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49~51 Side 司 02話
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「じゃ、強制で」
翠の右手は氷のように冷たかった。
こいつの手は夏も冬も関係なく冷たいのだろうか。
点滴を受けているときと冬だけなら「変温動物」とでも言ってやるつもりだったのに。
あぁ、極度の緊張からも手が冷たくなるって言ってたっけ……。今はそっちなのかもな。
「翠……この手はいつもつながれてるわけじゃないけど、俺は何があっても翠をひとりにするつもりも置いてくつもりも離れるつもりもない」
俺がしてやれることは限られている。態度で示す方法なんてそうたくさんあるわけじゃない。
正確には、こっちが態度で示しているつもりでも、この手負いの小動物にはなかなか伝わらない。
いや、それも違うか……。
実際、伝わっていないわけじゃない。ただ、それだけじゃ足りないだけ。
いつもなら、人が言ったことを真に受ける翠が、心の底で信じきれずに葛藤するくらい――そのくらい翠が負った傷は深い。
「できれば、そのくらい一度聞いたら二度と忘れるな……くらいのことは言いたいところだけど、翠の頭は俺が思っていた以上にメモリが足りないようだし、俺がどれだけ言葉を駆使してもその不安は拭えないんだろ?」
翠を見れば、目を見開いて俺を凝視していた。
言葉だけじゃ足りない。学校で顔を合わせるだけじゃ足りない。
「なら、毎日電話しようか? それともメール? 翠が選んでいい。ほかに何か安心につながる行動があるなら提案してくれてかまわない」
ほかに何がある……?
「あぁ、周りの反応を考えると翠は嫌がりそうだけど、毎日一緒に弁当を食べるっていう案もある」
漏れなく簾条たちもついてきて、最悪なランチタイムになりそうだけど……。
「どうして……」
また翠の足が止まりそうだったから、それを阻止すべく軽く手を引いた。
「どうしてって何が?」
半身ほど後ろを歩く翠を振り返ると、
「どうしてそこまでしてくれるの?」
ここで、「好きだから」って言ったらどんな顔をするのか……。
今、翠の頭はそんなことを考える余裕はないし、「そういう意味」に取ってもらえないのがオチだ。
「翠がなかなか理解しないから。……苦手分野はとっとと克服しろ」
「…………」
……黙るなよ。
「今朝のことが原因、もしくは誘引で、翠が登校拒否になったら困るんだ」
「え……?」
「そしたら俺は、翠に会わせてもらえなくなるらしいから」
「どうして……?」
「病院まで付き添う権利をもらうとき、御園生さんにそう言われた。だから、登校拒否は困る」
「蒼兄、どうしてそんなこと……」
「翠が泣いたからじゃない? 泣かせるようなことをしたのが俺だから。さらには、御園生さんが登校拒否を懸念するようなことを翠が口走ったんじゃないの?」
「…………」
「それは肯定?」
「…………」
どうやら心当たりはあるらしい。
「ひとつ訊きたい」
翠は不安そうな顔で俺を見上げた。
こんな顔、今日何度目かもう忘れた。
「翠は中学のときに登校拒否をしてたわけ?」
そんな話は聞いていない。海斗も言っていなかった。
翠は話すならすべてを話すだろう。
都合の悪いところだけをごまかして話すなんて、そんな器用なことを翠はできない。だから、登校拒否はしていない。訊いたのは、ただの確認のため。
「……してない」
「じゃ、なんでここにきて登校拒否?」
俺にはそれが納得いかない。
「ツカサ、怖さが別物なの……。友達に置いていかれるのも無視されるのも、どれも怖いことに変わりはないのだけど、今私の大好きな人たちにそれをされるのはすごく怖い……。中学のときと比較できないくらい怖いの。呼吸ができなくなりそうなくらい怖いの――」
翠は視線を落として黙り込む。
なんだ――
「つまり……中学のときの人間と、今周りにいる人間の格が翠の中では明確に違うわけね」
翠は視線を上げて、「え?」って顔をする。
「中学のときの人間と何か少しでも混同されていようものならどうしてやろうかと思ってた。でも、違う……。翠はここを中学と一緒だなんて思っていない。翠が見て怖がっているのは幻影に過ぎない」
「げん、えい……?」
「そう、過去に起こったことを現実に錯覚してるだけ。幻影――感覚の錯誤によって実際には存在しないのに、存在するかのように見えるもの。まるで現実に存在しているかのように、心の中に描き出されるもの。遠い過去の情景や願望から作り出される将来の像など……」
翠は少し口を開けたまま、俺の言葉を反芻する。
「翠……」
声をかければ反射的に俺を見る。
「『今』を見ろ。過去の出来事から得た経験は『今』や『未来』に生かされる。でも、翠が中学で味わってきた思いは今の翠に何ひとついいものとして生かされない。……なら、『今』を見て、この先に生かせ」
翠は血が出そうなくらい唇を強く噛みしめると、つないだ手にも力をこめた。そして、震える声で言葉を紡ぐ。
「でもね、怖いって思っちゃうの。いくら『今』を見ようとしても、中学のときと違う宝物をたくさん見つけても、何度上から色を塗りなおしても、下にある色が浮き上がってきちゃうの――」
発せられる声は小さいのに、どうしようもできないって、叫んでいるように聞こえた。
助けて、って……。
わかってる、自分ではどうにもできなくて、だからずっと葛藤しているのはわかってる。
「それ、手伝うから……」
「え……?」
「条件反射――」
翠は涙の溜まった目で俺を見上げた。
「パブロフの犬。翠は犬になればいい。もしくは、恐ろしく品質の悪い機械。俺が何度でも上書きしてやる。壊れるたびにリカバリーしてやる。保証期間は俺が死ぬまで半永久的に」
目の表面張力決壊。涙が長い睫を濡らした。
翠は急いでハンカチを取り出したけれど、それは干す前の洗濯物のような湿り具合でくたびれていた。「見るも無残な」という言葉がやけにしっくりくる。
「ほら」
自分のハンカチを差し出すと、翠はさらに目を見開く。
「ハンカチ、今度からニ、三枚持ち歩けば?」
涙を流したままの目に力がこもる。
きっと、何か言い返そうとでも思っているのだろう。でも、その前に大粒の涙をどうにかしろよ。
翠が泣いていると、抱き寄せたくなる。それを避けるために翠の代わりに涙を拭いた。
翠は少し焦って、少し……安心するだけ。
俺を男として意識することはない。
自分の行動とは噛み合わない翠の心情を考えるだけで、十分虚しすぎる。だから、そんなバカなことはしない。
「別に、こんなもので良ければいつでも貸すけど……」
涙を拭いたあとは、ハンカチを翠の手に押し付けた。
少し照れくさくて歩くのを再開する。
もう私道に入っているから病院まではあと十分ちょっとだ。
翠は、俺に引っ張られるようにして歩いている感は否めないけど、つないでいる手にはきちんとふたつの力が作用している。
翠の手を握る俺の力と、俺の手を握る翠の力のふたつが――
そうだ、ひとつ思い出してもらおうか。
「翠、空回る前に俺を呼ぶっていうのは口だけ?」
「え?」
「夏休みにそういう話をしたと思うけど……。何、それも忘れてるわけ? それとも履行されてないだけ? どっち?」
翠は「あ」と口を開く。
ばかやろう、忘れていたことなんか想定内だ。
「あぁそう……忘れてたわけね」
「違っ――くはないけど、でも…好きと怖いは正比例なんだよ?」
勢いよく否定したことをさらに否定しては、また珍妙なことを口にする。
「何それ……」
「だから……すごく好きで大切な人ほど離れていっちゃうのは怖いから……だから、怖くて言えなかった」
俺、これは喜んでいいところだろうか。
いや、でも翠だからな……。
「ふーん……別に、翠から話さないならこっちから切り込むまでだけど。そのたびにこんなに泣く羽目になるなら自分からカミングアウトしたほうがいいんじゃないの? 俺、そのあたりは容赦しないよ」
平静を装うとすればするほどに毒づく自分がいる。
「……私からツカサに話していたら、そしたら――」
「今朝ほどには突き放さなかった。少しくらいは加減した」
本当かどうかは怪しいけれど。
「……でも、突き放しても、どんなにきついことを言っても、ツカサはそれだけじゃないのね? また、手、つないでくれる……」
そう言って、つないでいる手を見て笑った。
「……それ、忘れるなよ」
この手も、笑うことも……。
「……うん、忘れない。絶対に忘れない――」
翠は一言一言区切っては噛みしめるように話し、俺はその言葉を胸に刻み込む。
いいよ、必要なら何度だって繰り返す。そのたびに、これで何回目って言ってやろうか。
二度あることは三度ある。それ以上に七転び八起き。
それ以上だって、何度だって付き合ってやる――
翠の右手は氷のように冷たかった。
こいつの手は夏も冬も関係なく冷たいのだろうか。
点滴を受けているときと冬だけなら「変温動物」とでも言ってやるつもりだったのに。
あぁ、極度の緊張からも手が冷たくなるって言ってたっけ……。今はそっちなのかもな。
「翠……この手はいつもつながれてるわけじゃないけど、俺は何があっても翠をひとりにするつもりも置いてくつもりも離れるつもりもない」
俺がしてやれることは限られている。態度で示す方法なんてそうたくさんあるわけじゃない。
正確には、こっちが態度で示しているつもりでも、この手負いの小動物にはなかなか伝わらない。
いや、それも違うか……。
実際、伝わっていないわけじゃない。ただ、それだけじゃ足りないだけ。
いつもなら、人が言ったことを真に受ける翠が、心の底で信じきれずに葛藤するくらい――そのくらい翠が負った傷は深い。
「できれば、そのくらい一度聞いたら二度と忘れるな……くらいのことは言いたいところだけど、翠の頭は俺が思っていた以上にメモリが足りないようだし、俺がどれだけ言葉を駆使してもその不安は拭えないんだろ?」
翠を見れば、目を見開いて俺を凝視していた。
言葉だけじゃ足りない。学校で顔を合わせるだけじゃ足りない。
「なら、毎日電話しようか? それともメール? 翠が選んでいい。ほかに何か安心につながる行動があるなら提案してくれてかまわない」
ほかに何がある……?
「あぁ、周りの反応を考えると翠は嫌がりそうだけど、毎日一緒に弁当を食べるっていう案もある」
漏れなく簾条たちもついてきて、最悪なランチタイムになりそうだけど……。
「どうして……」
また翠の足が止まりそうだったから、それを阻止すべく軽く手を引いた。
「どうしてって何が?」
半身ほど後ろを歩く翠を振り返ると、
「どうしてそこまでしてくれるの?」
ここで、「好きだから」って言ったらどんな顔をするのか……。
今、翠の頭はそんなことを考える余裕はないし、「そういう意味」に取ってもらえないのがオチだ。
「翠がなかなか理解しないから。……苦手分野はとっとと克服しろ」
「…………」
……黙るなよ。
「今朝のことが原因、もしくは誘引で、翠が登校拒否になったら困るんだ」
「え……?」
「そしたら俺は、翠に会わせてもらえなくなるらしいから」
「どうして……?」
「病院まで付き添う権利をもらうとき、御園生さんにそう言われた。だから、登校拒否は困る」
「蒼兄、どうしてそんなこと……」
「翠が泣いたからじゃない? 泣かせるようなことをしたのが俺だから。さらには、御園生さんが登校拒否を懸念するようなことを翠が口走ったんじゃないの?」
「…………」
「それは肯定?」
「…………」
どうやら心当たりはあるらしい。
「ひとつ訊きたい」
翠は不安そうな顔で俺を見上げた。
こんな顔、今日何度目かもう忘れた。
「翠は中学のときに登校拒否をしてたわけ?」
そんな話は聞いていない。海斗も言っていなかった。
翠は話すならすべてを話すだろう。
都合の悪いところだけをごまかして話すなんて、そんな器用なことを翠はできない。だから、登校拒否はしていない。訊いたのは、ただの確認のため。
「……してない」
「じゃ、なんでここにきて登校拒否?」
俺にはそれが納得いかない。
「ツカサ、怖さが別物なの……。友達に置いていかれるのも無視されるのも、どれも怖いことに変わりはないのだけど、今私の大好きな人たちにそれをされるのはすごく怖い……。中学のときと比較できないくらい怖いの。呼吸ができなくなりそうなくらい怖いの――」
翠は視線を落として黙り込む。
なんだ――
「つまり……中学のときの人間と、今周りにいる人間の格が翠の中では明確に違うわけね」
翠は視線を上げて、「え?」って顔をする。
「中学のときの人間と何か少しでも混同されていようものならどうしてやろうかと思ってた。でも、違う……。翠はここを中学と一緒だなんて思っていない。翠が見て怖がっているのは幻影に過ぎない」
「げん、えい……?」
「そう、過去に起こったことを現実に錯覚してるだけ。幻影――感覚の錯誤によって実際には存在しないのに、存在するかのように見えるもの。まるで現実に存在しているかのように、心の中に描き出されるもの。遠い過去の情景や願望から作り出される将来の像など……」
翠は少し口を開けたまま、俺の言葉を反芻する。
「翠……」
声をかければ反射的に俺を見る。
「『今』を見ろ。過去の出来事から得た経験は『今』や『未来』に生かされる。でも、翠が中学で味わってきた思いは今の翠に何ひとついいものとして生かされない。……なら、『今』を見て、この先に生かせ」
翠は血が出そうなくらい唇を強く噛みしめると、つないだ手にも力をこめた。そして、震える声で言葉を紡ぐ。
「でもね、怖いって思っちゃうの。いくら『今』を見ようとしても、中学のときと違う宝物をたくさん見つけても、何度上から色を塗りなおしても、下にある色が浮き上がってきちゃうの――」
発せられる声は小さいのに、どうしようもできないって、叫んでいるように聞こえた。
助けて、って……。
わかってる、自分ではどうにもできなくて、だからずっと葛藤しているのはわかってる。
「それ、手伝うから……」
「え……?」
「条件反射――」
翠は涙の溜まった目で俺を見上げた。
「パブロフの犬。翠は犬になればいい。もしくは、恐ろしく品質の悪い機械。俺が何度でも上書きしてやる。壊れるたびにリカバリーしてやる。保証期間は俺が死ぬまで半永久的に」
目の表面張力決壊。涙が長い睫を濡らした。
翠は急いでハンカチを取り出したけれど、それは干す前の洗濯物のような湿り具合でくたびれていた。「見るも無残な」という言葉がやけにしっくりくる。
「ほら」
自分のハンカチを差し出すと、翠はさらに目を見開く。
「ハンカチ、今度からニ、三枚持ち歩けば?」
涙を流したままの目に力がこもる。
きっと、何か言い返そうとでも思っているのだろう。でも、その前に大粒の涙をどうにかしろよ。
翠が泣いていると、抱き寄せたくなる。それを避けるために翠の代わりに涙を拭いた。
翠は少し焦って、少し……安心するだけ。
俺を男として意識することはない。
自分の行動とは噛み合わない翠の心情を考えるだけで、十分虚しすぎる。だから、そんなバカなことはしない。
「別に、こんなもので良ければいつでも貸すけど……」
涙を拭いたあとは、ハンカチを翠の手に押し付けた。
少し照れくさくて歩くのを再開する。
もう私道に入っているから病院まではあと十分ちょっとだ。
翠は、俺に引っ張られるようにして歩いている感は否めないけど、つないでいる手にはきちんとふたつの力が作用している。
翠の手を握る俺の力と、俺の手を握る翠の力のふたつが――
そうだ、ひとつ思い出してもらおうか。
「翠、空回る前に俺を呼ぶっていうのは口だけ?」
「え?」
「夏休みにそういう話をしたと思うけど……。何、それも忘れてるわけ? それとも履行されてないだけ? どっち?」
翠は「あ」と口を開く。
ばかやろう、忘れていたことなんか想定内だ。
「あぁそう……忘れてたわけね」
「違っ――くはないけど、でも…好きと怖いは正比例なんだよ?」
勢いよく否定したことをさらに否定しては、また珍妙なことを口にする。
「何それ……」
「だから……すごく好きで大切な人ほど離れていっちゃうのは怖いから……だから、怖くて言えなかった」
俺、これは喜んでいいところだろうか。
いや、でも翠だからな……。
「ふーん……別に、翠から話さないならこっちから切り込むまでだけど。そのたびにこんなに泣く羽目になるなら自分からカミングアウトしたほうがいいんじゃないの? 俺、そのあたりは容赦しないよ」
平静を装うとすればするほどに毒づく自分がいる。
「……私からツカサに話していたら、そしたら――」
「今朝ほどには突き放さなかった。少しくらいは加減した」
本当かどうかは怪しいけれど。
「……でも、突き放しても、どんなにきついことを言っても、ツカサはそれだけじゃないのね? また、手、つないでくれる……」
そう言って、つないでいる手を見て笑った。
「……それ、忘れるなよ」
この手も、笑うことも……。
「……うん、忘れない。絶対に忘れない――」
翠は一言一言区切っては噛みしめるように話し、俺はその言葉を胸に刻み込む。
いいよ、必要なら何度だって繰り返す。そのたびに、これで何回目って言ってやろうか。
二度あることは三度ある。それ以上に七転び八起き。
それ以上だって、何度だって付き合ってやる――
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