光のもとで1

葉野りるは

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46~56 Side 司 12話

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 腕にしっかりと翠を抱いて現実を感じる。
 今起きていることが「夢」ではない、と。
 夢と現実を錯覚するなんて俺らしくもない。
 でも、あまりにも唐突すぎて咄嗟に判断できなくなることがあると知った。
「誰が冷静だって? 普通に見えるって?」
 俺だってとうに冷静さなんて失っている。
 今の俺が冷静に見えるというのなら、翠の視力は相当悪いと思う。
 現に、俺は衝動を抑える余裕もないというのに……。
「ツカサが……」
「その耳は飾り物か?」
 翠の頭を自分の胸中央にずらすと、ふわり、と香りが動いた。
 先日、翠の部屋で見せられた香水の香り。
 やっぱり、こっちのほうが好きだ。
 別に、秋兄のつけているものが嫌いというわけではなく、ただ、あれを翠がつけることに抵抗がある。
 あの香りを纏われると、まるで秋兄の「所有物」のような気がするから。
 翠は俺の胸に耳を当てたまま動かない。
 自分だけ、と思うな……。俺だって、今まで感じたこともないような動悸を感じている。
「これが冷静な人間の鼓動だって言うなら冷静なんだろうな」
「ツカ、サ……?」
 翠はゆっくりと俺を見上げ凝視する。
「あまり見るな」
 赤面している自覚はある。
 さっきから、夜気と肌の体温差を異様なほどに感じていた。
 そんな自分を真っ直ぐに見つめる視線に耐え切れず、腕を解く代わりに手をつないで歩くことにした。
「冷静なら、あの場でキスなんてしていない」
 自分はそこまでひどい人間じゃないと思う。
「片思いだって認識している状態でキスする男が冷静なわけがない。……そのくらい察しろ」
 ひどい人間ではなく、ただ……冷静さを欠いていただけ――
「……本当、に?」
「本当かどうかは心拍数が物語っていると思うし、現時点でこれ以上の証明能力持ち合わせてないんだけどっ!? それに、あの状況でキスされて普通にしてる翠のほうが信じられない」
 余裕がなくなると、自分が饒舌になることを今知った。
 本人が自覚していない「自分」はあとどのくらいいるのだろう。
 そんな思考は翠の言葉に寸断される。
「全然普通じゃないよ……? ツカサが触れたところだけ妙に熱く感じるし、ただ飲み物を飲んでいるだけなのに顎のラインや喉仏に釘付けになるし、普通に言葉を話しているだけなのに唇が――」
 妙に詳しすぎる説明つきの反論は、途中でピタリと止まる。
 半歩後ろを振り返ると、翠は顔を真っ赤に染め上げ困惑した表情をしていた。
「トマトのように」「リンゴのように」――そんな比喩じゃ追いつかない感じ。
 人体を構成する何かが蒸発するんじゃないかと思う域。そういう意味では「火がついたかのような」という喩えは当てはまるかもしれない。
「唇が、何?」
 つないだ手を引き寄せ、自分の真正面に立たせる。
 今日三度目の至近距離――
「なんでも、ない……」
 答えたあと、赤い顔のまま上目遣いで見られる。
 俺はその表情に無条件で煽られてしまう。
「そういう顔で見るな……。何を懇願されているのか勘違いしそうになる」
 勘違いするというよりは、衝動を抑えるのに必死。
 こういう衝動って男側にしかないものだろうか。
 ――抱きしめたい、キスをしたい……。
 頭の中がそれだけで埋めつくされそうで、強制的に思考を遮断する。
「あと少しでマンションだから、もう少しがんばれ」
 手を引くと、翠は静かに従った。
 マンションを目前に、肩越しに坂道を振り返る。と、そこには今翠と歩いてきた道があった。
 俺はどこまで歩いてこれた?
 前方に視線を戻し、残りの坂道を見て思う。
 これから上る坂道――
 俺はこの手をつないだままどこまで歩いていけるだろう。
 道は途絶えることなく続いているのだろうか。
 いや――道がなければ作るまで……。
 やっと掴むことができたこの手を俺は絶対に離したりしない。

 コンシェルジュに迎えられるエントランスを抜けエレベーターに乗る。
 会話はない。けど、居心地の悪さも不安もない。
 気になるのは翠の体調くらい。
 九階に着くと、俺はエレベーターのドアを背で押さえるようにして立ち、
「携帯見せて」
 翠に見せられたディスプレイには、
「三十七度七分……」
 微熱の域を出た。あと少しで三十八度台。
「明日明後日はゆっくり休むから大丈夫」
 なんだろうな……。早くゲストルームへ帰したほうがいいとわかっているのに、この手を離したくないって……。
 俺は今日二度目の名残惜しさを感じていた。
 その思いを決別するように手に少し力をこめる。
「夢じゃないから……。だから、何かあってもなくても、いつでも連絡してきてかわまない」
 そう言って手を離した。
 かばんを渡したけれど翠は動かない。
 きっとエレベーターが動くまで翠は動かないだろう。
 俺は翠の背を見送ることを断念し、エレベーターに乗り「閉」ボタンを押した。

 姉さんの家に入ると、リビングから「おかえり」と声をかけられる。
 顔を覗かせたのは姉さんひとりだけど、声はふたつ……。
「なんで兄さんまでいるの……」
「うわ、姉さん聞いた?」
「聞いた。司、あんたね、おかえりって言われたらなんて答えるのか知らないの?」
「……ただいま。で、何してるわけ?」
「「もちろんかわいい弟が帰ってくるのを待ってたに決まってる」」
 ふたりの声がピタリと重なるのが気持ち悪い。
「あぁ、そう。じゃ、俺も帰ってきたことだし兄さんは帰れば?」
「相変わらず素っ気無いなぁ……。姉さん、俺少しめげそうなんだけど」
「楓、あんた意外と打たれ弱いのね? これが司のデフォルトでしょ?」
「そうだけどさ……」
「っていうか、司、夕飯まだでしょ?」
「何かあるの?」
「ハヤシライスとサラダ。たまには姉弟揃って食べようかと思って待ってたの。すぐ用意できるから着替えてらっしゃい」
 無言でふたりを見ていると、
「司、そこまで露骨に嫌そうな顔するなよ……」
「いい加減諦めたら?」
 そう言って俺は洗面所へ向かった。

 なんてことのない日常、習慣。ただ手を洗ってうがいをするだけ。
 なのに、俺はそれを躊躇する。
 自分の手を見てため息ひとつ。
 手を洗ったからといって今日あったことがなくなるわけじゃないし、手を洗って質量が変わるなんて話も聞いたことはない。
 さっき翠に言った言葉は自分に言い聞かせるためのものだったのか?
 今日あった出来事云々は抜きにして、今の思考を洗い流すように手を洗った。
 うがいをしようとコップに水を入れ口に含む。
 ふと、鏡に映った自分の唇に目が行った。
 ……俺、意識しすぎ。
 どう考えても邪念以外の何ものでもない。
 部屋で制服を脱ぎながらバカなことを思う。
 着替えるのと同じように心を一新できたらいいのに、と。

 ダイニングに戻ると、すでにテーブルセッティングが済んでいた。
 あとは座るだけなわけだけど、どうにもこうにも姉さんの前に座るのは耐えられそうになく、並べられたものを隣の席に移す。
 斜め左に姉さん、目の前に兄さん。俺が左に座ろうが右に座ろうが、三者面談のような席次に変わりはない。
「何、今の行動……」
 姉さんに訊かれ、適当に答える。
「たまには珍しい顔を見て食べようかと思って」
「あんた、失礼ねぇっ!?」
「今に始まったことじゃない」
 今度は正面の兄さんがにこりと笑う。
「珍しいどころか昨日も一緒に食べたけどな」
「……なんだったらふたりで食べれば? 俺はリビングテーブルに移動してもいいけど」
「ここで食べなさい」と言ったのは姉さんで、「いや、一緒に食べようよ」と言ったのは兄さんだった。
 いつもなら同じ顔をした姉さんが目の前にいるのが嫌なだけだけど、今日はなんていうか――自分と同じ顔が目の前にあると、どうしても唇に目がいってしまうから厄介。
 俺、本当に意識しすぎ……。
 わかってはいるけれど、ここまでくるとどうやって意識を逸らしたらいいのかがわからない。
 参考書に連ねられる方程式を解くよりも難しいと思う。
「いただきます」と口にした次の瞬間、クラッカー音に驚いた。
 俺の頭にはピロピロと色とりどりの紙テープが降ってくる。
 文字どおりクラッカーの音だったわけだけど――
 ふたりはハヤシライスに紙の破片が入っていることに気づいているのだろうか。
「司、やっと告白したんだって?」
 にこにこと笑う兄さんに訊かれ、そちらを向かずとも姉さんがどんな顔をしているのかがわかるだけに、全力で立ち去りたい衝動に駆られる。
「あ、当たりっぽいわよ?」
 っ……!?
 顔を上げると、
「確証はなかったんだけどね」
 兄さんが肩を竦めている。
「秋斗が言った言葉が気になって鎌かけさせてもらったわ」
 秋兄の言葉……?
「秋斗がさ、『司がようやく同じ土俵に上がった』って言ってたらしいよ」
「詳しくは話さなかったけど、つまりそれってこういうことかしら、と思っただけ」
 俺と同じ顔がさらりとほざく。
 その口元を見て、しまった、と思った。
 今話している内容や同じ顔の唇。
 頼むから、俺の邪念のみを消去してほしい。
「姉さん、この弟が赤面してますが……」
「貴重だから記念撮影でもしとく?」
「やめろ……」
 そのあと、俺にとって最悪な晩餐になったのは言うまでもない。
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