光のもとで1

葉野りるは

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第十一章 トラウマ

34話

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「旅行中、カメラは俺が預かっているよ」
「はい……」
 たぶん、今はカメラが目につく場所にないほうがいい。
 手に取ったところで何を撮ることもできず、また悩んでしまいそうだから。
 ポンチョを着ようとしたとき、同じ場所にかけられていた秋斗さんのジャケットが目についた。
 ふと、そのジャケットに手を伸ばしてしまう。
「どうかした……?」
 秋斗さんに尋ねられ、
「香りが……」
「あぁ、香水かな?」
「香水、ですか?」
「うん、ローパケンゾーっていう香水。メンズとレディースとあるんだけど、俺はレディースの香水をつけてる。……もしかして、何か思い出した?」
 秋斗さんの真っ直ぐな視線に申し訳なく思う。
 蒼兄と唯兄の視線もこちらを向いているのがわかるけど、何を思い出したわけでもない。
「ごめんなさい……。思い出したわけではなくて、ただ知ってる香りに思えたんです。なんだか懐かしいような気がして……」
「……翠葉ちゃん、一歩前進ってことにしようよ。俺に関する記憶は何ひとつ残っていなかったはずなんだ。香りだけでも記憶に残っていたことが俺は嬉しいよ」
「あのさ、どうせだからそれ物々交換で持ってっちゃえば?」
 唯兄の提案にびっくりする。
「あぁ、いいね。その代わり、翠葉ちゃんのポンチョは置いていってね」
 にこりと笑った秋斗さんを見ていると、
「秋斗さん、ディナーのときにはちゃんとポンチョ着て現れてくださいね」
「なんでだよ……」
「「そりゃ、面白いからでしょ?」」
 蒼兄と唯兄が声を揃えた。
 そんな会話に思わず笑ってしまったけれど、これはきっと唯兄の優しさ。
 この場の空気が重くならないように、私を笑わせるために――
 夏休み中、唯兄はいつだってそうしてきてくれたのだ。
 秋斗さんは、私が寝る前にはなかったバッグの中から透明な瓶を取り出すと、
「これ、香水現物。ジャケットと一緒に持っていく?」
 それを受け取り、蓋を外してクンクン嗅ぐも、同じ香りだけど何かが違う。
 ジャケットの香りのほうが少し柔らかい。
 あ……香水のボトルはトップノートが前面に出ているから?
 秋斗さんから香ったのはミドルノートやラストノートの香り?
 自分なりに分析をしていると、ジャケットを羽織らされ、その上にポンチョもかぶせられた。
「上からポンチョを着ていたら、香りが移るかもよ? それと、このボトルはあげる」
 秋斗さんは躊躇せず、ジャケットのポケットに香水のボトルを入れた。
「えっ!? でも、これ、まだ全然使っていなくて新しいのに――」
「それでも封は開いているし数回は使っているもの。プレゼントには相応しくないけど、好きならあげるよ」
 この香りは好き……。
「いいんですか……?」
 訊くと、にこりと微笑んでくれた。
「嬉しい……ありがとうございます」
 ポケットにあるそれは、カクカクしているのに曲線も併せ持つ美しいボトルだった。
 透明の液体に透明のガラスボトル。飾り棚に置いたらオブジェに見えるだろう。
 指先を曲線に沿わせると、少し冷たくて、この香りにピッタリな温度のような気がした。
 朝露が滴る森林の、陽の光をたくさん浴びた幸せな緑の香り。瑞々しくて、水世界を想像させてくれる香りは、深く深く吸い込みたくなる。

 本館に戻る道を歩いていると、森を抜けた辺りがオレンジ色の光に照らされていた。
 柔らかな光はしだいにはっきりとした形になる。
 キャンドルの炎――
「うわぁ……きれい」
「こういうのはウィステリアホテルの十八番だよ」
 唯兄の手が伸びてきて手をつないだ。
「ほらほら、中を歩こうよっ!」
 手を顔の高さまで持ち上げられたとき、頭の中に会話がよぎった。

 ――「じゃぁ、また連れてこないとね」
 ――「本当にっ!?」
 ――「いつでも連れて来るよ」
 ――「秋斗さん、大好きっ! ……秋斗さん?」
 ――「……ごめん、ちょっと面食らった」
 ――「え?」
 ――「翠葉ちゃん、めったにそういうこと言わないし、こんなこともしないし」
 ――「……今日は特別なんです」
 ――「それでも嬉しいけどね」

 一緒にいたのは秋斗さん。また連れてきてくれると言われて喜んだのは私。
 手は最初からつながれていたけれど、その手に力をこめたのは私。手を目の高さまで持ち上げたのは秋斗さん――
「リィっっっ」
「翠葉っっっ」
「……え?」
「眩暈か?」と訊く蒼兄を視界に認めると、噴水の音や周りの音が聞こえ始めた。
 私は噴水広場に続く道の手前に座り込んでいた。
「あ……ごめんなさい、違うの――」
 記憶が――
 少しだけど、でも――こんなふうに会話と景色が一体となった記憶を思い出すのは初めて。
 パズルのピースではなく、ひとつのまとまりある絵として思い出したのは初めて……。
「どうした?」
 正面から歩いてきたのは昇さんと栞さんだった。
「昇さん、記憶が……」
「部屋で聞こう。ここは冷える。身体は冷やすな」
「さ、立ちましょう?」
 栞さんに促されて立ち上がる。
 まだ五時にはなっていなかったけれど、部屋に戻り、私がお風呂に入ったら治療を始めることになった。

 連れていかれた部屋は、ホテルの一室という感じではない。
 こんなお部屋に泊るのは初めてだ。
「だって、リィ……この部屋、このパレスで一番いい部屋だもん」
 唯兄はさも当たり前のようににこりと笑うけれど、私はその事実に身震いした。
 ウィステリアホテルの中でもパレスは別格だということくらいは知っている。
 その中の一番いい客室って? 一泊いくらくらいするのだろう……。
 どうしても私の考えはそちらへといってしまう。
「翠葉翠葉、考えない考えない……」
 蒼兄が一緒に暗示にかかろう、とでも言うように口にする。
「私たちもこの広さには落ち着かないからって、式を挙げたときもこの部屋ではなくて、エグゼクティブにしたのよ」
 栞さんが笑って言う。
 この部屋は、普通のマンションの3LDKのキッチンがないバージョンのような間取りだ。
 ダイニングとリビングがあり、主寝室のほかにゲストルームが二部屋。
 とても広いのだ。
 ただ、普通のマンションの間取りと何か違うというならば、廊下と呼ばれるような場所はほとんどないこと。
 部屋のインテリアやところどころに飾られているキャンドルや生花。普段なら写真に撮りたいと思うものばかりだけれど、今の私にはそれを堪能する余裕はなかった。
 さっき思い出した記憶が頭から離れず、その前後を思い出せないかと躍起になる自分がいた。
「ほら、まず風呂でも入ってあたたまってこい」
 昇さんに言われてバスルームに向かう。
 脱衣所でポケットに携帯が入っていることを思い出した。
「五時前……」
 ツカサはまだ学校だろう。
 でも、声が聞きたい……。
 ツカサと話したら落ち着ける気がする。
 勇気を出して通話ボタンを押し、五コール鳴らして出なかったら切ろう――そう思っていたのに、二コール目で応答があった。
『どうかした?』
「今、電話していても大丈夫?」
『無理だったら出てない』
 そんな返事にほっとする自分がいる。
『何かあったからかけてきたんじゃないの?』
「……いつもはね、会話の一フレーズとか一シーンを切り取ったような思い出し方しかしないの」
『…………』
「でもね、さっき……会話とその場の景色と全部揃った記憶を思い出してびっくりして――ほかのことも思い出せないかなって、一生懸命考えるんだけど――」
『それは秋兄とパレスに行ったときのことを思い出したってこと?』
「うん。全部じゃないけど……いくつかの会話だけなんだけど……」
『ほかに思い出せることがないなら突き詰めて思い出そうとする必要はない。海馬が壊れても知らないけど?』
「海馬って頭の中の図書館だよね?」
『そう。困るならほかのことを考えれば?』
「それができないから電話したの」
『今、どこ?』
「今? お部屋のバスルーム」
『なんでそんなところから電話?』
「治療を始める前にお風呂であたたまってこいって言われたんだけど、その前に携帯電話を見つけたから?」
『……翠が泊ってる部屋は?』
「ロイヤルスイートって、なんだかあり得ないくらい広いお部屋』
『それは好都合。今、脱衣所ならバスルームのドアを開けてみたら? たぶん、思考停止するくらいの効果はあると思うけど?』
 言われて床から立ち上がり、そろり、と隣のドアを開けてみた。
「何これ――広すぎるでしょ!?」
 バスルームという広さではない。
 マンションのバスルームの三倍くらいはありそうだ。
 それに、大人が三人入ってもゆとりがありそうなバスタブってどうなんだろう……。
 普通のシャワースペースもあるのに、別途シャワーブースがついているのってどうなのかな……。
『基本、ひとりで入るというよりは複数人数で入ることを前提としてあるところだから』
 複数人数?
「家族とか……?」
『まぁ、そんなとこ』
「小さい子は喜びそうだよね。あと、お相撲さんでも入れそう……」
『力士が考慮されてるかは静さんあたりに確認して』
 どこか笑いを噛み殺したような返事だった。
 静さん――
『翠?』
「ん?」
『ほかに何があった?』
「何もないよ……」
『全体を一〇〇として――』
 なんの話……?
『俺の信用はひとつの嘘で五十のマイナスになる』
「……ツカサ、質問」
『何』
「信用を回復させるためのプラス作用の説明も聞いておきたいです」
『コツコツと数値をひとつずつ。なんだったら、翠専用にその半分の値も用意するけど?』
「えええええっ!? それに対してひとつの嘘でマイナス五十はひどいと思うのっ」
『なんとでも』
 涼しい声が聞こえてくる。
 きっと、今目の前にツカサがいたら笑みを浮かべていることだろう。
『最大の譲歩として、さっきの返答は聞かなかったことにしてもいい。その代わり、もう一度訊く。何があった?』
「……秘密」
『その時点で肯定してると思うけど?』
「でも、嘘はついていないもの」
『それは認めるけど……』
「内容は秘密。あまり情けないところばかり見せたくないから」
『別にかまわない』
「ツカサがかまわなくても私がかまう」
『……話ならいつでも聞くから』
「うん、ありがとう。もう少しがんばってみる」
『無理しない程度に。……体調は?』
「悪くはないよ。ただ、身体がだるいのは取れないみたい」
『そっちはこっちよりも冷えるから、身体は冷やさないように』
「うん。電話、出てくれてありがとう」
『どういたしまして』
 通話を切って、床から離脱する。
「うん、なんだか大丈夫な気がしてきた。よし、お風呂っ!」
 頭から爪先までピッカピカに磨いて大きなバスタブに身を沈める。
 壁にいくつかのボタンがついていたので適当にそれらを押すと、バスルームの照明が消えた。
「きゃっ……」
 次の瞬間にはバスタブの中が光だす。
 緑、青、紫、赤、ピンク、白、黄色――
 ライトは順番に色を変えていく。
「きれい……まるでクリスマスのイルミネーションみたい」
 よく見えない中、ボタンをあれこれいじっていると、それらの光の強さが調節できることに気づく。
 まぶしくない程度の光量に設定すると、そのままバスタブに身を預けた。
 色々押していたらブクブクと泡まで出てきて余計に幻想的。
 ぼんやりと水流を見ながら考える。
 思い出せる気はする。だけど、怖い……。
 でも、逃げないと約束をした。
 少し考えてみたけれど、さっき思い出した会話で言った「大好き」。
 あれに恋愛の意味はなかった気がする。
 なら、私はいつ秋斗さんを好きになったのだろう――
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