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第七章 つながり
09話
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先輩の手は私の手よりも大きくて、蒼兄の手よりは少し小さい。そんな大きさ。
そして、以前感じたとおり、ほんの少しゴツゴツしているように感じる。
それでも指は長く、全体的なバランスがいいとてもきれいな手。
その手を自分の両手を使って少しずつほぐしていく。
「……弓道やってるからかな?」
「は?」
「あ……家族の手とは違う手だな、と思って」
「あぁ、そういうこと……。確かに弓を引くときにはそれなりに力使うから」
部活のあとに私のマッサージなんて、疲れないのだろうか……。
……あれ? でも、今日の時間だと――
八限だった場合、ホームルームが終わって少ししたら帰ってきた、というような時間帯ではなかっただろうか。
「先輩、今日部活に出ましたか?」
「いや、行ってない」
「……マッサージのために?」
「それもあるけど、ほかにも用があったから」
ほかにも用……。それはいったいなんだろう。
どうしてか、マッサージをするために帰ってきてくれたような気がする。
それはさすがに申し訳ないんだけどな……。
「部活は午後に出られなくても朝練でまとまった時間練習してるから問題ない」
「でも……」
「もっと言うなら、朝の練習に重点を置いている。午後は後輩指導も入るから自分の練習はあまりしない。だから翠が気にする必要はない」
それは本当なのかもしれない。司先輩が嘘をつく人には思えなかったから。
「……ありがとうございます」
マッサージに集中するように言われたのに、結局はごちゃごちゃと色んなことを考えていた。
だめだ、集中しよう。
どういう状況にあろうと司先輩が私に時間を割いてくれていることに変わりはないし、この先輩が自分で言い出したことを反故にするとは思えない。
それなら、お返しのマッサージくらいはきちんとしたい。
「翠の手は小さいな……」
まるでひとり言のような言葉だった。けど、
「骨が刺さるみたいで痛いですか?」
「いや、そうは言ってないけど……」
「本当? 前に蒼兄に言われたことがあるから、また同じことを言われるのかと思いました」
クスクスと笑いながらマッサージを続けていると、食器洗いが済んだ栞さんがハーブティーを入れてきてくれた。
さっきは冷たいローズヒップティーだったけれど、今度はホット。
「傷が治るまではずっと……?」
ふと、思ったことが口をついた。すると、ふわり、と栞さんが笑う。
「そうね。時々は違うものも出すけれど、しばらくはビタミンCを率先して摂りましょう」
「……傷、見てもいい?」
司先輩が遠慮がちに訊いてきた。
「司くん、それは――」
栞さんが遮ろうとした言葉を私が遮った。
「いいですよ」
「翠葉ちゃんっ!?」
栞さんも司先輩もふたりとも驚いている。
それはそうだよね……。でも、蒼兄が帰ってきたら蒼兄にも絶対訊かれるだろうし、見せろとも言われるだろう。
それは、湊先生も楓先生も同じだと思う。
でも、これは自分でやったことだから……。庇われてばかりいるわけにもいかない。
自分でしたことの責任は自分が取る――
これはお母さんに言われてきたことのひとつだ。
この首の傷もそれに該当すると思う。
首に巻いてある包帯を外し始めると、その先は栞さんが手伝ってくれた。
髪の毛を左側に流し、後ろを見せる。
美波さんが手に持っていたシートは半透明のものだった。だから、傷の具合はダイレクトには見えないかもしれないけれど、だいたいはわかるのではないだろうか。
栞さんは司先輩の顔をじっと見ているようで、司先輩は一言も発しなかった。
「司くん、あくまでも無自覚よ。翠葉ちゃんが自分を傷つけようと思ってした行為じゃないの」
「それはさっき翠から聞きました。……翠、これかなり痛いだろ」
「……傷に気づくまでは少しヒリヒリ感じるくらいだったんですけど、気づいたらやっぱり痛くて……。病は気から、じゃないけれど、気の持ちようって本当にあるんだな、って思いました」
「でも、湿潤療法とってるなら傷はきれいに治るから」
先輩の言葉に、
「傷、残ったりしない……?」
「治りが遅いように感じるかもしれないけど、実際はガーゼをかぶせたり乾燥させるよりも早くに治るし痕も残らない」
それは嬉しいかも……。
「早ければ一週間で治るはず」
もっと時間がかかるかと思っていただけに少しほっとした。
一週間ってすぐ、だよね? その間、秋斗さんに会わなければ知られずに済む、よね?
そのことにほっとした瞬間、玄関で音がして蒼兄が帰ってきたことを知らせる。
蒼兄は手洗いうがいを済ませてからリビングへやってきた。
「ただいま――ってその包帯、何?」
テーブルの上に置かれた包帯を蒼兄は指差した。
栞さんと司先輩の視線が私に集り、必然と蒼兄の視線も私を向いた。
蒼兄に話すのが一番の難所だ……。
「……えぇと、あのね、これを隠していたの」
私は手っ取り早く首の後ろを見せた。
「っ!? その傷どうした!?」
「……自分で引っ掻いちゃったみたい」
「……なんで」
一から説明しなくてはいけないと思うものの、どうしてか話すことが異様に億劫だった。
意識してやったことならともかく、気づいたときにはこうなっていただけに……。
うな垂れている私を見て察したのか、栞さんが代わりに説明してくれた。
だめだな……。私、結局は人を頼ってる。
「蒼くん、あくまでの無意識の行動だったのよ。お風呂でね、ボディタオルで真っ赤になるほど擦っているのを私が発見して止めたの。そのときはただの内出血だったのだけど、そのあと、寝ている間に掻き毟っちゃったみたいでね……。美波さんが気づいたときにはその状態だったの」
言葉に詰まった蒼兄に、後ろから抱きしめられる。
「翠葉、そんなに苦痛なら先輩と付き合うのをやめてもいいんだぞ?」
小声でそう言われた。
「もうね、よくわからないの……。好きだとは思うの。でも、今の私には身体と学校がすべてみたいで、どうしたらいいのかわからないの……」
「幸倉に帰るか……?」
「でも、そうしたら学校に通える自信がない……」
全部私のわがままだ。
「わがまま言ってるのは自覚してる。でも、学校は二度と諦めたくないの」
口にして涙が出てきた。
一度は簡単に諦めてしまったものだから。そして今は、手放したくないと思うもののひとつだから。
だからわがままでもなんでも手放したくはない。
「秋斗さん、出張でしばらく帰ってこられないみたいなの。その間は若槻さんが秋斗さんのお部屋に泊まるって言ってた。だからね、若槻さんにたくさん相談に乗ってもらう。で、秋斗さんが帰ってきたら、きちんと自分でお話する。……それまでは蒼兄に相談してもいい? お話聞いてくれる?」
「……聞くよ。そんなの当たり前」
「……ありがとう」
そこに思いがけない声が割込んだ。
「俺は……?」
司先輩の声だった。
びっくりした。けど……この人はだめ。
「先輩はいつも優しいからだめです。意地悪だけど、根本が優しくて、なんだかんだ言っても私に優しいことしか言わないからだめ。私を厳しく諭してくれる人じゃないと相談できません」
少しだけ笑みを添えて答えると、先輩の口元が少し歪んで苦笑いになった。
「ようやくわかったか……。俺は翠には甘いって何度も言っているのに全然気づかなかったくせに」
思い返してみれば本当に何度も言われていたわけで、少し肩身が狭くなる思いだ。
「時間はかかったけど、気づけた、ということで怒らないでください」
「怒りはしない。でも、相変わらず鈍感だなとは思う」
しばらくすると先輩は立ち上がり、
「じゃ、今日はもう帰るから。明日、海斗や簾条たちが来るって言ってた」
私は蒼兄に手を貸してもらい、先輩を玄関まで見送るために立ち上がる。
玄関のドアを開くと先輩は振り返り、
「翠はなんだかんだ言って強いよな。……栞さん、ごちそうさまでした」
先輩の背を見送りながら思う。
先輩、私は強くなんかないです。
ただ、周りの人に恵まれているだけ。支えてくれる人がいるから立っていられるだけ。
ただ、それだけなの――
先輩が帰ると栞さんは蒼兄の夕飯の支度をしてくれ、その片付けが終わると、
「蒼くんにお願いがあるの」
栞さんの手には二枚のフェイスタオルとマジックテープで止められるタイプのリストバンドがあった。
「翠葉ちゃんが寝る前にタオルで手をくるんで留めてほしいの」
「こんな感じにね」
栞さんはお手本というように、左手の手をタオルで包んでくれた。
それはどうやっても自分の五本の指が自由にはならない感じで、たとえ、首に手を伸ばしてもタオルがシートの上を滑ってしまうような状態だった。
「……こんなことまでしなくちゃいけないんですか?」
蒼兄の声は悲痛に満ちていた。
「本人が意識しているわけじゃないから、寝ている間が一番危ないのよ。傷が治るまでは続けてほしいわ」
「……わかりました」
蒼兄は口を真一文字に閉じた。
栞さんを見送り、蒼兄とふたり私の使っている部屋に入る。
……怒られるのかな。それとも、何を言われるだろう。
蒼兄は黙々と左手のタオルを外してくれた。
外し終わると顔を上げ、
「翠葉、同じ部屋で一緒に寝よう」
「……え?」
私がおねだりすることはあっても、蒼兄から一緒に寝ようと言われることはめったにない。
「俺の部屋にあるベッドの下には引き出せるタイプのベッドがある」
「……そうなの?」
「俺はレポートを作らなくちゃいけないから夜遅くまで起きているけど……。電気がついたままでもいいならおいで」
「……邪魔じゃない?」
「邪魔じゃないよ。それに、首に手を伸ばしたらすぐに止めてやれる。翠葉、ボストンバッグに鈴付けてたよな?」
「え? あ、うん」
「それを手首に付けよう? そしたら手を動かしたらすぐに気づく」
「でも、そしたら蒼兄が深い眠りにつけなくなる」
それは嫌だ……。
「俺が目覚まし鳴って三秒で止めることができるのは知ってるだろ? もともとそういう体質なんだよ」
それは蒼兄のちょっとした特技。
電話なら基本はワンコールで出てくれるし、目覚まし時計は朝早くに鳴らすため、ほかの家族が起きないように極力早くに止めることができる。
「じゃ、用意してくるから」
と、蒼兄は部屋を出ていった。
こういうの、自傷行為っていうのかな。
自傷行為とは、無意識でやるものを指すのだろうか。あるいは、意識があろうとなかろうと、自傷行為なのだろうか。
そんなこと、今まで意識もしたことがなかった。
それほどまでに自分には余裕がないのだろうか。
――余裕。
言葉にすればたったの三文字、漢字なら二文字。
なのに、その存在は計り知れないほど大きなものに感じる。
ほどなくして蒼兄が戻ってくると、寝る準備をして蒼兄の使っている部屋へ移った。
ラベンダーカラーが優しい部屋。
「上のベッド使っていいよ」
言われて素直に従う。
「蒼兄、蒼兄はいくつまで自分のやりたいことを並行してできる?」
「え? ……ごめん、ちょっと意味がわかりかねる」
「……私はね、今は体調と学校で手一杯。そこに三つ目の恋愛を入れるスペースがないみたいなの」
デスクチェアーに腰掛けていた蒼兄は、椅子を回転させてこちらを向く。
「そういう意味か……。そうだなぁ、その時々によるし、もののウェイトにも関係すると思わない?」
ウェイト……?
「たとえば、俺にしてみたら体調管理なんて気にしなくてもできちゃうんだ。でも、翠葉にとってはそれがネックになるくらい重いだろ? そういう意味」
あ……そっか。人によってそれらひとつひとつは同じ重さじゃないんだ。
「俺にとっては大学に通うことも全然苦じゃないし、努力が必要なことでもない。でも、翠葉にはそれが大きな山なわけで……。そうだな、俺はレポートが大きな山かも。それをいくつか抱えているときは正直ほかのものは手をつけられない。即ち、レポートひとつだよ。逆に、朝のランニングに加えて長引くゼミなんかは体力勝負な問題で、なんとかクリアできちゃうからふたつOKって感じ」
なるほど……。
「ものによりけり、人によりけり、だよ。大切なのは自分に余裕があるのかないのかを見極められるかだと思う。でも、翠葉はそれがちゃんとできていると思うよ」
そう言った蒼兄の表情はとても優しいものだった。
「自分の体力や精神力のキャパシティ、ちゃんと自覚できてるだろ? 最近は頻繁に倒れなくなったし……」
そうかもしれない……。
「それに、前ならすぐに諦める道を選んだけれど、今は学校に通うこと、それが優先事項なんだろう?」
コクリと頷くと、
「それだけでも大きな前進だよ。諦めて家に篭ることを選ぶよりも大変なことだ。わがままじゃないよ」
力強く言われると、どこかほっとする。
「普通はさ、学校に通うことなんて誰もが当たり前に思ってるんだ。それが当たり前じゃなくなったとき、その人たちはものすごい衝撃を受けると思う。翠葉はそれを乗り越えようとしてるんだよ。それだけの力が翠葉にはあるんだ」
……そんなこと、考えてみもしなかった。
「翠葉は自分思っているよりも強い部分はすごく強いんだ。それを司はわかっているから帰り際にああいう言葉を言ったんじゃないかな」
司先輩の、こと、ば……? ――あ……。
――「翠はなんだかんだ言って強いよな」。
私は強くなんかないと思ったけれど、司先輩はそういう面で私を強いと言ってくれるの? 思ってくれるの?
私にも強い一面がある……?
考えていると、蒼兄に寝る前の薬を渡された。
あとのことはほとんど覚えていない。
蒼兄が何時までレポートを作成していたのかも、朝何時にランニングに出かけたのかも……。
目を覚ますまでは一切気づかなかった。
そして、以前感じたとおり、ほんの少しゴツゴツしているように感じる。
それでも指は長く、全体的なバランスがいいとてもきれいな手。
その手を自分の両手を使って少しずつほぐしていく。
「……弓道やってるからかな?」
「は?」
「あ……家族の手とは違う手だな、と思って」
「あぁ、そういうこと……。確かに弓を引くときにはそれなりに力使うから」
部活のあとに私のマッサージなんて、疲れないのだろうか……。
……あれ? でも、今日の時間だと――
八限だった場合、ホームルームが終わって少ししたら帰ってきた、というような時間帯ではなかっただろうか。
「先輩、今日部活に出ましたか?」
「いや、行ってない」
「……マッサージのために?」
「それもあるけど、ほかにも用があったから」
ほかにも用……。それはいったいなんだろう。
どうしてか、マッサージをするために帰ってきてくれたような気がする。
それはさすがに申し訳ないんだけどな……。
「部活は午後に出られなくても朝練でまとまった時間練習してるから問題ない」
「でも……」
「もっと言うなら、朝の練習に重点を置いている。午後は後輩指導も入るから自分の練習はあまりしない。だから翠が気にする必要はない」
それは本当なのかもしれない。司先輩が嘘をつく人には思えなかったから。
「……ありがとうございます」
マッサージに集中するように言われたのに、結局はごちゃごちゃと色んなことを考えていた。
だめだ、集中しよう。
どういう状況にあろうと司先輩が私に時間を割いてくれていることに変わりはないし、この先輩が自分で言い出したことを反故にするとは思えない。
それなら、お返しのマッサージくらいはきちんとしたい。
「翠の手は小さいな……」
まるでひとり言のような言葉だった。けど、
「骨が刺さるみたいで痛いですか?」
「いや、そうは言ってないけど……」
「本当? 前に蒼兄に言われたことがあるから、また同じことを言われるのかと思いました」
クスクスと笑いながらマッサージを続けていると、食器洗いが済んだ栞さんがハーブティーを入れてきてくれた。
さっきは冷たいローズヒップティーだったけれど、今度はホット。
「傷が治るまではずっと……?」
ふと、思ったことが口をついた。すると、ふわり、と栞さんが笑う。
「そうね。時々は違うものも出すけれど、しばらくはビタミンCを率先して摂りましょう」
「……傷、見てもいい?」
司先輩が遠慮がちに訊いてきた。
「司くん、それは――」
栞さんが遮ろうとした言葉を私が遮った。
「いいですよ」
「翠葉ちゃんっ!?」
栞さんも司先輩もふたりとも驚いている。
それはそうだよね……。でも、蒼兄が帰ってきたら蒼兄にも絶対訊かれるだろうし、見せろとも言われるだろう。
それは、湊先生も楓先生も同じだと思う。
でも、これは自分でやったことだから……。庇われてばかりいるわけにもいかない。
自分でしたことの責任は自分が取る――
これはお母さんに言われてきたことのひとつだ。
この首の傷もそれに該当すると思う。
首に巻いてある包帯を外し始めると、その先は栞さんが手伝ってくれた。
髪の毛を左側に流し、後ろを見せる。
美波さんが手に持っていたシートは半透明のものだった。だから、傷の具合はダイレクトには見えないかもしれないけれど、だいたいはわかるのではないだろうか。
栞さんは司先輩の顔をじっと見ているようで、司先輩は一言も発しなかった。
「司くん、あくまでも無自覚よ。翠葉ちゃんが自分を傷つけようと思ってした行為じゃないの」
「それはさっき翠から聞きました。……翠、これかなり痛いだろ」
「……傷に気づくまでは少しヒリヒリ感じるくらいだったんですけど、気づいたらやっぱり痛くて……。病は気から、じゃないけれど、気の持ちようって本当にあるんだな、って思いました」
「でも、湿潤療法とってるなら傷はきれいに治るから」
先輩の言葉に、
「傷、残ったりしない……?」
「治りが遅いように感じるかもしれないけど、実際はガーゼをかぶせたり乾燥させるよりも早くに治るし痕も残らない」
それは嬉しいかも……。
「早ければ一週間で治るはず」
もっと時間がかかるかと思っていただけに少しほっとした。
一週間ってすぐ、だよね? その間、秋斗さんに会わなければ知られずに済む、よね?
そのことにほっとした瞬間、玄関で音がして蒼兄が帰ってきたことを知らせる。
蒼兄は手洗いうがいを済ませてからリビングへやってきた。
「ただいま――ってその包帯、何?」
テーブルの上に置かれた包帯を蒼兄は指差した。
栞さんと司先輩の視線が私に集り、必然と蒼兄の視線も私を向いた。
蒼兄に話すのが一番の難所だ……。
「……えぇと、あのね、これを隠していたの」
私は手っ取り早く首の後ろを見せた。
「っ!? その傷どうした!?」
「……自分で引っ掻いちゃったみたい」
「……なんで」
一から説明しなくてはいけないと思うものの、どうしてか話すことが異様に億劫だった。
意識してやったことならともかく、気づいたときにはこうなっていただけに……。
うな垂れている私を見て察したのか、栞さんが代わりに説明してくれた。
だめだな……。私、結局は人を頼ってる。
「蒼くん、あくまでの無意識の行動だったのよ。お風呂でね、ボディタオルで真っ赤になるほど擦っているのを私が発見して止めたの。そのときはただの内出血だったのだけど、そのあと、寝ている間に掻き毟っちゃったみたいでね……。美波さんが気づいたときにはその状態だったの」
言葉に詰まった蒼兄に、後ろから抱きしめられる。
「翠葉、そんなに苦痛なら先輩と付き合うのをやめてもいいんだぞ?」
小声でそう言われた。
「もうね、よくわからないの……。好きだとは思うの。でも、今の私には身体と学校がすべてみたいで、どうしたらいいのかわからないの……」
「幸倉に帰るか……?」
「でも、そうしたら学校に通える自信がない……」
全部私のわがままだ。
「わがまま言ってるのは自覚してる。でも、学校は二度と諦めたくないの」
口にして涙が出てきた。
一度は簡単に諦めてしまったものだから。そして今は、手放したくないと思うもののひとつだから。
だからわがままでもなんでも手放したくはない。
「秋斗さん、出張でしばらく帰ってこられないみたいなの。その間は若槻さんが秋斗さんのお部屋に泊まるって言ってた。だからね、若槻さんにたくさん相談に乗ってもらう。で、秋斗さんが帰ってきたら、きちんと自分でお話する。……それまでは蒼兄に相談してもいい? お話聞いてくれる?」
「……聞くよ。そんなの当たり前」
「……ありがとう」
そこに思いがけない声が割込んだ。
「俺は……?」
司先輩の声だった。
びっくりした。けど……この人はだめ。
「先輩はいつも優しいからだめです。意地悪だけど、根本が優しくて、なんだかんだ言っても私に優しいことしか言わないからだめ。私を厳しく諭してくれる人じゃないと相談できません」
少しだけ笑みを添えて答えると、先輩の口元が少し歪んで苦笑いになった。
「ようやくわかったか……。俺は翠には甘いって何度も言っているのに全然気づかなかったくせに」
思い返してみれば本当に何度も言われていたわけで、少し肩身が狭くなる思いだ。
「時間はかかったけど、気づけた、ということで怒らないでください」
「怒りはしない。でも、相変わらず鈍感だなとは思う」
しばらくすると先輩は立ち上がり、
「じゃ、今日はもう帰るから。明日、海斗や簾条たちが来るって言ってた」
私は蒼兄に手を貸してもらい、先輩を玄関まで見送るために立ち上がる。
玄関のドアを開くと先輩は振り返り、
「翠はなんだかんだ言って強いよな。……栞さん、ごちそうさまでした」
先輩の背を見送りながら思う。
先輩、私は強くなんかないです。
ただ、周りの人に恵まれているだけ。支えてくれる人がいるから立っていられるだけ。
ただ、それだけなの――
先輩が帰ると栞さんは蒼兄の夕飯の支度をしてくれ、その片付けが終わると、
「蒼くんにお願いがあるの」
栞さんの手には二枚のフェイスタオルとマジックテープで止められるタイプのリストバンドがあった。
「翠葉ちゃんが寝る前にタオルで手をくるんで留めてほしいの」
「こんな感じにね」
栞さんはお手本というように、左手の手をタオルで包んでくれた。
それはどうやっても自分の五本の指が自由にはならない感じで、たとえ、首に手を伸ばしてもタオルがシートの上を滑ってしまうような状態だった。
「……こんなことまでしなくちゃいけないんですか?」
蒼兄の声は悲痛に満ちていた。
「本人が意識しているわけじゃないから、寝ている間が一番危ないのよ。傷が治るまでは続けてほしいわ」
「……わかりました」
蒼兄は口を真一文字に閉じた。
栞さんを見送り、蒼兄とふたり私の使っている部屋に入る。
……怒られるのかな。それとも、何を言われるだろう。
蒼兄は黙々と左手のタオルを外してくれた。
外し終わると顔を上げ、
「翠葉、同じ部屋で一緒に寝よう」
「……え?」
私がおねだりすることはあっても、蒼兄から一緒に寝ようと言われることはめったにない。
「俺の部屋にあるベッドの下には引き出せるタイプのベッドがある」
「……そうなの?」
「俺はレポートを作らなくちゃいけないから夜遅くまで起きているけど……。電気がついたままでもいいならおいで」
「……邪魔じゃない?」
「邪魔じゃないよ。それに、首に手を伸ばしたらすぐに止めてやれる。翠葉、ボストンバッグに鈴付けてたよな?」
「え? あ、うん」
「それを手首に付けよう? そしたら手を動かしたらすぐに気づく」
「でも、そしたら蒼兄が深い眠りにつけなくなる」
それは嫌だ……。
「俺が目覚まし鳴って三秒で止めることができるのは知ってるだろ? もともとそういう体質なんだよ」
それは蒼兄のちょっとした特技。
電話なら基本はワンコールで出てくれるし、目覚まし時計は朝早くに鳴らすため、ほかの家族が起きないように極力早くに止めることができる。
「じゃ、用意してくるから」
と、蒼兄は部屋を出ていった。
こういうの、自傷行為っていうのかな。
自傷行為とは、無意識でやるものを指すのだろうか。あるいは、意識があろうとなかろうと、自傷行為なのだろうか。
そんなこと、今まで意識もしたことがなかった。
それほどまでに自分には余裕がないのだろうか。
――余裕。
言葉にすればたったの三文字、漢字なら二文字。
なのに、その存在は計り知れないほど大きなものに感じる。
ほどなくして蒼兄が戻ってくると、寝る準備をして蒼兄の使っている部屋へ移った。
ラベンダーカラーが優しい部屋。
「上のベッド使っていいよ」
言われて素直に従う。
「蒼兄、蒼兄はいくつまで自分のやりたいことを並行してできる?」
「え? ……ごめん、ちょっと意味がわかりかねる」
「……私はね、今は体調と学校で手一杯。そこに三つ目の恋愛を入れるスペースがないみたいなの」
デスクチェアーに腰掛けていた蒼兄は、椅子を回転させてこちらを向く。
「そういう意味か……。そうだなぁ、その時々によるし、もののウェイトにも関係すると思わない?」
ウェイト……?
「たとえば、俺にしてみたら体調管理なんて気にしなくてもできちゃうんだ。でも、翠葉にとってはそれがネックになるくらい重いだろ? そういう意味」
あ……そっか。人によってそれらひとつひとつは同じ重さじゃないんだ。
「俺にとっては大学に通うことも全然苦じゃないし、努力が必要なことでもない。でも、翠葉にはそれが大きな山なわけで……。そうだな、俺はレポートが大きな山かも。それをいくつか抱えているときは正直ほかのものは手をつけられない。即ち、レポートひとつだよ。逆に、朝のランニングに加えて長引くゼミなんかは体力勝負な問題で、なんとかクリアできちゃうからふたつOKって感じ」
なるほど……。
「ものによりけり、人によりけり、だよ。大切なのは自分に余裕があるのかないのかを見極められるかだと思う。でも、翠葉はそれがちゃんとできていると思うよ」
そう言った蒼兄の表情はとても優しいものだった。
「自分の体力や精神力のキャパシティ、ちゃんと自覚できてるだろ? 最近は頻繁に倒れなくなったし……」
そうかもしれない……。
「それに、前ならすぐに諦める道を選んだけれど、今は学校に通うこと、それが優先事項なんだろう?」
コクリと頷くと、
「それだけでも大きな前進だよ。諦めて家に篭ることを選ぶよりも大変なことだ。わがままじゃないよ」
力強く言われると、どこかほっとする。
「普通はさ、学校に通うことなんて誰もが当たり前に思ってるんだ。それが当たり前じゃなくなったとき、その人たちはものすごい衝撃を受けると思う。翠葉はそれを乗り越えようとしてるんだよ。それだけの力が翠葉にはあるんだ」
……そんなこと、考えてみもしなかった。
「翠葉は自分思っているよりも強い部分はすごく強いんだ。それを司はわかっているから帰り際にああいう言葉を言ったんじゃないかな」
司先輩の、こと、ば……? ――あ……。
――「翠はなんだかんだ言って強いよな」。
私は強くなんかないと思ったけれど、司先輩はそういう面で私を強いと言ってくれるの? 思ってくれるの?
私にも強い一面がある……?
考えていると、蒼兄に寝る前の薬を渡された。
あとのことはほとんど覚えていない。
蒼兄が何時までレポートを作成していたのかも、朝何時にランニングに出かけたのかも……。
目を覚ますまでは一切気づかなかった。
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