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第十章 なくした宝物
26話
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昇さんが病室を出ると、ものすごく機嫌の悪そうなツカサが戻ってきた。
眉間のしわがいつもよりも深い。そして、戻ってくるなり淡々と話し始めた。
話のテンポは異様なまでに速く、話を理解するというよりも、話を聞くこと事体に集中しなくてはいけない感じ。
今日会ったときのような、話を始めたときのような、こちらを気遣う雰囲気は一切なくなっていた。
いったいいつからだっただろう。どのあたりからだっただろう。
何か、どこかで気づかなくてはいけなかったものを見落としてしまった気分だ。
そのことには秋斗さんも気づいているようで、名前を呼び捨てで呼ぶいきさつを話し終わるとすぐに制止しに入った。
「ツカサ、そんな読み上げるような話し方じゃ翠葉ちゃんはついていけない」
「だから?」
ツカサは冷たい視線を秋斗さんへ向けた。
「逆に、時間をかけても思い出せるわけじゃないんだろ? なら、知識として頭に入っていればそれでいいんじゃないの?」
ポンポン、と反論できないような言葉を返される。
私には反論する余地などない。
現に、こんなに時間をかけて話してもらっているのに、私は何ひとつ思い出せてはいないのだから。
「異論がないなら次」
ツカサの頭には機械が入っているのかもしれない。その機械の検索データに引っかかったものだけを口にする。
そんな話し方が続いた。
「翠は、ほかの人たちは昇さんに呼ばせ、秋兄だけは自分で連絡すると言った。……それもひどい話だろ。髪を切ったことは確かに性質が悪いと思う。でも、だからといって、それだけを特別視する必要はなかったんじゃないの?」
射抜かれるような眼差しにはだいぶ慣れたつもりでいた。でも、つもりだっただけみたい。
いったい、いつまでこんな目で見られなくてはいけないのか……。
不安で胸がざわざわするくらいには、全然慣れてなどいなかった。
話を続ければ続けるほどに、ツカサの言葉は棘を増す。
「その先は俺が話す」
秋斗さんが口を挟んでも、
「秋兄が話すと現実が歪む」
ツカサは容赦なく切り捨てる。
秋斗さんに向ける視線も、私に向けるものと同様、ひどく冷たいものだった。
「俺は翠との電話を切ってすぐに秋兄のもとへ行った。秋兄が翠の電話を受けたところも、何を話したのかも、全部見ていた」
ツカサは、秋斗さんが口にした言葉を吐き出すように次々と口にした。
「……信じられないだろ? ただ謝るだけなのにここまで時間を要す人間も、会いに行きたくてもこんな事情から会いにいけなくなった人間も――そんなふたりが交わした会話の内容も」
秋斗さんの言葉すべてにゾクリと肌が粟立つ。
この人が――この優しそうな人がそんなことを言ったのだろうか。
「翠、嘘でもなんでもないから。俺はそこにいたんだ」
「司、その先は俺が話す」
「そうしてよ……事細かに話してよ。どんなにひどい会話をしたのかさ」
秋斗さんを一瞥すると、ツカサは応接セットの方へと移動した。
――戦線離脱。そんな言葉すらしっくりきてしまう。
話の内容に集中できなくなるくらい、ツカサの放つ雰囲気に呑み込まれていた。
「翠葉ちゃん」
静さんに声をかけられ、意識を話へ戻すように、と促される。
秋斗さんを見れば、わずかに震えているように見えた。
深く息を吸い込み、「これが俺のしたこと」と話し始める。
「君は、俺が自分を責めないでほしいと言っても絶対に聞きはしなかっただろう。なら、擁護するよりも罪を償うように駒を進めたほうがいいと思った。……言い訳にしか聞こえないと思うけど、本当に何をするつもりもなかったんだ。もう一度、自分の彼女という枠におさめ、少しでも償いの期間が取れれば翠葉ちゃんを納得させることができると思った。もし、それで嫌われることになったとしても、君が自分を責め続けて苦しむよりはいいと思った」
「だから――」と続けるその言葉の先には、想像を絶するようなやり取りがあった。
それは「やり取り」と呼べるものではなく、秋斗さんが言う言葉に対し、私はまともな反応をひとつもできなかったに等しい。
「十階へ連れていったことも覚えてないよね」
訊かれて頷く。
「そこではもっと嫌なことを言ったし、身の危険を感じるようなこともした。数々のセキュリティを解除し、病室に着いてからは唇も奪った。まだ足りない、と脅すように口にした」
――「俺の母親もツカサたちの母親も、この部屋で出産したんだよ。帝王切開にならない限り、この部屋で産むことができる。そういう設備が整えられている。……いつか、翠葉ちゃんがこの部屋を使うことになると嬉しいね。もちろん、俺の子どもを産むために」。
「翠葉ちゃんはそういうことをとても怖がる傾向があったから、追い詰めるために口にした。
秋斗さんは口を噤み、
「信じてもらえるかな……。俺は、こんなに衰弱してしまった君をこの場で無理やり襲うつもりはなかったんだ」
信じる――何を? 誰を信じるの……?
そのボーダーラインがどのあたりにあるのかすらわからない。
私はこの人を信じていたの? 私はこの人を信じているの?
「翠葉ちゃん、少し深呼吸しようか」
気づけば静さんが近くにいた。
「私と一緒に十階へ行ってみないかい?」
この部屋の空気が、肌や目、何もかもに沁みて痛い。
私は窒息しそうなこの部屋から出たいがために、静さんの申し出を受けた。
「秋斗さん、ごめんなさい……。今、何を口にしたらいいのかわからなくて……。ツカサが言ったとおり、何を聞いても思い出せなくて、現実味がなくて……」
私は静さんの手を借りてベッドから下りた。
病室を出たところには栞さんと湊先生に追加して、蒼兄と唯兄もいる。それから、昇さんと相馬先生もナースセンターの中から私を見ていた。
きっと、病室での会話は粗方筒抜けなのだろう。
「上に行ってくる」
静さんが言うと、
「静兄様っ、私も一緒に――」
栞さんの申し出を静さんは断わった。
「医者の手は足りている。十階で清良が待っているはずだ」
「俺は現状把握で行きたいんだがな。俺はスイハの主治医だ」
相馬先生が名乗りを上げると、静さんは仕方ないといったふうで同席を認めた。
静さんにエスコートされるまま廊下を歩き始めると、
「ちょい待てや。スイハはそろそろ限界だ。車椅子に乗せていけ」
相馬先生は車椅子に手をかけた。
静さんには「大丈夫かい?」と訊かれ、「私は大丈夫です」と曖昧に答える。
私の何が限界なのだろう……。血圧? 心臓? それとも――
もう、何が大丈夫で何が大丈夫じゃないのかもわからない。その時点でこの会話は意味を成していないだろう。
違うな、私がきちんと考えて答えていないだけだ。
藤原さんがここにいたら間違いなくやり直しを申し渡される。
「ナンバーツーよぉ、大丈夫かって訊いて大丈夫じゃないって答えるヤツじゃないだろ?」
「それでも訊くのが大人だろう?」
あぁ……本当に意味のない会話だったんだ。
「これだからフェミニストをデフォルトにしてるやつらの言うことは当てになんねぇ……。スイハ、間違ってもこんな男には惚れんなよ?」
「おや、心外だな。私はこれでも心配をしているつもりなんだが?」
「そうやって自分フォローしてるところがすでに信用ならねぇっつーんだ」
そんな会話をしながら十階へと連れていかれる。
十階に着くと、「久しぶり、でもないわね」と藤原さんに声をかけられた。
眉間のしわがいつもよりも深い。そして、戻ってくるなり淡々と話し始めた。
話のテンポは異様なまでに速く、話を理解するというよりも、話を聞くこと事体に集中しなくてはいけない感じ。
今日会ったときのような、話を始めたときのような、こちらを気遣う雰囲気は一切なくなっていた。
いったいいつからだっただろう。どのあたりからだっただろう。
何か、どこかで気づかなくてはいけなかったものを見落としてしまった気分だ。
そのことには秋斗さんも気づいているようで、名前を呼び捨てで呼ぶいきさつを話し終わるとすぐに制止しに入った。
「ツカサ、そんな読み上げるような話し方じゃ翠葉ちゃんはついていけない」
「だから?」
ツカサは冷たい視線を秋斗さんへ向けた。
「逆に、時間をかけても思い出せるわけじゃないんだろ? なら、知識として頭に入っていればそれでいいんじゃないの?」
ポンポン、と反論できないような言葉を返される。
私には反論する余地などない。
現に、こんなに時間をかけて話してもらっているのに、私は何ひとつ思い出せてはいないのだから。
「異論がないなら次」
ツカサの頭には機械が入っているのかもしれない。その機械の検索データに引っかかったものだけを口にする。
そんな話し方が続いた。
「翠は、ほかの人たちは昇さんに呼ばせ、秋兄だけは自分で連絡すると言った。……それもひどい話だろ。髪を切ったことは確かに性質が悪いと思う。でも、だからといって、それだけを特別視する必要はなかったんじゃないの?」
射抜かれるような眼差しにはだいぶ慣れたつもりでいた。でも、つもりだっただけみたい。
いったい、いつまでこんな目で見られなくてはいけないのか……。
不安で胸がざわざわするくらいには、全然慣れてなどいなかった。
話を続ければ続けるほどに、ツカサの言葉は棘を増す。
「その先は俺が話す」
秋斗さんが口を挟んでも、
「秋兄が話すと現実が歪む」
ツカサは容赦なく切り捨てる。
秋斗さんに向ける視線も、私に向けるものと同様、ひどく冷たいものだった。
「俺は翠との電話を切ってすぐに秋兄のもとへ行った。秋兄が翠の電話を受けたところも、何を話したのかも、全部見ていた」
ツカサは、秋斗さんが口にした言葉を吐き出すように次々と口にした。
「……信じられないだろ? ただ謝るだけなのにここまで時間を要す人間も、会いに行きたくてもこんな事情から会いにいけなくなった人間も――そんなふたりが交わした会話の内容も」
秋斗さんの言葉すべてにゾクリと肌が粟立つ。
この人が――この優しそうな人がそんなことを言ったのだろうか。
「翠、嘘でもなんでもないから。俺はそこにいたんだ」
「司、その先は俺が話す」
「そうしてよ……事細かに話してよ。どんなにひどい会話をしたのかさ」
秋斗さんを一瞥すると、ツカサは応接セットの方へと移動した。
――戦線離脱。そんな言葉すらしっくりきてしまう。
話の内容に集中できなくなるくらい、ツカサの放つ雰囲気に呑み込まれていた。
「翠葉ちゃん」
静さんに声をかけられ、意識を話へ戻すように、と促される。
秋斗さんを見れば、わずかに震えているように見えた。
深く息を吸い込み、「これが俺のしたこと」と話し始める。
「君は、俺が自分を責めないでほしいと言っても絶対に聞きはしなかっただろう。なら、擁護するよりも罪を償うように駒を進めたほうがいいと思った。……言い訳にしか聞こえないと思うけど、本当に何をするつもりもなかったんだ。もう一度、自分の彼女という枠におさめ、少しでも償いの期間が取れれば翠葉ちゃんを納得させることができると思った。もし、それで嫌われることになったとしても、君が自分を責め続けて苦しむよりはいいと思った」
「だから――」と続けるその言葉の先には、想像を絶するようなやり取りがあった。
それは「やり取り」と呼べるものではなく、秋斗さんが言う言葉に対し、私はまともな反応をひとつもできなかったに等しい。
「十階へ連れていったことも覚えてないよね」
訊かれて頷く。
「そこではもっと嫌なことを言ったし、身の危険を感じるようなこともした。数々のセキュリティを解除し、病室に着いてからは唇も奪った。まだ足りない、と脅すように口にした」
――「俺の母親もツカサたちの母親も、この部屋で出産したんだよ。帝王切開にならない限り、この部屋で産むことができる。そういう設備が整えられている。……いつか、翠葉ちゃんがこの部屋を使うことになると嬉しいね。もちろん、俺の子どもを産むために」。
「翠葉ちゃんはそういうことをとても怖がる傾向があったから、追い詰めるために口にした。
秋斗さんは口を噤み、
「信じてもらえるかな……。俺は、こんなに衰弱してしまった君をこの場で無理やり襲うつもりはなかったんだ」
信じる――何を? 誰を信じるの……?
そのボーダーラインがどのあたりにあるのかすらわからない。
私はこの人を信じていたの? 私はこの人を信じているの?
「翠葉ちゃん、少し深呼吸しようか」
気づけば静さんが近くにいた。
「私と一緒に十階へ行ってみないかい?」
この部屋の空気が、肌や目、何もかもに沁みて痛い。
私は窒息しそうなこの部屋から出たいがために、静さんの申し出を受けた。
「秋斗さん、ごめんなさい……。今、何を口にしたらいいのかわからなくて……。ツカサが言ったとおり、何を聞いても思い出せなくて、現実味がなくて……」
私は静さんの手を借りてベッドから下りた。
病室を出たところには栞さんと湊先生に追加して、蒼兄と唯兄もいる。それから、昇さんと相馬先生もナースセンターの中から私を見ていた。
きっと、病室での会話は粗方筒抜けなのだろう。
「上に行ってくる」
静さんが言うと、
「静兄様っ、私も一緒に――」
栞さんの申し出を静さんは断わった。
「医者の手は足りている。十階で清良が待っているはずだ」
「俺は現状把握で行きたいんだがな。俺はスイハの主治医だ」
相馬先生が名乗りを上げると、静さんは仕方ないといったふうで同席を認めた。
静さんにエスコートされるまま廊下を歩き始めると、
「ちょい待てや。スイハはそろそろ限界だ。車椅子に乗せていけ」
相馬先生は車椅子に手をかけた。
静さんには「大丈夫かい?」と訊かれ、「私は大丈夫です」と曖昧に答える。
私の何が限界なのだろう……。血圧? 心臓? それとも――
もう、何が大丈夫で何が大丈夫じゃないのかもわからない。その時点でこの会話は意味を成していないだろう。
違うな、私がきちんと考えて答えていないだけだ。
藤原さんがここにいたら間違いなくやり直しを申し渡される。
「ナンバーツーよぉ、大丈夫かって訊いて大丈夫じゃないって答えるヤツじゃないだろ?」
「それでも訊くのが大人だろう?」
あぁ……本当に意味のない会話だったんだ。
「これだからフェミニストをデフォルトにしてるやつらの言うことは当てになんねぇ……。スイハ、間違ってもこんな男には惚れんなよ?」
「おや、心外だな。私はこれでも心配をしているつもりなんだが?」
「そうやって自分フォローしてるところがすでに信用ならねぇっつーんだ」
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