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第八章 自己との対峙
11話
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今日は調子が悪い。
それもそのはず、台風が来ているのだ。
外からは暴力的にまで荒々しい風の音が聞こえてくる。
北側にあるこの部屋の窓に雨が激しく打ち付けるようなことはない。けれど、リビングの窓はどうだろう。
身体中が痛くて目が覚めたのは朝の四時だった。
「具合悪そうだね」
部屋に入ってきたのは唯兄で、すぐに薬と水が入ったグラスを差し出された。
「唯兄は今まで仕事していたの?」
「そ、今日は仕事したくないから夜中に終わらせるつもりでやってたらこの時間」
薬を飲み終えると、「それ、もらうよ」とグラスを引き受けてくれた。
「台風直撃だもんなぁ……そういうのは疼痛には響くんでしょ?」
言いながら、部屋のエアコンスイッチを入れた。
「今日はさ、このまま寝て一緒に朝寝坊しちゃおうよ。十時くらいに起きてブランチっていうのはどう?」
まるでいたずらを企むような口調と表情で言われて、つられて笑みが漏れる。
痛みで目が覚めてから不安に駆られていた自分が嘘のよう。
「唯兄、手……貸して?」
「あぁ、手、つなぐのね」
ベッドマットに両肘をついて、勝手をわかったふうに手を握ってくれた。
唯兄の手は男の人の手というよりは、女の人の手みたい。きれいすぎて嫉妬してしまうくらいに白く滑らかな手。ゴツゴツしていない。でも、小さいわけでもなく、私の手よりは少し大きい。
「これは精神安定剤?」
訊かれて頷く。
「俺、兄貴っぽいなぁ~」
唯兄は満足そうに目尻を下げた。
「朝って静かだね……」
外は意外と騒がしいのに、なぜか静かだと感じる。
決して静かなわけではないのに、人の気配がないと静かだと感じる。
「あのね、うちにはお庭があって夏の朝は草の……緑の匂いがするんだよ」
「幸倉の御園生家?」
「うん」
「そっか、楽しみだな。俺一軒家って初めてなんだ」
うとうとしながら唯兄と他愛もない話をしていた。その途中、唯兄が午後には台風が去るようなことを言っていた気がする。
午後にはこの痛みも楽になるかな……。それなら、そのときまで眠っていたい。
身体が鉛みたいに重い。ベッドマットは硬めだけれど、そのマットにすら身体が沈んで吸い込まれていくような感覚。
今痛いのは胸と鎖骨のあたり。ここはいつも痛くなる場所。それなら安心していられる。手が痛いとか腕が痛いとか、普段と違うところが痛くなるよりも不安は軽い――
「ほーら、ふたりともそろそろ起きろー」
蒼兄の声……。ふたり……?
私の視界には蒼兄しかいない。寝たままベッドの下を見ると、ラグの上にタオルケットに包まった唯兄がいた。それは私が寝るときに自分にかけたタオルケットで、今の私には薄手の羽毛布団がかけられている。
「うぅぅぅぅぅん……まだ眠いぃぃぃ……」
「とっとと洗面して着替えてダイニングに来い。朝ご飯用意してある」
蒼兄は私たちを起こすと部屋を出ていった。
私は洗面を済ませてからルームウェアに着替え、唯兄は私が洗面所を出たあとにシャワーを浴びたみたい。
ダイニングには小さなおにぎりがふたつと野菜のどろどろスープが用意されていた。それからグレープフルーツも用意されている。
唯兄のおにぎりは私のものよりも大きくて三つ。ほかにはワカメと玉ねぎのお味噌汁だった。
食欲はそんなにないけれど、手で食べられるものはとてもありがたい。けれど、これは蒼兄からの無言のノルマなのだろう。そう思うと少しだけ気が重くなる。
外は雨が止んでいるものの、灰色の雲が空いっぱいに広がっていて、強風はまだおさまってはいなかった。時折、隙間風のようなピューという音が聞こえてくる。それは、換気扇を止めると嘘のように止んだ。
ノルマ化されたご飯を一時間半かけて食べ終わると薬と睨めっこ。
朝の分を飛ばしてしまったから、今朝の分を飲むとしたら、お昼の分は三時か四時に飲むことになりそうだ。しかも、薬を飲むイコール休むことが必須なわけで、これから寝たとして起きられるのは二時くらいだろうか……。
「翠葉、勉強は大丈夫なのか? 俺、夕方前には出かける予定があるけど、それまでなら見る時間あるよ」
蒼兄の勉強は書いて覚えろ、読んで覚えろ、だ。今の私は読んで覚えることしかできない。
「あの……今回は全然できてなくて、見てもらうのもおこがましいくらいだから――遠慮します」
そんなふうに断わると、
「何なにっ!? リィの勉強なら俺が見たいっ! クイズ方式で楽しんでやろうよ!」
クイズ方式、かぁ……。
月曜日のテストは暗記科目が多いけど、もうシャーペンを持つのはつらいから、クイズ方式なら大丈夫かもしれない。
結局、唯兄の押しに負ける形で見てもらうことになった。二時には起こしてくれるというのでベッドに横になりうとうとしていた。
今ごろ頃、海斗くんと司先輩は一緒に勉強しているのかな? だとしたら、海斗くんはまたこってりと絞られていることだろう。
「私、なんで学校に通っているのかな……」
勉強は嫌いじゃない。でも、いつかそれが役に立つときがくるのだろうか。
学校に通うことやここにいることの意味。自分の存在価値に意味が欲しい。
簡単に見つかるものではないことくらいわかっている。でも、知りたくて仕方がない。
自分が生きていることの意味を知りたい――
時々、「未来」という重圧に潰されそうになる。私がひとりで生きていくために、私は何を得なくてはいけないのだろう。
手に職……?
自分が自立するためには何かがないといけない。
計算が好きだから簿記とか……?
その前に――この身体をどうにかしなくては……。
年間通してコンスタントに働ける身体にならなくてはどこも雇ってはくれないだろう。よく、「身体が資本」という言葉を耳にするけれど、きっとそれは間違っていない。
私はどうしたら健康になれるのかな。いつかは健康になれるのだろうか。
この痛みから、いつかは解放されるのかな……。
人に助けてもらわなくても、ひとりで歩けるようになるのかな。
私はいつになったら人にお返しができるのだろう。
私はいつになったら自分に満足できるのかな――
それもそのはず、台風が来ているのだ。
外からは暴力的にまで荒々しい風の音が聞こえてくる。
北側にあるこの部屋の窓に雨が激しく打ち付けるようなことはない。けれど、リビングの窓はどうだろう。
身体中が痛くて目が覚めたのは朝の四時だった。
「具合悪そうだね」
部屋に入ってきたのは唯兄で、すぐに薬と水が入ったグラスを差し出された。
「唯兄は今まで仕事していたの?」
「そ、今日は仕事したくないから夜中に終わらせるつもりでやってたらこの時間」
薬を飲み終えると、「それ、もらうよ」とグラスを引き受けてくれた。
「台風直撃だもんなぁ……そういうのは疼痛には響くんでしょ?」
言いながら、部屋のエアコンスイッチを入れた。
「今日はさ、このまま寝て一緒に朝寝坊しちゃおうよ。十時くらいに起きてブランチっていうのはどう?」
まるでいたずらを企むような口調と表情で言われて、つられて笑みが漏れる。
痛みで目が覚めてから不安に駆られていた自分が嘘のよう。
「唯兄、手……貸して?」
「あぁ、手、つなぐのね」
ベッドマットに両肘をついて、勝手をわかったふうに手を握ってくれた。
唯兄の手は男の人の手というよりは、女の人の手みたい。きれいすぎて嫉妬してしまうくらいに白く滑らかな手。ゴツゴツしていない。でも、小さいわけでもなく、私の手よりは少し大きい。
「これは精神安定剤?」
訊かれて頷く。
「俺、兄貴っぽいなぁ~」
唯兄は満足そうに目尻を下げた。
「朝って静かだね……」
外は意外と騒がしいのに、なぜか静かだと感じる。
決して静かなわけではないのに、人の気配がないと静かだと感じる。
「あのね、うちにはお庭があって夏の朝は草の……緑の匂いがするんだよ」
「幸倉の御園生家?」
「うん」
「そっか、楽しみだな。俺一軒家って初めてなんだ」
うとうとしながら唯兄と他愛もない話をしていた。その途中、唯兄が午後には台風が去るようなことを言っていた気がする。
午後にはこの痛みも楽になるかな……。それなら、そのときまで眠っていたい。
身体が鉛みたいに重い。ベッドマットは硬めだけれど、そのマットにすら身体が沈んで吸い込まれていくような感覚。
今痛いのは胸と鎖骨のあたり。ここはいつも痛くなる場所。それなら安心していられる。手が痛いとか腕が痛いとか、普段と違うところが痛くなるよりも不安は軽い――
「ほーら、ふたりともそろそろ起きろー」
蒼兄の声……。ふたり……?
私の視界には蒼兄しかいない。寝たままベッドの下を見ると、ラグの上にタオルケットに包まった唯兄がいた。それは私が寝るときに自分にかけたタオルケットで、今の私には薄手の羽毛布団がかけられている。
「うぅぅぅぅぅん……まだ眠いぃぃぃ……」
「とっとと洗面して着替えてダイニングに来い。朝ご飯用意してある」
蒼兄は私たちを起こすと部屋を出ていった。
私は洗面を済ませてからルームウェアに着替え、唯兄は私が洗面所を出たあとにシャワーを浴びたみたい。
ダイニングには小さなおにぎりがふたつと野菜のどろどろスープが用意されていた。それからグレープフルーツも用意されている。
唯兄のおにぎりは私のものよりも大きくて三つ。ほかにはワカメと玉ねぎのお味噌汁だった。
食欲はそんなにないけれど、手で食べられるものはとてもありがたい。けれど、これは蒼兄からの無言のノルマなのだろう。そう思うと少しだけ気が重くなる。
外は雨が止んでいるものの、灰色の雲が空いっぱいに広がっていて、強風はまだおさまってはいなかった。時折、隙間風のようなピューという音が聞こえてくる。それは、換気扇を止めると嘘のように止んだ。
ノルマ化されたご飯を一時間半かけて食べ終わると薬と睨めっこ。
朝の分を飛ばしてしまったから、今朝の分を飲むとしたら、お昼の分は三時か四時に飲むことになりそうだ。しかも、薬を飲むイコール休むことが必須なわけで、これから寝たとして起きられるのは二時くらいだろうか……。
「翠葉、勉強は大丈夫なのか? 俺、夕方前には出かける予定があるけど、それまでなら見る時間あるよ」
蒼兄の勉強は書いて覚えろ、読んで覚えろ、だ。今の私は読んで覚えることしかできない。
「あの……今回は全然できてなくて、見てもらうのもおこがましいくらいだから――遠慮します」
そんなふうに断わると、
「何なにっ!? リィの勉強なら俺が見たいっ! クイズ方式で楽しんでやろうよ!」
クイズ方式、かぁ……。
月曜日のテストは暗記科目が多いけど、もうシャーペンを持つのはつらいから、クイズ方式なら大丈夫かもしれない。
結局、唯兄の押しに負ける形で見てもらうことになった。二時には起こしてくれるというのでベッドに横になりうとうとしていた。
今ごろ頃、海斗くんと司先輩は一緒に勉強しているのかな? だとしたら、海斗くんはまたこってりと絞られていることだろう。
「私、なんで学校に通っているのかな……」
勉強は嫌いじゃない。でも、いつかそれが役に立つときがくるのだろうか。
学校に通うことやここにいることの意味。自分の存在価値に意味が欲しい。
簡単に見つかるものではないことくらいわかっている。でも、知りたくて仕方がない。
自分が生きていることの意味を知りたい――
時々、「未来」という重圧に潰されそうになる。私がひとりで生きていくために、私は何を得なくてはいけないのだろう。
手に職……?
自分が自立するためには何かがないといけない。
計算が好きだから簿記とか……?
その前に――この身体をどうにかしなくては……。
年間通してコンスタントに働ける身体にならなくてはどこも雇ってはくれないだろう。よく、「身体が資本」という言葉を耳にするけれど、きっとそれは間違っていない。
私はどうしたら健康になれるのかな。いつかは健康になれるのだろうか。
この痛みから、いつかは解放されるのかな……。
人に助けてもらわなくても、ひとりで歩けるようになるのかな。
私はいつになったら人にお返しができるのだろう。
私はいつになったら自分に満足できるのかな――
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