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31~33 Side 秋斗 02話
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廊下に座り込んでいると、ドアの向こうから少しくぐもった声が聞こえてくる。
「で、今日の一時前ごろ、何があったのかな?」
これは蒼樹の声だな。さて、君はなんて答える?
それ以前に、彼女の細く小さな声は聞こえるのだろうか。
「あ……――えと……」
聞こえた……。
高い声は通りやすいらしい。事実、彼女の声は蒼樹の声よりもだいぶ小さいのだから。
「「うん」」
「……秋斗さんの家へ移動するとき、どうしても抱っこされるのが恥ずかしくて――秋斗さんがお部屋を片付けに行っている間に高崎さんに運んでもらってしまったの……」
それか、そっちを話すのか……。
「ひーめー……そりゃ、あの人落ち込むっていうか怒るかも」
若槻よ、わかってくれるか……。
「……すごく怖かったです」
君は若干正直すぎ。
「俺、先輩がこんなに嫉妬深いとは思いもしなかった」
うるさいよ。蒼樹が知らない以前に俺自身が驚いてるというのに。
「それは右に同じくですけど……。あの人、午後の時間を融通できるように、午前の仕事量半端ないから」
若槻、もっと言って。多少盛ってもかまわないから。
「……やっぱりおうちで仕事をするよりも、図書棟にいたほうがお仕事しやすいんですか?」
君の思考回路はどうしてそういう方向に行くんだろう?
「いや、そうじゃなくて……。リィをかまいたいから、午後の仕事を少なくするために午前に詰め込んでるの」
そうだよ……。君の側にいたいから。君の笑顔を見ていたいから。
今日は出勤時間を早めて午前中に仕事の大半を片付けてきたんだ。
「でも、怒るっていっても怒鳴るような人じゃないでしょ?」
若槻は本当に俺のことをよくわかっていると思う。
さぁ、君はなんて答える?
「あの……あのね……。あの――」
口を開くも、その先が言えないらしい。
そりゃ、彼女には恥ずかしくて口にできないだろう。
俺がいじめるよりも、こういう間接的ないじめのほうが彼女にダメージがあるのかもしれない。
「リィ、いいよ。どうせキス攻めにされたかなんかでしょ? リィが相手ならそれが関の山」
さすが若槻だな。
今、この部屋の中で君がどんな顔をしているのか見てみたい。
きっと、顔を真っ赤に染めているんだろうね。
「翠葉……かわいそうなくらいに顔が真っ赤。それじゃ、『はい』って言ってるのと変わらない」
蒼樹の呆れた声。
「はぁ……あの人、禁欲生活始めてどのくらいなんだろう?」
ざっと四十日ですが何か……?
「……俺が知る範囲だと五月半ばから、かな」
「なるほどね」
「約一ヶ月か。意外と耐えてるじゃん」
……だから、一ヶ月以上だってば……。
「だって、俺にキス以上のことはしないって言った手前あるし」
あぁ、蒼樹にも湊ちゃんにもそんなことを言った覚えがある……。
「それ、冗談とかじゃなくて?」
冗談なんかじゃなかった。あくまでもそのときは。
真面目にそう考えていたしできると思ってた。
……というよりは、もっと早くなびくと思っていた、が正解。
「それ、『取り消させてくれる?』って言われたのだけど、どうしよう――」
「「はあああっ!?」
こんなときばかりは正直に口を割る君が恨めしい。
「どうしよう……。お付き合いするのって、怖いね……?」
そっちにいっちゃったか……。
「リィの場合は相手が悪い」
若槻も、ずばずばものを言ってくれる。蒼樹は苦笑でも浮かべているだろうか。
「でもね、私に合わせてくれるって言ってた……。それでもすごく怖い……」
君は怖いんだね。だからあんなに怯えた目をしていたんだ。
君の周りにはいくつの「怖い」要素があるだろう。
もっと簡単に考えてた。
性行為や異性に対する好奇心で受け入れてくれるかと、そんなふうに心のどこかで思っていた。
でも、違ったみたいだ。
彼女の中ではもっと違うものに模られた領域なのだろう。
「あーぁ……泣いちゃうくらいに怖いか」
若槻の声に心臓が止まるかと思った。
……翠葉ちゃん、泣いているのか?
「そんなに怖いものでもないんだけど……。でも、やっぱ初めての女の子は怖いのかなぁ……」
若槻の声だけが淡々と聞こえてくる。
「でもね、あの秋斗さんが我慢するほどにリィは想われているし、大切にされてるんだよ?」
「え……?」
「あの人、どうでもいい相手ならその場の雰囲気で手ぇ出すから」
この部屋に蒼樹と翠葉ちゃんだけというよりは、若槻がいたほうが断然にいい。でも、頼むから余計なことは言わないでほしい。
「翠葉、こういう話を兄からするのもどうかと思うんだけど……。人間の三大欲求って知ってるか?」
「食べることと睡眠と――性欲」
最後の一言はとても小さな声だった。
「そう。で、先輩は取り分け性欲が突出してる人」
「あんちゃんわかり易すぎ」
「だからさ、その人が一ヶ月も我慢してるってすごいことだと思うんだ。……もっと我慢しろとは思うけど……」
後半、こちらを向いて発せられたように思え、ドキリとする。
これは背徳感のなせる業? それとも、ここにいるのばれてる!?
「でも、怖いものは怖い……。普通にお話するだけじゃだめなの? 側にいるだけじゃだめなの?」
彼女の反応に、蒼樹が唸る。
確かに俺は、君にそう提案したんだったな。ただ、側にいてくれるだけでいいと……。
君は言葉どおり、額面どおりに受け取った。けれど俺がそれだけでは物足りなくなってきている。
でも、俺が近づけば近づいた分彼女は怯える。
「リィのは恋かもしれないけど、でも、秋斗さんとはステージが違うんだよなぁ」
「ステージ?」
「そう、ステージ。あのさ、リィのは小学生の恋。秋斗さんのは大人の恋。ね? いる場所が全然違うのわかるだろ?」
「私、高校生です……」
彼女にしては珍しく棘のある声だった。若槻はそれに怯むことなく、
「恋愛偏差値の問題」
若槻も、こういうもののたとえは蒼樹レベルでわかりやすく話す。ただ、蒼樹がするたとえ話よりもより一般的でわかりやすい。
俺や静さんが予想もせずにいた「兄妹ごっこ」だが、若槻の無駄に高い順応力は職場だけではなく、こういう場でも発揮されるらしい。
すでに蒼樹と翠葉ちゃんに馴染み、きっちりと兄の役割をしているように思えた。
そんなことを考えていると、彼女から爆弾が投下された。
「私、やっぱり誰かとお付き合いするのは無理かも……」
「どうして?」
間髪容れずに若槻が尋ねる。と、
「だって……許容量オーバーです。それに、同級生が相手だったとしても、私は小学生で相手は高校生なのでしょう? 到底そのレベルには及びません」
先に進む気はないのか……? そういう選択肢すらないのか……?
「でもさ、恋愛をしないとレベルアップはしないよ?」
若槻はまるでゲームか何かのように話す。
「それでも……怖いから、これ以上先には進めない」
それはとても思い詰めたような声だった。
俺はそこまで彼女を追い詰めてしまったんだろうか。
「翠葉、とりあえず深呼吸。……身体、すごく力が入ってる」
身体に力が入るほど……?
キスして抱きしめてキスマークを付けて……。
俺からしてみたら「それだけ」だ。
あとは首筋や髪の毛に触れたけど、そんなものは愛撫のうちにも入らない。
「あ、ごめん……」
「ごめんなさいっ――なんか、ちょっと……ごめんなさい」
「ううん、いいよ。俺とあんちゃんは違うし……。それに、今は身体に触られること事体が怖いんじゃない?」
……何? 今の会話――
すぐさま携帯を取り出し彼女のバイタルを確認する。と、脈拍が一〇〇を超えていた。
「……そうかも――でもっ、若槻さんが嫌いとかそういうことじゃなくて――」
慌てて弁解する彼女に若槻は優しく声をかけた。
「ありがと。でもって、秋斗さんのことも嫌いだから嫌なわけじゃなくて、怖かったり恥ずかしかったりするだけなんでしょ?」
次の瞬間、玄関のドアが開いた。
ガツ――びっくりした俺の手から携帯が落下する。
玄関に現れたのは司だった。
家でシャワーを浴びてきたのだろう。ずぶ濡れだった形跡は跡形もない。
司は俺を視界に捉えつつ、三兄妹が話す部屋のドアを見る。そのまま無言で俺に視線を戻した。
即ち、「そんなところで何してる?」だろう。
その視線を煩わしいと思いながら、落下した携帯を拾う。
彼女の数値を見ようと思ったらディスプレイに何も映らなかった。
は……?
何を押してもうんともすうとも言わない。
……まさか。まさかねぇ……。こんな低い場所から落下したくらいじゃ壊れないだろ……?
そうは思うものの、事実、うんともすうとも言わない携帯が手元にあるわけで……。
腐っても精密機器ということだろうか。内部基板がいってしまっていたら修理に出す必要がある。
そんなことを考えていると、司は俺を横目に見ながらドアを軽くノックした。
ドアは内開きのため、俺がいる場所から部屋の中は見えない。当然、部屋の中からも見えない。
「これ、なんの集会?」
「「「兄妹会議?」」」
最後に疑問符がつくところまで同じイントネーションで三人の声が揃った。
「あぁ、そう。じゃ、俺は邪魔ね」
司は二言目にはあっさりと入室を辞退した。
「彼、淡白だよね?」
部屋の中から聞こえてきた若槻の声に同意する。
俺もそう思う。俺なら絶対に引かないし、中に入ろうとするだろう。
すると、部屋からはクスクスと三人の笑い声が聞こえてきた。
彼女の小さな笑い声にほっとする。
まいったな……。
こんなにも、彼女に一挙一動する。それは彼女も同じなのかもしれない。
けど、たぶん俺のほうが些細なことに心動かされてる。
君が俺の言動や行動に不安になるのなら、俺は君の表情ひとつにだってうろたえるんだ――
廊下に座ったまま点灯しないディスプレイを眺めていた。
……ずっとここにいても仕方ないか。
立ち上がろうとしたとき、またしても玄関が開く。
今度は栞ちゃん。
無言で見つめてくるのは司と同じ。ただ、両手にいっぱいの荷物を抱え、目をまん丸にしている。
栞ちゃんも表情で話ができるタイプだな。
そこへ迎えに出てきた司と分担して荷物をキッチンへと運んだ。
荷物を受け取った直後、栞ちゃんが開けたドアの隙間から彼女を見ることができた。
彼女の目は赤く充血していた。
これは俺が泣かせたことになるんだろうな。
そう思えば声をかけることはできなかった。
リビングで往生際悪く携帯をいじっていると、
「……壊れたの?」
「おまえが玄関開けなかったら携帯落とすこともなかったんだけどな」
「それ不可抗力だし。第一、あんな低い場所から落下して壊れるなんて運が悪かったとしか言いようがない」
素っ気無く答えると、司は自分で淹れたであろうコーヒーを飲みながら読書を開始した。
彼女を怯えさせて泣かせてしまうわ携帯は壊れるわ、思いどおりにならないことにむしゃくしゃしていた。
とりあえず、携帯の復旧作業だけは急がないといけないだろう。
栞ちゃんが入ったその部屋は、ドアが開けられたままになっていた。廊下から若槻に声をかける。
「若槻、ちょっと付き合えよ」
「……マジでっ!?」
この反応、女漁りに行くとでも思われているのだろう。
違うから……。
修理に出すと時間かかるから機種変して、元通りに復元するためにおまえのところで作業するほうが精神衛生上いいってだけだ。
携帯を買って、またこのマンションに戻ってくることは考えたくなかった。
戻ってきたところで彼女に会えるわけじゃない。今の彼女に会ったら怯えさせるだけだ。
けれども、こんな目と鼻の先に彼女がいる。
会える回数が増える、距離が縮まる、そんなふうに考えたのは数日前のこと。
今はそれすらが苦行のようだ。
しばらくホテル住まいでもしようか。
どちらにせよ、一度家に戻ってノートパソコンだけは持っていく必要がある。
携帯が壊れた今、俺の連絡手段はメールのみだ。
それでも、若槻を連れていれば蔵元が困ることはないだろう。
腕時計を見れば七時過ぎ。蔵元はまだ本社に残っているはず。
携帯を買ったら蔵元もピックアップして男三人で飲むのもいいかもしれない。
少し彼女から離れないと、何よりも大切な彼女を壊してしまいそうだ――
「で、今日の一時前ごろ、何があったのかな?」
これは蒼樹の声だな。さて、君はなんて答える?
それ以前に、彼女の細く小さな声は聞こえるのだろうか。
「あ……――えと……」
聞こえた……。
高い声は通りやすいらしい。事実、彼女の声は蒼樹の声よりもだいぶ小さいのだから。
「「うん」」
「……秋斗さんの家へ移動するとき、どうしても抱っこされるのが恥ずかしくて――秋斗さんがお部屋を片付けに行っている間に高崎さんに運んでもらってしまったの……」
それか、そっちを話すのか……。
「ひーめー……そりゃ、あの人落ち込むっていうか怒るかも」
若槻よ、わかってくれるか……。
「……すごく怖かったです」
君は若干正直すぎ。
「俺、先輩がこんなに嫉妬深いとは思いもしなかった」
うるさいよ。蒼樹が知らない以前に俺自身が驚いてるというのに。
「それは右に同じくですけど……。あの人、午後の時間を融通できるように、午前の仕事量半端ないから」
若槻、もっと言って。多少盛ってもかまわないから。
「……やっぱりおうちで仕事をするよりも、図書棟にいたほうがお仕事しやすいんですか?」
君の思考回路はどうしてそういう方向に行くんだろう?
「いや、そうじゃなくて……。リィをかまいたいから、午後の仕事を少なくするために午前に詰め込んでるの」
そうだよ……。君の側にいたいから。君の笑顔を見ていたいから。
今日は出勤時間を早めて午前中に仕事の大半を片付けてきたんだ。
「でも、怒るっていっても怒鳴るような人じゃないでしょ?」
若槻は本当に俺のことをよくわかっていると思う。
さぁ、君はなんて答える?
「あの……あのね……。あの――」
口を開くも、その先が言えないらしい。
そりゃ、彼女には恥ずかしくて口にできないだろう。
俺がいじめるよりも、こういう間接的ないじめのほうが彼女にダメージがあるのかもしれない。
「リィ、いいよ。どうせキス攻めにされたかなんかでしょ? リィが相手ならそれが関の山」
さすが若槻だな。
今、この部屋の中で君がどんな顔をしているのか見てみたい。
きっと、顔を真っ赤に染めているんだろうね。
「翠葉……かわいそうなくらいに顔が真っ赤。それじゃ、『はい』って言ってるのと変わらない」
蒼樹の呆れた声。
「はぁ……あの人、禁欲生活始めてどのくらいなんだろう?」
ざっと四十日ですが何か……?
「……俺が知る範囲だと五月半ばから、かな」
「なるほどね」
「約一ヶ月か。意外と耐えてるじゃん」
……だから、一ヶ月以上だってば……。
「だって、俺にキス以上のことはしないって言った手前あるし」
あぁ、蒼樹にも湊ちゃんにもそんなことを言った覚えがある……。
「それ、冗談とかじゃなくて?」
冗談なんかじゃなかった。あくまでもそのときは。
真面目にそう考えていたしできると思ってた。
……というよりは、もっと早くなびくと思っていた、が正解。
「それ、『取り消させてくれる?』って言われたのだけど、どうしよう――」
「「はあああっ!?」
こんなときばかりは正直に口を割る君が恨めしい。
「どうしよう……。お付き合いするのって、怖いね……?」
そっちにいっちゃったか……。
「リィの場合は相手が悪い」
若槻も、ずばずばものを言ってくれる。蒼樹は苦笑でも浮かべているだろうか。
「でもね、私に合わせてくれるって言ってた……。それでもすごく怖い……」
君は怖いんだね。だからあんなに怯えた目をしていたんだ。
君の周りにはいくつの「怖い」要素があるだろう。
もっと簡単に考えてた。
性行為や異性に対する好奇心で受け入れてくれるかと、そんなふうに心のどこかで思っていた。
でも、違ったみたいだ。
彼女の中ではもっと違うものに模られた領域なのだろう。
「あーぁ……泣いちゃうくらいに怖いか」
若槻の声に心臓が止まるかと思った。
……翠葉ちゃん、泣いているのか?
「そんなに怖いものでもないんだけど……。でも、やっぱ初めての女の子は怖いのかなぁ……」
若槻の声だけが淡々と聞こえてくる。
「でもね、あの秋斗さんが我慢するほどにリィは想われているし、大切にされてるんだよ?」
「え……?」
「あの人、どうでもいい相手ならその場の雰囲気で手ぇ出すから」
この部屋に蒼樹と翠葉ちゃんだけというよりは、若槻がいたほうが断然にいい。でも、頼むから余計なことは言わないでほしい。
「翠葉、こういう話を兄からするのもどうかと思うんだけど……。人間の三大欲求って知ってるか?」
「食べることと睡眠と――性欲」
最後の一言はとても小さな声だった。
「そう。で、先輩は取り分け性欲が突出してる人」
「あんちゃんわかり易すぎ」
「だからさ、その人が一ヶ月も我慢してるってすごいことだと思うんだ。……もっと我慢しろとは思うけど……」
後半、こちらを向いて発せられたように思え、ドキリとする。
これは背徳感のなせる業? それとも、ここにいるのばれてる!?
「でも、怖いものは怖い……。普通にお話するだけじゃだめなの? 側にいるだけじゃだめなの?」
彼女の反応に、蒼樹が唸る。
確かに俺は、君にそう提案したんだったな。ただ、側にいてくれるだけでいいと……。
君は言葉どおり、額面どおりに受け取った。けれど俺がそれだけでは物足りなくなってきている。
でも、俺が近づけば近づいた分彼女は怯える。
「リィのは恋かもしれないけど、でも、秋斗さんとはステージが違うんだよなぁ」
「ステージ?」
「そう、ステージ。あのさ、リィのは小学生の恋。秋斗さんのは大人の恋。ね? いる場所が全然違うのわかるだろ?」
「私、高校生です……」
彼女にしては珍しく棘のある声だった。若槻はそれに怯むことなく、
「恋愛偏差値の問題」
若槻も、こういうもののたとえは蒼樹レベルでわかりやすく話す。ただ、蒼樹がするたとえ話よりもより一般的でわかりやすい。
俺や静さんが予想もせずにいた「兄妹ごっこ」だが、若槻の無駄に高い順応力は職場だけではなく、こういう場でも発揮されるらしい。
すでに蒼樹と翠葉ちゃんに馴染み、きっちりと兄の役割をしているように思えた。
そんなことを考えていると、彼女から爆弾が投下された。
「私、やっぱり誰かとお付き合いするのは無理かも……」
「どうして?」
間髪容れずに若槻が尋ねる。と、
「だって……許容量オーバーです。それに、同級生が相手だったとしても、私は小学生で相手は高校生なのでしょう? 到底そのレベルには及びません」
先に進む気はないのか……? そういう選択肢すらないのか……?
「でもさ、恋愛をしないとレベルアップはしないよ?」
若槻はまるでゲームか何かのように話す。
「それでも……怖いから、これ以上先には進めない」
それはとても思い詰めたような声だった。
俺はそこまで彼女を追い詰めてしまったんだろうか。
「翠葉、とりあえず深呼吸。……身体、すごく力が入ってる」
身体に力が入るほど……?
キスして抱きしめてキスマークを付けて……。
俺からしてみたら「それだけ」だ。
あとは首筋や髪の毛に触れたけど、そんなものは愛撫のうちにも入らない。
「あ、ごめん……」
「ごめんなさいっ――なんか、ちょっと……ごめんなさい」
「ううん、いいよ。俺とあんちゃんは違うし……。それに、今は身体に触られること事体が怖いんじゃない?」
……何? 今の会話――
すぐさま携帯を取り出し彼女のバイタルを確認する。と、脈拍が一〇〇を超えていた。
「……そうかも――でもっ、若槻さんが嫌いとかそういうことじゃなくて――」
慌てて弁解する彼女に若槻は優しく声をかけた。
「ありがと。でもって、秋斗さんのことも嫌いだから嫌なわけじゃなくて、怖かったり恥ずかしかったりするだけなんでしょ?」
次の瞬間、玄関のドアが開いた。
ガツ――びっくりした俺の手から携帯が落下する。
玄関に現れたのは司だった。
家でシャワーを浴びてきたのだろう。ずぶ濡れだった形跡は跡形もない。
司は俺を視界に捉えつつ、三兄妹が話す部屋のドアを見る。そのまま無言で俺に視線を戻した。
即ち、「そんなところで何してる?」だろう。
その視線を煩わしいと思いながら、落下した携帯を拾う。
彼女の数値を見ようと思ったらディスプレイに何も映らなかった。
は……?
何を押してもうんともすうとも言わない。
……まさか。まさかねぇ……。こんな低い場所から落下したくらいじゃ壊れないだろ……?
そうは思うものの、事実、うんともすうとも言わない携帯が手元にあるわけで……。
腐っても精密機器ということだろうか。内部基板がいってしまっていたら修理に出す必要がある。
そんなことを考えていると、司は俺を横目に見ながらドアを軽くノックした。
ドアは内開きのため、俺がいる場所から部屋の中は見えない。当然、部屋の中からも見えない。
「これ、なんの集会?」
「「「兄妹会議?」」」
最後に疑問符がつくところまで同じイントネーションで三人の声が揃った。
「あぁ、そう。じゃ、俺は邪魔ね」
司は二言目にはあっさりと入室を辞退した。
「彼、淡白だよね?」
部屋の中から聞こえてきた若槻の声に同意する。
俺もそう思う。俺なら絶対に引かないし、中に入ろうとするだろう。
すると、部屋からはクスクスと三人の笑い声が聞こえてきた。
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まいったな……。
こんなにも、彼女に一挙一動する。それは彼女も同じなのかもしれない。
けど、たぶん俺のほうが些細なことに心動かされてる。
君が俺の言動や行動に不安になるのなら、俺は君の表情ひとつにだってうろたえるんだ――
廊下に座ったまま点灯しないディスプレイを眺めていた。
……ずっとここにいても仕方ないか。
立ち上がろうとしたとき、またしても玄関が開く。
今度は栞ちゃん。
無言で見つめてくるのは司と同じ。ただ、両手にいっぱいの荷物を抱え、目をまん丸にしている。
栞ちゃんも表情で話ができるタイプだな。
そこへ迎えに出てきた司と分担して荷物をキッチンへと運んだ。
荷物を受け取った直後、栞ちゃんが開けたドアの隙間から彼女を見ることができた。
彼女の目は赤く充血していた。
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そう思えば声をかけることはできなかった。
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「……壊れたの?」
「おまえが玄関開けなかったら携帯落とすこともなかったんだけどな」
「それ不可抗力だし。第一、あんな低い場所から落下して壊れるなんて運が悪かったとしか言いようがない」
素っ気無く答えると、司は自分で淹れたであろうコーヒーを飲みながら読書を開始した。
彼女を怯えさせて泣かせてしまうわ携帯は壊れるわ、思いどおりにならないことにむしゃくしゃしていた。
とりあえず、携帯の復旧作業だけは急がないといけないだろう。
栞ちゃんが入ったその部屋は、ドアが開けられたままになっていた。廊下から若槻に声をかける。
「若槻、ちょっと付き合えよ」
「……マジでっ!?」
この反応、女漁りに行くとでも思われているのだろう。
違うから……。
修理に出すと時間かかるから機種変して、元通りに復元するためにおまえのところで作業するほうが精神衛生上いいってだけだ。
携帯を買って、またこのマンションに戻ってくることは考えたくなかった。
戻ってきたところで彼女に会えるわけじゃない。今の彼女に会ったら怯えさせるだけだ。
けれども、こんな目と鼻の先に彼女がいる。
会える回数が増える、距離が縮まる、そんなふうに考えたのは数日前のこと。
今はそれすらが苦行のようだ。
しばらくホテル住まいでもしようか。
どちらにせよ、一度家に戻ってノートパソコンだけは持っていく必要がある。
携帯が壊れた今、俺の連絡手段はメールのみだ。
それでも、若槻を連れていれば蔵元が困ることはないだろう。
腕時計を見れば七時過ぎ。蔵元はまだ本社に残っているはず。
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