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21~23 Side 司 02話
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たかが歌――そう思っていた。
茜先輩の歌に鳥肌が立つとかそういうことではなく、たった一曲という短い時間で、人の心が通っていることを目の当たりにすることなどないと思っていた。
茜先輩は翠のために歌い、翠は茜先輩のためにこの歌を歌っている。
そんなことが、ただ見ているだけの俺にも伝わった。
歪なんてどこにもない。あるのは、目の前の人間を信頼しているという強い眼差しのみ。
ふたりの目は雄弁にものを語る。
それは、取り繕われた演技などではないだろう。
曲の最後、茜先輩のソロにも近い部分に差し掛かったそのとき、翠がはっと茜先輩に目をやる。
何があったのかは定かではないが、翠には「異常」と取れる何かがあったのだろう。
次の瞬間には翠も歌い始め、その手には茜先輩の手がしっかりと握られていた。
いつもなら、何があったのか、と不安が先に立つものの、今は違った。
翠にもできることがある。
いつも助けられてばかりなわけではない。翠にしか助けられない人がいる。
翠――翠の手は決して大きくもなければ多くのものを抱えることはできないかもしれない。
でも、ほかの人間が抱えられないものを持つことができたり、到底手を差し伸べられないような場所にいる人間にだって躊躇なく手を伸ばせる、そんな強さがある。
きっと、俺も秋兄も茜先輩と変わらない場所にいた。
翠はそこへするりと入り込み、それがあまりにも自然すぎて、俺たちは物理的な「警護」を怠った。
結果的には俺たちがバカで間抜けすぎたって話だけど、それでも翠にはそういう才があると思う。
何もできないと言う翠に、少しは自覚したらどうだと言いたくはなるものの、これはこれで意識せずにやっていることだから意味を成しているのかもしれない、と思えば口にできることではなかった。
奈落に降りてきた翠のマイクを受け取り、さっきの飲みかけ、水割りリンゴジュースを渡す。
すると、それを両手で持ち、コクコクと喉を小さく上下させながら美味しそうに飲んだ。
吹奏楽部の準備が整いステージへ上がると、翠は俺を見向きもせずにピアノのもとへと移動する。
俺はそのあとをついていき、足元にある遠赤外線ヒーターのスイッチを入れた。
楽譜をセットし終わり椅子に腰掛けた翠が、不思議そうな顔をしてピアノの下を覗く。
素足でペダルを踏んだにも関わらず、金属独特の冷たさを感じなかったためだろう。
このまま放っておいたら翠の観察タイムが始まってしまう。
「遠赤外線ヒーターを用意させた。寒いならもう一段階上げられるけど?」
「ううん、大丈夫」
大丈夫、と言うその口が、不自然に開いたまま俺に向けられていた。
「ツカサ……。あの、どこで歌うの?」
俺に訊いたあと、ピアノの向こう側に目をやり、「え!?」と驚いた顔をして見せる。
「どうしてボンゴもスネアもフルートもこっちを向いているの?」
またこのやり取りをするのか、と思う自分がいた。
「俺がここで歌うから」
「えっ!?」
「翠、リハーサルのときにも同じやり取りしたと思うけど?」
翠、本当に頭には異常がなかったんだろうな……。
つい昨日の出来事だ。昨日のリハーサルのときにまったく同じやり取りをした。
俺は翠の頭を心配しつつ、ピアノの椅子の端に体重を預ける。
こういう配置になったのは「姫と王子の出し物」の一環として扱われることになったからほかならない。
ツーショットを撮るためのベストポジションとかわけのわからないことを会長が言っていた気がする。
もともと、普段の合わせのときもこんなふうに歌っていたわけで、それに異論もなければする必要もなかった。
「いい?」
小さな声で翠に尋ねられ、
「いつでもどうぞ」
そう答えると、背後で深く息を吸う音がして前奏が始まった。
翠の音は柔らかいと思う。
ピアノメーカーによる音質の差などは知らないが、そう感じる。
音が硬いか柔らかいか、角があるのか丸いのか。
翠の奏でる音は流曲線のように柔らかな音をしていた。
その音にボンゴとフルートの音がよく馴染む。
四方に設置されているモニターのひとつを意識しながら歌っていた。
視界の隅に、俺と翠が映し出されているのを確認しながら。
モニターのせいなのか、翠の表情が薄ぼんやりと曇って見える。
それに気づくと同時、少しずつではあるが、翠の演奏がモニター音から逸脱し始めた。
背を向けたまま軽く肘でつつくと、その数秒後には不自然さを感じない速度でもとのテンポに戻る。
……いったい何を考えて弾いていたんだか。
胸を撫で下ろしたい心境に駆られつつ、何気なくモニターに視線を移すと、今度はとても穏やかな表情で演奏する翠が映っていた。
曲が終わり、ヒーターの電源を切ろうとしたら、
「私がやる」
翠はしゃがみこみ、ピアノの足元に置かれているヒーターのつまみに手を伸ばした。
ピアノの下から出てくると、吹奏楽部の人間が歩み寄ってきた。
「またいつか一緒に演奏しよう?」
翠はその言葉に一瞬目を見開く。
「あはは、まだ名前覚えてないんでしょ?」
「っ……すみません」
「私は樋口要」
「俺は古藤義孝。俺たち三人とも二年だから、あと一年は一緒。また機会作ろうよ」
古藤が樋口同様に手を出そうとしたとき、咄嗟に自分が動いた。
まるでふたりを遮るように間を割って入り、昇降機へ向かう。
「昇降機に移動」
苦し紛れの一言。
俺、何やってるんだか――
中央昇降機には俺と翠のふたりだけ。
さっきの気まずさから翠のミスを指摘している自分はガキだと思う。
さらには、この会話自体が地雷になるとは思いもしなかった。
「練習では一度もとちらなかったのに、本番で何やってるんだか……」
小さな頭を軽く小突き、納得する。
さっきの俺の不可解な行動原理。
あれは、ほかの男に触れられたくないという独占欲以外の何ものでもない。
最悪だな、今になって気づくなんて――
「このあともステージは続く。考えごとなんてしてたらどこかで致命的なミスをするかもな」
「やっ、そんな怖いこと言わないでっ!? 本当にごめん、もう考えごとなんてしないから」
両耳を塞ぐ翠の手を片方だけ外す。
俺は翠が知りたい……。
「で、演奏中に何を考えていたわけ?」
「ツカサの好きな人?」
きょとんとした顔で即答され唖然とする。
しかし、次の瞬間には目の前の翠が俺以上に慌てだした。
「ツカっ、違う――や、あのっ、えっと……朝陽先輩が、じゃない、あれ? あってるっ!?」
すでに言葉が色々とおかしいことになっていて、これだけ話しても何を言いたいのかさっぱりわからない。
さらには両手を使ってまで否定しようとしているのかなんなのか……。
これでは俺が慌て戸惑う以前に、目の前のてんぱってる人間を救出しなくてはいけない心境にならざるを得ない。
……もしかして、朝陽とあんな会話したあとからずっとこんなことを考えていたわけじゃないよな?
俺は深くため息――ではなく、深呼吸をしてから翠に話しかけた。
「翠、面白すぎるから少し落ち着け……」
「私は全然面白くないっ」
いや、そういう問題じゃなくて……。
とにかく落ち着け、と言いたい。
「あぁ、これで本人が面白がってたら白い目で見てやる。それこそ奇人扱いだ」
実際には奇人以上に変な扱いをしてやりたいところだが……。
昇降機が完全に効果すると、翠のもうひとりの付き人が走ってくる。
「お疲れ様」と声をかけたあと、
「あれ? 翠葉ちゃん、また赤い?」
覗き込むように翠の顔を見る。
翠はさらに顔を上気させ、ものの見事に首から上が真っ赤になっていた。
ケープがグリーンということもあり、赤味がより際立つ。
「……藤宮先輩、笑顔で翠葉ちゃんのこと覗き込んだりしましたか?」
「いや、してない。翠が勝手に百面相してるだけ」
こんな場所に長々といられるか……。
そう思って俺はその場を離れた。
茜先輩の歌に鳥肌が立つとかそういうことではなく、たった一曲という短い時間で、人の心が通っていることを目の当たりにすることなどないと思っていた。
茜先輩は翠のために歌い、翠は茜先輩のためにこの歌を歌っている。
そんなことが、ただ見ているだけの俺にも伝わった。
歪なんてどこにもない。あるのは、目の前の人間を信頼しているという強い眼差しのみ。
ふたりの目は雄弁にものを語る。
それは、取り繕われた演技などではないだろう。
曲の最後、茜先輩のソロにも近い部分に差し掛かったそのとき、翠がはっと茜先輩に目をやる。
何があったのかは定かではないが、翠には「異常」と取れる何かがあったのだろう。
次の瞬間には翠も歌い始め、その手には茜先輩の手がしっかりと握られていた。
いつもなら、何があったのか、と不安が先に立つものの、今は違った。
翠にもできることがある。
いつも助けられてばかりなわけではない。翠にしか助けられない人がいる。
翠――翠の手は決して大きくもなければ多くのものを抱えることはできないかもしれない。
でも、ほかの人間が抱えられないものを持つことができたり、到底手を差し伸べられないような場所にいる人間にだって躊躇なく手を伸ばせる、そんな強さがある。
きっと、俺も秋兄も茜先輩と変わらない場所にいた。
翠はそこへするりと入り込み、それがあまりにも自然すぎて、俺たちは物理的な「警護」を怠った。
結果的には俺たちがバカで間抜けすぎたって話だけど、それでも翠にはそういう才があると思う。
何もできないと言う翠に、少しは自覚したらどうだと言いたくはなるものの、これはこれで意識せずにやっていることだから意味を成しているのかもしれない、と思えば口にできることではなかった。
奈落に降りてきた翠のマイクを受け取り、さっきの飲みかけ、水割りリンゴジュースを渡す。
すると、それを両手で持ち、コクコクと喉を小さく上下させながら美味しそうに飲んだ。
吹奏楽部の準備が整いステージへ上がると、翠は俺を見向きもせずにピアノのもとへと移動する。
俺はそのあとをついていき、足元にある遠赤外線ヒーターのスイッチを入れた。
楽譜をセットし終わり椅子に腰掛けた翠が、不思議そうな顔をしてピアノの下を覗く。
素足でペダルを踏んだにも関わらず、金属独特の冷たさを感じなかったためだろう。
このまま放っておいたら翠の観察タイムが始まってしまう。
「遠赤外線ヒーターを用意させた。寒いならもう一段階上げられるけど?」
「ううん、大丈夫」
大丈夫、と言うその口が、不自然に開いたまま俺に向けられていた。
「ツカサ……。あの、どこで歌うの?」
俺に訊いたあと、ピアノの向こう側に目をやり、「え!?」と驚いた顔をして見せる。
「どうしてボンゴもスネアもフルートもこっちを向いているの?」
またこのやり取りをするのか、と思う自分がいた。
「俺がここで歌うから」
「えっ!?」
「翠、リハーサルのときにも同じやり取りしたと思うけど?」
翠、本当に頭には異常がなかったんだろうな……。
つい昨日の出来事だ。昨日のリハーサルのときにまったく同じやり取りをした。
俺は翠の頭を心配しつつ、ピアノの椅子の端に体重を預ける。
こういう配置になったのは「姫と王子の出し物」の一環として扱われることになったからほかならない。
ツーショットを撮るためのベストポジションとかわけのわからないことを会長が言っていた気がする。
もともと、普段の合わせのときもこんなふうに歌っていたわけで、それに異論もなければする必要もなかった。
「いい?」
小さな声で翠に尋ねられ、
「いつでもどうぞ」
そう答えると、背後で深く息を吸う音がして前奏が始まった。
翠の音は柔らかいと思う。
ピアノメーカーによる音質の差などは知らないが、そう感じる。
音が硬いか柔らかいか、角があるのか丸いのか。
翠の奏でる音は流曲線のように柔らかな音をしていた。
その音にボンゴとフルートの音がよく馴染む。
四方に設置されているモニターのひとつを意識しながら歌っていた。
視界の隅に、俺と翠が映し出されているのを確認しながら。
モニターのせいなのか、翠の表情が薄ぼんやりと曇って見える。
それに気づくと同時、少しずつではあるが、翠の演奏がモニター音から逸脱し始めた。
背を向けたまま軽く肘でつつくと、その数秒後には不自然さを感じない速度でもとのテンポに戻る。
……いったい何を考えて弾いていたんだか。
胸を撫で下ろしたい心境に駆られつつ、何気なくモニターに視線を移すと、今度はとても穏やかな表情で演奏する翠が映っていた。
曲が終わり、ヒーターの電源を切ろうとしたら、
「私がやる」
翠はしゃがみこみ、ピアノの足元に置かれているヒーターのつまみに手を伸ばした。
ピアノの下から出てくると、吹奏楽部の人間が歩み寄ってきた。
「またいつか一緒に演奏しよう?」
翠はその言葉に一瞬目を見開く。
「あはは、まだ名前覚えてないんでしょ?」
「っ……すみません」
「私は樋口要」
「俺は古藤義孝。俺たち三人とも二年だから、あと一年は一緒。また機会作ろうよ」
古藤が樋口同様に手を出そうとしたとき、咄嗟に自分が動いた。
まるでふたりを遮るように間を割って入り、昇降機へ向かう。
「昇降機に移動」
苦し紛れの一言。
俺、何やってるんだか――
中央昇降機には俺と翠のふたりだけ。
さっきの気まずさから翠のミスを指摘している自分はガキだと思う。
さらには、この会話自体が地雷になるとは思いもしなかった。
「練習では一度もとちらなかったのに、本番で何やってるんだか……」
小さな頭を軽く小突き、納得する。
さっきの俺の不可解な行動原理。
あれは、ほかの男に触れられたくないという独占欲以外の何ものでもない。
最悪だな、今になって気づくなんて――
「このあともステージは続く。考えごとなんてしてたらどこかで致命的なミスをするかもな」
「やっ、そんな怖いこと言わないでっ!? 本当にごめん、もう考えごとなんてしないから」
両耳を塞ぐ翠の手を片方だけ外す。
俺は翠が知りたい……。
「で、演奏中に何を考えていたわけ?」
「ツカサの好きな人?」
きょとんとした顔で即答され唖然とする。
しかし、次の瞬間には目の前の翠が俺以上に慌てだした。
「ツカっ、違う――や、あのっ、えっと……朝陽先輩が、じゃない、あれ? あってるっ!?」
すでに言葉が色々とおかしいことになっていて、これだけ話しても何を言いたいのかさっぱりわからない。
さらには両手を使ってまで否定しようとしているのかなんなのか……。
これでは俺が慌て戸惑う以前に、目の前のてんぱってる人間を救出しなくてはいけない心境にならざるを得ない。
……もしかして、朝陽とあんな会話したあとからずっとこんなことを考えていたわけじゃないよな?
俺は深くため息――ではなく、深呼吸をしてから翠に話しかけた。
「翠、面白すぎるから少し落ち着け……」
「私は全然面白くないっ」
いや、そういう問題じゃなくて……。
とにかく落ち着け、と言いたい。
「あぁ、これで本人が面白がってたら白い目で見てやる。それこそ奇人扱いだ」
実際には奇人以上に変な扱いをしてやりたいところだが……。
昇降機が完全に効果すると、翠のもうひとりの付き人が走ってくる。
「お疲れ様」と声をかけたあと、
「あれ? 翠葉ちゃん、また赤い?」
覗き込むように翠の顔を見る。
翠はさらに顔を上気させ、ものの見事に首から上が真っ赤になっていた。
ケープがグリーンということもあり、赤味がより際立つ。
「……藤宮先輩、笑顔で翠葉ちゃんのこと覗き込んだりしましたか?」
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