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第六章 葛藤
16話
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車に乗ると、私はすぐに寝てしまったらしい。気づいたときにはすでにゲストルームの一室で横になっていた。
ぼーっとする頭で考える。
車に乗ったあとの記憶が見事にない。
気持ち悪くて、そのまま寝てしまったのか気を失ってしまったのかは定かではない。
きっと栞さんと蒼兄は知っているだろう。
「あとで訊こう……」
外の光で今が夕方であることも、まだ夜になりきっていないこともわかる。けど、何時かまではわからない。
窓から視線をずらして横を向くと、頭から二十センチほど離れたところに自分の携帯がお行儀よく鎮座していた。それに手を伸ばしディスプレイを見ると、六時五十分と表示されている。
「七時前……」
家の奥から話し声が聞こえる気がした。
耳を澄ましても何を話しているのかまではわからなくて、声のトーンが違うことから何人か人がいることだけはうかがえる。
そういえば、秋斗さんと若槻さんが来ると言っていた。もしかしたらもう来ているのかもしれない。
そんなことを考えていると、部屋のドアが控え目にノックされた。
「はい」
「入ってもいいかな?」
……秋斗、さん?
「翠葉、入るよ?」
蒼兄の声が追加され、すぐにドアが開いた。
蒼兄は部屋の照明を点けて入ってくる。その後ろには秋斗さんと若槻さんがいた。
「パソコンの設定をするから翠葉ちゃんのパソコンちょっといじるね」
秋斗さんの手には私のノートパソコンがあった。
「お願いします……」
蒼兄と秋斗さんが入ってきたものの、若槻さんは入ってこない。
「若槻くん?」
蒼兄が声をかけるも、若槻さんは廊下に立ったままだ。
今日はジーパンにTシャツというとてもラフな格好だからか、余計に若く見える気がした。
制服を着せたら高校生で通ってしまいそうだ。
「若槻」
秋斗さんが声をかけると、ようやく我に返ったようだった。
でも、若槻さんに凝視されていた対象は私――
部屋に入ってこない原因は私にある気がした。
今も私から視線を逸らさずにじっと見られている。
顔色が悪いから? それとも痩せたから? それとも、横になっていて起きないから?
「あー……俺、あっちの設定確認してきます」
と踵を返すあたり、この部屋に入れない理由があるのは確かだった。
「蒼兄……私、何か悪いことしちゃったかな」
口にすると、蒼兄ではなく秋斗さんが間髪容れずに「違うよ」と否定した。
「でも……」
「……若槻はね、妹さんを亡くしてるんだ」
その言葉に、私も蒼兄も息を呑むことしかできなかった。
「まだ、そのときの衝撃から抜け出せないでいる。だから、翠葉ちゃんが何かをしてしまったとかそういうことじゃないんだよ」
それならこんな場所には連れてこないほうが良かったんじゃないの……?
「翠葉ちゃん、若槻にはリハビリの場と時間が必要なんだ。それをわかったうえで静さんもここに来させたはずだから、君がそんな顔をする必要はないよ」
秋斗さんは言いながらベッドサイドまで来る。
「だから泣かないで」
と頬に秋斗さんの親指が触れ、自分が泣いていることに気づいた。
「俺、ちょっと若槻くんの様子見てきます」
蒼兄は若槻さんのあとを追うように部屋を出た。
私は蒼兄の背中を見送り、それでもまだ廊下から視線を剥がすことができずにいた。
「若槻が気になる?」
視線を秋斗さんに戻して、
「はい」
「あいつね、頭はいいんだけど精神面がまだガタガタなんだ。だから、悪いんだけど少しの間リハビリさせてやってくれないかな?」
「でも、若槻さんは私を見たとき、とても苦しそうな顔をしてました」
「うん……つらいと思うよ。あいつの中では妹ってものすごくネックになってるものらしいから」
「それなら――」
「翠葉ちゃん……人間ってさ、つらくても乗り越えなくちゃいけないものがあると思うんだよね。あいつにとってのそれはこれなんだ」
秋斗さんも廊下へと視線を向ける。
きっと秋斗さんも若槻さんを心配しているのだろう。
「たぶんね、妹さんと翠葉ちゃんを重ねたんだと思う。妹さんが亡くなった年と翠葉ちゃんの年が同じだから」
「っ!?」
「翠葉ちゃん、落ち着いて? 若槻が翠葉ちゃんと普通に話せるようになればクリアできたと考えてもいいと思うんだ。あんな顔であんな態度を見せる若槻を目の当たりにするのは君もつらいと思う。でも、俺たちと一緒に若槻の支えになってもらえないかな? どうしても翠葉ちゃんが必要なんだ」
私が、必要……?
私を見てあんなにつらそうなのに、私が支えになれるの? 傷口を抉るだけではないの?
「大丈夫だよ。若槻は今のままじゃないから。……絶対に這い上がってくる」
確信というよりは、それを願っている人の声だった。
「……私にできることがあるのなら――」
「翠葉ちゃんはいつもどおりでいいんだ」
秋斗さんは優しい笑顔をくれた。
そのままデスクに座るとノートパソコンを開く。
「蒼兄のパソコンの設定は終わったんですか?」
「終わったよ。ここにいる間は藤宮のメインコンピューターを経由して連動させることにしたから。問題なく使えるはず。問題が起きてもすぐに若槻が対応できる」
「お手数をおかけしてすみません……」
秋斗さんはデスクに向けていた身体をこちらに向けた。
「迷惑でも面倒でもないよ。若槻がこの仕事を静さんから請けていたから、俺は自分で考えるより早く翠葉ちゃんに会いに来ることができたんだ」
秋斗さんはクスリ、と笑う。
「あのあと、ちょっと揺さぶりをかけようと思って、翠葉ちゃんと距離を置くつもりだったんだけど……」
「……揺さぶり、ですか?」
「そう。だって、翠葉ちゃんは俺のことが好きでしょう? だから、少し会わなかったら会いたくなって会いに来てくれるかな、と思って」
クスクスと笑いながら言う秋斗さんに愕然とする。
「でも、実際には俺が無理だった。相変わらず君のバイタルは気になるし、保健室かと思えば湊ちゃんに確認を取らずにはいられない。お昼ご飯食べられてるかな、シュークリームなら食べられるかな――何をしていても君が気になって仕方ないんだ」
真っ直ぐに向けてくる視線に私は捕らわれた。
「そんな状態じゃ仕事にも手が付かない。だからね、会いたくなったら会いに行くことにした」
私が何も言えないでいると、
「若槻のことが気になるから来たっていうのもあるんだけど、そっちはついでかな?」
秋斗さんは小気味いいくらいにクスクスと笑って肩を竦める。
すると廊下から声がした。
「秋斗さん、相変らず人をダシに使うのがうますぎます」
その声は若槻さんのもので、若槻さんの後ろには呆れ顔の蒼兄が立っていた。
恐る恐る若槻さんに視線を戻すと、若槻さんはじっと私を見ていた。
部屋に一歩足を踏み入れて、
「お姫さん、ごめんね……」
ばつの悪い顔で謝られる。
「いえっ、あのっ――私こそごめんなさい」
「っつか、お姫さん悪いことしてないじゃん。俺が勝手に動揺してるだけだから」
そこまで言うと、若槻さんは深呼吸をした。
「申し訳ないのですが、慣れるまでちょこっとリハビリさせてください」
ペコ、と腰からきっちりと頭を下げられ、その行動に驚いた私は思わず身体を起こしてしまう。
「翠葉っ」
蒼兄の声が聞こえたけれど、すぐに私に手を差し伸べてくれたのは若槻さんだった。
「お姫さん、こういうのは勘弁……」
額に汗を滲ませて言う。
「すみません……」
「……本当はさ、妹にもこうしてあげられたら良かったんだけど――」
若槻さんの目は私を見ているけれど見ていない。きっと、妹さんのことを見ている目だ。
「こうやって手を差し伸べることすらしなかったんだ」
そのあとには思いもしないことを言われる。
「お姫さん、悪いんだけどしばらく俺の妹になってくんないかな?」
「……私が妹さん、ですか?」
「そう、少しの間だけ。うん、俺が満足するまでというか、やってやりたいと思っていたことをすべてやり尽くすまで」
思わず蒼兄を仰ぎ見る。
すると、真一文字に口を引き結んだ蒼兄が、「聞いてあげな」と言うように大きく一度頷いた。
「私を見ていてつらくないですか?」
「つらいよ。……でもさ、逃げてばかりもいられないみたい」
秋斗さんの言ったとおりだと思った。そこで躓いているだけの人じゃない。ちゃんと乗り越えようとしているんだ……。
「今回はオーナーと秋斗さんに嵌められた感満載……。俺、お姫さんが身体弱いなんて聞いてないし、引越しだって打ち合わせの都合上だと思ってた。今日だって、軽くパソコン設定出張サービスくらいに思ってたのにさ」
と、愚痴たれる。
「すっごくわかりづらくて紆余曲解しそうになること多々なんだけど、でもこの人たち俺のことかなりちゃんと考えててくれるみたいだから。このままいるわけにもいかないんだよね」
嫌そうに話すのに感謝しているのがきちんと伝わってくる。
「……かしこまりました。でも、その『お姫さん』はどうにかしてください」
「どうにか、ねぇ……」
若槻さんは宙を見ながら首を傾げる。
「スゥ、よりはリィ、だよなぁ……」
「はい?」
「うん、リィって呼んでもいい?」
「あの、それどこから出てきたんでしょう?」
「リメラルドの超簡易バージョン」
それで納得した。「スゥ」は翠葉の超簡易バージョンなのだろう。どちらにしても、そうそう思いつく呼び名ではない気がする。
「だめ?」
かわいい顔で訊かれると困る。男の人なのにかわいいってなんだろう……。
初めての感覚に心がくすぐったくなる。
「私、最近めっきりと呼び名が増えまして、反応できるか怪しい限りなんですけれども、努力はしてみます」
答えると、若槻さんとふたりでクスリと笑った。
なんとなく内緒話をしている気分。
「若槻、翠葉ちゃんに手ぇ出したら締めるよ?」
秋斗さんがにこりと笑みを浮かべる。と、
「どっちがですか。俺も今となっては彼女の兄貴分なんで、秋斗さんがリィに変なことしたら許しませんよ?」
若槻さんもきれいににこりと笑みを返す。
「……これは思わぬところで味方ゲットかな?」
言いながら、蒼兄は肩を震わせて笑っていた。
そんな状況がおかしくてクスクスと笑う。
「翠葉ちゃんまで笑うなんてひどいな」
言いながら、秋斗さんも笑っていた。
そうだ……私はこういうふうに話したいと思っていただけなの。普通に、みんなで一緒に楽しく話をしたり笑ったり――そういうのを望んでいただけ。
なんだ、ちゃんとできてる。私、大丈夫だ。
ぼーっとする頭で考える。
車に乗ったあとの記憶が見事にない。
気持ち悪くて、そのまま寝てしまったのか気を失ってしまったのかは定かではない。
きっと栞さんと蒼兄は知っているだろう。
「あとで訊こう……」
外の光で今が夕方であることも、まだ夜になりきっていないこともわかる。けど、何時かまではわからない。
窓から視線をずらして横を向くと、頭から二十センチほど離れたところに自分の携帯がお行儀よく鎮座していた。それに手を伸ばしディスプレイを見ると、六時五十分と表示されている。
「七時前……」
家の奥から話し声が聞こえる気がした。
耳を澄ましても何を話しているのかまではわからなくて、声のトーンが違うことから何人か人がいることだけはうかがえる。
そういえば、秋斗さんと若槻さんが来ると言っていた。もしかしたらもう来ているのかもしれない。
そんなことを考えていると、部屋のドアが控え目にノックされた。
「はい」
「入ってもいいかな?」
……秋斗、さん?
「翠葉、入るよ?」
蒼兄の声が追加され、すぐにドアが開いた。
蒼兄は部屋の照明を点けて入ってくる。その後ろには秋斗さんと若槻さんがいた。
「パソコンの設定をするから翠葉ちゃんのパソコンちょっといじるね」
秋斗さんの手には私のノートパソコンがあった。
「お願いします……」
蒼兄と秋斗さんが入ってきたものの、若槻さんは入ってこない。
「若槻くん?」
蒼兄が声をかけるも、若槻さんは廊下に立ったままだ。
今日はジーパンにTシャツというとてもラフな格好だからか、余計に若く見える気がした。
制服を着せたら高校生で通ってしまいそうだ。
「若槻」
秋斗さんが声をかけると、ようやく我に返ったようだった。
でも、若槻さんに凝視されていた対象は私――
部屋に入ってこない原因は私にある気がした。
今も私から視線を逸らさずにじっと見られている。
顔色が悪いから? それとも痩せたから? それとも、横になっていて起きないから?
「あー……俺、あっちの設定確認してきます」
と踵を返すあたり、この部屋に入れない理由があるのは確かだった。
「蒼兄……私、何か悪いことしちゃったかな」
口にすると、蒼兄ではなく秋斗さんが間髪容れずに「違うよ」と否定した。
「でも……」
「……若槻はね、妹さんを亡くしてるんだ」
その言葉に、私も蒼兄も息を呑むことしかできなかった。
「まだ、そのときの衝撃から抜け出せないでいる。だから、翠葉ちゃんが何かをしてしまったとかそういうことじゃないんだよ」
それならこんな場所には連れてこないほうが良かったんじゃないの……?
「翠葉ちゃん、若槻にはリハビリの場と時間が必要なんだ。それをわかったうえで静さんもここに来させたはずだから、君がそんな顔をする必要はないよ」
秋斗さんは言いながらベッドサイドまで来る。
「だから泣かないで」
と頬に秋斗さんの親指が触れ、自分が泣いていることに気づいた。
「俺、ちょっと若槻くんの様子見てきます」
蒼兄は若槻さんのあとを追うように部屋を出た。
私は蒼兄の背中を見送り、それでもまだ廊下から視線を剥がすことができずにいた。
「若槻が気になる?」
視線を秋斗さんに戻して、
「はい」
「あいつね、頭はいいんだけど精神面がまだガタガタなんだ。だから、悪いんだけど少しの間リハビリさせてやってくれないかな?」
「でも、若槻さんは私を見たとき、とても苦しそうな顔をしてました」
「うん……つらいと思うよ。あいつの中では妹ってものすごくネックになってるものらしいから」
「それなら――」
「翠葉ちゃん……人間ってさ、つらくても乗り越えなくちゃいけないものがあると思うんだよね。あいつにとってのそれはこれなんだ」
秋斗さんも廊下へと視線を向ける。
きっと秋斗さんも若槻さんを心配しているのだろう。
「たぶんね、妹さんと翠葉ちゃんを重ねたんだと思う。妹さんが亡くなった年と翠葉ちゃんの年が同じだから」
「っ!?」
「翠葉ちゃん、落ち着いて? 若槻が翠葉ちゃんと普通に話せるようになればクリアできたと考えてもいいと思うんだ。あんな顔であんな態度を見せる若槻を目の当たりにするのは君もつらいと思う。でも、俺たちと一緒に若槻の支えになってもらえないかな? どうしても翠葉ちゃんが必要なんだ」
私が、必要……?
私を見てあんなにつらそうなのに、私が支えになれるの? 傷口を抉るだけではないの?
「大丈夫だよ。若槻は今のままじゃないから。……絶対に這い上がってくる」
確信というよりは、それを願っている人の声だった。
「……私にできることがあるのなら――」
「翠葉ちゃんはいつもどおりでいいんだ」
秋斗さんは優しい笑顔をくれた。
そのままデスクに座るとノートパソコンを開く。
「蒼兄のパソコンの設定は終わったんですか?」
「終わったよ。ここにいる間は藤宮のメインコンピューターを経由して連動させることにしたから。問題なく使えるはず。問題が起きてもすぐに若槻が対応できる」
「お手数をおかけしてすみません……」
秋斗さんはデスクに向けていた身体をこちらに向けた。
「迷惑でも面倒でもないよ。若槻がこの仕事を静さんから請けていたから、俺は自分で考えるより早く翠葉ちゃんに会いに来ることができたんだ」
秋斗さんはクスリ、と笑う。
「あのあと、ちょっと揺さぶりをかけようと思って、翠葉ちゃんと距離を置くつもりだったんだけど……」
「……揺さぶり、ですか?」
「そう。だって、翠葉ちゃんは俺のことが好きでしょう? だから、少し会わなかったら会いたくなって会いに来てくれるかな、と思って」
クスクスと笑いながら言う秋斗さんに愕然とする。
「でも、実際には俺が無理だった。相変わらず君のバイタルは気になるし、保健室かと思えば湊ちゃんに確認を取らずにはいられない。お昼ご飯食べられてるかな、シュークリームなら食べられるかな――何をしていても君が気になって仕方ないんだ」
真っ直ぐに向けてくる視線に私は捕らわれた。
「そんな状態じゃ仕事にも手が付かない。だからね、会いたくなったら会いに行くことにした」
私が何も言えないでいると、
「若槻のことが気になるから来たっていうのもあるんだけど、そっちはついでかな?」
秋斗さんは小気味いいくらいにクスクスと笑って肩を竦める。
すると廊下から声がした。
「秋斗さん、相変らず人をダシに使うのがうますぎます」
その声は若槻さんのもので、若槻さんの後ろには呆れ顔の蒼兄が立っていた。
恐る恐る若槻さんに視線を戻すと、若槻さんはじっと私を見ていた。
部屋に一歩足を踏み入れて、
「お姫さん、ごめんね……」
ばつの悪い顔で謝られる。
「いえっ、あのっ――私こそごめんなさい」
「っつか、お姫さん悪いことしてないじゃん。俺が勝手に動揺してるだけだから」
そこまで言うと、若槻さんは深呼吸をした。
「申し訳ないのですが、慣れるまでちょこっとリハビリさせてください」
ペコ、と腰からきっちりと頭を下げられ、その行動に驚いた私は思わず身体を起こしてしまう。
「翠葉っ」
蒼兄の声が聞こえたけれど、すぐに私に手を差し伸べてくれたのは若槻さんだった。
「お姫さん、こういうのは勘弁……」
額に汗を滲ませて言う。
「すみません……」
「……本当はさ、妹にもこうしてあげられたら良かったんだけど――」
若槻さんの目は私を見ているけれど見ていない。きっと、妹さんのことを見ている目だ。
「こうやって手を差し伸べることすらしなかったんだ」
そのあとには思いもしないことを言われる。
「お姫さん、悪いんだけどしばらく俺の妹になってくんないかな?」
「……私が妹さん、ですか?」
「そう、少しの間だけ。うん、俺が満足するまでというか、やってやりたいと思っていたことをすべてやり尽くすまで」
思わず蒼兄を仰ぎ見る。
すると、真一文字に口を引き結んだ蒼兄が、「聞いてあげな」と言うように大きく一度頷いた。
「私を見ていてつらくないですか?」
「つらいよ。……でもさ、逃げてばかりもいられないみたい」
秋斗さんの言ったとおりだと思った。そこで躓いているだけの人じゃない。ちゃんと乗り越えようとしているんだ……。
「今回はオーナーと秋斗さんに嵌められた感満載……。俺、お姫さんが身体弱いなんて聞いてないし、引越しだって打ち合わせの都合上だと思ってた。今日だって、軽くパソコン設定出張サービスくらいに思ってたのにさ」
と、愚痴たれる。
「すっごくわかりづらくて紆余曲解しそうになること多々なんだけど、でもこの人たち俺のことかなりちゃんと考えててくれるみたいだから。このままいるわけにもいかないんだよね」
嫌そうに話すのに感謝しているのがきちんと伝わってくる。
「……かしこまりました。でも、その『お姫さん』はどうにかしてください」
「どうにか、ねぇ……」
若槻さんは宙を見ながら首を傾げる。
「スゥ、よりはリィ、だよなぁ……」
「はい?」
「うん、リィって呼んでもいい?」
「あの、それどこから出てきたんでしょう?」
「リメラルドの超簡易バージョン」
それで納得した。「スゥ」は翠葉の超簡易バージョンなのだろう。どちらにしても、そうそう思いつく呼び名ではない気がする。
「だめ?」
かわいい顔で訊かれると困る。男の人なのにかわいいってなんだろう……。
初めての感覚に心がくすぐったくなる。
「私、最近めっきりと呼び名が増えまして、反応できるか怪しい限りなんですけれども、努力はしてみます」
答えると、若槻さんとふたりでクスリと笑った。
なんとなく内緒話をしている気分。
「若槻、翠葉ちゃんに手ぇ出したら締めるよ?」
秋斗さんがにこりと笑みを浮かべる。と、
「どっちがですか。俺も今となっては彼女の兄貴分なんで、秋斗さんがリィに変なことしたら許しませんよ?」
若槻さんもきれいににこりと笑みを返す。
「……これは思わぬところで味方ゲットかな?」
言いながら、蒼兄は肩を震わせて笑っていた。
そんな状況がおかしくてクスクスと笑う。
「翠葉ちゃんまで笑うなんてひどいな」
言いながら、秋斗さんも笑っていた。
そうだ……私はこういうふうに話したいと思っていただけなの。普通に、みんなで一緒に楽しく話をしたり笑ったり――そういうのを望んでいただけ。
なんだ、ちゃんとできてる。私、大丈夫だ。
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