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第十一章 トラウマ
13話(挿絵あり)
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入院中はツカサがお見舞いに来てくれるたびに、必ず一度は言い合いをしていた気がする。
夏休み――それは、私にとって特別な長期休暇ではなく、入院で埋めつくされた期間だった。
けれども、一日だけ夏休みらしく過ごせた日がある。
退院前日、病院の屋上で、私は夏の風物詩を楽しむことができた――
「また言わないし……」
「……言うのにだってタイミングがあるもの」
それは屋上へ連れて行ってもらう途中での会話。
私はエレベーター内で貧血を起こし、床にぺしゃんと座り込んでいた。
「タイミングって何。無理してここまで来て具合悪くなってたら意味ないだろ?」
「でも、調子が悪いって言ったら連れていってもらえないでしょ?」
「当たり前」
必死になって夏休みの課題を終わらせたのだ。
早く終わらせたくて、この日までに終わらせたくて、問題集に噛り付く日々だった。
たったの三日間と言われるかもしれないけれど、その三日はほとんどが病室。お手洗いとお風呂以外の時間は病室で宿題をしていたのだ。
その前の期間は薬の副作用がひどくて身体を起こせる状態にはなかったし……。
正味半月だ。半月の間、病室からほとんど出られなかったのだ。
ようやく課題が終わったこの日、秋斗さんが来てくれたときに少しだけ中庭に出ることができたけれど、それ以外で病室を出ることはなかった。
この日は藤倉市主催の花火大会があり、病院の屋上が絶景スポットであることを湊先生から聞いて知っていた。
病院の北に流れる藤川の河川敷から打ち上げるそうで、ほぼ目の前、真上に近い状態で見られるのだとか。
それを見にいきたくて宿題をがんばったのに、具合が悪くてお預けなんて嫌だ……。
普段、お祭りや花火大会には行かない。人ごみで人酔いしてしまうし、休む場所が意外と少ないから。
だから、いつも遠くから小さく見える花火を眺めるだけだった。
花火とは、浴衣を着てお庭でするもの。それが私の認識、プラス経験則――
けれども、煙を吸えば喉が痛むし咳が出る。ひどいときにはアレルギー鼻炎のような症状もプラスされ、喉を腫らして熱を出す。そんなわけで、私と花火とは縁遠い。
「病室に戻らないとだめ……?」
エレベーターの壁に身体を預けたまま訊くと、
「車椅子で北側にある談話室まで行けば見られなくはない」
ツカサの言うことは正しい。でも、
「屋内から見るのと屋外で見るのは違うと思うの」
だめもとの抗議を試みる。
「屋内で見るほうが涼しいと思うけど?」
目を合わせたまま抗議続行。すると、ツカサは大きなため息をひとつついた。
「抱えていいならいいけど」
「え……?」
「横抱き、嫌だろ?」
意地悪な笑みを浮かべて訊いてくる。
「……嫌なんじゃなくて、恥ずかしいだけだもの。蒼兄にしてもらうのとは違うし、それに、自分で歩きたいだけだよ」
下を向いて言えば、
「だから、恥ずかしい思いをしてまで見たいならいいって言ってる。このままここにいても花火は見られない」
落ち着き払った声が上から降ってくる。
エレベーターは屋上に着き、一度扉が開いてほどなくしてから閉じた。今は閉まったまま屋上に停留している。
ツカサの視線は「翠の負け」と言っているような気がしてならない。それも悔しいけれど、やっぱり見たい気持ちが勝ってしまう。
「恥ずかしくてもいいっっっ。でも、重くても途中で落とさないでよねっ!? 落とされたら絶対に痛いんだからっ」
ツカサを睨むように見上げたら、「ぷっ」と吹きだされた。
「どうして笑うの……?」
ツカサは何も答えず、私を抱え上げた。
ツカサは決して体格がいいわけじゃないし、どちらかというなら細身だろう。なのに、私のことを軽々と抱き上げる。
こんなとき、力の差を感じ、男子なんだな、と思う。
左手をツカサの首に回したら、骨ではなく筋肉の硬さに触れた。
蒼兄と同じ、筋肉の硬さ……。
間近にツカサの顔があってドキドキする。こんなに近くで見てもきれい……。
私の意識はツカサに釘付けだった。しかし、それも束の間――
エレベーターのドアが開くと、ドーン――と大きな音がダイレクトに聞こえてきた。
頭が空っぽになりそうなくらいの大音量。音と共に目の前に広がる花火が大きくて――大きな花火に意識を掻っ攫われる。
(イラスト:涼倉かのこ様)
「菊の花みたい……」
エレベーターの中でも音は聞こえていた。けれども、何ものにも阻まれない場所で聞く音は一際大きく感じる。
この屋上は九階と十階に入院している患者しか立ち入りが許されていないため、私たち以外の人はいない。
「そこまでして見たいか?」
ツカサが首を捻った。
大きな音が聞こえる中、より近くでツカサの声がしてくすぐったい。でも、この声が好き……。
「こんなにきれいに見えるのに、ほかの人が見に来れないのはもったいないね? すごい、すごくきれいだね」
「普通だろ?」
「違うっ、全然普通じゃないよっ!? だってこんなに大きな花火は初めて見たよっ? すごい、すごいっっっ! おっきいっ!」
「わかったから、少し落ち着け。じゃないと落とす」
落とすと言われたら黙るしかない。
花火は次々と上がり、儚く散っては次の花が咲く。
お気に入りのハーブ園のベンチまで行くと、
「横になっても見える」
寝てろ言わんばかりに下ろされた。
花火は遠くの空に見えるわけではない。建物が邪魔して欠けて見えるでもなく、大きな大輪が頭上に広がる。
「風がこっちに向かって吹いているから少し流されてるんだな」
そんなふうにツカサが分析した。
「ツカサ、すごいね? ドーン、ってすごいねっ!? 見て見て! 星が降ってくるみたいっ、光のカーテンだよっ!」
ただひたすらにはしゃいでいたと思う。
ツカサは私の頭の方に座り、何を言うでもなく空を見上げていた。
横になって頭に血液が行けば眩暈も吐き気もなくなる。
花火を見ている間横になっていれば、病室に戻るときには血圧も安定して自分で歩いて戻れる。そう思っていた。でも、実際はそんなに甘くなかった。
すごく興奮していたから血圧も少しは高かったはずなのに、ベンチから起き上がり立って
数歩――時間差で眩暈がきた。
ツカサが咄嗟に支えてくれなければ、間違いなく倒れていただろう。
「あんなに騒ぐからだ、バカ……」
呆れた声だけが聞こえる。そして、「拒否権なし」の言葉が聞こえたときにはふわり、と抱き上げられていた。
「ツカサ……目の前、真っ暗だけどまだ花火が見える。チカチカしてる」
「……それ、あまりいい花火じゃないと思う」
「うん……さっきの花火みたいにきれいとは思わない、気持ち悪い……」
そんな話をしながら九階に戻ると、相馬先生にまんまと見つかった。
「何やってんだ?」
ちゃんと許可を得てから屋上に行った。でも、相変わらず身体の負担になることは禁止だと言われている。
だから、途中で貧血を起こしたのに引き返さなかった私がルール違反。それでも譲れなかった花火大会。
それをふたりに力説したら、笑われて呆れられて怒られた。
笑ったのは相馬先生。
「花火を見たことがないってどんなだよ」
「見たことはありますっ! ただ、いつも遠くから見ていたから、建物が邪魔して欠けたのしか見たことがなかっただけ……。それに人ごみは苦手だもの……」
「そうかそうか。じゃ、その格別な花火を見るのと引き換えに身体を犠牲にしたわけだな?」
そこをつかれると言葉に詰まる。ツカサは、
「あんなの来年だってやるだろ」
と一言で片付ける始末だ。
「でもっ、今年の花火大会はあれだけだし、来年も同じものが見られるわけじゃないでしょうっ!? それに、来年は雨かもしれないじゃないっ」
「……スイハにしては珍しく食い下がるな?」
相馬先生と同じように、ツカサも物珍しいものを見るような目で私を見ていた。
「噛み付き方が尋常じゃないんだけど……」
「……ごめんなさい。でも、私、夏休みらしい夏休みがなかったんだもの」
「ま、ずっとここにいたしな」
相馬先生は少し同情の念を見せてくれたのに対し、ツカサは全く容赦なかった。
「病人なんだから仕方ないだろ」
「好きで病人やってないっ」
「誰も翠が好きで病人やってるとは言ってない」
ああ言えばこう言う、そんなやり取りを就寝時間まで続けた。それが、退院前日の夜の出来事だった。
夏休み――それは、私にとって特別な長期休暇ではなく、入院で埋めつくされた期間だった。
けれども、一日だけ夏休みらしく過ごせた日がある。
退院前日、病院の屋上で、私は夏の風物詩を楽しむことができた――
「また言わないし……」
「……言うのにだってタイミングがあるもの」
それは屋上へ連れて行ってもらう途中での会話。
私はエレベーター内で貧血を起こし、床にぺしゃんと座り込んでいた。
「タイミングって何。無理してここまで来て具合悪くなってたら意味ないだろ?」
「でも、調子が悪いって言ったら連れていってもらえないでしょ?」
「当たり前」
必死になって夏休みの課題を終わらせたのだ。
早く終わらせたくて、この日までに終わらせたくて、問題集に噛り付く日々だった。
たったの三日間と言われるかもしれないけれど、その三日はほとんどが病室。お手洗いとお風呂以外の時間は病室で宿題をしていたのだ。
その前の期間は薬の副作用がひどくて身体を起こせる状態にはなかったし……。
正味半月だ。半月の間、病室からほとんど出られなかったのだ。
ようやく課題が終わったこの日、秋斗さんが来てくれたときに少しだけ中庭に出ることができたけれど、それ以外で病室を出ることはなかった。
この日は藤倉市主催の花火大会があり、病院の屋上が絶景スポットであることを湊先生から聞いて知っていた。
病院の北に流れる藤川の河川敷から打ち上げるそうで、ほぼ目の前、真上に近い状態で見られるのだとか。
それを見にいきたくて宿題をがんばったのに、具合が悪くてお預けなんて嫌だ……。
普段、お祭りや花火大会には行かない。人ごみで人酔いしてしまうし、休む場所が意外と少ないから。
だから、いつも遠くから小さく見える花火を眺めるだけだった。
花火とは、浴衣を着てお庭でするもの。それが私の認識、プラス経験則――
けれども、煙を吸えば喉が痛むし咳が出る。ひどいときにはアレルギー鼻炎のような症状もプラスされ、喉を腫らして熱を出す。そんなわけで、私と花火とは縁遠い。
「病室に戻らないとだめ……?」
エレベーターの壁に身体を預けたまま訊くと、
「車椅子で北側にある談話室まで行けば見られなくはない」
ツカサの言うことは正しい。でも、
「屋内から見るのと屋外で見るのは違うと思うの」
だめもとの抗議を試みる。
「屋内で見るほうが涼しいと思うけど?」
目を合わせたまま抗議続行。すると、ツカサは大きなため息をひとつついた。
「抱えていいならいいけど」
「え……?」
「横抱き、嫌だろ?」
意地悪な笑みを浮かべて訊いてくる。
「……嫌なんじゃなくて、恥ずかしいだけだもの。蒼兄にしてもらうのとは違うし、それに、自分で歩きたいだけだよ」
下を向いて言えば、
「だから、恥ずかしい思いをしてまで見たいならいいって言ってる。このままここにいても花火は見られない」
落ち着き払った声が上から降ってくる。
エレベーターは屋上に着き、一度扉が開いてほどなくしてから閉じた。今は閉まったまま屋上に停留している。
ツカサの視線は「翠の負け」と言っているような気がしてならない。それも悔しいけれど、やっぱり見たい気持ちが勝ってしまう。
「恥ずかしくてもいいっっっ。でも、重くても途中で落とさないでよねっ!? 落とされたら絶対に痛いんだからっ」
ツカサを睨むように見上げたら、「ぷっ」と吹きだされた。
「どうして笑うの……?」
ツカサは何も答えず、私を抱え上げた。
ツカサは決して体格がいいわけじゃないし、どちらかというなら細身だろう。なのに、私のことを軽々と抱き上げる。
こんなとき、力の差を感じ、男子なんだな、と思う。
左手をツカサの首に回したら、骨ではなく筋肉の硬さに触れた。
蒼兄と同じ、筋肉の硬さ……。
間近にツカサの顔があってドキドキする。こんなに近くで見てもきれい……。
私の意識はツカサに釘付けだった。しかし、それも束の間――
エレベーターのドアが開くと、ドーン――と大きな音がダイレクトに聞こえてきた。
頭が空っぽになりそうなくらいの大音量。音と共に目の前に広がる花火が大きくて――大きな花火に意識を掻っ攫われる。
(イラスト:涼倉かのこ様)
「菊の花みたい……」
エレベーターの中でも音は聞こえていた。けれども、何ものにも阻まれない場所で聞く音は一際大きく感じる。
この屋上は九階と十階に入院している患者しか立ち入りが許されていないため、私たち以外の人はいない。
「そこまでして見たいか?」
ツカサが首を捻った。
大きな音が聞こえる中、より近くでツカサの声がしてくすぐったい。でも、この声が好き……。
「こんなにきれいに見えるのに、ほかの人が見に来れないのはもったいないね? すごい、すごくきれいだね」
「普通だろ?」
「違うっ、全然普通じゃないよっ!? だってこんなに大きな花火は初めて見たよっ? すごい、すごいっっっ! おっきいっ!」
「わかったから、少し落ち着け。じゃないと落とす」
落とすと言われたら黙るしかない。
花火は次々と上がり、儚く散っては次の花が咲く。
お気に入りのハーブ園のベンチまで行くと、
「横になっても見える」
寝てろ言わんばかりに下ろされた。
花火は遠くの空に見えるわけではない。建物が邪魔して欠けて見えるでもなく、大きな大輪が頭上に広がる。
「風がこっちに向かって吹いているから少し流されてるんだな」
そんなふうにツカサが分析した。
「ツカサ、すごいね? ドーン、ってすごいねっ!? 見て見て! 星が降ってくるみたいっ、光のカーテンだよっ!」
ただひたすらにはしゃいでいたと思う。
ツカサは私の頭の方に座り、何を言うでもなく空を見上げていた。
横になって頭に血液が行けば眩暈も吐き気もなくなる。
花火を見ている間横になっていれば、病室に戻るときには血圧も安定して自分で歩いて戻れる。そう思っていた。でも、実際はそんなに甘くなかった。
すごく興奮していたから血圧も少しは高かったはずなのに、ベンチから起き上がり立って
数歩――時間差で眩暈がきた。
ツカサが咄嗟に支えてくれなければ、間違いなく倒れていただろう。
「あんなに騒ぐからだ、バカ……」
呆れた声だけが聞こえる。そして、「拒否権なし」の言葉が聞こえたときにはふわり、と抱き上げられていた。
「ツカサ……目の前、真っ暗だけどまだ花火が見える。チカチカしてる」
「……それ、あまりいい花火じゃないと思う」
「うん……さっきの花火みたいにきれいとは思わない、気持ち悪い……」
そんな話をしながら九階に戻ると、相馬先生にまんまと見つかった。
「何やってんだ?」
ちゃんと許可を得てから屋上に行った。でも、相変わらず身体の負担になることは禁止だと言われている。
だから、途中で貧血を起こしたのに引き返さなかった私がルール違反。それでも譲れなかった花火大会。
それをふたりに力説したら、笑われて呆れられて怒られた。
笑ったのは相馬先生。
「花火を見たことがないってどんなだよ」
「見たことはありますっ! ただ、いつも遠くから見ていたから、建物が邪魔して欠けたのしか見たことがなかっただけ……。それに人ごみは苦手だもの……」
「そうかそうか。じゃ、その格別な花火を見るのと引き換えに身体を犠牲にしたわけだな?」
そこをつかれると言葉に詰まる。ツカサは、
「あんなの来年だってやるだろ」
と一言で片付ける始末だ。
「でもっ、今年の花火大会はあれだけだし、来年も同じものが見られるわけじゃないでしょうっ!? それに、来年は雨かもしれないじゃないっ」
「……スイハにしては珍しく食い下がるな?」
相馬先生と同じように、ツカサも物珍しいものを見るような目で私を見ていた。
「噛み付き方が尋常じゃないんだけど……」
「……ごめんなさい。でも、私、夏休みらしい夏休みがなかったんだもの」
「ま、ずっとここにいたしな」
相馬先生は少し同情の念を見せてくれたのに対し、ツカサは全く容赦なかった。
「病人なんだから仕方ないだろ」
「好きで病人やってないっ」
「誰も翠が好きで病人やってるとは言ってない」
ああ言えばこう言う、そんなやり取りを就寝時間まで続けた。それが、退院前日の夜の出来事だった。
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