光のもとで1

葉野りるは

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第八章 自己との対峙

32話

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「翠葉……頼むから、スープだけでいいから飲んでくれ」
 ベッドの脇で懇願しているのは蒼兄。
 蒼兄が持っているスープの匂いに吐き気がする。早く出ていってほしい。そのスープをこれ以上私に近づけないでほしい。
 こんなにつらいのに、みんなは私に食べろ、飲め、と言う。
 私の苦痛を知りもしないで……。
 こんなつらさを体験してほしいとは思わないけれど、知らないくせに、と思う私は本当は何を知ってほしいのだろう。
「蒼兄……お水だけもらえる? その匂いに吐き気がしてだめみたい」
 できるだけ穏やかに、普通に言葉を吐き出す。
「翠葉っ、いい加減にしろっっっ」
 めったに声を荒げない蒼兄が大声を出す程度には、こんなやり取りを繰り返しているのだ。
「リィ……はい」
 プラスチックのカップに氷水をすぐに用意してくれたのは唯兄。
「……納得してるわけじゃないよ。ただ。飲まないよりは飲んだほうがいい」
 不服そうな顔でそう言われた。
 今日は二十五日、日曜日。栞さんは来ていない。
 旦那様が帰国するとのことで、空港まで迎えに行っているのだ。そして、それに湊先生も同行するという話はあらかじめ聞いていた。
 不安要素のひとつ――
 栞さんの旦那様が帰ってきたらもう一度検査をする、と湊先生が言っていた。
 こんなに痛いのに、血液検査をしても炎症反応が出ないのも相変わらずだ。それ以上になんの検査をするというのだろう。
 不意に眉間にしわが寄ったことに気づき、右手で触れてさする。
「蒼兄も唯兄も……どちらが部屋にいてもいいけれど、何かを食べろというのなら、もう入ってこないでほしいの。匂いのするものが気持ち悪い。ドア、閉めてもらえる?」
 私はふたりの顔を交互に見て言った。
 お願いとかそういうことではなく、そうできないのならいてほしくない、という私なりの意思表示。
「……翠葉、残酷なことをそんな顔をして言うな」
 蒼兄がひどくイラついているのがわかる。
 そうだよね……。今も私の顔はきっと穏やかに笑っている。この表情が保てるうちはいいけれど――
 ねぇ、蒼兄……残酷なことを凄惨な表情で言うよりもいいでしょう?
「……それでも、だよ。それが私の願い」
 言いながら蒼兄の目を見ると、蒼兄は目を見開いてから乱雑な動作で部屋を出ていった。
「リィ、やりすぎ……」
 唯兄がベッドの脇に腰掛ける。
「唯兄も……天蓋の外に出てもらえる?」
 唯兄は無言で、動きもしなかった。
「……休みたいの。だから、部屋にいるのはいいけど天蓋の外にして」
 そう言って身体を横にして壁側を向いた。
 ごめんね、蒼兄。唯兄……。でも、今は側にいてほしくないの。大好きだから、お願い……。
「リィ、何がそんなに嫌なわけ?」
 唯兄は天蓋からは出たみたいだけれど、明らかにまだ側にいた。
 ポキポキ、と近くで骨の鳴る音がしたから、ベッド脇にしゃがみこんだのかもしれない。
「嫌なことはたくさんあるよ。でもね……何が一番嫌かというなら、人を傷つけて自分が傷つくことが嫌」
「……わかった。俺、ここで仕事するから、タイピングの音くらいは許して」
 それには何も答えなかった。
 本当はタイピングの音だって痛みに響く。けれど、唯兄は私をひとりにするつもりはないらしい。

 少しうつらうつらとできただろうか……。
 ここのところ、痛みで夜に眠ることもままならなかった。
 湊先生がかなりたくさんの睡眠薬を処方してくれている。それは栞さんや唯兄、蒼兄の管理のもとで飲んでいた。
 一度、痛みから逃れられるのなら、とオーバードーズをしたため、薬は私の管理下ではなくなった。それ以降、常にこの部屋に人がいる。
 もうオーバードーズなんてしないから、ひとりにしてほしい……。だって、薬を飲んでも痛みが引くわけではなかった。薬を飲んでいるのに、たくさん飲んだのに、睡魔すら訪れない。
 気が休まる時間がなかった。
 我を失いそうになるたびに携帯を取り出して耳に当てる。繰り返される一から十までの数を聞くために。
 それが唯一の精神安定剤になっていた。
 人って、眠れないだけでも神経が蝕まれるんだろうな……。
 そんなことを考えつつ、携帯を取ろうと手を伸ばしたとき、天蓋の向こうにある影に気づく。
「少しは眠れた?」
 その声に絶句する。
「驚かせちゃったかな? 翠葉ちゃん、久しぶり」
 秋斗、さん――!?
「天蓋の中に入ってもいい?」
「っ――だめです」
 あぁ、私、上手になったな……。
 きっと、笑みをきちんと添えられている。声には抑揚を付けることもできた。
 そんなことすらわかるようになってしまった。
 変な感じ……。
 表情も声も、すべて私のもので私が意図して発しているものなのに、まるで現実味がない。
 自分が話しているのに全然自分らしくなくて、自分ではない誰かを見ている気がする。
「お姫様はご機嫌斜めかな?」
 秋斗さんはクスリと笑って見せた。
 最近では誰かが笑う声も聞いてはいなくて、どこか新鮮さを覚えた。
「そうです……お姫様はご機嫌斜めなので、近づかないほうがいいですよ」
「とてもご機嫌斜めには見えないんだけどな」
 秋斗さんは天蓋の外で普通に笑っていた。
 秋斗さん、お願い……。早くこの部屋から出ていって……。
「アンダンテでプリンを買ってきたんだ。食べない?」
 また食べ物――
「……食べ物なら、あちらで唯兄と食べてください」
 声が、少し硬質なものとなってしまった。
「若槻は仕事中。蒼樹は買出し。俺はピンチヒッターで翠葉ちゃんの付き添い」
 秋斗さんの口からポンポンと出てくる言葉たちがひどく嬉しかった。
 普通の対応――腫れ物に触るような話し方ではなく、とても普通。そんなことすら久しぶりだった。
 湊先生は相変わらずマイペースだけれど、ほか――栞さんや蒼兄、唯兄はどこか腫れ物に触るような接し方になっている。
 わかってる――そうさせているのは私だし、むしろそれで近寄りがたいと思ってもらえればそれにこしたことはなかったから。
「翠葉ちゃん、手、つないでもいいかな」
 手……?
「天蓋越しにしか会えないのなら、手ぐらいは握りたいかな」
 秋斗さんの声音が少し変わる。
「それがだめなら髪の毛。……まるで大昔の男になったみたいだ」
 秋斗さんは切なげに口にした。
 あぁ……昔、高貴なお姫様は人前に顔を晒すことはなく、御簾越しに男の人の話を聞くだけだった、というあれだろう。
「秋斗さん……私、今はできれば誰とも会いたくないんです」
 きっと蒼兄や唯兄からも聞いてはいると思う。でも、私の口から言わないとだめだろうと思った。
「俺は邪魔なのかな」
「はい」
「躊躇いもなく答えてくれるね」
「躊躇う必要がないからです」
「……でも、誰かがこの部屋にいることになっているんでしょ? それなら俺はここにいてもいいわけだよね」
 秋斗さんが天蓋を手に取り、中へ入ってきた。
「やっぱりじかに会いたいよ。好きな子がつらい思いをしているのなら、せめて側にいたい。俺はそう思う」
 っ……だめだ、表情を変えるな。何も気取られるなっ。
 一度壁側を向いて何度も聞いた声を思い出す。すると、一から十までの数が耳の奥でこだまし始める。
 痛みに顔を歪めそうになるのを我慢して上体を起こすと、
「秋斗さん、そこにハサミがあるので取ってもらえますか?」
 カウンターを指差しそれを求める。と、
「え? あの持ち手が青いのかな?」
 秋斗さんは何を疑うことなく腰を上げた。
「ハサミがどうかした?」
 と、疑問に思いながらもハサミを手渡してくれる。
「秋斗さんは私の髪の毛が好きだと言ってくれましたよね?」
「うん、すごく好き。もちろん翠葉ちゃん丸ごと好きなんだけど。でもなんでハサミ――」
 ザク――
 はらり、と自分の髪がお布団に落ちる。私は躊躇せず左サイドの髪を一束切り落とした。
「翠葉ちゃんっ!?」
 左手に握った髪の毛を秋斗さんに差し出す。
「これ、差し上げます」
 上手に笑みを浮かべられただろうか。今までで一番きれいに笑えていたら上出来。
 秋斗さんは呆気に取られた状態で私の髪を受け取った。けれども次の動作も言葉もない。
「それだけじゃ足りませんか……? でしたら――」
 右サイドの髪の毛に手をかけようとした瞬間、
「やめてくれっっっ」
 声の大きさに驚き、手からハサミが落ちた。私はそれを気取られないようにそっとハサミに手を添える。
「なら……今すぐこの部屋から出ていってください。私は誰にも会いたくありません。ここに誰かが必ずいるというのも、私が望んでいるわけでも願ったわけでもありませんから」
 あと一息……。
 顔を上げ、右側にいる秋斗さんを真正面から見据えた。
「もう、来ないでください」
 けたたましい足音がすると、唯兄が部屋に入ってきた。
「リィっ!? 秋斗さん、何がっ!?」
 秋斗さんはその声に振り返り、
「――悪い、若槻。彼女を頼む」
 と、足早に部屋を出ていった。
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