光のもとで1

葉野りるは

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第十一章 トラウマ

14話

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 鍼のあとは昇さんの治療を受け、少し休んでからマンションに帰った。
 私はロータリーで車を降り、先にエントランスへ踏み入る。と、カフェラウンジに栞さんとゆうこさんがいた。
 お茶を飲みながらフラワーアレンジメントをしているみたい。
 フラワーベースは小さなガラス製。ココットくらいの大きさで、小物好きの心をくすぐる。
 曇りガラスの向こうにオアシスのグリーンが透けて見えるのがとくにツボだった。
「久しぶりね」
 エントランス側を向いて座っていたゆうこさんに話しかけられ、
「お久しぶりです」
「……顔色悪いけど大丈夫?」
「あ……えと、生理で……」
「あら、生理痛ひどいの?」
「はい……」
 大人の女の人はみんな栞さんと同じなのかもしれない。話すことにさほど抵抗を感じない。
「これ、翠葉ちゃんにあげる」
 ゆうこさんが手に持ったのは、テーブルの上に乗っていたフラワーアレンジメント。
「……いいんですか?」
「うん。お部屋に飾って? 小さめだから洗面所でもかわいいかも」
 笑って話すゆうこさんはとても幸せそうに見えた。
 笑顔がかわいくて、心が和むような笑みはまるでお花のよう。
「……嬉しい、ありがとうございます」
 ラウンド型のフラワーアレンジメント。
 全部同じバラだと思うのだけど、あまり見かけないバラだった。
 全体的には白く、花弁の縁だけがほんのりとピンクに染まっている。
「オーソドックスなラウンドアレンジなのだけど、このバラを売っているのが珍しくて、大人買いしちゃったの。だから栞さんにもおすそ分けでアレンジメントを教えていたところなのよ。この子が生まれてきたら、また趣味どころじゃなくなっちゃうから」
 ゆうこさんは大きくなったお腹をさすりながらクスクスと笑った。
「このバラはね、『ときめき』っていう名前なのよ」
 ゆうこさんはにこり、と笑う。
「ときめき……?」
「そう、翠葉ちゃんは恋してる?」
 恋――
「いっぱい恋してきれいになってね」
 と、片手に乗る大きさのフラワーアレンジメントを手渡された。
「ありがとうございます」
 栞さんとも少しだけ話をしてその場を離れると、エントランスには知らないコンシェルジュの人がいた。
「おかえりなさいませ」と言われたら、「ただいま」と答えるのが正解。以前学んでわかっているつもりなのだけど、どうしても「こんにちは」と返してしまう自分がいる。
「学習能力欠乏症かな……?」

 ゲストルームはしんとしていた。
 タイピングの音も何も聞こえない。
「唯兄……?」
 ノックをして唯兄の部屋のドアを開けたけれど、唯兄の姿はない。
 音がした玄関を振り返ると、お母さんが帰ってきたところだった。
「唯くん?」
「うん、いないなと思って……」
「なんだかすごく忙しいみたい。お昼に起きて、一緒にご飯食べたらホテルのメンテナンスに行くって言ってたけど、そのあとは秋斗くんのところで仕事って言ってたわ。夕飯には一度戻ってくるみたいよ? ほら、早く手洗いうがい済ませちゃいなさい」
「はい」

 ゲストルームでお母さんも一緒に暮らし始めたのはつい先日のこと。なのに、本当にここに住んでいた時期があるんだな、と思うくらい、この空間を慣れた調子で行き来する。
 お父さんと暮らしていたときは、今の蒼兄のお部屋を寝室として使っていたみたいだけれど、今はそこで蒼兄と唯兄が寝ていて、お母さんは唯兄の部屋で寝ている。
 ただ、やっぱり短期間とはいえ、慣れがあるのだろう。今朝、唯兄は帰ってくるなり自分の部屋へ吸い込まれるようにしていなくなった。

 お弁当をキッチンへ出しに行くと、
「翠葉は少し休んだら?」
「うん。……お母さん、私、夕飯はきっとほとんど食べられないから、私の分は少なくしてね?」
「わかってるわ。でも、少しは口にしなさいよ?」
「うん。じゃないとお薬飲めないものね」
 もう薬の効果は切れている。たぶん、ご飯を食べなくちゃとかそういう話ではなく、戻さないようにしなくちゃ。そんな感じ。
「明日、学校行けるかな……」
「つらいなら休みなさい。戻すのは体力を使うし、何よりもそんなに冷や汗をかいてる状態じゃ授業を受けるのは無理でしょう?」
 そう言って額の汗を拭われた。
「うん……」
「翠葉、学校は逃げないわ」
 お母さんに背を押されて自室へ戻り、ベッドに横になる。
「わかってるの……わかってるんだけど――」
 一学期だって生理のたびに休んできたのだ。
 学校は逃げないし、休んだからといって桃華さんたちが態度を一変させるとも思っていない。
 わかってる――でも、学期始めの授業を欠席する引け目と、長年身にしみてしまった経験が不安にさせる。
「休み明けの学校は怖いの……」
「……それは今も?」
「……桃華さんや海斗くんたち、ううん――クラスメイトは中学の同級生とは違う。それはわかっているの。でも……怖いって思っちゃう。不安になるの」
「……最初から藤宮に入れていたら何か違ったのかしら……」
 お母さんの小さな呟きに、
「っ……あのねっ、違うっ……何もできなかったなんて思わないでねっ!?」
「私、私もあのときは学校よりも体調のほうがつらくて、だから……そのときに紫先生に会えたことはとても幸せなことだった。出逢ったからといって身体が楽になることはなかったけど、でも――理解してくれる人がいるってわかったとき、ものすごくほっとしたの……だから――」
 言いたいことをまとめきれない。
「……うん、そうね。でも、今は少し休みなさい。顔色が悪いわ……生姜湯と湯たんぽ持ってくるから」
 お母さんはそう言って部屋を出ていった。
「やだな……やっぱり、悲しそうな顔をされるのは嫌――」
 お母さん、このつらいのもね、知覚神経の痛みと同じって相馬先生が言ってた。
 私自身が覚えてしまっているものだから、そこを自分が払拭しないとだめなの――


「リィ、ご飯の時間だけど……大丈夫? すごい冷や汗」
「……ん」
 痛みで休むことなんてできなかった。ただ、横になっていただけ……。
「碧さんから聞いた。生理痛、ひどいんだってね?」
 ……いた。ここにも普通に話す人が……。
「生姜湯は飲めたんだ? 良かった良かった」
 唯兄は空のマグカップを見て笑う。
 唯兄はお兄ちゃんだけど、まだこういう話は少し恥ずかしい。でも、ツカサ同様にあまりにも普通に話すから、ちょっと戸惑う。
「起きられそう?」
「ん……」
 身体を起こし、お腹を抱えたままダイニングへ行くと栞さんもいた。
「昇が遅いときは夕飯にお邪魔させてね」
 そんなの全然お安いご用でお邪魔じゃない。
「おうどんだから、食べられる分だけ食べてお薬飲んじゃいなさい」
 お母さんに言われて食べ始めたけれど、お腹が痛いのと吐き気でほとんど食べることはできず、早々に薬を飲んでまた横になった。

 結局、夜中に一度戻し、今日は学校を休んでいる。
 休んでいるのは学校だけで、家にいるからといって身体が休まるわけではない。常にひどい腹痛と吐き気、それらに身体を蝕まれている。
 生理なんてなければいいのに……。
 真面目にそう思う。けれども、そしたら赤ちゃんはできないのだ。
 中学で習った保健体育の内容を思い出してみたけれど、どこからが性教育だったのか、と首を傾げてしまう。
 藤宮の性教育はどういうものなのだろう。きっと、私が想像もできないようなものなのだろう。
 お母さんが何度か湯たんぽのお湯を変えにきてくれ、蒼兄と唯兄は秋斗さんのところへ入り浸っている。
 お仕事のお手伝いをしているのかな、なんてぼんやりと考えながら天井を見ていた。
 薬が効いている時間だけはゆっくりと眠ることができる。そしてまた、痛みに起こされるのだ。
 少なくともあと数日はこの痛みと付き合わなくてはいけない事実をひしひしと感じ、身体を丸めて目を瞑った。
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