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第七章 つながり
26話
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制服からルームウェアに着替えると携帯が鳴った。
携帯を手に取るとメールが届いていた。
件名 :急ぎの仕事入った
本文 :夕飯には間に合わせるから
栞さんにも伝えてもらえる?
夕飯のあとに昔話をしよう。
メールは唯兄からだった。
メールを読んで少しほっとしている自分に気づく。
部屋を出て栞さんに伝えると、栞さんの表情も和らいだ。
持って帰ってきたお弁当箱をキッチンへ持っていくと、
「全部食べられたのね、良かった」
栞さんは嬉しそうに笑った。
それはまるで子どもを見るお母さんような表情で、栞さんとの年齢を考えると妹を気遣う姉かな、と思いなおす。
食洗機にお弁当箱を入れると、
「お茶の用意ができてるからティータイムにしましょう。今日はチーズケーキを焼いたのよ。食べたら翠葉ちゃんは少し休みなさい」
「はい」
リビングには珍しく曲が流れていた。
「……間宮さんのピアノ」
「今日は静兄様のお母様、静香さんの命日なのよ」
「……そうなんですか?」
ラグに座り、ソファに座った栞さんを見るとコクリと頷いた。栞さんは外を見て、
「晴れていて良かったわ。今日は静兄様ひとりでお墓参りに行っているから」
お墓参り……。
私はまだ近しい人の死というものを体験したことがない。
だから、お墓にはご先祖様しかいなくて、誰か知っている人を弔うためのものではなかった。
近しい人――自分が大好きな人がこの世からいなくなるというのはどういう感じだろう。
少し考えるだけでも怖い……。
もし、突然大地震が起きたとして、家族の安否がわかるまでにどれくらいの時間を要するのだろうか。家族に会えるまで、どれくらいの時間がかかるのだろうか……。
以前、そんなことを延々と考えていた時期がある。
今は、家族だけではなく友達も――ほかにもたくさん失いたくない人たちがいる。
でも、すでに誰かを失っていて、毎年毎年やってくる命日を迎えるのはどんな気持ちなのか……。
「父はね、私の母を気遣ってお墓参りには行かないのよね」
「……お父さん?」
「そう、静兄様と私のお父様。でも、それでは静香さんがかわいそうだわ……」
確かに、間宮さんがかわいそうだ……。
「母はね、毎月月命日にお墓参りに行くのよ。そして、命日の月だけは行かないの。……静兄様が静香さんとお話をしたいだろうからって」
柊子先生らしい……。
まだ数回しかお会いしたことはないけれど、とても物腰穏やかな先生だ。
人の話の腰を折るようなことは絶対にしないし、行動を止めることも、咎めることもなさらない。
作法を間違えたときでも途中で止めることはなく、じっと見守ってくださる。
そして、正しいことを教える前に必ず訊かれるのだ。「どうして今の行動を取ったのか」と。
所作は人の心だと仰る先生ならではの質問。
それに答えが伴えば、正しくはなくても間違いでもないと仰ってくださる。
人の気持ちをそっと両手で掬い上げてくれるような、そんな優しさとたおやかさを持っている人。
しなやかで強い――私もそんな人になりたい。
「……よね?」
「え?」
「翠葉ちゃんは蒼くんと本当に仲がいいわよね、って言ったの」
「あ、はい。でも、どうして苦笑いなんですか?」
「ううん」
栞さんは緩く首を左右に振る。
「ただ、羨ましいなと思っただけよ」
そう言っては控え目に笑った。
「栞さんも静さんと仲良しでしょう……?」
「うちは年が十五歳離れているし、血は半分しかつながってないから妙な遠慮があるのも事実よ」
それにはなんと答えたらいいのかわからなかった。
「むしろ、翠葉ちゃんのほうが近しい気がするわ。私に妹がいたらこんな感じかしら? でも、翠葉ちゃんだったら娘でも大歓迎だわ」
急に声が明るくなりテンションが上がる。
「……栞さん、大丈夫ですか?」
「……ごめんね。今、生理前で気持ちの起伏が激しいみたい」
そう言って笑ってはケーキを口に運んだ。
栞さんのお手製ベイクドチーズケーキ。
タルト生地は、市販されているクッキーを砕いて溶かしバターを混ぜたものを型に敷き詰める。そこへチーズクリームと生クリーム、砂糖、卵、レモン汁をミキサーにかけたものを流し込み焼かれている。
香ばしいタルト生地と少し甘酸っぱいチーズクリームのバランスが絶妙で、何度食べても美味しいと思う。
そんな美味しいケーキを食べながらも、私の頭には人の死が居座っていた。
時々、自分が死ぬことは想像するし想像できる。でも、自分ではない誰かがいなくなってしまうことはどうしても想像することができなかった。
お墓参りに連れて行ってほしいとは言えない。でも、静さんの家にはお仏壇があるだろうか。
もしあるのなら、お線香を立てたい。
でも、会ったこともない私がお線香を立てたら間宮さんは困ってしまうだろうか……。
ならばレクイエムを――
「栞さん、ピアノを弾いてもいいですか?」
「どうぞ」
そう答えた栞さんはいつもの栞さんと何も変わらないないように見えた。
でも、見えただけ。表面だけだった。
それに気づいたのはもっと先のこと。
重い鍵盤は未だ弾き慣れない。
白く重厚なそれに自分の両手を乗せる。
まるでハープを弾くように、右手から左手へと主旋律を渡していく。
高音から始まった旋律は、やがて地の果ての低音域へ突入し、最後は昇華するために高音へと駆け上がる。
同じフレーズを何度も何度も違う音域で繰り返す曲は、たったの数分で終焉を迎えた。
……きちんと曲になった。
今なら五線譜に書きとめられるだろう。
私はピアノの上に置いてある五線譜に手を伸ばし、すぐに音符を記し始めた。
即興演奏から二十分と経たないうちに一曲が出来上がった。
久しぶりの高揚感を噛みしめていると、現実に引き戻すかのごとく携帯の着信音が鳴り響いた。
……知らないアドレス。でも、件名には「翠葉お嬢様へ」とある。
私のことを「翠葉お嬢様」と呼ぶ人はホテル関係者か蔵元さんくらいなものだ。
メールを読むと蔵元さんからであることがすぐにわかった。
件名 :翠葉お嬢様へ
本文 :蔵元です。
湊様よりご連絡をいただき緊急性を感じましたので
翠葉お嬢様のご連絡先をうかがいました。
無断で申し訳ございません。
唯の件ですが、
時間を要する仕事を振りましたので
幾分か時間を稼げると思います。
お嬢様は本日より学校へ復帰とうかがっております。
少しお休みになられてください。
私は唯の保護者的立場にいます。
ですので、お嬢様がすべてを背負わなくてもよろしいのです。
私も五時過ぎにはそちらに着くようにいたします。
カフェラウンジで待機しておりますので、
お嬢様はご無理をなさいませんようお願い申し上げます。
何かございましたら、こちらにご連絡ください。
090-××××-3203
蔵元森
私は悩むことなくその番号へダイヤルした。
どうしてか、電話をかけなくてはいけない気がしたのだ。
コール音が鳴るとすぐに、「蔵元です」と落ち着いた声が聞こえてくる。
「あの、翠葉です。今、お時間大丈夫ですか?」
『はい、大丈夫ですよ。いかがなさいましたか?』
「……とくに用があるわけではないんです。でも、がんばります、とだけ伝えたくて……」
『そうでしたか……。正直、重いでしょう?』
聞こえてくる声には笑いが混じる。けれども、とても真摯な声に思えた。
重いというなら重い。けれども、それ以上に怖い……。
「『重い』よりは、『怖い』です」
『そうですよね。こんな役は私みたいな人間が引き受ければ良いのですが、湊様が頑なに翠葉お嬢様から、と譲ってくださらなくて……。私、あの湊様相手に少々ケンカ口調になってしまいました』
なんとなく、私に気を遣った感じの喋り方。
『ですが、すべてを翠葉お嬢様が背負われることはないのですよ。後ろには私が控えております』
「……はい。でも、がんばります。何ができるかわからないけれど、がんばります……」
『わかりました。よろしくお願いします』
「お仕事中にすみません。ただ、それだけお伝えしたくて……」
『ありがとうございます。唯を、よろしくお願いいたします』
その数秒後に携帯を切った。
最後の言葉、「唯を、お願いします」のとき、十頭身くらいありそうな体躯を腰からきっちりと折り、頭を下げている蔵元さんが想像できた。
リビングのソファを見れば栞さんがぼーっとしていた。
今の電話にも気づいていないようだ。
そんな栞さんを横目にピアノを片付け側に寄った。
「栞さん……?」
「えっ? あ、ごめんね? 何? どうかした?」
「いえ。あの、私、少し休んできます」
「そうね。夕飯には起こすわ」
「はい、お願いします。……あ、その前にお風呂入っちゃおうかな」
「どっちでも大丈夫よ。さっぱりしてから寝るのもいいかもね」
そんな会話をしてから部屋に戻った。
なんだか今のタイミングを逃がしたらお風呂に入るのを逃がしてしまう気がしたのだ。
お風呂に入る準備をしてすぐにバスルームへ向かう。
洋服を着脱するとき、ふいに首の傷が気になる。
けれど、極力気にしないように努めていた。それでも、お風呂に入るときはどうしても目にすることになり、バスルームにある大きな鏡を恨めしく思う。
美鳥さんから鏡を渡されて目にしたときは、単なる内出血だった。
そのあと、掻き毟って擦過傷になってからは傷を確認していない。
どうしても見ることができなかった。
お風呂に入るときもしっかりと傷口が見えるわけではない。
正面からではむしろ見えないのだ。
少し横を向いたときに後ろがなんとなく見える程度……。
「あとどのくらいで治るのかな……」
早く治ってもらわないと困る……。こんな状態では秋斗さんには会えない。
私は何をどうしたいのだろう……。
秋斗さんが目の前にいれば怖いと思う。携帯のディスプレイにその名が表示されるだけでも手が震えてしまう。
なのに、傷が治ればその気持ちもなくなるんじゃないか、と思っている節もある。
実際そうだったらいいのに……。
普通に考えたら普通の答えが出るのに……。
秋斗さんは決して怖い人ではないし、恐れる相手でもない。
でも、今はどうしても身体が逃げる。
これはいつまで続くのかな……。
携帯を手に取るとメールが届いていた。
件名 :急ぎの仕事入った
本文 :夕飯には間に合わせるから
栞さんにも伝えてもらえる?
夕飯のあとに昔話をしよう。
メールは唯兄からだった。
メールを読んで少しほっとしている自分に気づく。
部屋を出て栞さんに伝えると、栞さんの表情も和らいだ。
持って帰ってきたお弁当箱をキッチンへ持っていくと、
「全部食べられたのね、良かった」
栞さんは嬉しそうに笑った。
それはまるで子どもを見るお母さんような表情で、栞さんとの年齢を考えると妹を気遣う姉かな、と思いなおす。
食洗機にお弁当箱を入れると、
「お茶の用意ができてるからティータイムにしましょう。今日はチーズケーキを焼いたのよ。食べたら翠葉ちゃんは少し休みなさい」
「はい」
リビングには珍しく曲が流れていた。
「……間宮さんのピアノ」
「今日は静兄様のお母様、静香さんの命日なのよ」
「……そうなんですか?」
ラグに座り、ソファに座った栞さんを見るとコクリと頷いた。栞さんは外を見て、
「晴れていて良かったわ。今日は静兄様ひとりでお墓参りに行っているから」
お墓参り……。
私はまだ近しい人の死というものを体験したことがない。
だから、お墓にはご先祖様しかいなくて、誰か知っている人を弔うためのものではなかった。
近しい人――自分が大好きな人がこの世からいなくなるというのはどういう感じだろう。
少し考えるだけでも怖い……。
もし、突然大地震が起きたとして、家族の安否がわかるまでにどれくらいの時間を要するのだろうか。家族に会えるまで、どれくらいの時間がかかるのだろうか……。
以前、そんなことを延々と考えていた時期がある。
今は、家族だけではなく友達も――ほかにもたくさん失いたくない人たちがいる。
でも、すでに誰かを失っていて、毎年毎年やってくる命日を迎えるのはどんな気持ちなのか……。
「父はね、私の母を気遣ってお墓参りには行かないのよね」
「……お父さん?」
「そう、静兄様と私のお父様。でも、それでは静香さんがかわいそうだわ……」
確かに、間宮さんがかわいそうだ……。
「母はね、毎月月命日にお墓参りに行くのよ。そして、命日の月だけは行かないの。……静兄様が静香さんとお話をしたいだろうからって」
柊子先生らしい……。
まだ数回しかお会いしたことはないけれど、とても物腰穏やかな先生だ。
人の話の腰を折るようなことは絶対にしないし、行動を止めることも、咎めることもなさらない。
作法を間違えたときでも途中で止めることはなく、じっと見守ってくださる。
そして、正しいことを教える前に必ず訊かれるのだ。「どうして今の行動を取ったのか」と。
所作は人の心だと仰る先生ならではの質問。
それに答えが伴えば、正しくはなくても間違いでもないと仰ってくださる。
人の気持ちをそっと両手で掬い上げてくれるような、そんな優しさとたおやかさを持っている人。
しなやかで強い――私もそんな人になりたい。
「……よね?」
「え?」
「翠葉ちゃんは蒼くんと本当に仲がいいわよね、って言ったの」
「あ、はい。でも、どうして苦笑いなんですか?」
「ううん」
栞さんは緩く首を左右に振る。
「ただ、羨ましいなと思っただけよ」
そう言っては控え目に笑った。
「栞さんも静さんと仲良しでしょう……?」
「うちは年が十五歳離れているし、血は半分しかつながってないから妙な遠慮があるのも事実よ」
それにはなんと答えたらいいのかわからなかった。
「むしろ、翠葉ちゃんのほうが近しい気がするわ。私に妹がいたらこんな感じかしら? でも、翠葉ちゃんだったら娘でも大歓迎だわ」
急に声が明るくなりテンションが上がる。
「……栞さん、大丈夫ですか?」
「……ごめんね。今、生理前で気持ちの起伏が激しいみたい」
そう言って笑ってはケーキを口に運んだ。
栞さんのお手製ベイクドチーズケーキ。
タルト生地は、市販されているクッキーを砕いて溶かしバターを混ぜたものを型に敷き詰める。そこへチーズクリームと生クリーム、砂糖、卵、レモン汁をミキサーにかけたものを流し込み焼かれている。
香ばしいタルト生地と少し甘酸っぱいチーズクリームのバランスが絶妙で、何度食べても美味しいと思う。
そんな美味しいケーキを食べながらも、私の頭には人の死が居座っていた。
時々、自分が死ぬことは想像するし想像できる。でも、自分ではない誰かがいなくなってしまうことはどうしても想像することができなかった。
お墓参りに連れて行ってほしいとは言えない。でも、静さんの家にはお仏壇があるだろうか。
もしあるのなら、お線香を立てたい。
でも、会ったこともない私がお線香を立てたら間宮さんは困ってしまうだろうか……。
ならばレクイエムを――
「栞さん、ピアノを弾いてもいいですか?」
「どうぞ」
そう答えた栞さんはいつもの栞さんと何も変わらないないように見えた。
でも、見えただけ。表面だけだった。
それに気づいたのはもっと先のこと。
重い鍵盤は未だ弾き慣れない。
白く重厚なそれに自分の両手を乗せる。
まるでハープを弾くように、右手から左手へと主旋律を渡していく。
高音から始まった旋律は、やがて地の果ての低音域へ突入し、最後は昇華するために高音へと駆け上がる。
同じフレーズを何度も何度も違う音域で繰り返す曲は、たったの数分で終焉を迎えた。
……きちんと曲になった。
今なら五線譜に書きとめられるだろう。
私はピアノの上に置いてある五線譜に手を伸ばし、すぐに音符を記し始めた。
即興演奏から二十分と経たないうちに一曲が出来上がった。
久しぶりの高揚感を噛みしめていると、現実に引き戻すかのごとく携帯の着信音が鳴り響いた。
……知らないアドレス。でも、件名には「翠葉お嬢様へ」とある。
私のことを「翠葉お嬢様」と呼ぶ人はホテル関係者か蔵元さんくらいなものだ。
メールを読むと蔵元さんからであることがすぐにわかった。
件名 :翠葉お嬢様へ
本文 :蔵元です。
湊様よりご連絡をいただき緊急性を感じましたので
翠葉お嬢様のご連絡先をうかがいました。
無断で申し訳ございません。
唯の件ですが、
時間を要する仕事を振りましたので
幾分か時間を稼げると思います。
お嬢様は本日より学校へ復帰とうかがっております。
少しお休みになられてください。
私は唯の保護者的立場にいます。
ですので、お嬢様がすべてを背負わなくてもよろしいのです。
私も五時過ぎにはそちらに着くようにいたします。
カフェラウンジで待機しておりますので、
お嬢様はご無理をなさいませんようお願い申し上げます。
何かございましたら、こちらにご連絡ください。
090-××××-3203
蔵元森
私は悩むことなくその番号へダイヤルした。
どうしてか、電話をかけなくてはいけない気がしたのだ。
コール音が鳴るとすぐに、「蔵元です」と落ち着いた声が聞こえてくる。
「あの、翠葉です。今、お時間大丈夫ですか?」
『はい、大丈夫ですよ。いかがなさいましたか?』
「……とくに用があるわけではないんです。でも、がんばります、とだけ伝えたくて……」
『そうでしたか……。正直、重いでしょう?』
聞こえてくる声には笑いが混じる。けれども、とても真摯な声に思えた。
重いというなら重い。けれども、それ以上に怖い……。
「『重い』よりは、『怖い』です」
『そうですよね。こんな役は私みたいな人間が引き受ければ良いのですが、湊様が頑なに翠葉お嬢様から、と譲ってくださらなくて……。私、あの湊様相手に少々ケンカ口調になってしまいました』
なんとなく、私に気を遣った感じの喋り方。
『ですが、すべてを翠葉お嬢様が背負われることはないのですよ。後ろには私が控えております』
「……はい。でも、がんばります。何ができるかわからないけれど、がんばります……」
『わかりました。よろしくお願いします』
「お仕事中にすみません。ただ、それだけお伝えしたくて……」
『ありがとうございます。唯を、よろしくお願いいたします』
その数秒後に携帯を切った。
最後の言葉、「唯を、お願いします」のとき、十頭身くらいありそうな体躯を腰からきっちりと折り、頭を下げている蔵元さんが想像できた。
リビングのソファを見れば栞さんがぼーっとしていた。
今の電話にも気づいていないようだ。
そんな栞さんを横目にピアノを片付け側に寄った。
「栞さん……?」
「えっ? あ、ごめんね? 何? どうかした?」
「いえ。あの、私、少し休んできます」
「そうね。夕飯には起こすわ」
「はい、お願いします。……あ、その前にお風呂入っちゃおうかな」
「どっちでも大丈夫よ。さっぱりしてから寝るのもいいかもね」
そんな会話をしてから部屋に戻った。
なんだか今のタイミングを逃がしたらお風呂に入るのを逃がしてしまう気がしたのだ。
お風呂に入る準備をしてすぐにバスルームへ向かう。
洋服を着脱するとき、ふいに首の傷が気になる。
けれど、極力気にしないように努めていた。それでも、お風呂に入るときはどうしても目にすることになり、バスルームにある大きな鏡を恨めしく思う。
美鳥さんから鏡を渡されて目にしたときは、単なる内出血だった。
そのあと、掻き毟って擦過傷になってからは傷を確認していない。
どうしても見ることができなかった。
お風呂に入るときもしっかりと傷口が見えるわけではない。
正面からではむしろ見えないのだ。
少し横を向いたときに後ろがなんとなく見える程度……。
「あとどのくらいで治るのかな……」
早く治ってもらわないと困る……。こんな状態では秋斗さんには会えない。
私は何をどうしたいのだろう……。
秋斗さんが目の前にいれば怖いと思う。携帯のディスプレイにその名が表示されるだけでも手が震えてしまう。
なのに、傷が治ればその気持ちもなくなるんじゃないか、と思っている節もある。
実際そうだったらいいのに……。
普通に考えたら普通の答えが出るのに……。
秋斗さんは決して怖い人ではないし、恐れる相手でもない。
でも、今はどうしても身体が逃げる。
これはいつまで続くのかな……。
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