光のもとで1

葉野りるは

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第十章 なくした宝物

34話

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 携帯に届いていたメールは佐野くんとお父さん、それから秋斗さんだった。
 佐野くんからはマッサージを受けるときに寄ってもいいか、というお尋ねメールで、お父さんからは月末には帰れるかもしれない、という内容。
 秋斗さんからのメールにはこちらを気遣う内容が連なっていた。


件名 :大丈夫かな
本文 :話を聞いて負担になっていないといいんだけど……。
   思い出してほしくないと言ったら嘘になる。
   でも、今までの記憶があってもなくても、
   今からの関係にはなんの支障もない。
   君はそのままでいいから。
   あまり考え込まないでほしい。
   考えるあまりに会えなくなるのなら、何も考えてほしくはない。

   翠葉ちゃんに会いたい。
   寝てる君でもいい。
   ただ、君に会いたい。


 何を返したらいいのだろう……。
 メールを読んでいるときもツカサはベッドサイドにいた。
 次の操作もせずに固まっていると、
「秋兄から?」
 なんでわかるのかな……。
「……そう」
「返事して。今すぐして」
 命令口調ではないのに、命令されている気分。
「その人、翠に放っておかれると仕事しなくなりそうだから」
「まさか……」
「前科あり。それで若槻さんがかなり酷使されたはずだけど?」
 何か……何か返信しなくちゃ――
「どうせ、会いたいって内容じゃないの?」
 内容まで当てられてびっくりした。
「粗方そんな感じ、かな?」
 そのほかに嬉しいことが書いてあった。
 そのままでの私でいいと、記憶があってもなくても変わらないと……。
 少し困るのは、秋斗さんが私に持っている感情が恋愛感情だから。
 私にはよくわからない。思い出せないというよりも、その感情がよくわからない……。
 私は初恋をしたそうだけど、その記憶が私にはなく、どんな感情なのかもよくわからないから。
 だから、少し困る……。
「メール打ったら俺が送信してくるけど?」
「……なんて返信したらいいのか悩んでる」
「会いたいって言われたならいいか悪いかのどっちかだろ?」
 そう言われると、とても簡単なことに思えた。
「じゃ、少し待ってもらえる?」
 ツカサは何も言わずに本を広げた。


件名 :ありがとうございます
本文 :記憶はまだ戻りません。
   この先戻るのかもわかりません。
   でも、ひとつだけわかったことがあります。
   ツカサと話をしていたら大切だと思いました。
   一緒にいて楽に呼吸ができました。
   たぶん、秋斗さんとも会ってお話をしていたら、
   そういう気持ちを感じることができるのだと思います。
   だから、私に時間をください。
   秋斗さんと会ってお話をして、
   また大切な人と思えるまで時間をください。
   きっと、また大切な人だと感じることができるはずだから……。

   今は薬の副作用がひどくて身体を起こすことができません。
   それでも良ければいらしてください。


 十三日以降、ツカサは毎日のように来てくれた。
 来てくれたところで、私は話もできないくらい吐き気に見舞われていたのだけど、そんなときは話しかけるでもなく、ただ私の視界に入る場所で本を読んでいた。
 それが続くと、空気みたいな存在になりつつあった。
 途中で蒼兄や唯兄、お母さんが来れば病室を出ていったり、一緒に雑談をしていたり。
 ツカサの口数は少ないものの、少しずつ家族に慣れ始めているのが見て取れた。
 十五日には麻酔科の先生、久住高良くずみたから先生が挨拶にいらしてくださった。
 手術と診察の過密スケジュールをこなしている先生と紹介されたものの、殺伐とした感じは見受けられず、朗らかに笑う先生だった。
「去年までは神経ブロックや硬膜外ブロックをしていたと聞きました。今年は違う治療法ですね」
「神経ブロックはもうやりたくないです……」
「そうですよねぇ……。神経の中枢に打つ注射は痛いですからね。やらないに越したことはありません」
 そんな話をしながら治療が始まる。
 その場には昇さんと相馬先生、楓先生もいて、なんだかとても恥ずかしかった。
 治療のときは、広範囲に注射を打つ都合上、ほとんど下着のような格好になる。でも、ここにいる人はみんなお医者様で、みんな私の治療をしたことがあるのだから、今さらと言われたら今さらだ。
 それでも恥ずかしいことに変わりはなく、しかし恥ずかしいと言えないのが治療時間で……。
「翠葉ちゃん、バスタオルをかけて治療場所を少しずつずらしていくからね」
 楓先生が大きなバスタオルを二枚用意してくれていた。
「……ありがとうございます」
「うん、やっぱり恥ずかしいよね。年頃だもんね」
 こういうところが楓先生だな、と思う。
 いつも私の目線を……患者の目線で物事を考えてくれる。
 そんな楓先生を見て、昇さんが「いい医者になったな」と口にした。
「神崎先生、まだまだひよっ子ですよ。とっとと指導医クラスまで上がってきてほしいものです」
 楓先生をひよっ子扱いするのは久住先生。
 私から見たら楓先生は立派に大人の分類だけど、先生たちの中に混ざると子ども扱いされていて、なんだか変な気分。
 私が久住先生の治療を受けている間、楓先生と昇さんがスケジュールの確認をしていた。
 その話からわかったことといえば、この治療を毎日受けるためにはひとりの医師だけでは無理だということ。
 久住先生は外来に出ていない日はほぼ毎日のように手術スタッフに名を連ねているらしく、また、外科に下りた昇さんも連日手術の予定が入っていたのだ。
 そんなふたりは自由になる時間がとても少ない。
 そこへ自分の治療時間をねじ込んでいるかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「楓先生、ここでその話をするのはどうでしょう?」
 治療をしていた久住先生が振り返り声をかける。と、楓先生がはっとした顔で私を見た。
「御園生……翠葉ちゃん、でしたね。すみません、ここでする話ではありませんでした。でも、あなたがそんな顔をする必要はありません」
 久住先生はベッドに横になる私に視線を合わせるためしゃがみこむ。
「翠葉ちゃんのお仕事は、治療を受けて元気になることです。医者のことを気遣う必要も、申し訳ないと思う必要もありません」
「……はい」
 どうしてか涙が零れる。
「おやおや、泣かせてしまいました。どうしましょう」
 久住先生は少しうろたえ、その背後から現れた楓先生が優しく頭を撫でてくれた。
「きっと、久住先生の言葉が嬉しかったんでしょう。……ね?」
 それに頷くと、
「あれだけ病院をたらいまわしにされ、ここまでの痛みを我慢してきたんだ。無理はねぇな」
 相馬先生の言葉のあとは昇さんが口を開いた。
「俺たちも早く楽にしてあげたいんだよ」
 ここの先生たちは優しい……。痛みを理解してくれる。
 誰も私のせいだなんて言わないし、精神的におかしいとも言わない。
 それだけでこんなに救われるとは思いもしなかった。
 紫先生も藤原さんも、湊先生もみんな大好き。
 今、私にはいったい何人の先生がついてくれているのだろう。たくさんの先生がついてくれているのだから、私は早く元気にならなくちゃいけない。
 そう思ったとき、
「気負うなよ?」
 すかさず相馬先生に釘を刺された。
「今年の学会には私も出席する予定です。翠葉ちゃん、一緒にがんばりましょう」
 久住先生の言葉に、「はい」と答えた。
 先生たちは患者だけにがんばらせない。先生たちだけががんばらない。
 一緒にがんばろう、と言ってくれる。それが、とても嬉しかった。


 八月の終わり、佐野くんがお見舞いに来てくれた。
「調子はどう?」
「副作用もだいぶ抜けてきたし、少しずつご飯も食べられるようになったよ」
 二週間きっちりで副作用は治まった。
 それからは普通にご飯も食べられるようになり、高カロリー輸液も外された。
 左手の点滴はまだついたままだけど、脱水症状が完全に抜けてないから、退院まで続けると湊先生に言われていた。
「記憶は……?」
 佐野くんは訊きづらそうに口にする。
「まだ思い出せないの。でも、たぶん大丈夫……」
「え?」
「記憶がない部分の話は全部聞いたの。……ショックを受けることは受けたんだけど、話を聞いていても、自分の話には思えなかった……」
「悪い……話すのがつらかったら言わなくていいから」
 佐野くんはそう言ってくれたけど、
「違うよ。……つらいことはつらいけど、でも違う。記憶はなくても、今から関係を築くことはできるんだよね?」
「……御園生?」
「あのね、ツカサと話をしていてわかったの。記憶がなくても私はツカサが大切だと思う。だから、また話をしたり一緒にいる時間があれば大切だとか好きだとか、そういう気持ちは私の中に芽生えるんじゃないかな、って……。それまで時間をくださいって秋斗さんにもお願いをしたの」
 佐野くんはものすごく驚いた顔をしていた。
「佐野くん……?」
「あぁ、ごめん……。なんか、御園生が変わったっていうか、強くなった気がして驚いた」
「……そう?」
「うん。人の影に隠れて怯えてる感じがないっていうか……」
 その言葉に私は苦笑する。
「私、本当にどうしようもない子だったんだね」
「……なんていうか、御園生は真っ白だなぁって思ってた。白ってさ、ほかの色に染まる色だけど、そんな白じゃなくてさ、もっともっと強力に強い白なんだ。どんなに上から色を重ねても白に負けちゃう感じ。そんなふうに思ってた。それは変わらなくて、さらに強力な白になった感じ」
「少し独特なたとえ話だね? 自分のことをそんなに強い色だと思うことはできないけれど、でも、白って色はとても影響力のある色だと思う」
「うん」
 私と佐野くんは顔を見合わせて笑った。
「でさ、気になるんだけど……。その、大切とか好きとかって……どの辺の意味が適用されんのかな?」
 どの辺の意味……?
「恋愛ってこと? それとも友達として?」
 どこかビクビクとしながら訊いてくる佐野くんを不思議に思う。
「……種類?」
「うん、そんな感じ」
「……種類は――考えてなかったな」
 正直に答えると、佐野くんは脱力した。
「そっか……。でも、それでいいのかもしれない。気づくときには気づくだろうし。……で? CDは聴いたの?」
 あ――
「わかった、聴いてないわけね? でも、頼むから二学期までには聴いてくれ」
「ごめん、ね……?」
「いや、大変だったのは知ってるし。……っていうか、宿題終わった?」
 え――?
「……宿題ってなんの話だろう」
「お嬢さん、そちらもお忘れでしたか……。二学期始まるまであと一週間切ってるぜ?」
「どうしようっ!?」
「どうしようも何も、がんばるしかないだろぉ……。あぁ、ちょっといい気味。俺全部終わってるんだよね。そしてこれから海に行く予定! じゃ、がんばれよっ!」
 佐野くんは足取り軽やかに病室を出ていった。
 私の宿題宿題……。
 クローゼットの中からそれらしきもの見つける。
 古典と英語の冊子が二冊。
 その後、絶望感たっぷりでその二冊に取り組む羽目になったのは言うまでもない。
 佐野くん、できればもう少し早くに教えてほしかったです――
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