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第九章 化学反応
03話
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神崎先生がナースコールでオーダーしたことから重湯が運ばれてきた。
びっくりしたのはとても小さな器だったこと。
確かに、先生はオーダーする際「できるだけちっちゃな器」と希望を伝えていた。けれど、まさか小鉢で運ばれてくるとは思わなかった。
「そのくらいだったら食べられる気がするだろ? 最初から大きな器でプレッシャー感じることはねぇよ」
言いながら、先生は小鉢を私の前に差し出した。
スプーンは湊先生が用意してくれたプラスチックのもの。
器の蓋を開けるのが少し怖かったけれど、私が開ける前に先生が躊躇なく開けてしまう。
「どうだ?」
この問いは、匂いのことを訊かれているのだろう。
恐る恐る匂いを嗅いでみる。と、吐き気は感じなかった。
「大丈夫みたいです」
「なら、少しずつ口にしろ」
そこに神崎先生のPHSが鳴りだす。
「はい、神崎。――あぁ、楓か。――お、助かる。あと、素人が読んでもわかりやすい文献も揃えてもらえないか? 翠葉ちゃんが知りたがってる。――何、悪いことじゃない。頼んだぞ」
一方的に電話を切るのはこの人の癖だろうか……。
先生は私に向き直り、
「国内でもいくつか本が出てるらしい。患者向けの本もあるから、それを取り寄せてもらえるように頼んだ」
「ありがとうございます……」
お礼の言葉を口にすると、必然と家族の顔が頭に浮かぶ。
家族や栞さん、湊先生にも謝罪とお礼を言わなくてはいけない。でも、昨日の今日で態度を変えられる自信もなければ、まだ当分は会いたくない。
今は心の中に色々なことが溢れ返っていて、何かちょっとしたことでも起爆剤になりかねない。こんな状態では、またひどいことを口にしてしまうだろう。
そう思えば、会いたいとはどうしても思えなかった。
心が不安定な状態にあることは、人に言われずともよくわかっていた。
神崎先生が言うとおり、食べ物をきちんと食べられるようになって正常に戻るのなら、そのときまで待ってはもらえないだろうか。それは、わがままだろうか……。
そんなことを考えているうちに重湯は食べ終わり、私は浴室へ連れて来られていた。
高カロリー輸液や点滴の場所には膜を作るスプレーをされ、その上からさらにテープを貼って防水されている。
補助につく看護師さんはひとり。
衣類を脱ぎ去り、鏡に映る自分の姿を見ては貧相だな、と思う。
浴室では背もたれつきの椅子にかけるように促され、勧められるままに鏡の前に座った。
看護師さんはシャワーで髪の毛を流しながら、
「やっとサッパリできるわね」
確かに……。もう、いつからお風呂に入っていないのかは数えてもいなかった。
人に身体を洗われる、というのはどんなに具合が悪くても抵抗があるものだな、などと思いつつ、それでもシャワーを浴びられるだけ幸せなのだろう、と思いなおす。
「血圧が安定していて、身体の状態が良ければひとりでの入浴も可能になるわ」
看護師さんは私が何を訊く前に色んなことを教えてくれた。
私に接するのは神崎先生とこの看護師、藤原清良さん。面会者は司先輩のみ。
なお、家族にはいつでも連絡がつくようになっていて、いつでも会えるということも教えてくれた。
入浴が終わって病室へ戻ると、先生がカートの上で治療の準備をしていた。
細い注射と薬剤の入った小瓶が複数並んでいる。見たところ、注射の針はとても細いものに見えた。
ベッドに横になり、恐怖を抱きながら注射の針が刺さる瞬間を待つ。
どんな痛みが来ようと耐える心づもりをしていると、
「そんなに構えなくても大丈夫だ。言ったろ? 採血よりも痛くない」
そうして刺された注射は、確かに採血よりも痛くなかった。ただ、ものすごくたくさん、何度も何度もあちこちに刺される。
治療が終わっても、この治療なら苦にならない、と思うことができた。
「これを毎日、朝と夜の二回やる。耐えられるか?」
「大丈夫です。神経ブロックや痛みの発作に比べたら、はるかに楽ですから」
「よし。じゃ、あとは夕飯食ってリラックスして、明日に備えろ」
病室を出ていこうとした先生と藤原さんに慌てて声をかける。
「あのっ……私、頭がちゃんともとに戻るまで、ひどいことを言っちゃうかもしれません。でも――」
「いいのよ」
私の言葉を遮って口にしたのは藤原さんだった。
「患者のつらさを受け止めるのも私たちの仕事。それに、早くここから出たそうだし、そんなに時間もかからないでしょう」
悠然と微笑む様には貫禄を感じた。
「俺は完全復帰したらしっかり謝ってもらうことにする」
「……ありがとうございます」
私はふたりの懐の深さに感謝した。
特別扱いは嫌だと言いながら、今は特別扱いされていることにほっとしている自分がいる。矛盾しているけれど、今は脳内ホルモンのせいにしていいだろうか。
夕方六時を回ると、藤原さんが夕飯を持ってきてくれた。
今度は重湯のほかに温野菜がトレイに載っていた。
ジャガイモ、にんじん、かぼちゃ、キャベツ、ほうれん草――どれもスチームで蒸しただけのものだという。
すべて別々に蒸してくれているのだろう。どの野菜にも匂いは移っていなかった。
「食べられそうなら食べる。無理なら無理はしない」
お昼に食べることができた重湯を先にクリアさせると、次にジャガイモを口へ運んだ。
……食べられる。
少し塩気が欲しいと思ったら、藤原さんがポケットから小さな瓶を取り出しテーブルへ置いた。
「ヒマラヤ岩塩。ミネラルが豊富よ」
「ありがとうございます」
嬉しくて顔が緩む。と、
「ずっと難しい顔してたから、そんな顔ができるなんて知らなかったわ」
藤原さんはスツールに腰掛け、私の食事に付き合ってくれるようだった。
結果として、今日出されたものはすべて食べることができた。
少し……ほんの少しだけど、私、前に進めたよね……?
九時には消灯と言われ、ようやく病室にひとりの状態になった。
でも、まだ眠れる気はしなくて、そっとベッドを抜け出し窓際まで移動する。
このあたりは病院以外に大きな建物が建っていないことから、星がよく見える。
「朧月……明日は雨かな」
「降水確率七十パーセント」
え……?
「藤原さんの許可はもらってきた。行きたいなら屋上に連れていくけど?」
「司先輩っ、どうしてっ!?」
「昼は外に連れていけなかったから」
「でも、インターハイ前なのに……」
「インターハイ前はインターハイのことしか考えちゃいけないわけ?」
そんなことは言わない。でも――
「外に行きたいなら俺の気が変わらないうちに車椅子に乗るべき」
私は急いでベッド脇まで戻った。
ナースステーションの前を通るとき、
「今日は特別よ? 明日からは消灯時間守ってもらいますからね」
「はい……」
その後、日中なら院内を自由に動いていいと言われたけれど、エネルギー不足であることから、動くなら車椅子。できれば、しばらくは病室でおとなしくしていてほしい旨を伝えられた。
エレベーターで屋上へ上がると、個室病棟らしい屋上が広がっていた。
グリーンで覆われている屋上には、夏の日差しに強い花が植えられている。
ところどころに間接照明が設けられており、それらがフットライトのような役割を果たしていた。
いい香りがすると思えば、ぺパーミントが植えられている。
「先輩、ここがいい……」
車椅子を停めると先輩は花壇に腰掛けた。すると、私よりも少しだけ目線が低くなる。
「今日、少しだけどご飯が食べられました」
「そう」
「治療は痛くなかった……」
「良かったな」
「でも、根本治療ではなくて、対症療法みたい」
「…………」
「線維筋痛症という病気みたいです」
「……さっき、兄さんから文献集めるように言われてネットでオーダーした。明日には本が届く」
本を揃えてくれたのは司先輩だったんだ……。
「ひどいこと言ったり泣いちゃったりするのは、頭に栄養がいってないからって……」
「知ってる」
「そっか……」
どうしてか、こんな会話だけでも泣き笑い。
自分の心が何をどう感じてこういう現象が起きているのか、さっぱりわからない。
「泣きたいときは泣けばいいし、怒鳴りたかったら怒鳴ればいい」
先輩の顔を見ると、真っ直ぐに見つめ返された。
「全部引き受けるって言っただろ」
「……うん」
少し恥ずかしくなって照れ笑い。でも、どうしても伝えたいことがひとつ。
「今、先輩が隣にいてくれて良かったです」
ほかの誰でもなく、司先輩が隣にいてくれるからこんなにも救われるのだ。それは絶対に間違いではないと思った。
「ちょうど七日後がインハイなんだ……」
唐突に言われ、少し先輩の様子をうかがう。
先輩の目は遠くを見ていた。
「がんばってくださいね。応援には行けなくなっちゃったけど……」
「……結果、俺が報告するまで誰からも聞かないで」
「……え?」
「午後四時、院内の携帯がつながるところにいて。翠のいる階の一番端は携帯が使えるコーナーだから」
先輩に病院の見取り図のようなものを渡され、場所の確認をした。
「吉報を待っています」
「それまでは、朝早くか昼前、もしくはこんな時間にしか来られないけど――」
「あのっ、だから、本当に無理して来ないでくださいっ」
「無理じゃなくて見張り……っていうか、翠と話したくて来てる」
「え……?」
「翠と話してるとなんとなく落ち着くから」
「……ひどいこと言われてガンガンに泣かれても?」
「それはあまり嬉しくないけど……でも、本音をぶつけてもらえるのは嬉しい。相手が何を考えているのかを知りたいと思えば、それが悪口雑言で、どんな弱音でも聞きたいと思う」
「……じゃ、いつか先輩がつらい思いをしていたら、私が弱音を聞きます」
そんな話をして目が合うと、私は自然と笑うことができた。
空を見上げ、
「夏の大三角形ってどれでしたっけ……」
なんとなく口にしたことにも先輩は答えてくれる。
そんな時間がとても優しく感じられ、気持ちが解れていくのがわかった。
先輩もインターハイ前で気分が昂ぶったり、緊張したりするのかな。もしそうだとして、こんな話をするだけで気持ちが解れるんだったらいいな……。
私はまだ何も先輩にお返しができていない。いつか何かを返せるようになりたい。そんな日はくるのかな。
私たちは三十分ほど空を眺めながら話をして病室へ戻った。
病室へ戻れば薬を飲んで寝る。
この日は、不思議と夜に襲ってくる不安は訪れず、ほのかにあたたかい気持ちを心に感じたまま眠りにつくことができた。
びっくりしたのはとても小さな器だったこと。
確かに、先生はオーダーする際「できるだけちっちゃな器」と希望を伝えていた。けれど、まさか小鉢で運ばれてくるとは思わなかった。
「そのくらいだったら食べられる気がするだろ? 最初から大きな器でプレッシャー感じることはねぇよ」
言いながら、先生は小鉢を私の前に差し出した。
スプーンは湊先生が用意してくれたプラスチックのもの。
器の蓋を開けるのが少し怖かったけれど、私が開ける前に先生が躊躇なく開けてしまう。
「どうだ?」
この問いは、匂いのことを訊かれているのだろう。
恐る恐る匂いを嗅いでみる。と、吐き気は感じなかった。
「大丈夫みたいです」
「なら、少しずつ口にしろ」
そこに神崎先生のPHSが鳴りだす。
「はい、神崎。――あぁ、楓か。――お、助かる。あと、素人が読んでもわかりやすい文献も揃えてもらえないか? 翠葉ちゃんが知りたがってる。――何、悪いことじゃない。頼んだぞ」
一方的に電話を切るのはこの人の癖だろうか……。
先生は私に向き直り、
「国内でもいくつか本が出てるらしい。患者向けの本もあるから、それを取り寄せてもらえるように頼んだ」
「ありがとうございます……」
お礼の言葉を口にすると、必然と家族の顔が頭に浮かぶ。
家族や栞さん、湊先生にも謝罪とお礼を言わなくてはいけない。でも、昨日の今日で態度を変えられる自信もなければ、まだ当分は会いたくない。
今は心の中に色々なことが溢れ返っていて、何かちょっとしたことでも起爆剤になりかねない。こんな状態では、またひどいことを口にしてしまうだろう。
そう思えば、会いたいとはどうしても思えなかった。
心が不安定な状態にあることは、人に言われずともよくわかっていた。
神崎先生が言うとおり、食べ物をきちんと食べられるようになって正常に戻るのなら、そのときまで待ってはもらえないだろうか。それは、わがままだろうか……。
そんなことを考えているうちに重湯は食べ終わり、私は浴室へ連れて来られていた。
高カロリー輸液や点滴の場所には膜を作るスプレーをされ、その上からさらにテープを貼って防水されている。
補助につく看護師さんはひとり。
衣類を脱ぎ去り、鏡に映る自分の姿を見ては貧相だな、と思う。
浴室では背もたれつきの椅子にかけるように促され、勧められるままに鏡の前に座った。
看護師さんはシャワーで髪の毛を流しながら、
「やっとサッパリできるわね」
確かに……。もう、いつからお風呂に入っていないのかは数えてもいなかった。
人に身体を洗われる、というのはどんなに具合が悪くても抵抗があるものだな、などと思いつつ、それでもシャワーを浴びられるだけ幸せなのだろう、と思いなおす。
「血圧が安定していて、身体の状態が良ければひとりでの入浴も可能になるわ」
看護師さんは私が何を訊く前に色んなことを教えてくれた。
私に接するのは神崎先生とこの看護師、藤原清良さん。面会者は司先輩のみ。
なお、家族にはいつでも連絡がつくようになっていて、いつでも会えるということも教えてくれた。
入浴が終わって病室へ戻ると、先生がカートの上で治療の準備をしていた。
細い注射と薬剤の入った小瓶が複数並んでいる。見たところ、注射の針はとても細いものに見えた。
ベッドに横になり、恐怖を抱きながら注射の針が刺さる瞬間を待つ。
どんな痛みが来ようと耐える心づもりをしていると、
「そんなに構えなくても大丈夫だ。言ったろ? 採血よりも痛くない」
そうして刺された注射は、確かに採血よりも痛くなかった。ただ、ものすごくたくさん、何度も何度もあちこちに刺される。
治療が終わっても、この治療なら苦にならない、と思うことができた。
「これを毎日、朝と夜の二回やる。耐えられるか?」
「大丈夫です。神経ブロックや痛みの発作に比べたら、はるかに楽ですから」
「よし。じゃ、あとは夕飯食ってリラックスして、明日に備えろ」
病室を出ていこうとした先生と藤原さんに慌てて声をかける。
「あのっ……私、頭がちゃんともとに戻るまで、ひどいことを言っちゃうかもしれません。でも――」
「いいのよ」
私の言葉を遮って口にしたのは藤原さんだった。
「患者のつらさを受け止めるのも私たちの仕事。それに、早くここから出たそうだし、そんなに時間もかからないでしょう」
悠然と微笑む様には貫禄を感じた。
「俺は完全復帰したらしっかり謝ってもらうことにする」
「……ありがとうございます」
私はふたりの懐の深さに感謝した。
特別扱いは嫌だと言いながら、今は特別扱いされていることにほっとしている自分がいる。矛盾しているけれど、今は脳内ホルモンのせいにしていいだろうか。
夕方六時を回ると、藤原さんが夕飯を持ってきてくれた。
今度は重湯のほかに温野菜がトレイに載っていた。
ジャガイモ、にんじん、かぼちゃ、キャベツ、ほうれん草――どれもスチームで蒸しただけのものだという。
すべて別々に蒸してくれているのだろう。どの野菜にも匂いは移っていなかった。
「食べられそうなら食べる。無理なら無理はしない」
お昼に食べることができた重湯を先にクリアさせると、次にジャガイモを口へ運んだ。
……食べられる。
少し塩気が欲しいと思ったら、藤原さんがポケットから小さな瓶を取り出しテーブルへ置いた。
「ヒマラヤ岩塩。ミネラルが豊富よ」
「ありがとうございます」
嬉しくて顔が緩む。と、
「ずっと難しい顔してたから、そんな顔ができるなんて知らなかったわ」
藤原さんはスツールに腰掛け、私の食事に付き合ってくれるようだった。
結果として、今日出されたものはすべて食べることができた。
少し……ほんの少しだけど、私、前に進めたよね……?
九時には消灯と言われ、ようやく病室にひとりの状態になった。
でも、まだ眠れる気はしなくて、そっとベッドを抜け出し窓際まで移動する。
このあたりは病院以外に大きな建物が建っていないことから、星がよく見える。
「朧月……明日は雨かな」
「降水確率七十パーセント」
え……?
「藤原さんの許可はもらってきた。行きたいなら屋上に連れていくけど?」
「司先輩っ、どうしてっ!?」
「昼は外に連れていけなかったから」
「でも、インターハイ前なのに……」
「インターハイ前はインターハイのことしか考えちゃいけないわけ?」
そんなことは言わない。でも――
「外に行きたいなら俺の気が変わらないうちに車椅子に乗るべき」
私は急いでベッド脇まで戻った。
ナースステーションの前を通るとき、
「今日は特別よ? 明日からは消灯時間守ってもらいますからね」
「はい……」
その後、日中なら院内を自由に動いていいと言われたけれど、エネルギー不足であることから、動くなら車椅子。できれば、しばらくは病室でおとなしくしていてほしい旨を伝えられた。
エレベーターで屋上へ上がると、個室病棟らしい屋上が広がっていた。
グリーンで覆われている屋上には、夏の日差しに強い花が植えられている。
ところどころに間接照明が設けられており、それらがフットライトのような役割を果たしていた。
いい香りがすると思えば、ぺパーミントが植えられている。
「先輩、ここがいい……」
車椅子を停めると先輩は花壇に腰掛けた。すると、私よりも少しだけ目線が低くなる。
「今日、少しだけどご飯が食べられました」
「そう」
「治療は痛くなかった……」
「良かったな」
「でも、根本治療ではなくて、対症療法みたい」
「…………」
「線維筋痛症という病気みたいです」
「……さっき、兄さんから文献集めるように言われてネットでオーダーした。明日には本が届く」
本を揃えてくれたのは司先輩だったんだ……。
「ひどいこと言ったり泣いちゃったりするのは、頭に栄養がいってないからって……」
「知ってる」
「そっか……」
どうしてか、こんな会話だけでも泣き笑い。
自分の心が何をどう感じてこういう現象が起きているのか、さっぱりわからない。
「泣きたいときは泣けばいいし、怒鳴りたかったら怒鳴ればいい」
先輩の顔を見ると、真っ直ぐに見つめ返された。
「全部引き受けるって言っただろ」
「……うん」
少し恥ずかしくなって照れ笑い。でも、どうしても伝えたいことがひとつ。
「今、先輩が隣にいてくれて良かったです」
ほかの誰でもなく、司先輩が隣にいてくれるからこんなにも救われるのだ。それは絶対に間違いではないと思った。
「ちょうど七日後がインハイなんだ……」
唐突に言われ、少し先輩の様子をうかがう。
先輩の目は遠くを見ていた。
「がんばってくださいね。応援には行けなくなっちゃったけど……」
「……結果、俺が報告するまで誰からも聞かないで」
「……え?」
「午後四時、院内の携帯がつながるところにいて。翠のいる階の一番端は携帯が使えるコーナーだから」
先輩に病院の見取り図のようなものを渡され、場所の確認をした。
「吉報を待っています」
「それまでは、朝早くか昼前、もしくはこんな時間にしか来られないけど――」
「あのっ、だから、本当に無理して来ないでくださいっ」
「無理じゃなくて見張り……っていうか、翠と話したくて来てる」
「え……?」
「翠と話してるとなんとなく落ち着くから」
「……ひどいこと言われてガンガンに泣かれても?」
「それはあまり嬉しくないけど……でも、本音をぶつけてもらえるのは嬉しい。相手が何を考えているのかを知りたいと思えば、それが悪口雑言で、どんな弱音でも聞きたいと思う」
「……じゃ、いつか先輩がつらい思いをしていたら、私が弱音を聞きます」
そんな話をして目が合うと、私は自然と笑うことができた。
空を見上げ、
「夏の大三角形ってどれでしたっけ……」
なんとなく口にしたことにも先輩は答えてくれる。
そんな時間がとても優しく感じられ、気持ちが解れていくのがわかった。
先輩もインターハイ前で気分が昂ぶったり、緊張したりするのかな。もしそうだとして、こんな話をするだけで気持ちが解れるんだったらいいな……。
私はまだ何も先輩にお返しができていない。いつか何かを返せるようになりたい。そんな日はくるのかな。
私たちは三十分ほど空を眺めながら話をして病室へ戻った。
病室へ戻れば薬を飲んで寝る。
この日は、不思議と夜に襲ってくる不安は訪れず、ほのかにあたたかい気持ちを心に感じたまま眠りにつくことができた。
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