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第九章 化学反応
06話
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午前の治療を終え、昼食も食べ終えた。何もかもが流れ作業。
何をしていてもお父さんと会うことに気を取られ、ほかのことに頭が回らない。
何を話したらいいのかな……。
お母さんが倒れたのは、きっと私を心配して仕事を詰め込みすぎたからなのだろう。
そう思えば、申し訳なさで胸がいっぱいになり、どんな顔で会ったらいいのかがなおさらわからなくなる。
ふとチビバッグが目に入り、携帯を取り出した。
いくつかの操作をして録音データを呼び出す。と、司先輩の声を一心に聴く。
いつもなら、繰り返し聴いているうちに心拍が先輩の声に連動しだすのに、今日はその様子が見られない。
「どうしようかな……」
口から言葉が漏れたとき、
「ここ、携帯禁止だけど」
聞き慣れた声がかけられた。
顔を上げれば司先輩がドア口に立っていて、姿を目にしただけなのに涙が零れる。
「なんだよ、そんなにきつく言ってないだろっ!?」
「違……先輩が目の前にいたから」
「……は? とりあえず携帯」
先輩は私の携帯を手に取ると、ディスプレイを見てものすごく呆れた顔をした。
「……翠、いくら機械音痴でもこれくらいはわかっているべき。圏外じゃ携帯通じないから」
「それくらいはわかってますっ」
「じゃ、なんで携帯を耳に当ててたんだよ」
さすがに録音してある先輩の声を聴いていた、とは言えず返答に詰まる。
「……録音してある声を聴いていたの」
「……ふーん。ま、そのくらいはいいんじゃない」
誰の声が録音してあるのか、何を聴いていたのか、そこまで問われなかったことにほっとした。
「で、なんで俺を見て泣いたわけ?」
今度は不服そうな顔で尋ねられる。
「……明日、お父さんが現場に戻るの。その前にお父さんにだけは会うことになって……でも、少し怖くて……。何を話したらいいのかわからないの」
「で、なんで俺を見て泣くかな……」
先輩はこめかみのあたりを押さえてため息をついた。
「世間話って何があるのか訊きたかったんです。そしたら、目の前に先輩がいたからびっくりして……」
先輩はこめかみを押さえたままスツールに腰掛ける。
「世間話に何があるって……なんだよそれ。新聞でも読んで時事ネタでも見繕えば?」
新聞を読んで時事ネタを見繕う……?
それこそどこから出てくる発想だろう。
「明日の天気は晴れだとか、今の政権がどうだとか、ちょっとしたコラムなんかも載ってる。会話のネタには尽きないんじゃない?」
「おい司……おまえは涼さんとそんな話ばかりしてるのか?」
「きやぁっっっ」
誰とわかっていても、その声の低さに驚く。
「翠、気持ちはわかるけど、そこまで驚かなくてもいいと思う」
なんと言われようと、こんな低い声には慣れていない。
ベッドの端で縮こまっていると、左手を先輩に取られた。何も言わないけど、「大丈夫だから」と言われている気がする。
「昇さんも、あまり変な現れ方しないでください」
「あぁ、悪いな。つい、だ。つい……。それにしても一日に二回も驚かれるとは思わなかったぜ」
「……二度目って?」
先輩が訊くと、昇さんは今朝の出来事をケラケラと笑いながら話した。
「で、おまえは涼さんとそんな話ばかりしてるのか?」
昇さんが改めて訊くと、司先輩は肯定の返事を口にした。
「会話がなくて困ったときには使いますよ。下手に学校での出来事を訊かれるよりもよっぽどまし」
「……司らしいっちゃ司らしいが、翠葉ちゃん、これはあんま参考にしないほうがいいぜ?」
じゃ、何か参考になりそうなものを教えてください……。
そんな視線を昇さんに向けると、
「何時?」
司先輩に訊かれた。
「え?」
「お父さんが来る時間」
「何時かはまだ聞いてなくて……」
信じられないって顔をした先輩が、次なる答えを求めて昇さんを見上げる。
「夜の七時。面会時間が終わってからだ」
「……その時間なら来れるけど?」
先輩がこちらに視線を戻した。
汗に濡れた髪の毛が、顔に少し張り付いていた。
「……来て、くれるんですか?」
「かまわない」
すごく嬉しいと思った。その場に先輩がいるからといって何が変わるわけでもないのに、先輩が来てくれる、ということがひどく嬉しく思えた。
「……ね、君たち付き合ってんの? なんか事前情報と違うんだけど」
昇さんに訊かれて首を傾げる。
「違いますよ? ただ、今だけ司先輩は私のわがままに付き合ってくれることになってるんです」
昇さんは、私から視線を司先輩に移しじっと見る。
「……単なる八つ当たりアイテムですよ。いわばサンドバッグみたいなもの」
先輩は面倒臭そうに、若干むすっとした顔で答える。
どうしてそんな顔するのかな。自分から引き受けると言ってくれたのに……。
「夜なら屋上に行けばいいだろ? あそこなら翠が好きな花も植わってるし、今日の天気なら星だって問題なく見える。昨夜教えた星座の話でもすれば?」
「あ、それなら大丈夫そう……」
「おまえ、翠葉ちゃんの扱い方うまいな?」
昇さんが真面目な顔をして言うから、なんだか妙な気分だ。まるで、自分が取り扱い説明書がないと扱えないものか何かみたい。
「翠は観察し甲斐がありますよ」
先輩はしれっと答える。
……正面から見ても格好いいけど、横から見ると顎のラインがきれいで、格好いいよりもきれい。
そんなことを思っていると、
「じゃ、俺部活に戻るから」
先輩が席を立って、思わず時計に目を向けた。先輩が病室にいた時間は十分もない。
「あの、もしかしてお昼休憩に来てくれたんですか?」
「そうだけど」
インターハイ前であることも忙しいことも知っていた。だからこそ来なくていいと言ったのに、来てくれた。
嬉しくて申し訳なくて心の中がぐちゃぐちゃ……。
「……負担じゃないから。そこでうだうだ考えたら怒るよ」
切りつけるような視線で見られ、先輩を見上げる。
こういう言い方も、先輩の優しさのひとつ。
「……ありがとう」
「はい、どういたしまして」
先輩はそのまま病室を出ていった。
「なぁなぁ、あの司をどうやってここまで懐柔したわけ?」
昇さんがスツールに腰掛け、興味津々といったふうに訊いてくる。
話を聞くところによると、昇さんには意外と懐いているようだけれど、その昇さんから見ても「ロシアンブルーやペルシャ猫のように懐きにくい」などと猫にたとえられている。
ロシアンブルーはボイスレスキャットと言われるくらいに鳴かないそう。必要以上に喋らない、というところを司先輩にたとえているのだろうか。
尋ねてみたら違った。
ロシアンブルーは犬のように忠実な猫として知られているが、その実、忠誠を誓うまで、というか、懐くまでにかなりの時間を要すらしい。
ペルシャ猫は静かな猫だが猫らしい高飛車な部分があり、基本は傍観タイプ。ところが、皮を一枚はがすと好奇心旺盛で気性の激しい部分が現れるらしい。
……えぇと、つまり口を開いたら毒を吐く、ということだろうか。
猫のたとえはともかく、
「私が懐柔したのではなくて、私が懐柔されたのだと思います」
そう口にすると、昇さんとの会話は行き詰まってしまった。
何をしていてもお父さんと会うことに気を取られ、ほかのことに頭が回らない。
何を話したらいいのかな……。
お母さんが倒れたのは、きっと私を心配して仕事を詰め込みすぎたからなのだろう。
そう思えば、申し訳なさで胸がいっぱいになり、どんな顔で会ったらいいのかがなおさらわからなくなる。
ふとチビバッグが目に入り、携帯を取り出した。
いくつかの操作をして録音データを呼び出す。と、司先輩の声を一心に聴く。
いつもなら、繰り返し聴いているうちに心拍が先輩の声に連動しだすのに、今日はその様子が見られない。
「どうしようかな……」
口から言葉が漏れたとき、
「ここ、携帯禁止だけど」
聞き慣れた声がかけられた。
顔を上げれば司先輩がドア口に立っていて、姿を目にしただけなのに涙が零れる。
「なんだよ、そんなにきつく言ってないだろっ!?」
「違……先輩が目の前にいたから」
「……は? とりあえず携帯」
先輩は私の携帯を手に取ると、ディスプレイを見てものすごく呆れた顔をした。
「……翠、いくら機械音痴でもこれくらいはわかっているべき。圏外じゃ携帯通じないから」
「それくらいはわかってますっ」
「じゃ、なんで携帯を耳に当ててたんだよ」
さすがに録音してある先輩の声を聴いていた、とは言えず返答に詰まる。
「……録音してある声を聴いていたの」
「……ふーん。ま、そのくらいはいいんじゃない」
誰の声が録音してあるのか、何を聴いていたのか、そこまで問われなかったことにほっとした。
「で、なんで俺を見て泣いたわけ?」
今度は不服そうな顔で尋ねられる。
「……明日、お父さんが現場に戻るの。その前にお父さんにだけは会うことになって……でも、少し怖くて……。何を話したらいいのかわからないの」
「で、なんで俺を見て泣くかな……」
先輩はこめかみのあたりを押さえてため息をついた。
「世間話って何があるのか訊きたかったんです。そしたら、目の前に先輩がいたからびっくりして……」
先輩はこめかみを押さえたままスツールに腰掛ける。
「世間話に何があるって……なんだよそれ。新聞でも読んで時事ネタでも見繕えば?」
新聞を読んで時事ネタを見繕う……?
それこそどこから出てくる発想だろう。
「明日の天気は晴れだとか、今の政権がどうだとか、ちょっとしたコラムなんかも載ってる。会話のネタには尽きないんじゃない?」
「おい司……おまえは涼さんとそんな話ばかりしてるのか?」
「きやぁっっっ」
誰とわかっていても、その声の低さに驚く。
「翠、気持ちはわかるけど、そこまで驚かなくてもいいと思う」
なんと言われようと、こんな低い声には慣れていない。
ベッドの端で縮こまっていると、左手を先輩に取られた。何も言わないけど、「大丈夫だから」と言われている気がする。
「昇さんも、あまり変な現れ方しないでください」
「あぁ、悪いな。つい、だ。つい……。それにしても一日に二回も驚かれるとは思わなかったぜ」
「……二度目って?」
先輩が訊くと、昇さんは今朝の出来事をケラケラと笑いながら話した。
「で、おまえは涼さんとそんな話ばかりしてるのか?」
昇さんが改めて訊くと、司先輩は肯定の返事を口にした。
「会話がなくて困ったときには使いますよ。下手に学校での出来事を訊かれるよりもよっぽどまし」
「……司らしいっちゃ司らしいが、翠葉ちゃん、これはあんま参考にしないほうがいいぜ?」
じゃ、何か参考になりそうなものを教えてください……。
そんな視線を昇さんに向けると、
「何時?」
司先輩に訊かれた。
「え?」
「お父さんが来る時間」
「何時かはまだ聞いてなくて……」
信じられないって顔をした先輩が、次なる答えを求めて昇さんを見上げる。
「夜の七時。面会時間が終わってからだ」
「……その時間なら来れるけど?」
先輩がこちらに視線を戻した。
汗に濡れた髪の毛が、顔に少し張り付いていた。
「……来て、くれるんですか?」
「かまわない」
すごく嬉しいと思った。その場に先輩がいるからといって何が変わるわけでもないのに、先輩が来てくれる、ということがひどく嬉しく思えた。
「……ね、君たち付き合ってんの? なんか事前情報と違うんだけど」
昇さんに訊かれて首を傾げる。
「違いますよ? ただ、今だけ司先輩は私のわがままに付き合ってくれることになってるんです」
昇さんは、私から視線を司先輩に移しじっと見る。
「……単なる八つ当たりアイテムですよ。いわばサンドバッグみたいなもの」
先輩は面倒臭そうに、若干むすっとした顔で答える。
どうしてそんな顔するのかな。自分から引き受けると言ってくれたのに……。
「夜なら屋上に行けばいいだろ? あそこなら翠が好きな花も植わってるし、今日の天気なら星だって問題なく見える。昨夜教えた星座の話でもすれば?」
「あ、それなら大丈夫そう……」
「おまえ、翠葉ちゃんの扱い方うまいな?」
昇さんが真面目な顔をして言うから、なんだか妙な気分だ。まるで、自分が取り扱い説明書がないと扱えないものか何かみたい。
「翠は観察し甲斐がありますよ」
先輩はしれっと答える。
……正面から見ても格好いいけど、横から見ると顎のラインがきれいで、格好いいよりもきれい。
そんなことを思っていると、
「じゃ、俺部活に戻るから」
先輩が席を立って、思わず時計に目を向けた。先輩が病室にいた時間は十分もない。
「あの、もしかしてお昼休憩に来てくれたんですか?」
「そうだけど」
インターハイ前であることも忙しいことも知っていた。だからこそ来なくていいと言ったのに、来てくれた。
嬉しくて申し訳なくて心の中がぐちゃぐちゃ……。
「……負担じゃないから。そこでうだうだ考えたら怒るよ」
切りつけるような視線で見られ、先輩を見上げる。
こういう言い方も、先輩の優しさのひとつ。
「……ありがとう」
「はい、どういたしまして」
先輩はそのまま病室を出ていった。
「なぁなぁ、あの司をどうやってここまで懐柔したわけ?」
昇さんがスツールに腰掛け、興味津々といったふうに訊いてくる。
話を聞くところによると、昇さんには意外と懐いているようだけれど、その昇さんから見ても「ロシアンブルーやペルシャ猫のように懐きにくい」などと猫にたとえられている。
ロシアンブルーはボイスレスキャットと言われるくらいに鳴かないそう。必要以上に喋らない、というところを司先輩にたとえているのだろうか。
尋ねてみたら違った。
ロシアンブルーは犬のように忠実な猫として知られているが、その実、忠誠を誓うまで、というか、懐くまでにかなりの時間を要すらしい。
ペルシャ猫は静かな猫だが猫らしい高飛車な部分があり、基本は傍観タイプ。ところが、皮を一枚はがすと好奇心旺盛で気性の激しい部分が現れるらしい。
……えぇと、つまり口を開いたら毒を吐く、ということだろうか。
猫のたとえはともかく、
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