光のもとで1

葉野りるは

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第十一章 トラウマ

36話

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 着替えてきた秋斗さんは、洗いざらしの白いシャツにベージュのチノパン。その上に黒いVネックのカーディガンを着ている。
「カーディガンは普段着ていないけど、翠葉ちゃんと一緒にいるときはたいていがこの服装。中のシャツがその日によって変わるくらい」
 やっぱり――そういうことを意識して行動してくれていたのだ。
「秋斗さんは思い出してほしいんですね」
「……すごく悩んだよ。このまま思い出さないでくれたほうが俺にとっては都合がいいんじゃないか、とか。翠葉ちゃんが苦しまなくて済むんじゃないか、とか……。でも、やっぱり俺にとっては宝物のような時間だったんだ。それらすべてがなかったことになるのは悲しい。それに、翠葉ちゃんが言った『経験値』という言葉。それを聞いたら、やっぱり取り戻したほうがいいんだろうな、と思えた」
「……ツカサは秋斗さんに会わなくちゃだめと言っていたし、話をするべきだと言ってました。忘れてしまったことに対しては、ただ思い出そうと無理をしなように、それしか言わなくて……」
「……司は翠葉ちゃんを第一に考えてるんだな」
「……え?」
「きっと、本当は司も思い出してほしいと思っているんじゃないかな。思い出がなくてもこれからの関係は築ける。でも、それまで一緒に過ごした時間を共有できないのは寂しいことだと思うんだ」
「そうですよね……。最近、少しずつだけれど、思い出し始めてはいるんです。でも、一シーンとか一フレーズばかりでつぎはぎもできない状態なんですけど……」
 この話はまだ続く……。それなら――
「私、お茶を淹れますね」
 昼間とは違い、今は三つのストーブがついているため、どれかひとつを選ぶ必要はない。
 ストーブの上に置かれているケトルにはどれも水が入っていて、すでに沸いているのだから。
「秋斗さんは何が飲みたいですか?」
 テーブルの中央に籠があって、その中にティーパックがお行儀よく並んでいる。
「じゃ、俺はラベンダー」
「私はカモミール」
 そんな会話をしながらカップにティーパックをセットする。
 そのときだった。
 秋斗さんが立ち上がったな、と思ったら、背後からふわりと抱きしめられた。
「翠葉ちゃんを警護していたとき、家まで送ったことがあった。そのとき、君はキッチンでハーブティーを淹れようかコーヒーを淹れようか悩んでいたんだ。そのとき、俺はこうやって背後から抱きしめて『ハープティーがいいな』って耳元で囁いた」
 今も同じように耳元で優しく囁かれている。
「あっ、秋斗さんっっっ。心臓がうるさくなるから困りますっっっ」
 必死にそう言うと、秋斗さんはクスクスと笑いながら私から離れた。
「あのときも君の心臓はバクバクいってたよ。俺がからかっているのがばれて、腕の中で『からかうなんてひどい』って抗議された。……そのときにしたキスは二度目かな。唇以外を含めるなら三度目だけど」
「……え?」
「図書棟の仕事部屋でしたキスは右頬に。翠葉ちゃんが俺を好きと認めたときには唇に。そしてこれが唇へのキス、二度目だった」
 話を聞くだけでも顔が火照る。
 でも、知りたい――
「私は――私はいつから秋斗さんを好きだったんでしょう?」
「俺が気づいたのは中間考査の翌週だったと思う。だから、五月の末くらいかな?」
 五月の末――入梅するちょっと前。薬を飲むのを遅らせた時期……。
「何か思い出せそう?」
「いえ――でも、さっき、本館へ戻るとき、少しだけ思い出したんです。秋斗さんと手をつないで噴水広場のキャンドルをきれいって言いながら歩いたときのことを。ちゃんと会話も風景もセットで」
「本当に……?」
「はい」
「ディナーのときは……?」
「あれは――前にもホテルで秋斗さんにエスコートされたこと、ありましたか?」
 それには自信がない。
「あるよ」
「残念ながら、それがどこのホテルか、どんな状況か、そういうのは思い出せなくて……」
「そっか……。ホテルは藤倉にあるウィステリアホテル。その先は思い出すのを待とう?」
 ずっとそのままになっていたカップとケトルに視線を戻し、秋斗さんがそれらを淹れ始めた。
「あ、ごめんなさいっ」
「いいよ。邪魔したのは俺だから」
 にこりと笑う秋斗さんを見て思う。
 何か、変わった――
 秋斗さんを包む空気が柔らかくなった気がする。
「秋斗さん、何かありましたか……?」
「……そうだな。覚悟した、ってところかな?」
「覚悟……?」
「正直、いいことはしてきてないかもしれない。それでも、俺にとっては翠葉ちゃんと過ごした時間はこれ以上ないくらいに大切なものだといえるから、思い出されることで俺が不利になることがあるとしても、やっぱり思い出してほしいんだ。さっき翠葉ちゃんが言ってくれたから、俺は俺らしく接する。だから、また全力で翠葉ちゃんを口説きにかかるよ」
 私は何か間違えてしまったのだろうか……。
 どうしよう……ものすごく困る気がするのはどうしてなのかな――
「真っ赤だね? そんなところも変わらない。どんな君でも、君にどんなふうに思われようとも、俺は君が好きだから。覚えていてね」
 真面目に、でもにこりと笑顔を添えて言われた。

 三杯もお茶を飲むとお手洗いに行きたくなる。
 立ち上がろうと腰を上げたら秋斗さんと目が合った。
 ……こういうときは「お手洗いです」って言ったほうがいいのかな。でも、それはそれで恥ずかしい気もするし……。
 あまりにも見られているのが恥ずかしくて、
「お手洗いに行ってきます」
 小さな声で申し出ると、秋斗さんは普通ににこりと笑って「いってらっしゃい」と送り出してくれた。
 個室と呼ぶには広すぎるそこで、オイルランプの光を見て心を落ち着ける。
 ただ笑顔を向けられただけなのに、鼓動がうるさくて仕方ない。
 どうしてだろう……。好きな人だから……? それとも、好きだと言われたから?
「よくわからない……」
 紅葉祭の準備が始まると、校内を歩いているだけでいたるところから声をかけられるようになった。それは女子からも男子からも。
 急に呼び止められるのはびっくりする。時々ちょっと怖い。
 でも、その「怖い」を秋斗さんには感じない。
 私は記憶をなくす前、本当に秋斗さんを怖いと思っていたのだろうか。しかも、泣くほどに――
 そっちのほうが疑わしく思える。
 でも、ツカサも秋斗さんも藤原さんも嘘をつく人たちじゃない。
 私が泣いて発狂して、点滴を引き抜いた原因はなんだったのだろう。
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