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第六章 葛藤
21話
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「翠葉ちゃんっ!?」
男の人の声……?
目を開けようとしたらすごく眩しくて、今一度目を閉じる。でも、顔に影ができたことを察して目を開けた。
「倒れていたわけじゃないっ!?」
私の顔を覗き込んでいるのは秋斗さんだった。
私は秋斗さんを見て絶句する。
「翠葉ちゃん……?」
「……あの……あの……どうして白衣じゃないんでしょうか」
やっと出てきたのはそんな言葉だった。
「え? あ、服装?」
急に降って湧いた秋斗さんはダーク系のスーツを身に纏っていたのだ。
「今日は朝から重役との会議でね、昨夜蔵元にうるさくスーツ出勤を言い渡されてたんだ。着替えてきても良かったんだけど、思っていたよりも遅くなっちゃったからそのまま来た」
どうやっても視界から秋斗さんを追い出すことができなくて、両手で顔を覆う。
「……翠葉ちゃん、そんなに見たくないでしょうか――」
「……見たくないです。白衣の秋斗さんを希望しますっ」
顔を覆っているというのに、鮮明に秋斗さんのスーツ姿が脳裏に浮かび上がる。
チャコールグレーに細いストライプが入ったスーツ。似たようなスーツを蒼兄も持っている。
白地に青いステッチがポイントになるシャツに、濃紺のネクタイ。レジメンタル柄がシャープさを引き立てる。
夏らしい爽やかな印象だった。
どうしよう――心臓が壊れちゃう。
クスクスと笑う声が聞こえてきて、
「お姫様が床に転がってるのはいかがなものかと思うんだよね。せめてソファの上にしてもらえない?」
抱き上げられて、
「白衣がいいです、って言ったのに……」
「じゃぁ、どうしてそんなに真っ赤なの?」
「……秋斗さん」
「なんでしょう?」
「私、今、逃げ場がないので――お願いだからいじめないでくださいっ」
秋斗さんは私をソファに下ろすと、
「そんなに困る?」
コクコクと頷く私の傍らで、秋斗さんは自分のスーツ姿を眺める。
「しょうがないな……。確かに上着は着てると暑いし……」
と、ジャケットを脱いでソファの背に掛けた。
そしたらスラックスにワイシャツ姿になって、少しだけましになった。
「これならいい?」
秋斗さんはネクタイを緩めながら訊いてくる。
私はその仕草にすらドキドキする。
答えられない私を秋斗さんは困った顔で笑い、胡坐をかいてラグに座った。
「部屋にいなかったからびっくりした。リビングを見渡してもいないし」
「……空が、見たくて……」
ソファに横になってしまうと、向かいにあるソファの背もたれで空が半分は見えなくなってしまうのだ。
「空?」
秋斗さんは窓を振り返り、空を見る。
「あっちのお部屋じゃ曇りガラスで見えなかったから……」
「そっか。幸倉では翠葉ちゃんの部屋は南向きだもんね」
家でもベッドに寝たままでは空は見えない。それは同じ。でも、ベッドに横になったままでも芝生や地面に植わる花は見ることができた。
「蒼樹が帰ってきたらここのソファの位置を変えてあげるよ。そしたら床に転がらなくてもいいでしょう?」
「……でも、ここのソファ重いんじゃ……」
「うん、だから蒼樹が帰ってきたらね」
と、クスリと笑われる。
「さ、お昼に何か食べなくちゃね。栞ちゃんからメールが届いて、グレープフルーツのゼリーを食べさせてって言われたけれど、食べられそう?」
「はい」
「じゃ、ちょっと待っててね」
秋斗さんワイシャツの袖をまくってキッチンへと入っていった。
どうしよう……ただ袖をまくっているだけなのに、それだけでドキドキしてしまう。
さっきからずっと心臓がバクバク鳴っていて苦しいくらい。
自分で心拍数をコントロールできたらいいのに。
……とりあえずは深呼吸、かな。
深く息を吸って最後まで吐く。四回目をしようと息を吸ったとき、
「なんで深呼吸?」
声が背もたれ側からかけられ、びっくりして叫んでしまう。
そんな私を見て、秋斗さんは穏やかに笑った。
「なかなか降参しないよね?」
「……降参、ですか?」
「こんなに俺のことを意識しているのに、どうして流されてくれないかな?」
「っ……」
「気持ちに流されてしまえば、そんなに困った顔ばかりしなくて済むのに」
上から顔を覗き込まれて顔が熱くなる。
なんて答えたらいいのかわからない。
「くっ、眉がハの字型」
恥ずかしくて眉を押さえた。
一緒にいられたらそれだけで嬉しいはずなのに、声を聞けたら、お話しができたらそれだけで嬉しいはずなのに。なのに、困るんだもの……。
「……泣いちゃうくらいならさ、俺のところにくればいいのに」
「……まだ泣いてないですっ」
「でも、目からは零れそうだよ」
「っそれは……」
「……困らせたいわけじゃないんだけどな。身体、起こせる? 無理そうならそのまま横になってて」
と、秋斗さんはこちら側に回ってきた。
なんとなくわかってはいる。それでも、ゆっくりと身体を起こしてみる。
ゆっくりゆっくり、手をソファについて身体を支えるようにして――
ほんの少し頭の位置が心臓よりも上になるだけで血の気が引く。目の前は真っ暗だ。
無理――
「無理はしないほうがいいよ」
と、身体を支えていた手を取られ横にされた。次の拍子に涙が零れる。
洗ってもらったばかりの髪の毛で顔を隠すと、その髪を耳にかけられハンカチで涙を拭かれた。
「そんなふうに泣かなくていいから」
泣くことを我慢できない自分も情けなければ、身体を起こすこともできない自分も情けない。
情けなくて悔しくて、涙が溢れてくる。
薬のせいで仕方がないことはわかっている。それでも、短時間ですら身体を起こすことができない自分がどうしても情けなく思えた。
「ほら、泣いたらその分水分摂らなくちゃ」
栞さんが作り置きしてくれているハーブティーにはご丁寧にもストローが付いていた。
一口二口飲むと、口の中がミントの清涼感でいっぱいになり、ちょっとした気付薬みたいな作用があるようで、吐き気がすっと引くのがわかった。
「少し待ってて」
秋斗さんが見えなくなると、少しして洗面所のドアを開ける音がした。
そして、戻ってきたときには手に濡れタオルを持っていた。
「顔を拭いたらリセットできそうでしょ?」
優しく笑ってタオルを差し出される。
……優しすぎる。そんなに優しくされると困るのに……。
「あれ? どうしてまた困った顔?」
もう、どんな顔も見られたくなくて、タオルを顔に付けたまま答える。
「秋斗さんが優しいから困る」
「俺が優しいと困る?」
「嬉しいけど困ります」
「じゃ、もう少し困ってもらおうかな」
意地悪な笑みに身をかまえる。と、
「これ、食べてね」
秋斗さんはゼリーが入ったグラスを手に取り、右手にはスプーンを持っていた。
「これ、食べてもらわないことには俺が栞ちゃんに怒られるんだ」
怒られる、と言いながらも嬉しそうだから性質が悪い。
これだけは嫌だったのに……。
「翠葉さん、眉間にしわが寄ってますが……」
だって、恥ずかしい……。
「ショックだなぁ……。昨日は若槻にスープ飲ませてもらったのに俺はだめ?」
「だめというか……恥ずかしいから嫌なだけですっ」
目を合わせることはできなくて、ずっと緩められたネクタイを見ていた。
「でも、苦行だと思ってがんばってください」
と、口元にスプーンが寄せられる。
それに対しては条件反射で口が開く。
口に、甘酸っぱくて冷たいゼリーがつるんと入った。
「食べられそう?」
訊かれてコクリと頷いた。
「良かった。今日はアンダンテでプリンを買ってきたから、それもあとで食べようね」
そしてまた次の一口が運ばれてくる。
そんなふうにして、二十分近くかけてゼリーを食べさせてもらった。
「はい、完食。薬を持ってくるね」
立ち上がる秋斗さんのスラックスを控え目に引っ張る。
「どうかした?」
「あの……食べさせてくれてありがとうございます」
「……どういたしまして。昨日、若槻にこの役取られたからね。今日は翠葉ちゃんを独り占めさせてもらうよ」
その言葉に再度赤面した。
すると、ポンポン、と頭を軽く叩かれる。
秋斗さんが視界から外れると、
「どんな君でも好きだって言ったでしょ?」
優しい声だけが降ってくる。
無理だ……。
湊先生、秋斗さんは空気に思えないです。そこにいるだけで意識しちゃう。心臓が駆け足しっぱなしで疲れる。
海斗くん、これはいつまで続くのかな? 私、落ち着くころには疲弊している気がするの。
それが「恋」なのかな――
男の人の声……?
目を開けようとしたらすごく眩しくて、今一度目を閉じる。でも、顔に影ができたことを察して目を開けた。
「倒れていたわけじゃないっ!?」
私の顔を覗き込んでいるのは秋斗さんだった。
私は秋斗さんを見て絶句する。
「翠葉ちゃん……?」
「……あの……あの……どうして白衣じゃないんでしょうか」
やっと出てきたのはそんな言葉だった。
「え? あ、服装?」
急に降って湧いた秋斗さんはダーク系のスーツを身に纏っていたのだ。
「今日は朝から重役との会議でね、昨夜蔵元にうるさくスーツ出勤を言い渡されてたんだ。着替えてきても良かったんだけど、思っていたよりも遅くなっちゃったからそのまま来た」
どうやっても視界から秋斗さんを追い出すことができなくて、両手で顔を覆う。
「……翠葉ちゃん、そんなに見たくないでしょうか――」
「……見たくないです。白衣の秋斗さんを希望しますっ」
顔を覆っているというのに、鮮明に秋斗さんのスーツ姿が脳裏に浮かび上がる。
チャコールグレーに細いストライプが入ったスーツ。似たようなスーツを蒼兄も持っている。
白地に青いステッチがポイントになるシャツに、濃紺のネクタイ。レジメンタル柄がシャープさを引き立てる。
夏らしい爽やかな印象だった。
どうしよう――心臓が壊れちゃう。
クスクスと笑う声が聞こえてきて、
「お姫様が床に転がってるのはいかがなものかと思うんだよね。せめてソファの上にしてもらえない?」
抱き上げられて、
「白衣がいいです、って言ったのに……」
「じゃぁ、どうしてそんなに真っ赤なの?」
「……秋斗さん」
「なんでしょう?」
「私、今、逃げ場がないので――お願いだからいじめないでくださいっ」
秋斗さんは私をソファに下ろすと、
「そんなに困る?」
コクコクと頷く私の傍らで、秋斗さんは自分のスーツ姿を眺める。
「しょうがないな……。確かに上着は着てると暑いし……」
と、ジャケットを脱いでソファの背に掛けた。
そしたらスラックスにワイシャツ姿になって、少しだけましになった。
「これならいい?」
秋斗さんはネクタイを緩めながら訊いてくる。
私はその仕草にすらドキドキする。
答えられない私を秋斗さんは困った顔で笑い、胡坐をかいてラグに座った。
「部屋にいなかったからびっくりした。リビングを見渡してもいないし」
「……空が、見たくて……」
ソファに横になってしまうと、向かいにあるソファの背もたれで空が半分は見えなくなってしまうのだ。
「空?」
秋斗さんは窓を振り返り、空を見る。
「あっちのお部屋じゃ曇りガラスで見えなかったから……」
「そっか。幸倉では翠葉ちゃんの部屋は南向きだもんね」
家でもベッドに寝たままでは空は見えない。それは同じ。でも、ベッドに横になったままでも芝生や地面に植わる花は見ることができた。
「蒼樹が帰ってきたらここのソファの位置を変えてあげるよ。そしたら床に転がらなくてもいいでしょう?」
「……でも、ここのソファ重いんじゃ……」
「うん、だから蒼樹が帰ってきたらね」
と、クスリと笑われる。
「さ、お昼に何か食べなくちゃね。栞ちゃんからメールが届いて、グレープフルーツのゼリーを食べさせてって言われたけれど、食べられそう?」
「はい」
「じゃ、ちょっと待っててね」
秋斗さんワイシャツの袖をまくってキッチンへと入っていった。
どうしよう……ただ袖をまくっているだけなのに、それだけでドキドキしてしまう。
さっきからずっと心臓がバクバク鳴っていて苦しいくらい。
自分で心拍数をコントロールできたらいいのに。
……とりあえずは深呼吸、かな。
深く息を吸って最後まで吐く。四回目をしようと息を吸ったとき、
「なんで深呼吸?」
声が背もたれ側からかけられ、びっくりして叫んでしまう。
そんな私を見て、秋斗さんは穏やかに笑った。
「なかなか降参しないよね?」
「……降参、ですか?」
「こんなに俺のことを意識しているのに、どうして流されてくれないかな?」
「っ……」
「気持ちに流されてしまえば、そんなに困った顔ばかりしなくて済むのに」
上から顔を覗き込まれて顔が熱くなる。
なんて答えたらいいのかわからない。
「くっ、眉がハの字型」
恥ずかしくて眉を押さえた。
一緒にいられたらそれだけで嬉しいはずなのに、声を聞けたら、お話しができたらそれだけで嬉しいはずなのに。なのに、困るんだもの……。
「……泣いちゃうくらいならさ、俺のところにくればいいのに」
「……まだ泣いてないですっ」
「でも、目からは零れそうだよ」
「っそれは……」
「……困らせたいわけじゃないんだけどな。身体、起こせる? 無理そうならそのまま横になってて」
と、秋斗さんはこちら側に回ってきた。
なんとなくわかってはいる。それでも、ゆっくりと身体を起こしてみる。
ゆっくりゆっくり、手をソファについて身体を支えるようにして――
ほんの少し頭の位置が心臓よりも上になるだけで血の気が引く。目の前は真っ暗だ。
無理――
「無理はしないほうがいいよ」
と、身体を支えていた手を取られ横にされた。次の拍子に涙が零れる。
洗ってもらったばかりの髪の毛で顔を隠すと、その髪を耳にかけられハンカチで涙を拭かれた。
「そんなふうに泣かなくていいから」
泣くことを我慢できない自分も情けなければ、身体を起こすこともできない自分も情けない。
情けなくて悔しくて、涙が溢れてくる。
薬のせいで仕方がないことはわかっている。それでも、短時間ですら身体を起こすことができない自分がどうしても情けなく思えた。
「ほら、泣いたらその分水分摂らなくちゃ」
栞さんが作り置きしてくれているハーブティーにはご丁寧にもストローが付いていた。
一口二口飲むと、口の中がミントの清涼感でいっぱいになり、ちょっとした気付薬みたいな作用があるようで、吐き気がすっと引くのがわかった。
「少し待ってて」
秋斗さんが見えなくなると、少しして洗面所のドアを開ける音がした。
そして、戻ってきたときには手に濡れタオルを持っていた。
「顔を拭いたらリセットできそうでしょ?」
優しく笑ってタオルを差し出される。
……優しすぎる。そんなに優しくされると困るのに……。
「あれ? どうしてまた困った顔?」
もう、どんな顔も見られたくなくて、タオルを顔に付けたまま答える。
「秋斗さんが優しいから困る」
「俺が優しいと困る?」
「嬉しいけど困ります」
「じゃ、もう少し困ってもらおうかな」
意地悪な笑みに身をかまえる。と、
「これ、食べてね」
秋斗さんはゼリーが入ったグラスを手に取り、右手にはスプーンを持っていた。
「これ、食べてもらわないことには俺が栞ちゃんに怒られるんだ」
怒られる、と言いながらも嬉しそうだから性質が悪い。
これだけは嫌だったのに……。
「翠葉さん、眉間にしわが寄ってますが……」
だって、恥ずかしい……。
「ショックだなぁ……。昨日は若槻にスープ飲ませてもらったのに俺はだめ?」
「だめというか……恥ずかしいから嫌なだけですっ」
目を合わせることはできなくて、ずっと緩められたネクタイを見ていた。
「でも、苦行だと思ってがんばってください」
と、口元にスプーンが寄せられる。
それに対しては条件反射で口が開く。
口に、甘酸っぱくて冷たいゼリーがつるんと入った。
「食べられそう?」
訊かれてコクリと頷いた。
「良かった。今日はアンダンテでプリンを買ってきたから、それもあとで食べようね」
そしてまた次の一口が運ばれてくる。
そんなふうにして、二十分近くかけてゼリーを食べさせてもらった。
「はい、完食。薬を持ってくるね」
立ち上がる秋斗さんのスラックスを控え目に引っ張る。
「どうかした?」
「あの……食べさせてくれてありがとうございます」
「……どういたしまして。昨日、若槻にこの役取られたからね。今日は翠葉ちゃんを独り占めさせてもらうよ」
その言葉に再度赤面した。
すると、ポンポン、と頭を軽く叩かれる。
秋斗さんが視界から外れると、
「どんな君でも好きだって言ったでしょ?」
優しい声だけが降ってくる。
無理だ……。
湊先生、秋斗さんは空気に思えないです。そこにいるだけで意識しちゃう。心臓が駆け足しっぱなしで疲れる。
海斗くん、これはいつまで続くのかな? 私、落ち着くころには疲弊している気がするの。
それが「恋」なのかな――
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