光のもとで1

葉野りるは

文字の大きさ
上 下
589 / 1,060
Side View Story 11

24~28 Side 司 04話

しおりを挟む
 ゲストルームのインターホンを押したものの、翠が出てくる気配がない。
 ゆっくり立ち上がったとして――立ちくらみ……翠ならあり得る。
 携帯を鳴らすと、近くから着信音が聞こえてきた。
 たぶん、すぐそこの自室にいる。
 携帯はつながったが声が聞こえてこない。
「眩暈?」
『うん……ちょっとドジ踏んじゃった』
「じゃ、こっちで手動で開けるからいい」
 いつもと変わりなければ物理的な鍵はかかっておらず、指紋認証のみで開錠できるはず。
 右の人差し指をセンサー部分におくと、ロックはすぐに解除された。
 玄関を開ければ翠の部屋は開いたままになっている。
「先輩、すぐそこ、左の部屋です」
 茜先輩は靴を脱ぐなり部屋へと駆け込む。
「翠葉ちゃんっ、大丈夫っ!?」
「あ……えと……」
 翠はラグの上に横になった状態で、言葉に詰まっていた。
「どうせ、段階も踏まずに立ち上がったんだろ」
 翠の手から携帯を取り上げ、今は俺の携帯に表示されることのないバイタルを見る。
 七十五の六十二――
 脈圧はないが、脈の乱れはそうひどいものではない。
 これなら数分も横になっていればもとに戻る。
「先輩、大丈夫です。あと数分もすれば落ち着くから。俺、飲み物淹れてきます」
 先輩に伝えるというよりは、翠に暗示をかけるために口にした。
 言葉による暗示や思い込みは人の身体にきちんと作用する。プラセボ効果は侮れない。
 俺は薬を処方できるわけでも治療をできるわけでもない。それなら、言葉でくらい安心を与えることはできないだろうか。否、これくらいは今の俺でもできると思いたい。

 キッチンに入り、ケトルに水を入れて火にかける。
 持続的に血圧が低いわけではないけれど、立ちくらみのあとならローズマリーだろうか……。
 いくつか並ぶ缶とカゴに入ったティーパックを前に悩む。
 あの部屋にいたということは、俺たちが来るまでは休んでいたのかもしれない。
 そう思えば必然的に手が伸びるハーブティーがある。モーニングティーだ。
 レモングラスとミント、レモンピールの爽やかな香りがするハーブティー。夏の間、翠が好んでよく飲んでいたもの。
 もう秋だけど、少しでも自分たちの時間を巻き戻せるのなら、夏休みのころに戻したい。
 あのころのように話すことはできないだろうか。
 そんな思いこめて茶葉をポットによそった。

 すぐそこに翠の気配がある。
 キッチンに入ろうと思ってそこに立っているはず。なのに、一向に入ってはこない。
「カップ、どれ使うの?」
 翠の立つ方を見て訊けば、「あ、私やる」とキッチンへ入ってきた。それと同時にピアノの音が鳴り出す。
 まるで茜先輩の声が聞こえるようだった。
 指慣らしの単調なフレーズなのに、どこかのんびりと弾いているような感じがするから、
「時間をかけていいからちゃんと話してごらん」
 と、言われている気がする。
 食器棚の前に立つ翠の表情を覗き見ると、翠は不安そうな顔をしていた。
 どのカップを使うか悩んでいる、というよりは、不安げな表情。
 でも、俺だって不安なんだ……。
「翠」
「な、何っ!?」
 ガラスには俺も映っていたはずなのに、翠はまったく気づいておらず、振り返るとひどく驚いた顔をしていた。
 びっくり眼が俺を見上げる。
「訊きたいことがある」
 俺と翠の身長差は二十センチ。
 至近距離にならなければ「見上げる」なんてことにはならない。
「翠にとって、人の呼び名って何? それから、どうして呼び出しに応じるのか、その二点が知りたい」
 ただ、これだけのことを訊くのに、いつもと変わりない声量で話す自信がなかった。だから、翠のすぐ後ろまで近づいた。
「……はい?」
 きょとんとした顔。
 間の抜けた声で訊かれ、ほんの少し自分の緊張が緩む。
「……なんでとか疑問に思わなくていいから。とりあえず簡潔な答えを希望する」
 簡潔な答えなどもらえはしないだろう。
 今の翠、いつもより頭の回転率悪そうだし……。
「人の呼び名は――呼び名、かなぁ……」
 簡潔に、とは言ったけど、そこまで省略されると困る。何か補足しろ、と文句を言おうとしたら、
「あ、でも――苗字ではなく名前を呼ばれると嬉しいと思うから……というのは私が、という話なのだけど……。だから、誰かの名前を呼ぶときも、下の名前で呼べると嬉しいな。……呼べると嬉しいというよりは、下の名前を呼べる関係にあることが嬉しいと思う」
 どこか疑問文っぽいイントネーションで終わり、首を傾げてこちらを見る。
「じゃ、漣は?」
「サザナミくんは……苗字の響きがきれいだから」
 頭フル回転――そんな顔をしているけれど、俺が訊きたい答えまではまだ遠い。
「センリって響きもきれいだけど、周りの人でサザナミくんって呼んでいる人は少なくて、だから、自分が口にするだけでも新鮮な気がして……。きれいだから、そのままサザナミくんって呼びたかったの」
 翠らしいと思えた。
「ほかの男は?」
「……ほかの、男子?」
 俺が訊くことに対し、翠はいちいち驚き頭を抱えそうな勢いで悩み始める。
 これは答えにたどり着くまで時間がかかりそうだ。
「ほかの男子は……」
 言葉に詰まる翠に、「座って」と肩に手を置き、重力のままにしゃがむよう促した。
 相変わらず華奢な肩。手を乗せれば手の平に骨が触れる。
「ツカサ……尋問みたいで怖い」
 小動物の目で見上げてくる。
「尋問じゃないけど、それに酷似してると言われてもかまわない。答えてもらわないと俺が困る」
 勝手だと思うけど、もう少し俺に付き合ってほしい。
 俺が立ったままじゃ翠も落ち着かないだろうし、俺だって真正面から聞けるほどの度胸があるわけでもない。
 俺は翠の隣に座った。
 翠と話をするとき、どうしてか隣に並ぶことが多く、それに慣れてしまった自分がいる。
「翠の呼称に対する考え――それを知っておきたい」
 単刀直入に訊いたつもり。でも、翠の頭の中でどう変換されるのかは未知数。
「簡潔には話せないよ?」
「わかってる」と答えたら嫌みだろうか。
 そんなことを考えているうちに翠が話し始めた。
「下の名前で呼んでもらえるのはすごく嬉しいの。でも、自分が呼ぶときには少し考える。……なんていうか、慣れてないの」
 そう言って、居心地悪そうに笑みを浮かべた。
「とくに男子はもっと慣れてない。だから、下の名前で呼べる人はツカサと海斗くんと秋斗さんしかいないし、呼んでって言われても躊躇しちゃう」
 誰かほかの男に言われたのだろうか。
「朝陽たちは?」
「生徒会の先輩たちは、半強制的に、だったでしょう?」
 あれはなんていうか、俺への当て付けだとか、俺をからかいたかっただけだとも思うが、今になって考えてみれば、緩衝材になってくれたのかもしれない。
 翠が下の名前で呼ぶ男子は藤宮の人間三人だけだ。佐野ですら苗字で呼んでいる。それを目立たなくするために、名前で呼ぶように仕向けてくれたのかも――と今ならそう思えなくもない。
「それに、『先輩』がついているから呼びやすいだけ。でも、自分の中のイメージを重視するのなら、久先輩は会長って感じだし、朝陽先輩は美都先輩って感じ。優太先輩は春の日差しみたいな人だから、春日っていう苗字がとてもしっくりくる。でも、優しい先輩だから優太先輩でもあまり違和感はないみたい」
 何をどうしたら会長が会長って感じなのだろうか。会長はあまり会長の風格を持っているようには思えない。ただ、そう思う割には俺も会長と呼んでいる。
 理由は、付き合いが長い分、ほかの先輩と比べると接し方が曖昧になるから。
「先輩」であることを意識するために、「会長」という呼称を使っているにほかならない。
 ……とりあえず、漣にしても会長にしても優太にしても、
「呼び方にこだわりがあるのかないのかわからない」
 やっぱり翠の思考回路はよくわからない。
 わかりたいと思うけど、訊いてもわからないこともある。
 これ以上突っ込んで訊いたら本当の尋問だろうか。
「だから先に言ったじゃない。簡潔には話せないよって……」
「そうだけど……」
 でも、そこで放り投げることができない。諦められない。
 わかりたいと思う。翠を知りたいと思う自分を抑えられない。
「俺の名前は?」
「ツカサの名前?」
 翠がこちらを向く。
 でも、できれば今の自分は見られたくない。きっと情けない顔をしているだろうから。
 こんな話になるなら電話で話せば良かったんじゃないか、と思い始めている自分がいるくらいには見られたくない自分だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

足りない言葉、あふれる想い〜地味子とエリート営業マンの恋愛リポグラム〜

石河 翠
現代文学
同じ会社に勤める地味子とエリート営業マン。 接点のないはずの二人が、ある出来事をきっかけに一気に近づいて……。両片思いのじれじれ恋物語。 もちろんハッピーエンドです。 リポグラムと呼ばれる特定の文字を入れない手法を用いた、いわゆる文字遊びの作品です。 タイトルのカギカッコ部分が、使用不可の文字です。濁音、半濁音がある場合には、それも使用不可です。 (例;「『とな』ー切れ」の場合には、「と」「ど」「な」が使用不可) すべての漢字にルビを振っております。本当に特定の文字が使われていないか、探してみてください。 「『あい』を失った女」(https://www.alphapolis.co.jp/novel/572212123/802162130)内に掲載していた、「『とな』ー切れ」「『めも』を捨てる」「『らり』ーの終わり」に加え、新たに三話を書き下ろし、一つの作品として投稿し直しました。文字遊びがお好きな方、「『あい』を失った女」もぜひどうぞ。 ※こちらは、小説家になろうにも投稿しております。 ※扉絵は管澤捻様に描いて頂きました。

光のもとで2

葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、 新たな気持ちで新学期を迎える。 好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。 少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。 それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。 この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。 何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい―― (10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)

姉らぶるっ!!

藍染惣右介兵衛
青春
 俺には二人の容姿端麗な姉がいる。 自慢そうに聞こえただろうか?  それは少しばかり誤解だ。 この二人の姉、どちらも重大な欠陥があるのだ…… 次女の青山花穂は高校二年で生徒会長。 外見上はすべて完璧に見える花穂姉ちゃん…… 「花穂姉ちゃん! 下着でウロウロするのやめろよなっ!」 「んじゃ、裸ならいいってことねっ!」 ▼物語概要 【恋愛感情欠落、解離性健忘というトラウマを抱えながら、姉やヒロインに囲まれて成長していく話です】 47万字以上の大長編になります。(2020年11月現在) 【※不健全ラブコメの注意事項】  この作品は通常のラブコメより下品下劣この上なく、ドン引き、ドシモ、変態、マニアック、陰謀と陰毛渦巻くご都合主義のオンパレードです。  それをウリにして、ギャグなどをミックスした作品です。一話(1部分)1800~3000字と短く、四コマ漫画感覚で手軽に読めます。  全編47万字前後となります。読みごたえも初期より増し、ガッツリ読みたい方にもお勧めです。  また、執筆・原作・草案者が男性と女性両方なので、主人公が男にもかかわらず、男性目線からややずれている部分があります。 【元々、小説家になろうで連載していたものを大幅改訂して連載します】 【なろう版から一部、ストーリー展開と主要キャラの名前が変更になりました】 【2017年4月、本幕が完結しました】 序幕・本幕であらかたの謎が解け、メインヒロインが確定します。 【2018年1月、真幕を開始しました】 ここから読み始めると盛大なネタバレになります(汗)

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

彼氏と親友が思っていた以上に深い仲になっていたようなので縁を切ったら、彼らは別の縁を見つけたようです

珠宮さくら
青春
親の転勤で、引っ越しばかりをしていた佐久間凛。でも、高校の間は転校することはないと約束してくれていたこともあり、凛は友達を作って親友も作り、更には彼氏を作って青春を謳歌していた。 それが、再び転勤することになったと父に言われて現状を見つめるいいきっかけになるとは、凛自身も思ってもいなかった。

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

クラスでバカにされてるオタクなぼくが、気づいたら不良たちから崇拝されててガクブル

諏訪錦
青春
アルファポリスから書籍版が発売中です。皆様よろしくお願いいたします! 6月中旬予定で、『クラスでバカにされてるオタクなぼくが、気づいたら不良たちから崇拝されててガクブル』のタイトルで文庫化いたします。よろしくお願いいたします! 間久辺比佐志(まくべひさし)。自他共に認めるオタク。ひょんなことから不良たちに目をつけられた主人公は、オタクが高じて身に付いた絵のスキルを用いて、グラフィティライターとして不良界に関わりを持つようになる。 グラフィティとは、街中にスプレーインクなどで描かれた落書きのことを指し、不良文化の一つとしての認識が強いグラフィティに最初は戸惑いながらも、主人公はその魅力にとりつかれていく。 グラフィティを通じてアンダーグラウンドな世界に身を投じることになる主人公は、やがて夜の街の代名詞とまで言われる存在になっていく。主人公の身に、果たしてこの先なにが待ち構えているのだろうか。 書籍化に伴い設定をいくつか変更しております。 一例 チーム『スペクター』       ↓    チーム『マサムネ』 ※イラスト頂きました。夕凪様より。 http://15452.mitemin.net/i192768/

Bグループの少年

櫻井春輝
青春
 クラスや校内で目立つグループをA(目立つ)のグループとして、目立たないグループはC(目立たない)とすれば、その中間のグループはB(普通)となる。そんなカテゴリー分けをした少年はAグループの悪友たちにふりまわされた穏やかとは言いにくい中学校生活と違い、高校生活は穏やかに過ごしたいと考え、高校ではB(普通)グループに入り、その中でも特に目立たないよう存在感を薄く生活し、平穏な一年を過ごす。この平穏を逃すものかと誓う少年だが、ある日、特A(特に目立つ)の美少女を助けたことから変化を始める。少年は地味で平穏な生活を守っていけるのか……?

処理中です...