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第十一章 トラウマ
47話
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玄関ポーチでカタンと音がした。
雨の日以外、私はその音で目を覚ますのだ。
蒼兄は部屋に顔を出すときもあれば、そのままシャワーを浴びにいくこともある。最近は後者が多い。
それはたぶん、時間ぎりぎりまで私を休ませるため……。
まだアラームが鳴る前の基礎体温計を口に入れてぼーっとする。
身体がだるい……。
どれだけ寝てもそれだけでは身体がリセットされない。それが慢性疲労症候群――
でも、まだ身体は起こせる。これで身体を起こせなくなったらアウト。
相馬先生に相談しても、きっと身体を休める以外に方法はないと言われるだろう。
テストが始まるまでは午前授業だし、肉体的にはいくらか休むことができるかもしれない。
ピピッ――
「三十七度三分……」
結局、生理が来ても来なくても熱は下がらない。
「グラフ、おかしなことになり始めてるな」
幸倉にいたらこの時間には起きていないと遅刻してしまう。今はマンションにいるから猶予たっぷり。
幸倉にいたときは六時起きだったけれど、今は七時起きでも間に合う。
間を取って六時半にアラーム設定をしてあるけれど、病院での六時起きが身体に染み付いていて、毎朝六時になると自然と目が覚める。
だるいけど起きなくちゃ……。
携帯のアラームが鳴り始めても、繰り返し同じことを思っては完全に止めることはできず、スヌーズ状態を維持していた。
携帯のアラームは六時四十五分設定。今のが三回目だからもう七時……。
起きよう――
ゆっくりと身体を起こし、ラヴィに挨拶。
「ラヴィ、おはよう。今日も一日がんばります」
髪の毛をひとつに結わえて洗面所へ向かう。
朝と夜は冷えるけど、まだ暖房はいらない程度。上に一枚羽織れば大丈夫。ただ、足先は少し寒い。
今日、学校から帰ってきたらレッグウォーマーや室内用ショートブーツを出そう。
洗面所で顔を洗ってからすぐに自室へ戻った。
鏡を前にして、軽く結わえたゴムを解き、毛先から少しずつ髪の毛を梳かす。
ドレッサーの上には柘植櫛がふたつと陶器の入れ物。
櫛には桜の彫刻があしらわれており、陶器は白地ベースに青いお花がちりばめられている。
陶器の蓋をあければふたつの髪飾り……。
「私、ふたりに何かプレゼントしたのかな……」
そもそもツカサの誕生日はいつだろう?
「あ――」
完全に忘れいていたけれど、私、秋斗さんの誕生日に会ったのに何もプレゼントしていない。
入院していたからできなくて当たり前なのだけど、今の今まですっかり忘れていた。
「翠葉?」
ドアの外から声をかけられる。
「はい、ドア開けても大丈夫だよ」
返事をするとドアが開いた。
「まだ着替えてもいないのか?」
「えと……秋斗さんの誕生日に会ったのに、私、何もプレゼントしてないなと思って……」
「あぁ……」
蒼兄は私が手にしている柘植櫛とドレッサーに置いてある陶器の入れ物に視線を移した。
「そういえば、司の誕生日は覚えているのか?」
「ううん」
「だよな。司の誕生日は四月六日」
「……もう終わってる」
「翠葉の誕生日に司は電話してきたんだ。その翌朝、今みたいな会話をしたよ」
「……ツカサが電話?」
「そう。日付が変わるタイミングぴったりに電話してきて、翠葉はそれをすごく喜んでた。同じことを自分もするんだって言うから四月六日生まれっていう情報を与えたら落ち込んでた」
「……それは落ち込むかも。私、そのあとは何もプレゼントしてないのかな?」
「さぁ……俺は聞いてないけど。なんてゆっくり話してる場合じゃない。時間時間っ」
蒼兄に時計を指差される。
「わっ、もう三十分っ!?」
「朝食の準備は俺がするから食べる時間だけは死守しろよっ!?」
蒼兄が出て行くと、慌てて髪の毛を一房取る。
左サイドの一房を緩く編み、耳の少し下あたりでゴムで留める。
左の首元――それがとんぼ玉の定位置……。
秋斗さんには何もプレゼントしていないと言い切れる。
ツカサには……?
やっぱり本人に訊くしかないのかな。でも、ふたりにプレゼントって、何をあげたら喜んでもらえるのだろう……。
……まずは「おめでとう」を言いたいな。
クラスメイトからのプレゼントCDに奥華子さんの歌で「Birthday」という曲が入っていた。この曲の歌詞がとても好き。
もうふたりの誕生日は過ぎてしまったけど、それでも「おめでとう」と伝えたい。
いくつもの奇跡が重ならなかったら、私たちは出逢えなかったのだから……。
あのあと、すぐに制服に着替えなんとか八時までには家を出ることができた。
夏休みが明けてから、朝に栞さんがこの家のキッチンに立つことはない。それは、私と蒼兄、唯兄で決めたこと。
昇さんが帰国した今、やっぱり朝は各々の自宅で過ごすべきだろう。
そうはいっても、あの栞さんが無条件でそんな話に応じるはずもなく、前日に朝食の準備をしてくれて、私たちはそれをあたため直すだけだったり、少し手を加えればすぐに食べられる状態のものが用意してある。そして、お弁当は私が家を出る時間に栞さんが持ってきてくれていた。
今はテスト前だからそれもないはずなのに、家を出る時間になると来てくれる。「いってらっしゃい」の一言を言うために。
申し訳ないと思いつつも嬉しくて、今朝も幸せな気持ちで「いってきます」とゲストルームを出ることができた。
一階に着きエレベーターを降りると、すぐそこにツカサが立っていた。
朝の挨拶を済ませると、
「一緒に行く約束してたのか?」
蒼兄に訊かれて「ううん」と首を振る。わかりかねてツカサに直接訊くことにした。
「海斗くんを待っているの?」
「そんなわけないだろ」
一蹴されたけれど、では、なぜいるのだろう……。
蒼兄と顔を見合わせ、
「司も車に乗ってくか?」
蒼兄が訊くと、ツカサは「遠慮します」と断わった。
「自分は翠に話があるだけなんで」
「じゃ、俺は車取ってくるから」
蒼兄が足早に去ると、私とツカサはエレベーターホールでふたりきりになる。
学校から帰ってくるときはエントランスフロアから見えるエレベーターを使う。けれど、朝は静さん専用と言われている奥にあるエレベーターを使うため、今いる場所はエントランスの死角になっている。
このエレベーターを使うのはゲストルームを使っている私たちのほかには静さんしかいない。
そこまで考えて、ツカサが海斗くんを待っていたとしてもこのエレベーターの前はあり得ない、と気づく。
「話って何?」
「昨日の帰りの話の続き。……というよりは結論。いや……宣戦布告、かな」
自分の言葉にどうも納得がいかないというように、ツカサは首を捻る。
「俺はこれから先どんなときでも翠の体調を優先する。翠がどれほど葛藤しようが、言われるたびに悩もうが、それでも俺は止めるから。そのつもりで」
「……え?」
ツカサはそれだけを言うとカツカツとエントランスフロアに向かって歩き始めてしまった。
「な、何っ!? どうして朝から急にそんな話なのっ!?」
少し小走りで追いつくと、ツカサが足を止めた。
「朝から急に、なのは翠だけで、俺は昨日の帰りからずっと考えてた。……やっぱり、俺は言いたいことは言っておかないと気が済まない」
一気に、吐き出すように言う。
「そういうふうに翠が考えるのは仕方がないことなのかもしれない。翠がバカでこういうことに関しては学習能力が乏しいのも理解したけど、あまり俺たちを侮るな」
ツカサの鋭い視線に身体中が切り刻まれるかと思った。
「翠の中学の人間と一緒にするな。考えただけでも虫唾が走る」
「っ……!?」
「言いたいことはそれだけだ」
そう言うと、ツカサは無機質な靴音を立てて歩き始めた。
私が隣に並んで歩ける速さではなかった。もし一緒に歩ける速度で歩いてくれたとしても、今はこの背中に走り寄ることはできない。
とてもじゃないけど、横になんて並べない――私が、無理……。
思わずその場にしゃがみこむ。下を向いたら涙が零れた。
ツカサの言葉に心臓がぎゅ、ってなった。言葉ではなく、目だったかもしれない。
あまりにも痛いところをつかれすぎて、心臓がぎゅ、ってなった。
「どうしてわかっちゃったんだろう……」
詳しく話していなかったのに……。もしかしたら桃華さんや海斗くんたちも気づいてる……?
「翠葉」
少し離れたところから蒼兄に呼ばれた。
「具合が悪いわけじゃないんだよな?」
どうしてか、そんな訊かれ方をした。
「ツカサが数分経っても翠葉が出てこなかったら迎えに行ってくれって……」
「っ……」
「あいつはさ、今翠葉が泣いているのもわかってる。それでも言いたい何かだったんだろ?」
ポン、と蒼兄の手が頭に乗る。
その「何か」を訊くつもりはないようだ。でも――
「蒼兄……学校行くの、怖い――」
雨の日以外、私はその音で目を覚ますのだ。
蒼兄は部屋に顔を出すときもあれば、そのままシャワーを浴びにいくこともある。最近は後者が多い。
それはたぶん、時間ぎりぎりまで私を休ませるため……。
まだアラームが鳴る前の基礎体温計を口に入れてぼーっとする。
身体がだるい……。
どれだけ寝てもそれだけでは身体がリセットされない。それが慢性疲労症候群――
でも、まだ身体は起こせる。これで身体を起こせなくなったらアウト。
相馬先生に相談しても、きっと身体を休める以外に方法はないと言われるだろう。
テストが始まるまでは午前授業だし、肉体的にはいくらか休むことができるかもしれない。
ピピッ――
「三十七度三分……」
結局、生理が来ても来なくても熱は下がらない。
「グラフ、おかしなことになり始めてるな」
幸倉にいたらこの時間には起きていないと遅刻してしまう。今はマンションにいるから猶予たっぷり。
幸倉にいたときは六時起きだったけれど、今は七時起きでも間に合う。
間を取って六時半にアラーム設定をしてあるけれど、病院での六時起きが身体に染み付いていて、毎朝六時になると自然と目が覚める。
だるいけど起きなくちゃ……。
携帯のアラームが鳴り始めても、繰り返し同じことを思っては完全に止めることはできず、スヌーズ状態を維持していた。
携帯のアラームは六時四十五分設定。今のが三回目だからもう七時……。
起きよう――
ゆっくりと身体を起こし、ラヴィに挨拶。
「ラヴィ、おはよう。今日も一日がんばります」
髪の毛をひとつに結わえて洗面所へ向かう。
朝と夜は冷えるけど、まだ暖房はいらない程度。上に一枚羽織れば大丈夫。ただ、足先は少し寒い。
今日、学校から帰ってきたらレッグウォーマーや室内用ショートブーツを出そう。
洗面所で顔を洗ってからすぐに自室へ戻った。
鏡を前にして、軽く結わえたゴムを解き、毛先から少しずつ髪の毛を梳かす。
ドレッサーの上には柘植櫛がふたつと陶器の入れ物。
櫛には桜の彫刻があしらわれており、陶器は白地ベースに青いお花がちりばめられている。
陶器の蓋をあければふたつの髪飾り……。
「私、ふたりに何かプレゼントしたのかな……」
そもそもツカサの誕生日はいつだろう?
「あ――」
完全に忘れいていたけれど、私、秋斗さんの誕生日に会ったのに何もプレゼントしていない。
入院していたからできなくて当たり前なのだけど、今の今まですっかり忘れていた。
「翠葉?」
ドアの外から声をかけられる。
「はい、ドア開けても大丈夫だよ」
返事をするとドアが開いた。
「まだ着替えてもいないのか?」
「えと……秋斗さんの誕生日に会ったのに、私、何もプレゼントしてないなと思って……」
「あぁ……」
蒼兄は私が手にしている柘植櫛とドレッサーに置いてある陶器の入れ物に視線を移した。
「そういえば、司の誕生日は覚えているのか?」
「ううん」
「だよな。司の誕生日は四月六日」
「……もう終わってる」
「翠葉の誕生日に司は電話してきたんだ。その翌朝、今みたいな会話をしたよ」
「……ツカサが電話?」
「そう。日付が変わるタイミングぴったりに電話してきて、翠葉はそれをすごく喜んでた。同じことを自分もするんだって言うから四月六日生まれっていう情報を与えたら落ち込んでた」
「……それは落ち込むかも。私、そのあとは何もプレゼントしてないのかな?」
「さぁ……俺は聞いてないけど。なんてゆっくり話してる場合じゃない。時間時間っ」
蒼兄に時計を指差される。
「わっ、もう三十分っ!?」
「朝食の準備は俺がするから食べる時間だけは死守しろよっ!?」
蒼兄が出て行くと、慌てて髪の毛を一房取る。
左サイドの一房を緩く編み、耳の少し下あたりでゴムで留める。
左の首元――それがとんぼ玉の定位置……。
秋斗さんには何もプレゼントしていないと言い切れる。
ツカサには……?
やっぱり本人に訊くしかないのかな。でも、ふたりにプレゼントって、何をあげたら喜んでもらえるのだろう……。
……まずは「おめでとう」を言いたいな。
クラスメイトからのプレゼントCDに奥華子さんの歌で「Birthday」という曲が入っていた。この曲の歌詞がとても好き。
もうふたりの誕生日は過ぎてしまったけど、それでも「おめでとう」と伝えたい。
いくつもの奇跡が重ならなかったら、私たちは出逢えなかったのだから……。
あのあと、すぐに制服に着替えなんとか八時までには家を出ることができた。
夏休みが明けてから、朝に栞さんがこの家のキッチンに立つことはない。それは、私と蒼兄、唯兄で決めたこと。
昇さんが帰国した今、やっぱり朝は各々の自宅で過ごすべきだろう。
そうはいっても、あの栞さんが無条件でそんな話に応じるはずもなく、前日に朝食の準備をしてくれて、私たちはそれをあたため直すだけだったり、少し手を加えればすぐに食べられる状態のものが用意してある。そして、お弁当は私が家を出る時間に栞さんが持ってきてくれていた。
今はテスト前だからそれもないはずなのに、家を出る時間になると来てくれる。「いってらっしゃい」の一言を言うために。
申し訳ないと思いつつも嬉しくて、今朝も幸せな気持ちで「いってきます」とゲストルームを出ることができた。
一階に着きエレベーターを降りると、すぐそこにツカサが立っていた。
朝の挨拶を済ませると、
「一緒に行く約束してたのか?」
蒼兄に訊かれて「ううん」と首を振る。わかりかねてツカサに直接訊くことにした。
「海斗くんを待っているの?」
「そんなわけないだろ」
一蹴されたけれど、では、なぜいるのだろう……。
蒼兄と顔を見合わせ、
「司も車に乗ってくか?」
蒼兄が訊くと、ツカサは「遠慮します」と断わった。
「自分は翠に話があるだけなんで」
「じゃ、俺は車取ってくるから」
蒼兄が足早に去ると、私とツカサはエレベーターホールでふたりきりになる。
学校から帰ってくるときはエントランスフロアから見えるエレベーターを使う。けれど、朝は静さん専用と言われている奥にあるエレベーターを使うため、今いる場所はエントランスの死角になっている。
このエレベーターを使うのはゲストルームを使っている私たちのほかには静さんしかいない。
そこまで考えて、ツカサが海斗くんを待っていたとしてもこのエレベーターの前はあり得ない、と気づく。
「話って何?」
「昨日の帰りの話の続き。……というよりは結論。いや……宣戦布告、かな」
自分の言葉にどうも納得がいかないというように、ツカサは首を捻る。
「俺はこれから先どんなときでも翠の体調を優先する。翠がどれほど葛藤しようが、言われるたびに悩もうが、それでも俺は止めるから。そのつもりで」
「……え?」
ツカサはそれだけを言うとカツカツとエントランスフロアに向かって歩き始めてしまった。
「な、何っ!? どうして朝から急にそんな話なのっ!?」
少し小走りで追いつくと、ツカサが足を止めた。
「朝から急に、なのは翠だけで、俺は昨日の帰りからずっと考えてた。……やっぱり、俺は言いたいことは言っておかないと気が済まない」
一気に、吐き出すように言う。
「そういうふうに翠が考えるのは仕方がないことなのかもしれない。翠がバカでこういうことに関しては学習能力が乏しいのも理解したけど、あまり俺たちを侮るな」
ツカサの鋭い視線に身体中が切り刻まれるかと思った。
「翠の中学の人間と一緒にするな。考えただけでも虫唾が走る」
「っ……!?」
「言いたいことはそれだけだ」
そう言うと、ツカサは無機質な靴音を立てて歩き始めた。
私が隣に並んで歩ける速さではなかった。もし一緒に歩ける速度で歩いてくれたとしても、今はこの背中に走り寄ることはできない。
とてもじゃないけど、横になんて並べない――私が、無理……。
思わずその場にしゃがみこむ。下を向いたら涙が零れた。
ツカサの言葉に心臓がぎゅ、ってなった。言葉ではなく、目だったかもしれない。
あまりにも痛いところをつかれすぎて、心臓がぎゅ、ってなった。
「どうしてわかっちゃったんだろう……」
詳しく話していなかったのに……。もしかしたら桃華さんや海斗くんたちも気づいてる……?
「翠葉」
少し離れたところから蒼兄に呼ばれた。
「具合が悪いわけじゃないんだよな?」
どうしてか、そんな訊かれ方をした。
「ツカサが数分経っても翠葉が出てこなかったら迎えに行ってくれって……」
「っ……」
「あいつはさ、今翠葉が泣いているのもわかってる。それでも言いたい何かだったんだろ?」
ポン、と蒼兄の手が頭に乗る。
その「何か」を訊くつもりはないようだ。でも――
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