光のもとで1

葉野りるは

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第十二章 自分のモノサシ

05話

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 翌朝も、いつもと変わらず栞さんに見送られ、八時に家を出た。
 明けない夜はないという。
 その言葉は本当だな、と毎回のように思う。
 自分が学校へ行きたかろうが行きたくなかろうが、具合が悪かろうが悪くなかろうが、「時」は何に左右されることなく刻まれる。「時」は留まる術を知らないし、留まることを許されない。
 エレベーターを待っていると、蒼兄に顔を覗き込まれた。
「怖いか?」
「少し……というか、本当は怖くなくて、すごく怖い。……なんて言ったらいいのかわからない」
 みんなのことは大好きだし、本当は疑ってなんかいない。ただ、心が――心が勝手に怖がるだけ。
 心も自分も同じはずなのに、この件に関しては「別」と思いたくなる。それは、信じている人たちを自分が疑っているということを受け入れられないから――
「蒼兄、大丈夫……」
「ん?」
「私が変な方向へ考え始めたら、きっとツカサがガツンって怒ってくれる」
 それはとてもとても痛いけど、心の不安よりは全然いい。
 ツカサの「リカバリー」は容赦ない。手をつないだままブンブン振り回されて、血液が身体の末端へ偏ってしまう感じ。
 それでも、つながれた手は遠心力に負けることなく掴まえていてもらえると思うから――不安に駆られて心が固まってしまうよりはいいのだと思う。
「それにね、私が不安そうな顔をしたら、空太くんが『大丈夫』って言ってくれるんだって」
 きっと、海斗くんも飛鳥ちゃんも桃華さんも佐野くんも――クラスの友達みんながそう言ってくれるのだろう。
 そこまでわかっていても、私の心は闇に怯える。
 でも、前へ進まなくちゃ――

 エレベーターを降りると、真下さんに「おはようございます」と声をかけられた。
 挨拶を返すと、
「お友達がお待ちです」
「え……? 友達――?」
 カフェラウンジの一角に佐野くんがいた。
「御園生さん、おはようございます。で、御園生、おはよ」
「おはよう……どうしたの?」
「一緒に登校しようと思って」
「え……?」
「あ、もしかして朝って御園生さんと一緒に車だったりするっ!? やば、俺その辺考えてなかった」
 佐野くんは急に焦り出す。
「少し微熱が続いているから蒼兄の車で通っているのだけど……」
「翠葉、歩いて行っておいで」
 蒼兄の大きな手が頭に乗る。
「佐野くん、歩くのゆっくりだけど、翠葉を頼んでいい?」
「あ、そのつもりでこの時間に来ました」
「そう。じゃ、お願いね」
 蒼兄はひとり先にエントランスを出ていった。
「なんか悪い……」
 佐野くんの言葉に首を振る。
 私たちはどちらからともなくエントランスへ足を向け、真下さんに「いってらっしゃいませ」と丁寧に送り出されてマンションを出た。

 朝の空気を肺いっぱいに吸い込む。
 それは少しだけ冷たくて、心地よいと思える空気。
「朝の空気だね」
「これは秋の朝って感じだよな?」
 佐野くんはそんなふうに答えては、私のペースに合わせてゆっくりと歩いてくれた。
 どうして佐野くんがマンションまで迎えに来てくれたのか――色々訊きたいことはあるのに、訊いたら逆に色々と訊き返されてしまいそうで、それが怖くて何も訊けずにいた。
「別に早起きして来たとか、そういうんじゃないよ。俺、テスト期間中で部活動が禁止されてる期間でも毎朝起きる時間は変わらないし、その期間は家の周りを走ってるから。五時過ぎにはランニングに出て、六時には帰ってきて庭で整理体操。六時半には朝飯。七時には家を出られる状態。それが俺のテスト期間の朝」
 早朝ランニングの時間が蒼兄と一緒……。
 佐野くんはそれ以上の前置きはせずに、「あのさ」と話し始めた。
「人が集まるところって、必ずしも楽しいことばかりじゃない。嫉妬や足の引っ張り合い、そういうのは俺も経験済み」
 佐野くんは、過去にあったいくつかの出来事を話してくれた。
 大事な記録会へ行く時間が変更になったと言われ、その時間に行ったら短距離の記録会が終わっていたことや、試合前にスパイクを隠されたこと。
 明らかに、仲間であるはずの部員の誰かの仕業なのに、誰ひとりとして口を割らなかったという。
 それが一度や二度ではなかったこと。
 友達が好きだった女の子が自分を好きだとわかった途端に、今まで友達だと思っていた人の態度が一変したこと。
 総体で優勝してから、自分を見る周りの目が変わったこと。
 友達だと思っていた人間が、妙に媚びてくるようになったこと。
「こういうのってさ、先生や大人に言ってさくっと解決できるものじゃないんだよね。でもって、俺が変わるとかそういう問題でもなくってさ、やってるやつらの意識が変わらない限りずっと続く。話してわかる人間もいればそうじゃないやつもいるわけで……。悔しいし悲しいけど、そういうものなんだ」
「……佐野くんも誰にも言わなかったの?」
「……言わなかったのか言えなかったのか、ちょっとわかんないや。ただ、俺には陸上部のほかに友達がいたし、学校外にも友達がいた。他校の陸上部の人間とも交流あったし……。ショックは受けたし悔しい思いもした。でも、御園生ほど比重は大きくなかったと思う。俺は御園生みたいに絶対的なひとりじゃなかったから」
 部活動のほかに友達。学校の外に友達。交流――
「俺の場合はさ、姉貴たちがいい手本になっててさ」
 と、今度はお姉さんの話を聞かせてくれる。
 佐野くんのお姉さんは双子で、揃って音大を出ているらしい。
「音大の中での競争心ってかなりのものらしくて、楽器にいたずらされるとかたまにあるらしいんだ。でも、それらも含めて自己メンテナンス力なんだって」
 メンテナンス力……?
「御園生はハープやってるからわかるかもしれないけど、バイオリンの弦も同じでさ、張替えた直後って音の安定悪いだろ?」
「うん……」
「試験前、演奏前に弦が切れる、もしくは誰かに切られる――そういうトラブルに遭わないように楽器を管理する。そこまでが試験の内。演奏会の内。全部、自己管理の責任の域」
 私には、楽器を傷つけられるなんて想像ができなかった。
「だから、俺もそれを見習った。スパイクは足慣らしをしてあるものを常に二、三足は用意しておく。試合や記録会の時間は自分で調べて、会場までの交通手段も自分で把握しておく。自己責任でクリアできる部分は意外と多かった。……俺の場合、御園生みたいに体調が絡む問題じゃなかったし、物理的なものはどうにでも回避できたんだ。だから、御園生の気持ちがわかるなんて軽はずみなことは言えなかった」
 佐野くんは少し黙ってから、
「傷つけたらごめん。でも、御園生はいくつかの世界を持っていたほうがいいと思う。俺の世界は家と学校だけじゃなかったんだ。陸上を通して他校の人間との関わりもあったし、塾にも友達がいた。入院してるときに知り合った人間。うるさいくらいかまいたがりやの姉貴ふたり。うちって神社だからさ、近所の人ともみんな顔馴染みで、学校以外の人たちと関わる機会がたくさんあったから、俺は人間不信にならなかったんだと思う」
 学校以外の人――
「私には、家と学校しかなかったよ……」
「……わかってる。だから、だよ。世界が狭い分、そこから与えられる打撃の比重は重くなる。でも、今からでも遅くはないと思う。御園生は世界をいくつか持っていたほうがいい」
 佐野くんは一息つくと、
「でも、今も学校と家だけ? 御園生の中で学校は一括り?」
 一括り……?
 言われている意味がわからなくて佐野くんの顔を見た。
「学校にも色々ある。クラスや生徒会、それから部活。御園生は学校の中にいくつの世界を持ってる? 少し考えてみてよ」
 クラス、生徒会、部活――
 それぞれの場所にそれぞれの顔が浮かぶ。
 みんな、大切な人――
「佐野くん、違うの……。世界はたくさんあったほうがいいのかもしれないんだけどね、でも、違うの……」
 だって、世界とか場所とかそういうのは関係ない。そこに自分の好きな人が、大切な人がいるかいないか。それだけなんだよ。
「御園生、言葉にしよう? ちゃんと教えて。俺が御園生を泣かせたくてマンションに迎えに行ったと思う?」
「思わない」
「だろ? じゃぁ、なんで迎えに行ったと思う?」
「……学校に来ないと思ったから?」
 佐野くんは軽く首を横に振った。
「心配だから」
 その言葉に、ぎゅっ、と手に力が入る。
「心配って言葉にも御園生は反応するけどさ、昨日あんなに泣きはらした顔で学校に来て、まともに会話すらできなかったら心配して当たり前。もし、立花が同じ状態だったら御園生はどうする?」
 心配だし、「どうしたの?」と訊くだろう。 
「……そういうことなんだよ。興味本位で踏み入ってくる人間がいることも確か。でも、うちのクラスはそうじゃないと思う。そういうのの見分けもつかない?」
「違うっ、そういうのはわかってるの。それにうちのクラスは私が言いづらそうにしていると、問い詰めたりはしないでくれる」
「……なんだ、わかってるじゃん」
 そうだよ、わかってるんだよ……。
「……ってことはさ、ほかに何か要因があるわけだよね? 御園生はそれを言うことに躊躇してるんだ?」
 どうしよう――
「クラスの人間は訊かないかもしれない。でも、俺は知りたいから訊くよ」
 ……意外だった。
 佐野くんは踏み込んでこない、訊いてくる人じゃないと思っていた。
 一学期だって、私と桃華さんと飛鳥ちゃん、海斗くんの間に何があっても内容まで訊いてくる人じゃなかったから。
 ――「訊かないでいいやとか知りたくないとかじゃなくってさ、そういうのって訊き出すことじゃないと思ってるから」。
 佐野くんはそう言っていた。
「俺は人間不信にはならなかった。でも、あまり立ち入ったことを自分から訊くのはやめようと思ってた。俺は特待で藤宮に来ているし、また何かしら問題は起こると思ってたから。自分がされたくないことはしない。そのスタンスでいようと思ってた」
 そこで一度区切ると、足を止めて私に向き直った。
「二年次からはわからないよ。でも、あのクラスなら大丈夫だと思うから。同じクラスにいるうちに御園生を引っ張り上げたいと思う。簾条や海斗たちはさ、高校三年間かけてってスタンスっぽいけど、俺はあのクラスと部活で一緒の人間以外なんてほとんど知らないんだ。だから、そんな無責任なことは言えない。ただ、あのクラスなら大丈夫だって言える。だから――言ってほしいと思う。できる限りのことをしたいから」
 佐野くんの目はゴールを見据えたスプリンターのそれと同じだった。
 あ、少し違うかな……。これから走り出す、という選手の本気の顔――
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