光のもとで1

葉野りるは

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第十二章 自分のモノサシ

07話

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 一時間近く悩んで書いたメール。
 送信ボタンを押すまでにもかなりの時間を要した。
 最初から勇気なんてなかった。ただ、このままではいられない、いちゃいけないと思ったから――クラスのみんな宛てにメールを送った。
 でも本当は、後ろめたさに潰されそうな自分をどうにかしたかっただけで、本当に必要なものは何もかもが足りていなかった。それは、送信してから嫌というほど知ることになる。
 携帯を持つ手が震えて止らない。ディスプレイがメールの受信を始めると、怖さのあまりに電源を落とさずにはいられないほどの恐怖。
 みんなから返ってくる反応が怖い。
 どれだけ考えてもあれ以上の文章は思いつかなかった。ありのままの自分をメールに書いたつもりだけれど、自分を人にさらけ出すということがここまで怖いことだとは思わなかった。
 いつも、「大丈夫」「大好きだよ」と言ってくれる人たちなのに、私の体調にも心にも気を配ってくれる人たちなのに――
 どうしてこんなにも怖がらなくてはいけないんだろう。
 頭ではわかっているつもりなのに、どうしても心が伴わない。
 ひとりでがんばらなくちゃ、と思うのに、私はツカサの名前を口にしてしまう。
「助けて、ツカサ――」
 そのとき、インターホンが鳴った。
 その音にすら身体が反応する。怖い、と。
 インターホンは三回鳴ったけれど、私は立ち上がることもできずに座り込んでいた。
 次にゲストルームの固定電話が鳴り響く。
 広く静かなこの部屋に、音は異様なまでに反響する。コール音が鳴るたびに身体が強張っていった。
 何度目かのコール音のあと、留守番電話が作動した。アナウンスのあとに聞こえてきたのはツカサの声。
『翠、ゲストルームに入るから』
 メッセージはそれだけ。
 ただ声を聞いただけなのに、涙が零れる。
 ソファの影からリビングと廊下を隔てるドアを見ていると、そのドアが開きツカサが入ってきた。
「何泣いて――」
 何って、ツカサがタイミングよく現れるから。
 昨日から泣いているところばかりを見られていて、それだって嫌なはずなのに、どうしても涙は止らないし、ツカサの「手」が欲しくて仕方ない。
 ツカサが近くまで来ると、
「それ、電源入ってないんだけど」
 ツカサは私の手にある携帯を指差した。
「ツカサ……」
 助けて――
「……なんとなく、翠のほうが負けそう」
「負けそう」じゃなくて、負けているの。自分の心に勝てなかった。
 もし、もっと強い心があれば、今泣いている自分はいないと思う。
「翠の力じゃどんなに力を入れて握ったところで、携帯は壊れない。でも、翠の力の作用で翠の手が壊れそう」
「……え?」
 なんの話だっただろうか、と思うのと同時に、力が入りすぎて自分でも外せそうになかった指を、携帯から一本一本引き剥がされ、最後には携帯を取り上げられた。
「電源は入れておけ」
 嫌っ――
 そうは思うのに、手を伸ばすこともできなければ、声も出せない。
 突如鳴り出した着信音に、身体と心が反応してしまったからだ。
 ツカサは携帯を凝視してから私に視線を移す。
 視線だけで問われている気がした。「何をしたのか」と。
「……勇気も覚悟もないのに、メール、送っちゃった――」
 何も掴むものがなくて、身近にあったソファをぎゅっ、と掴む。
 何かを掴んでいないと、座っている体勢すら維持ができない気がして……。
 そんなことあり得ないってわかっているけれど、急に床に穴が開いて落ちてしまうのが怖かった。
 でも、本当はソファではなく、すぐそこにあるツカサの手に掴まりたかった。その手が欲しかった。
「……勇気も覚悟もなくカミングアウト?」
 頷くことで認める。
 でもね、違うの。勇気は出したの。けど、足りなかったの。足りなさすぎた――
 覚悟は最初からなかったのかもしれない。あったとしたら、それは「後ろめたさ」だけだったのかも……。
「自爆型の阿呆か……」
 言われていることが的を射すぎていて、余計に涙が出る。
 言われたとおりだ。これが自爆でなくてなんだというのか。
 でも、ツカサみたいに手際よくなんでもかんでもうまく話せるほど器用じゃないもの……。
「悪い、言いすぎた……」
 私の欲しい手は頭に置かれる。
 ツカサは少しばつの悪い顔をしていたけれど、口調も何もかもがいつもどおり。
 そんなことにすらほっとしている私は本当にどうしようもない人間で……。
 お願い――今はこの手を私に貸して。
 ツカサの手は私の手よりもあたたかくて、ぬくもりが少しの安心を与えてくれた。
 もっと、と望む私は、相馬先生がいつもしてくれるみたいに、その手を額の部分に当てる。
 いつもならこうしてもらうことで気分が落ち着くのに、今は無理みたい。
 涙腺が壊れたんじゃないかと思うほどに涙は止らない。
 泣きすぎて頭が痛い。
 気づけば耳に心音が届く。
 トクントクン――ツカサの胸から規則正しい心音が聞こえてきて、呼吸をそれに合わせたら少しだけ楽だった。
 それでも、鳴っては止り鳴っては止り、を繰り返す携帯の音はずっと続いていて、回を重ねるごとに身が縮こまる。
 電子音じゃなくて、ツカサの心音のほうがずっといい――
 でも、どうやっても心音よりも鮮明に聞こえるのは着信音。
 それから逃れたくて、ツカサの手を離し自分の耳を塞いだ。
「翠……」
 低く静かな声が耳元に響く。
 この際、心音じゃなくてもいい。この声でもいい。
 この声が好き。聞くと無条件で落ち着ける声。
 ツカサに両手を取られ、またダイレクトに着信音が聞こえ始めた。
 じわり、と涙が浮かび、視界がぼやける。けれど、ツカサの声も着信音と同じくらいダイレクトに聞こえた。
「詰めが甘すぎ。自分を追い詰めるようなことをして、最後まで身が持たなかったら意味がないだろ」
「……だって、どれもつらかったの。訊かれないことも隠しておくことも打ち明けることも――本当は誰にも何も気づいてほしくなかった」
 でも、そうやって見て見ぬ振りをすること自体、長くは続かなかっただろう。
 見て見ぬ振りができるのは、周りに合わせて自分の身体を動かせる間だけなのだから。
 このまま動けば、この身体は強制的に一防衛手段として起動しなくなる。
 身体を起こせなくなれば、その時点でアウト。学校を休まざるを得ないのだ。
「俺が突きつけなければそのままでいられた?」
 ツカサは普段から落ち着いた話し方をするけれど、よりいっそう単調で静かな声音だった。
「それは違う……」
 違うよ、ツカサ。
「自分がこのことに向き合いたくなかったから、だから――」
「それを突きつけたのは俺だけど?」
「……ずっと逃げてちゃいけないことだったから、本当は気づいてほしくなくても、私が気づきたくなくても、気づかなくちゃいけなかった」
 いつかは絶対に向き合わなくてはいけないことで、それが少し早いか遅いか、ただそれだけの問題。
 心構えはしたつもりだった。だから、メールを書いてクラスのみんなに送ったのだ。
 でも、勇気も覚悟も足りていなければ、心構えだって薄っぺらいものだった。
 全部自分がいけない。自分が弱いのがいけない。
 ……佐野くん、ごめんね。
 佐野くんだって昨日今日、午前午後で強くなれたわけじゃないよね。そんな一朝一夕でどうこうできるものじゃないよね。
 でも、私は佐野くんの強さに惹かれて、自分も早くそこにたどり着きたくて――憧れるのと共に、今の自分から逃れたかった。
 結局、最後まで向き合うことができていない。自分でばら撒いた種すら収拾できていない。
「今、また携帯から逃げてるけど?」
 その言葉にズキリ、と胸が痛む。
 ツカサの左手にあった携帯を、また自分の右手に握らされる。
「せっかくがんばって一歩踏み出したなら、その努力を無にするな。ここで放棄したら『何もしなかったほうがまし』になるんじゃないの?」
 よく聞く言葉――「やらなかった後悔よりも、やった後悔のほうがいい」。
 それはどの辺りに境界線があるのだろう。
 やって良かった、やらなければ良かった。いったいどこに境界線があるのかな。
 私は今、メールを送ったことに後悔をしているのだろうか。
 みんなの反応を怖いと思っていて、涙だって止らなくて、状況的にはかなりボロボロ。
 でも、だからといってメールを送らなかったほうが良かった、という結論にはたどり着きそうにない。
 私は今どこにいて、どう進みたいのだろう――
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