光のもとで1

葉野りるは

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第七章 つながり

10話

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 翌朝、目が覚めるとすでに蒼兄の姿はなかった。
「早朝ランニングかな……?」
 思いながら基礎体温計を咥える。
 測り終えると、また睡魔に呑み込まれて眠ってしまった。
「翠葉」
 聞き慣れた声に返事をする。
 ゆるり、と目を開けるとじっと私を見る湊先生がいた。
「……おはようございます」
「おはよう」
 どうして先生は苦笑いをしているのかな……。
「あんたたち兄妹が仲いいのは結構だけど、これはいかがなものかと思うわよ?」
「……え?」
 次にラベンダーカラーのファブリックが目に入り、ここが蒼兄の使っている部屋で、昨夜一緒に寝てくれたことを明瞭に思い出す。
「首、引っ掻かないようにって蒼兄が気を遣ってくれたんです」
「司から聞いた。……ちょっと見せてごらんなさい」
 身体を起こし湊先生に背中を向ける。
 髪の毛を避けると、
「また派手にやらかしたわね」
 呆れと取れるような声と内容が耳に届く。
「ま、この治療を続けていればすぐに治るしきれいに治るから安心なさい」
 気になることがひとつ……。
「先生、今何時でしょう?」
「ん? 六時を少しまわったところよ」
「今日、日曜日ですよね……?」
 どうして学校が休みの日にこんな朝早くここへ来たのだろう。
「今日はちょっと外せない用事があってね。これから病院へ行かなくちゃいけないのよ。知り合いのバカが胃潰瘍で運ばれてきて今日が手術なの」
 胃潰瘍で手術って痛そう……。
 私は今まで早期発見で内服薬で治してきた。
「相当痛いですよね……?」
「痛いはずなんだけど……どうも痛みには鈍い人間みたいよ。ま、その人間のことも心配だし翠葉のことも気になってたから行く前に少し顔を出しただけ」
 湊先生は立ち上がり、
「じゃ、私は病院に行くけど、何かあったら栞か蒼樹に言いなさい。連絡はつくようにしておくから」
 そう言うと部屋を出ていった。
 こんな時間から病院へ行くくらいだから、相当仲のいい友達なのだろう。
 それにしても、司先輩はいったいどんな報告をしたのだろうか。
 先輩に限って誇大報告はしていないと思うけど……。きっと自分が見聞きしたものを淡々と報告したのだろう。
 思っていたよりも、湊先生に言及されなくてほっとした。
 でも、わかっているの……。秋斗さんが悪いわけではないって――
 彼氏というのは恋人を指していて、恋人というのは婚約者を指すらしい。婚約者とは即ち結婚を前提にするお付き合いで、いずれは結婚する相手ということみたい。
 小説にはそこまで書かれていなくて、パソコンで検索をかけたらそこまで出てきた。
 そんなこととは知らずに秋斗さんの申し出を受けていた私は浅はかだったと思う。
 結婚するということは、いずれは身体の関係をも持つことになるわけで、「恋人」の意味を理解していなかった私には到底受け入れられることではなかった。
 首がそれを物語っている。
 だから、秋斗さんは悪くない。
 秋斗さんにはきちんと謝って「ごめんなさい」を言わなくてはいけない。
 軽く考えていたことを謝らなくては……。
 秋斗さんを好きな気持ちは嘘じゃなかったんだけどな……。
 秋斗さんはこんな具合の悪い私でも好きだと言ってくれた。それはとても覚悟のいることだと思う。でも、私側にはまったく覚悟が足りていなかった。
 そこですれ違ってしまったのだろう。
 そして、秋斗さんは私に呆れてしまうのだろう。
 周りにいる友達は……?
 みんな結婚を前提に付き合っていたりするのだろうか。
 それも何か違う気がする。
 だって、小説の中では別れたりまた付き合ったり、彼の親友を好きになったり――恋にはいろんな形があって目まぐるしいほどだった。
 でも、どの小説にも身体の関係を匂わすものは出てきていた。
 私にまったくの知識がなかったわけではない。
 けれど、それが自分の身に起きるとなると話は別のようだ。
 どうしても「怖い」という思いが先に立ってしまう。
 みんなはどうやって乗り越えるのだろう……。
 私には断崖絶壁を登れと言われているのとそう変わらない気がする。
 ぐるぐると考えているところに蒼兄が頭をわしわしと拭きながら入ってきた。
 上半身は裸。
 正視はできないけれど、まだ大丈夫。でも、これが秋斗さんや司先輩、海斗くんや佐野くんだったら、と考えると顔が熱くなって死にたいかもしれない。
「……なんて顔してるんだ?」
「いえ……免疫についてなんとなく」
 微妙すぎる答えを返してしまった。
「蒼兄、やっぱりお付き合いするのってとても大変なことに思える」
「……どうして?」
 言いながら、蒼兄はTシャツをすっぽりとかぶった。
「だって、彼氏は恋人で、恋人は婚約者で、婚約者は婚約で、婚約は結婚を前提にするお付き合いなのでしょう?」
 蒼兄の動きが固まった。じっと見つめていると数秒後に動作が再開される。
「翠葉ちゃん、話が飛躍しすぎなんだけど……その情報ソースはどこでしょう」
「……パソコンの検索」
「……なるほど。……今のご時世、別に付き合ったからって結婚するところまでたどり着ける人のほうが少ないと思うよ」
 言いながら、蒼兄はパソコンの検索バーに文字をカタカタと打ち込む。
「あ、本当に出てきた……。すごい話の飛躍」
 ディスプレイを見ながら苦笑を漏らす。
 蒼兄はこちらを向くと、
「ネットはさ、色んな情報を与えてくれるけど、それだけがすべてじゃないし、時には間違ってることもある。それは覚えておきな。周りの人に確認を取ることも忘れずに」
「……蒼兄、やっぱり性行為ってしなくちゃいけないものなのかな。秋斗さんが言った[『付き合う』はそういう意味を含むの?」
 その言葉に蒼兄は再度フリーズした。
「翠葉……夕飯には唯が来る予定だから、そしたら三人で話そう?」
 とりあえず、次の約束は提示してくれたけど、なんとなく逃げられた気分。
 やっぱり答えづらい質問だったのだろうか……。
 若槻さん、か……。間は空いてないはずなのに、どうしてかもう一週間くらい会っていない気がした。

 栞さんを交えて朝ご飯を食べ終えると、私はもといた部屋に戻った。
 すると、栞さんが入ってきて、
「シートを取替えちゃいましょう」
 髪を手に取りまとめ始めて思い出す。
「昨日マッサージしてもらうとき、司先輩が髪の毛をまとめてくれたんですけど、すごく手馴れてるふうでした。ゴムも使わずボールペン一本で留めちゃったの」
「あぁ、慣れてるかもしれないわ。湊も翠葉ちゃんと同じくらい髪が長い時期があったんだけど、湊は髪の毛を結うのは苦手でね。私か司くんがやっていたのよ」
 湊先生の髪の毛長いバージョン……ちょっと気になる。
「写真見たいですっ」
「いいわよ、あとで見せてあげる」
 栞さんは、ふふ、と笑った。
 初めて会ったときは司先輩よりも短いと思ったけれど、最近は湊先生のほうが長いくらいだ。
 だからか、最近は寝ぼけていてもあまり先輩と湊先生を間違えることがなくなった。
 伸ばしてるのかな? でも、伸ばしっぱなしでもっさりしてる感じはないから、きちんと整えながら伸ばしているように思えた。
 そんなことを考えているうちにシートの張替えは終わり、手もぐるぐる巻きにされた。
「今日は海斗くんたちが午後に来るって言っていたから、午前中は休んでいたほうがいいわ」
「はい、そうします」
 でも、昨夜ぐっすりと眠れたせいか、なかなか眠くはならない。
 もしかしたら薬の耐性ができてきたのかもしれない。
 一週間か……そろそろ耐性ができてもおかしくないころだ。
 そこにポーチが開く音がしてドアの方を見ていると、栞さんに迎え入れられた若槻さんが入ってきた。
 否、入ろうとしたのを栞さんに首根っこ掴まれて、
「手洗いうがい、アルコールジェルで消毒殺菌っ」
 言われて洗面所に連行される。
 栞さんも湊先生も、外からの風邪を持ち込まないように徹底的に管理をしてくれている。
 でも、学校へ行くようになったら、自分でそれをしなくちゃいけなくなる。
 すべてを終えた若槻さんが部屋に戻ってくると、
「リィ、具合どう? 少しは良さそう?」
「はい。身体起こせるようになりました」
「良かった良かった」
 女の人みたいに細い指の手で頭をわしわしされる。そして、「大丈夫?」と下から覗き込むように尋ねられた。
「……え?」
「ほら、この間は身体のどこか触れるのもだめだったでしょ?」
 そう言われてみれば……。
 前回若槻さんと会ったときはすごく混乱していて、蒼兄以外は受け付けなかったのだ。
 確か、肩の辺りを触られて拒絶した覚えがある。
 でも、司先輩でも大丈夫だったし……。
「たぶん大丈夫です」
「それなら良かった! キスマーク、消えた?」
 控え目に訊かれる。
 どうして――
「どうして若槻さんが知ってるの?」
「…………」
「どうして黙るの?」
「ごめん、秋斗さんがすごく落ち込んでたから酒飲ませて吐かせた」
 あぁ、そういうことか……。秋斗さんから直接聞いたのだ。
「えぇと……こんなことになってしまいました」
 白状するように首を見せる。
 どうしてか、若槻さんに見せることにはなんの抵抗もなかった。
 一番抵抗があったのは栞さんに見せるときだった。
「派手にやらかしたね」
 それが第一声。
 口元に手をあてて、「あちゃ~……」といった感じ。
「でもね、気づいたらこうなっていたの」
「でも、やったのはリィ?」
「そうみたい……。爪に茶褐色のものが詰まっていたし……」
「無意識のうちに、ってやつか」
「はい。だから、今は寝るときには手をタオルで巻かれているし、夜は蒼兄と一緒の部屋で寝ているの」
 先ほどシートを買えたときに両手をタオルでぐるぐる巻きにされたので、それを見せる。
「それ、なんで? って、どこで訊こうか俺悩んじゃったよ」
 苦笑を浮かべる若槻さんに、私も薄く笑みを添えて答える。
「こんな理由でした……」
「ところであんちゃんは?」
「レポートを作成しているところだと思います。呼べばすぐに来ると思うけど……」
 私が携帯を手に取ると止められた。
「いや、俺もすぐに仕事に戻らなくちゃいけないんだ。って言っても秋斗さんの家だけどね」
 指で上を指しながら笑う。
「忙しいです?」
「んー……これから一週間くらいはかなり忙しいかな」
「そうなんですね……」
「……どうした?」
 若槻さんは何かを察知したのか、気遣うように声をかけてくれた。
「いいえ。少し相談したいことがあっただけです」
「……夕飯は一緒だし、そのあとなら少しくらい時間取れるよ」
 にこりと笑ってくれるけど、
「無理して時間を作ろうとしてませんか?」
「大丈夫! こう見えて、俺、意外と仕事はできるんだ。蔵元さんと秋斗さんにこき使われるくらいにはね」
「秋斗さんはどへ出張しているんですか? いつごろ頃帰ってくるんですか?」
 若槻さんの表情が少し固まる。けれどもそれは数秒のことだった。
「うーん……俺がここにいる間、即ち一週間は絶対に帰ってこれないし、そのあとも仕事が長引けばもう少しかかるかなぁ……。とりあえず、自分が帰ってくるまではここにいろって言われてるんだよね。帰ってくる日がわかったらすぐに教えるよ」
「ありがとうございます」
 自分の声が沈んでいくのがわかる。
「リィ、秋斗さんに会いたい? ……寂しい?」
「わかりません……。でも、気にはなります」
「……そっか。ま、そんなときもあるよ!」
 明るく言うと、
「じゃ、俺仕事に戻るわ」
 と、部屋を出ていった。

 秋斗さんに会いたいか会いたくないか。
 それは本当にわからなかった。でも、気になるのは本当で――
 首の傷を知られるのが嫌なのか、それとも、またキスマークを付けられるのが怖いのか――それ以上を求められることが怖いのか……。
 どれもが該当しそうで、その先を考えるのがとても怖かった。
 秋斗さんが怖いというわけではなく、そういう関係が怖いだけ、と思いたい。
 でも、本当はどちらなのだろう――
 怖いから、だからまだ答えは出したくない。
 でも、若槻さんがお酒を飲ませてキスマークのことを口にするくらいには落ち込んでいた、ということなのだろうか。
 それは、あの日、移動するのに私が秋斗さんを拒んだから?
 藤山でお散歩した日。
 私もエレベーターの中で秋斗さんがこちらを見てくれないのはショックだった。
 それと似たようなものなのだろうか。
 だとしたら、すごくひどいことをしたことになる。
 何をどうやって、どんなふうに謝ればいいのだろう。
 取り返しはつくのだろうか――そもそも、何を取り返すというのだろう……。
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