっっっ」
叫ぶと同時、携帯は彼女の手を離れ、パシャン、と音を立てて池に落ちた。
水面に生じた波紋はきれいに広がりやがてなくなる。
「携帯がなければ私がやったという証拠も残らないわ」
クスクスと笑っていたそれは高笑いへ変化する。そのとき――
「さぁ、それはどうだろう? 目撃者がいれば別だと思うけど?」
ツカサっ!?
振り返ると、太い木の陰からツカサが現れた。
ツカサの背後にはハンディカメラを持った警備員さんもいる。
「目撃者はふたり。そして、証拠の動画。これだけ揃っていれば申し開きはできないと思うけど」
「司様っ――」
「翠には手を出すな。そう牽制してきたつもりだったが、そんなこともわからなかったのか?」
私のすぐ側までツカサが来て、
「大丈夫か?」
声をかけられたけど、何を答えることもできなかった。
……遅いよ。ツカサ、遅い。携帯はもう池の中だ。
ビデオに撮る余裕があったのなら、どうしてその前に止めてくれなかったのっ!?
「武明さん、その人を学校長のところへ連れていってください」
「かしこまりました」
警備員さんが彼女へ歩みを向けたとき、
「待ってっっっ」
私は警備員さんと女生徒の間に入り、ぐっと歯を食いしばる。
「翠……?」
背後から名前を呼ばれたけれど、ツカサを振り返る余裕はなかった。
「あとから出てきて何よ……。カメラを持っているならこれから私がすることも全部撮っておいてっ」
「何を――」
ツカサの声を聞きながら、池を背にした彼女に近づく。
「な、何よ……」
「……なんでもないわよ」
答えた声は震えていた。
怖いからじゃない。恐れからじゃない。
今私が感じているのは怒り。
なんでもない――なんでもないなんでもないなんでもない……。
呪文のように唱えてみるけれど、だめ。無理だ。
なんでもないわけがない。
大切なものを侮辱された。何よりも大切なものを池に落とされた。
こんな感情、抑えられるわけないじゃないっっっ。
パンッ――
「きゃぁっっっ」
乾いた音と叫び声が辺りに響き、自分の右手に衝撃が走る。
叩いたのだ。思い切り、彼女の頬を。自分の利き手で。
「手を上げるだなんて野蛮なっ」
何を言われても怖くもなんともなかった。
あるのは憤りだけ。
「野蛮で結構よ……」
自分の声は驚くほどに冷ややかだった。
「私、人にされて嫌だと思ったことはしない主義なの。――本当は、本当はっ、あなたの携帯を同じように池に落としてやりたかったっっっ」
人を叩いたのなんて初めて。時間が経っても右手はじんじんとしている。
きっと、この手と同じくらいこの人は痛い思いをしただろう。
それでも許せそうにはない。
何度叩いても何度罵っても、許せる気がしない。
ならば、この人にはもう用はない。
背後にいるであろうツカサに言う。
「人を叩いたわ……。これ、暴力っていうのでしょ? 状況はその人と変わらないはず。証人はふたり。ちゃんと学校長に伝えてね。その人が処分を受けるのなら、私にも同等の処分を――」
あとのことはどうでも良かった。
処分とかそんなの、どうでも良かった。
携帯が――携帯が池に落とされた。今は池の底にある。
携帯が着水したのは岸辺から一メートルほどのところ。
今探せば見つかるかもしれない。
吸い寄せられるように池へ近づくと、後ろから力任せに引っ張られた。
「池に入るつもりじゃないだろうなっ!?」
「放してっっっ。それの何が悪いのっ!?」
「携帯なんて替えがきくだろっ!?」
「きかないっ。替えなんてきくわけないでしょっ!? いただいたストラップもとんぼ玉も、唯兄の大切な鍵もっ、メールのやり取りも録音してあった声も――替えのきくものなんてひとつもないっっっ」
力いっぱいツカサの手を振りほどき、
「お願いだから放っておいてっ」
再び池がある方へ向き直ると、バサリ――背中に何かがかけられた。
「もう十一月下旬なんだ。そんな薄着でいるな。コートは着ないと意味がない」
「なっ――」
手の甲で涙を拭うと、目に真っ白なシャツが映った。
どうしてシャツ……?
はっ、と我に返ったときには遅かった。
バシャンッ――
水しぶきを立てツカサが池に入った。
背にかけられたのはツカサの上着だったのだ。
「ツカサっ、いいっっっ。自分で探すからっっっ」
ツカサは池の中で静かに振り返る。
「翠の目は節穴か?」
「え……?」
「俺が入ってこの深さなんだ。翠が入ったらどうなるか想像してみろ」
私が入ったら……?
よくよく見ると、水が――池の水がツカサの顎まであった。
つまり、一般のプールよりも深いということ。
学校の池なんてそんなに深くないと思っていた。
池を覗き込んだことだって何度もある。でも、そんなに深いとは感じなかった。
「それ、ちゃんと羽織ってくれないか?」
ツカサが「それ」と言ったのは、私が手に持ち直した上着。
戸惑う私に、「早く」といつもより低い声で催促する。
「お嬢様、羽織られたほうがよろしいかと思います」
背後に控えていた警備員さんに上着を取られ、背にかけなおされる。
「これだけ持ってて」
ツカサは普段外すことのないメガネを外し、池の縁に置いた。
その一拍あとには姿を消す。
池に潜ったのだ。
メガネを手に取るとき、池の水に左手を入れたらひどく冷たかった。
その冷たさに息を呑む。
この冷たい水の中にツカサはいる。なのに、私の背にはツカサのぬくもりが残る上着。
息継ぎに上がってくるツカサを見るたびに後悔の念は強まった。
池に入ったのが自分ならこんな気持ちにはならなかっただろう。
こうなってしまった今、自分がどういう行動に出たらいいのかわからなくて涙が止まらなくなる。
気づいたときには叫んでいた。
「ツカサっ、もういいからっっっ。もう、いいからっっっ」
潜っているツカサに聞こえているかなんてわからない。でも、叫ぶ以外に何ができただろう。
息継ぎに上がってきたツカサにようやく伝えることができた。けれど、
「どうでも良くないから池に入ろうとしたんだろっ!?」
思い切り怒鳴り返された。
「そうやって、もういいって言いながらずっと気にして、挙句翠がここに入るんじゃ意味がないんだよっっっ」
一際きつい目と声で言われた。
少し荒くなった呼吸で酸素を吸い込み、ツカサは四回目の潜水をした。
私はその場に座り込み、池の波紋をじっと見ていた。
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