光のもとで1

葉野りるは

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第九章 化学反応

16話

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 蒼兄たちが帰るとき、お見送り、という大義名分を引っ提げて病室を出た。
 右手に点滴スタンド、左手には携帯。
 携帯が使える場所はちょっとした休憩スペースになっていて、ソファも置いてあるから電話をするのに都合がいい。
「じゃ、あとで電話するね。運転気をつけてね」
「メールでも電話でもどっちでもいいよ」
「うん」
「じゃ、おやすみ」
 手を振りながらエレベーターのドアが閉まるのを見届けると、今度は長い廊下の突き当りを目指す。
 照明は煌々と点いているのに人の気配がまったくしない廊下はなんだか奇妙だ。
 私の病室はナースセンターの斜め前だし、こんなにたくさんの灯りがついていなくてもいいと思う。でも、もし薄暗い非常灯の灯りだけだったら、それはそれで気味が悪い気もする。そう考えると、単なる照明がとてもありがたいものに思えてきた。
 ソファに腰掛け、リダイヤルからツカサの番号を呼び出す。でも、いざ通話ボタンを押そうと思うと少し勇気がいった。
 もともと電話は苦手なのだ。家族以外の人にかけるのはさらに勇気がいる。
「がんばれ、私……」
 えいっ、と通話ボタンを押すと、指先に少し痛みを感じた。
 耳元にはコール音が聞こえている。
 相手が出るまでの時間はこれ以上ないくらいの緊張を強いられる。それが電話に苦手意識を持ってしまうひとつの理由。けれども、コール音は三回目で途切れた。
『翠?』
「ツカサ……?」
『俺の番号にかけてるんだから俺以外あり得ないだろ』
「そっか……そうだよね」
 どこか間抜けな自分を認めつつ、携帯に出たときの「翠?」という言葉は、私を確認したわけではなく、「何?」「どうかした?」の同義語だったことを理解する。
「あのね……治療が明日でいったん打ち切りになるの」
 相槌のようなものは返ってこない。でも、ちゃんと聞いてくれている感じはする。
 ツカサは普段会って話をするときにもあまり相槌は打たない人。でも、いつだってちゃんと聞いてくれているから、そこまで不安にならずにすむ。
「相馬先生が帰国するまで、六日間は治療しないんだって。そうするとね、ツカサのインターハイの日、どのくらい痛みがあるかわからなくて――」
『別にかまわない、昨日の約束はなかったことにしよう。その代わり、試合の結果は誰にも訊かないで。帰って来たらその日のうちに病院へ行くから』
 本当だ、蒼兄の言ったとおり……。
「うん、ごめん」
『謝るようなことじゃない』
「うん、でも……」
『それ以上言うと、何かしらペナルティつけるけど?』
「えっ!? それは困るっ、もう言わないっ」
『効果覿面だな』
 電話の向こうでくつくつと笑う声が聞こえた。
 ツカサが笑ってる……。
 そんなことを新鮮に思いながら、今日の報告をしようと思った。
「今日ね、湊先生たちや家族みんなに会ったよ」
『……平気だったの?』
「うん。最初は楓先生だった。オフィスで一緒にお昼ご飯を食べていたら、湊先生と栞さんが来てくれた」
『あぁ、兄さんのオフィスに行ったんだ。あそこ片付いてなかっただろ』
「うん、びっくりした」
『マンションは一室以外は割と片付いてるけど、オフィスだけは片付ける気がないみたい』
 ブラインドを上げたらすごい直射日光だったことや、藤原さんが女医さんでびっくりしたこと。
 今日あった出来事をそのまま話していた。
 家族と会ったときの緊張感や桃のシャーベットが食べられたこと。
 友達と、電話で世間話をするのは初めてかもしれな――
「ツカサっ」
『何』
「今ねっ、ツカサのこと友達って思えたっ!」
『今さらかよ……』
「うんっ!」
 なんだかすごく嬉しかった。先輩よりも近くなった気がして。
「電話でこんなに普通に話せるの、家族以外では初めて!」
『そう……』
 なんだか微妙な間があったけど、私はかまわずもうひとつの話したいことを話し始める。
「あのね……」
 言葉に詰まっていると、
『ここからが本題ね』
 ため息まじりの声が耳に届いた。
 ツカサは鋭いな……。
「明日で治療が打ち切られるから……余裕のある今のうちに大切な人に会っているのだけど……」
『秋兄のこと?』
「……うん。ちゃんと会って謝らなくちゃいけないんだけど、電話する勇気が出なくて……」
『……そんなに勇気のいること?』
 ツカサは知らないのかな。私が自分で髪を切ったこと。
「あのね……私、入院した日、ツカサが来る前に秋斗さんにすごくひどいことをしたの。……髪の毛――髪の毛を自分で切って、秋斗さんに押し付けた……」
『……知ってる』
「……そっか」
 今も私は携帯を右手で持ちつつ、左手は左サイドの短くなった髪の毛を触っている。
『翠は謝罪しないと先には進めないんだろ? なら、がんばるしかないんじゃないの?』
「うん……。それでね、ツカサにお願いがあるの」
『お願い?』
「十分後、私に電話してくれないかな」
『……何を考えてる?』
「十分間で自分の勇気総動員かける。で、秋斗さんに電話して明日時間がもらえるようにお願いしてみる。でも、勇気が足りなかったらきっとかけられないから、そしたらツカサからの電話で叱ってもらおうかと思って……」
 ツカサからの返事はない。
「ツカサ……? だめ、かな?」
『どうしたらそんな突飛な考えが浮かぶんだか……』
「え? 変、かな……?」
『変だと思う。でも、翠らしくはあるかな……。わかった。じゃ、切るから』
 そう言うと、私が何を言う前に通話が切られた。
 携帯の時計を見れば八時十分前。
 そこからの十分間はひどく長いような短いような、なんともいえない時間だった。
 ディスプレイには秋斗さんの番号と時計を交互に表示させている始末だ。
 会って謝りたいけど、怒っていて拒否されるかもしれない。もしかしたら、電話にすら出てもらえないかもしれない……。
 すごく、怖い――
 こんな怖い思いをするくらいなら、ツカサに叱られたほうがましなんじゃないかとか、どうしようもないことを考えてしまう。
 そこで気づいた。
「逃げ、だったのかな……」
 十分後に電話してほしい、とツカサに言うこと事体が逃げだったかもしれない。
 私はどこまで自分を甘やかせば気が済むのだろう。
「どうしようもないな……」
 時計の表示と共に、自分の心拍や血圧も表示される。数値はしだいに上がり始めていた。
「御園生さん、大丈夫?」
「きゃっ」
 突如、後ろからかけられた声にびっくりした。
「ふっ、藤原さんっ」
「脈拍と血圧がいつもと違う動きしてたから確認に来ただけよ」
「あ……今、絶賛勇気総動員中で、すごく緊張していますっ」
「……なら大丈夫ね」
 藤原さんは手に持っていたフリースの膝掛けをかけてくれた。
「冷やさないようにしなさい」
 言うと、すぐに廊下を引き返していった。
 緊張のあまり聞こえなかったのか、藤原さんの足音にも気づかなかった自分に呆れる。
 そうこうしていると八時になってしまい、私は一度すべて息を吐き出してから、通話ボタンを押した。
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