光のもとで1

葉野りるは

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第十四章 三叉路

20話

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 土曜日の七時の電車とは、こんなに混んでいるものなのだろうか。
 車内は歩いて移動できないほどに混んでいた。
 次の駅に停まると乗ってくる人に押されて車内の奥へと追いやられる。
 木田さんの乗った前方車両が気になるものの、一メートル先すら見通せない。
 電車の勝手がわからず戸惑っているうちに、今度は人に押されて電車を降りることになった。
 ホームに流れるアナウンスが乗り換え停車駅であることを知らせる。
 人の流れに逆らって歩くことがどれだけ大変なことなのかは藤倉の駅で体験したばかりだというのに、私は流れに逆らって進もうとしていた。
 けれど、人にぶつかってばかりで思うようには進めないし、時折激しくぶつかると身体のいたるところに痛みが走る。
 それでも足を止めるわけにはいかなかった。
 木田さんは電車に乗ったままだろうか。それとも、この駅で降りたのだろうか。
 不安に押しつぶされそうになりながらエレベーター乗り場に着くと、すでに乗客を上で降ろして戻ってきたエレベーターが開いたところだった。
 仮に同じ駅にいたとして、このままでは木田さんに追いつけない。木田さんに会えない――
 そのとき、ポケットの中で震える携帯にはっとした。
「……携帯」
 以前、木田さんからいただいた名刺は今日いただいた名刺と同じカードケースに入っている。
 それには携帯の番号も記載されていたはずだ。
 私はかばんを肩から下ろし、バッグインポーチのひとつのポケットに手をかけた。
 すぐに手に触れたそれを取り出し木田さんの名刺を探す。
 ――あった。
 手袋をはずし携帯を開くと、そこには唯兄からの着信を知らせる表示が出ていた。
 でも、今はそれどころではない。
 私は唯兄の呼び出しには応じず、名刺に記されている番号を間違えないように押した。
 電話が苦手とかそういうことを考える余裕はなかった。ただ、つながることを祈って通話ボタンを押す。
 どうか、電話に気づいて。電車に乗る前に、電車が動きだす前に気づいて――
 コール音が鳴り出して七回目で変化があった。
 留守電だったらどうしようかと思ったけれど、携帯からは駅構内と思われるアナウンスが聞こえてくる。
 携帯がつながったというのに私が何も話さないものだから、逆に木田さんから問われる。
『……どちら様でしょうか?』
「あのっ、御園生翠葉ですっ」
『お嬢様でしたか。どうかなさいましたか?」
 木田さんはこちらを気遣うように優しく話しかけてくれる。
「あの、今、同じ駅にいて……」
 同じ駅にいて――だからなんだというのか……。
『同じ、と仰いますのは、支倉駅にいらっしゃるということでしょうか?』
 はせ、くら……?
 周囲を見回しても駅名が書かれている柱は見当たらない。けれども、木田さんの携帯の後ろで流れているものは、今自分が耳にしているアナウンスと同じものだった。
「あの、駅名はわからないのですが――でも、同じ駅にいると思います。木田さんの携帯から聞こえてくるアナウンスは、今私が聞いているものと同じです」
 木田さんは耳を澄ませているのか、少しの間沈黙した。
『えぇ、そのようですね。お嬢様は今どちらにいらっしゃるのでしょうか』
「電車を降りたホームの――エレベーターの前にいます」
『では、そちらへ参りますので今しばらくお待ちください』
 そう言われると通話は切れた。

 私はその場にしゃがみこむ。
 緊張の糸が切れるとはこういうことを言うのだろう。
 携帯がつながったことに安堵し、木田さんの声に心底ほっとした。
 手に持ったままの携帯でバイタルを確認すると、血圧数値が下がり脈拍が上がっていた。
 藤倉の駅から緊張の連続で、支倉の駅までコートを脱ぐことなく暖房のきいた車内に立っていたのだ。
 普通に考えて、自分の状態があまりいいものでないことくらいはわかる。
 唯兄に連絡しなくちゃ……。
 思うだけで行動に移せずにいると、上から声をかけられた。
「ご気分が優れませんか?」
 その声はさっき携帯から聞こえてきた声と同じもの。
 顔を上げると、木田さんが私の前に膝をついたところだった。
「いえ……携帯がつながったらなんだかほっとしてしまって……。安心して力が抜けちゃったみたいです」
 ごく力心配をかけないように――そう思って答えた。
「さようでしたか」
 木田さんは穏やかな笑みを浮かべ、
「ですがお嬢様、コンクリートの上はさぞ冷えることでしょう。あちらの待合室へ移動しましょう。あそこなら風も防げます」
 紳士的に差し出されたしわくちゃの手を頼りすぎなように細心の注意を払って立ち上がる。と、十メートルほど先にある待合室に向けて歩きだした。
「お嬢様はなぜこちらにいらしたのですか? 今日はホテルでお仕事をなさっていると静様からうかがっておりましたが……」
「あ……お仕事はしてきたのですが――」
 なんと説明したらいいものか……。
 ホテルを出たいきさつと、今ここにいるいきさつなら話すことができる。でも、それはいきさつであって理由ではない。
 木田さんは私が話しだすのを辛抱強く待っていてくれたけれど、私はいきさつしか話すことができず、理由を述べることはできなかった。
「……何かお悩みですか?」
「……考えなくちゃいけないことがあるんです。でも、本当はあまり直視したいことではなくて、それでも考えなくちゃいけなくて――」
 たぶん、今の私はどうしようもなく情けない顔をしているに違いない。
 恐る恐る顔を上げ木田さんの目を見ると、木田さんは慈愛に満ちた眼差しを湛えていた。
「あの、ずるい自分をお見せしてもいいですか?」
「かまいません。ゆっくりお話しください」
「……私は考えることを先延ばしにするために、もっともらしい理由を用意しました。そして、その理由に託けて順位までつけました。私は考えなくちゃいけないことを最下位にしたんです。でも、仕事が終わったら、最下位にあったはずのものは最上位に来てしまって――」
 そこまで口にして言葉に詰まる。
 本当はわかっているのだ。今の私は現実から逃げているだけで、もっと遠くに逃げてしまいたくて反射的に木田さんを追ったことも。
 わかっているのに口にできない。
「お嬢様、明日のご予定をおうかがいしてもよろしいでしょうか?」
「え……?」
「明日は日曜日です。もしろよしければ、これからブライトネスパレスへご招待したいと存じます」
「……いいんですか?」
「もちろんです。お嬢様でしたらいつでも大歓迎ですよ」
 木田さんは心があたたまりそうなくらい柔らかな笑顔をくれた。
 その申し出を嬉しいと思う反面、頭をよぎったのはツカサとの約束。
 今日の夜に断わりのメールを送ろうと思っていた。
 金曜日にひとりで真白さんに会いに行った時点で何か悟られていそうなものだけど、その割には今日学校で話しかけられることもなければ、この時間になってもメールも電話もない。
 今は何よりも遠くへ行きたかった。ひとりになれる場所に、物理的に人と距離を置くことができるところへ逃げてしまいたかった。
 木田さんは腕時計に目をやる。
「おや、もう八時前ですね。特急列車は一本逃すと三十分ほど待つ羽目になるので少し急ぎましょう」
 私は木田さんに案内されるままに駅構内を移動し、木田さんに促されるまま特急券専用の券売機で特急券を購入した。
「発車までは五分弱です」
 木田さんは特急券と時計を見比べ、さらには車両番号を確認しながらホームを歩く。
 列車に乗ると携帯使用可のデッキまで移動し、私に電話をかけるよう勧めた。
「ご家族に心配をおかけするのはよろしくありません。連絡は入れましょう」
「あの――両親の前に唯兄にかけてもいいですか?」
「若槻くんですか?」
「はい……。実はホテルで一緒だったんです。そのあと、自分勝手に動いてここまで来てしまったので……」
「それでしたら先に若槻くんへかけましょう。私は念のために静様へ連絡を入れます」
 私たちは各々の相手に連絡を入れることにした。
 GPSが起動しているのならば、私が支倉にいることはわかっているだろう。さらには、着信を無視してしまった。
 怒られることを覚悟して唯兄へ電話すると、
『リィっ!? なんで支倉なんかにいるんだよっ。だいたいにして、何ひとりで電車乗ってんのっ!?』
「ごめんなさいっ――藤倉の駅で木田さんを見かけて……気づいたら追いかけていたの」
『キダさん……?』
 唯兄の声が聞こえたのか、静さんとの通話を終わらせた木田さんが代わるように、とジェスチャーする。
「木田です。もっと早くにご連絡を入れるべきでしたね。申し訳ございません。これからお嬢様をブライトネスパレスへお連れする予定なのですが、ご了承いただけますでしょうか? ――おやおや、ご存知でしたか。すでに特急乗車券も手配済みで、今は特急列車の車内におります。御園生夫妻にもこちらからご連絡入れておきますのでご安心ください。因みに、静様にも通知してありますので」
 木田さんはおどけた調子でこう続けた。
「さぁ、なんのことでしょう? 老いぼれにはさっぱりわかりません。――若槻さん、時に強行手段が否めないこともあるのですよ」
 木田さんはクスクスと笑いながら唯兄との通話を切った。
「それでは、今度こそ両親へおかけください。話は私がいたしましょう」
 私がリダイヤルから番号を呼び出すと、「お貸しください」と携帯を取り上げられた。
「私、ブライトネスパレスの総支配人を務める木田と申します。ただいま、お電話にお時間いただけますでしょうか?」
 木田さんの喋る言葉はとてもかしこまったものなのに、この声で話されるとそこまで硬くは感じない。
 不思議に思いながらその声を聞いていた。
「――はい。実は今、支倉駅にいるのですが、私の隣に翠葉お嬢様がいらっしゃいます。これからブライトネスパレスへお連れしようと思っているのですが、ご両親のご承諾をいただきたくご連絡申し上げました。――お代わりになられますか?」
 木田さんは携帯を耳から話すと、
「お母様と通話がつながっております」
 私はごくり、と唾を飲んでから携帯を耳に当てた。
「もしもし……」
 恐る恐る声を発すると、開口一番に体調のことを訊かれた。
「あ、ごめんなさい……。大丈夫――じゃなくて、藤倉から支倉までの間、電車で立ちっぱなしだったの。でも、吐き気とかはないから大丈夫」
『仕事は終わったの?』
「うん」
『じゃぁ、あとは考えごとなのね?』
「……うん」
『……いってらっしゃい。ゆっくり考えてらっしゃい。たまにはひとりになる時間も必要だわ』
 お母さんはそう言うと、また木田さんに代わるように言い、木田さんに代わると話はまとまったようだった。
「責任をもってお嬢様をお連れいたしますので、どうぞご安心ください」
 私の手に返ってきた携帯をいくつかの操作をしてメール画面を起動させる。
 ツカサにメールを打つために――


件名 :明日

本文 :ごめんなさい。
   聞いているかもしれないけれど、
   金曜日、ひとりで真白さんに会いに行きました。
   明日の約束はキャンセルさせてください。

   勝手でごめんなさい。

   翠葉


 すごくひどいメールだと思う。
 でもね、今の私にはこれが精一杯だったの。
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