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第十章 なくした宝物
22話
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「カイロ? 鍼?」
訊いてきたのはツカサ。
「鍼。先生が置き鍼してくれた」
ツカサはそれを視界に認めると、先ほどと同じようにベッドに腰掛ける。相変わらず私の方に背を向けて。
でも、右手は私の手が届く場所に置いてある。それは手をつないでもいいよ、のサインに思えた。私は躊躇せず、その手に自分の手を重ねる。
「じゃ、こっちはまた俺に貸してね」
左側のスツールには秋斗さんが座り、私の手を大切なものを扱うように両手で包み込んだ。
「おまえたち……それじゃ翠葉ちゃんが飲み物も飲めないんじゃないか?」
呆れたような静さんの声に、ふたり揃って手を引っ込めた。
「先に飲んで」
「先に飲もうか?」
またしてもふたり同時に声を発するからおかしかった。
私はクスクスと笑いながらカップを手に取り、コクコクと一気に飲み干す。そして、テーブルにカップを置けば、また手はつながれる。
蒼兄や唯兄以外の人の手を取るなんて……。
やっぱりまだ変な感じ。でも、あまりにも当然のようにつながれるから、それが本当に当たり前のような気がしてくるし、何よりも、私はそれで気持ちが落ち着いてしまうのだ。
記憶はないのに――不思議だね。
「ご飯を食べているときにお茶碗を落としてしまったことがあります。胸や背中以外にも痛みが広がっていることをお母さんに知られてしまいそうになって……。でも、そのときは唯兄が『拡散痛』とごまかしてくれました」
あのとき、痛みが全身に広がっていることをお母さんに知られてしまったら、絶対に現場へは戻ってもらえなかっただろう。
「自分のせいで両親の仕事に影響が出るのは嫌だったんです……。いつもみたいに個人で請け負っている仕事ではなく、ほかの企業や多数の会社が絡む大きな仕事であることはわかっていたから……」
それは去年の準備段階の時点からわかっていたこと。
「私は両親が嫌いなわけでも、側にいてほしくなかったわけでもなくて、私のせいで方々に迷惑がかかるのが怖かっただけ――」
……違う、それだけじゃない。
「ごめんなさい、それだけじゃない……。自分自身、今年のこの痛みの状態を認めたくなかったんです。全身に広がっている痛みを許容できる自信がなくて、どうなるのかわからないから人に話すことも怖くて――薬は日に日に効かなくなっていくし、薬を静脈に注射されることが多くなれば、次に待っているのは神経ブロック。それが、すごく怖かった……」
涙が零れ落ちる。
あの恐怖だけは思い出すだけでも怖いのだ。
「いつもなら多くても六ヶ所。でも、今年は痛みが全身に広がっていたからもっとたくさん打たれるかと思うと怖くて――でも、入院したくない理由は別にあって……」
ひとつひとつ、自分の気持ちをたどる。
「病院は治すところでしょう? 私は入院しても対症療法しかできないし、それなら治してもらえる人が入るべきだと思います。今でもその考えは変わらない。治療ができない患者よりも、治療方法がある患者さんを優先するべきだと思うから。ベッドが万床で、入院待ちしている患者さんがたくさんいるって、何度かの検査入院で知ったから……。自分なんかでベッドを埋めちゃいけないと思った」
「バカだ……」
ツカサが一言だけ口にする。
でも、それ以上は何も言わず、秋斗さんも静さんも続きを待っていた。
「お母さんが帰ってきているときに、一度だけ学校へ行きました」
その日の記憶はどこも曖昧だ。
「記憶、抜けてたりする?」
ツカサに訊かれて頷く。
「その日は俺に会ってるから」
「え……?」
「学校まで送ってきたのは御園生さんだとして、出迎えたのは簾条だろう」
「それは覚えてる」
ツカサは背を向けたまま、その日のことを教えてくれた。
「二限が終わったあと、保健室に連れて行ったのは俺と海斗。そのときは大した話はしていない。ただ、ものが食べられているのか知りたかったから訊いたけど……」
あのときは確か、喉越しのいいものしか食べられていなかった気がする。
「そのとき、私はなんて答えたの?」
「……かろうじて」
「……そっか」
これは黙っておいたほうが良さそうだ。
「実際のところはどうだったわけ?」
……見逃してくれないなぁ。
「……スープとか、喉越しのいいものしか口にしていなかったと思います」
「……ふーん。全然かろうじてって域じゃないな。今度から翠の言葉は過大評価してるとみなそうか?」
ぶつぶつと嫌みを言いながらツカサは先を続けた。
「一時間休憩を入れたあと、姉さんはきっと点滴をしたまま翠をクラスに戻すと思ったから、終業チャイムが鳴る前に迎えにいった。案の定、点滴したまま戻れって言うから、そのままスタンド持って二階まで――」
「……ツカサ?」
急に黙り込むから名前を呼んだ。
「……二階まで送ったら佐野が出てきてバトンタッチ。それだけ。あとは四限が終わったあとは簾条と俺が保健室まで送った」
そのときは何を話したんだろう……。
「そのときはテストの話。翠はまだ全部のテストが返ってきてなかったから。保健室に行ったら碧さんがいた。適当に挨拶して――」
またさっきのように黙ってしまう。
「ツカサ……?」
「……お礼を言われたんだ」
ツカサは小さく口にした。
「お礼……?」
「いつも娘がお世話になってますって……。それで俺は――医療従事者を志すものとして放っておける対象じゃないって答えた」
言いながら私を見る。
正直、私はその直視に耐えられなかった。
――「医療従事者を志す者として」。
私がこんな身体でなければ、私はツカサとなんの関連もない人間だったのだろうか。
そう思うと怖くて、顔を見ることはできなかった。
「……俺、そんな言い方したけど、それだけじゃないから」
「……え?」
「さっきも話したけど、仮眠室で話したこと――もう忘れたとは言わないよな?」
あ――バングルのことがツカサにばれて仮眠室に篭ったときの話……?
「そのときに言ったこと、人間として興味があるっていうのは嘘じゃない。むしろ、医療従事者を志す者として、っていうほうが後付け」
後付け……?
「普段、友達の親にそんなふうに言われることないから……」
そう言うと、また窓の方を向いてしまった。
「翠葉ちゃん、つまりね……司は翠葉ちゃんのお母さんになんて返事をしたらいいのかわからなくて、咄嗟にそんなことを言っちゃったんだよ」
秋斗さんに解説してもらって納得ができた。
「身体が弱いから、だから側にいるわけじゃない?」
ツカサの背中に向かって訊くと、
「そんなわけあるか……。身体が弱い人間が世間にどれだけいるのか考えろ」
ぶすっとした声が返ってきた。
「良かった……。そういうのじゃなくて、良かった――」
「そんなことで不安にならなくていい……。むしろ、そのほうが迷惑」
ツカサは相変わらずむすっとしている。
でも、私はいちいち不安になるのだろう。こういうのはどうしたらいいのかな……。
訊いてきたのはツカサ。
「鍼。先生が置き鍼してくれた」
ツカサはそれを視界に認めると、先ほどと同じようにベッドに腰掛ける。相変わらず私の方に背を向けて。
でも、右手は私の手が届く場所に置いてある。それは手をつないでもいいよ、のサインに思えた。私は躊躇せず、その手に自分の手を重ねる。
「じゃ、こっちはまた俺に貸してね」
左側のスツールには秋斗さんが座り、私の手を大切なものを扱うように両手で包み込んだ。
「おまえたち……それじゃ翠葉ちゃんが飲み物も飲めないんじゃないか?」
呆れたような静さんの声に、ふたり揃って手を引っ込めた。
「先に飲んで」
「先に飲もうか?」
またしてもふたり同時に声を発するからおかしかった。
私はクスクスと笑いながらカップを手に取り、コクコクと一気に飲み干す。そして、テーブルにカップを置けば、また手はつながれる。
蒼兄や唯兄以外の人の手を取るなんて……。
やっぱりまだ変な感じ。でも、あまりにも当然のようにつながれるから、それが本当に当たり前のような気がしてくるし、何よりも、私はそれで気持ちが落ち着いてしまうのだ。
記憶はないのに――不思議だね。
「ご飯を食べているときにお茶碗を落としてしまったことがあります。胸や背中以外にも痛みが広がっていることをお母さんに知られてしまいそうになって……。でも、そのときは唯兄が『拡散痛』とごまかしてくれました」
あのとき、痛みが全身に広がっていることをお母さんに知られてしまったら、絶対に現場へは戻ってもらえなかっただろう。
「自分のせいで両親の仕事に影響が出るのは嫌だったんです……。いつもみたいに個人で請け負っている仕事ではなく、ほかの企業や多数の会社が絡む大きな仕事であることはわかっていたから……」
それは去年の準備段階の時点からわかっていたこと。
「私は両親が嫌いなわけでも、側にいてほしくなかったわけでもなくて、私のせいで方々に迷惑がかかるのが怖かっただけ――」
……違う、それだけじゃない。
「ごめんなさい、それだけじゃない……。自分自身、今年のこの痛みの状態を認めたくなかったんです。全身に広がっている痛みを許容できる自信がなくて、どうなるのかわからないから人に話すことも怖くて――薬は日に日に効かなくなっていくし、薬を静脈に注射されることが多くなれば、次に待っているのは神経ブロック。それが、すごく怖かった……」
涙が零れ落ちる。
あの恐怖だけは思い出すだけでも怖いのだ。
「いつもなら多くても六ヶ所。でも、今年は痛みが全身に広がっていたからもっとたくさん打たれるかと思うと怖くて――でも、入院したくない理由は別にあって……」
ひとつひとつ、自分の気持ちをたどる。
「病院は治すところでしょう? 私は入院しても対症療法しかできないし、それなら治してもらえる人が入るべきだと思います。今でもその考えは変わらない。治療ができない患者よりも、治療方法がある患者さんを優先するべきだと思うから。ベッドが万床で、入院待ちしている患者さんがたくさんいるって、何度かの検査入院で知ったから……。自分なんかでベッドを埋めちゃいけないと思った」
「バカだ……」
ツカサが一言だけ口にする。
でも、それ以上は何も言わず、秋斗さんも静さんも続きを待っていた。
「お母さんが帰ってきているときに、一度だけ学校へ行きました」
その日の記憶はどこも曖昧だ。
「記憶、抜けてたりする?」
ツカサに訊かれて頷く。
「その日は俺に会ってるから」
「え……?」
「学校まで送ってきたのは御園生さんだとして、出迎えたのは簾条だろう」
「それは覚えてる」
ツカサは背を向けたまま、その日のことを教えてくれた。
「二限が終わったあと、保健室に連れて行ったのは俺と海斗。そのときは大した話はしていない。ただ、ものが食べられているのか知りたかったから訊いたけど……」
あのときは確か、喉越しのいいものしか食べられていなかった気がする。
「そのとき、私はなんて答えたの?」
「……かろうじて」
「……そっか」
これは黙っておいたほうが良さそうだ。
「実際のところはどうだったわけ?」
……見逃してくれないなぁ。
「……スープとか、喉越しのいいものしか口にしていなかったと思います」
「……ふーん。全然かろうじてって域じゃないな。今度から翠の言葉は過大評価してるとみなそうか?」
ぶつぶつと嫌みを言いながらツカサは先を続けた。
「一時間休憩を入れたあと、姉さんはきっと点滴をしたまま翠をクラスに戻すと思ったから、終業チャイムが鳴る前に迎えにいった。案の定、点滴したまま戻れって言うから、そのままスタンド持って二階まで――」
「……ツカサ?」
急に黙り込むから名前を呼んだ。
「……二階まで送ったら佐野が出てきてバトンタッチ。それだけ。あとは四限が終わったあとは簾条と俺が保健室まで送った」
そのときは何を話したんだろう……。
「そのときはテストの話。翠はまだ全部のテストが返ってきてなかったから。保健室に行ったら碧さんがいた。適当に挨拶して――」
またさっきのように黙ってしまう。
「ツカサ……?」
「……お礼を言われたんだ」
ツカサは小さく口にした。
「お礼……?」
「いつも娘がお世話になってますって……。それで俺は――医療従事者を志すものとして放っておける対象じゃないって答えた」
言いながら私を見る。
正直、私はその直視に耐えられなかった。
――「医療従事者を志す者として」。
私がこんな身体でなければ、私はツカサとなんの関連もない人間だったのだろうか。
そう思うと怖くて、顔を見ることはできなかった。
「……俺、そんな言い方したけど、それだけじゃないから」
「……え?」
「さっきも話したけど、仮眠室で話したこと――もう忘れたとは言わないよな?」
あ――バングルのことがツカサにばれて仮眠室に篭ったときの話……?
「そのときに言ったこと、人間として興味があるっていうのは嘘じゃない。むしろ、医療従事者を志す者として、っていうほうが後付け」
後付け……?
「普段、友達の親にそんなふうに言われることないから……」
そう言うと、また窓の方を向いてしまった。
「翠葉ちゃん、つまりね……司は翠葉ちゃんのお母さんになんて返事をしたらいいのかわからなくて、咄嗟にそんなことを言っちゃったんだよ」
秋斗さんに解説してもらって納得ができた。
「身体が弱いから、だから側にいるわけじゃない?」
ツカサの背中に向かって訊くと、
「そんなわけあるか……。身体が弱い人間が世間にどれだけいるのか考えろ」
ぶすっとした声が返ってきた。
「良かった……。そういうのじゃなくて、良かった――」
「そんなことで不安にならなくていい……。むしろ、そのほうが迷惑」
ツカサは相変わらずむすっとしている。
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