光のもとで1

葉野りるは

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19~22 Side 司 01話

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 時計を見ればすでに四時十五分を回っていた。
 問題なく連れ出せたとして、校内放送が聞こえるか聞こえないかのギリギリの距離かもしれない。
 急いで階段を下り昇降口へ向かう。と、翠の声が聞こえてきた。
 視線を先にやると、頭を抱えている翠と漣が一緒にいる。
 翠と漣が知り合い……? クラスは違うはずだし、翠が守備範囲を広げたとも思えない。考えられるとしたら、漣が翠に目をつけたってところか……。
「翠、何してる? 漣も」
 俺が発した言葉に顔を上げ、
「あっ! サザナミくんだっ」
 翠がフルリアクションで口にした。
「あーーー、もうっ。司先輩なんで言っちゃうかなぁっ!? この人、俺の名前全然覚えてくれないんですよねっ」
 こちらを振り返る漣はひどく悔しそうな顔をしていた。
 状況は理解できかねるが、別に理解する必要もない。
 靴に履き替え、
「もう行けるの?」
「はい、大丈夫です」
 翠は笑顔で答える。
 ただの返事。されど返事。
 警戒されてない感じが嬉しいと思った。
「えっ!? 何? ふたり付き合ってるんですかっ!?」
「違うよ」
「えっ、じゃぁ何っ!? なんなのっ!?」
 漣の問いかけに即答した翠は、「なんだろう?」という顔をして首を傾げる。
「今日は俺に付き合ってもらう約束してるだけ」
 翠の代わりに返事をしたものの、漣はここぞとばかりに質問を投げかけてくる。
「それって俺が申し込んでもOKってこと!?」
「や、それは……」
 詰め寄られた翠は一歩下がって困惑した顔をしていた。
 ……これくらい自分で断われ。嫌なら嫌だとはっきり言えばいいだけのことだ。
 そうは思いつつも時間の都合上助け舟を出さずにはいられない。
「俺は翠に貸しがあってそれを返してもらうだけだ」
「……俺も結構ないかな? ほら、何度言われても名前覚えられなくてごめんなさいデートとか」
 知ってはいたが、ぞんがいしつこい……。
「それは翠が悪いんじゃなくて、印象が薄い漣の問題だろ。第一、俺は一発で覚えてもらってる」
「うわっ、それ自慢ですか!? 俺だって学年ではそこそこモテんのに」
「つまり、翠の範疇外ってことじゃないの?」
 漣はそこで口を噤んだ。

 桜並木を歩きながら、
「あぁいうの、困るなら困るでちゃんと断わったほうがいいと思うけど?」
 忠告をすると、意外な答えが返ってきた。
「えと……実はすでに一度断わっているのですが――」
 ……秋兄に漣――なんで面倒な人間ばかりに好かれるんだか……。
「なるほど、懲りないやつって話か。しつこいようならなんとかするけど?」
 秋兄はともかく、漣くらいなら蹴散らせる。
 なんとなしに言っただけだった。なのに、翠は大きく目を見開き俺を凝視している。
「何?」
「なんか優しいです」
「……何度も言うけど、俺そんなに冷血漢でも心が氷でできてるわけでもないから」
「それはわかってるつもりなんですけど……。なんだか先輩が優しいと調子狂っちゃう」
 ずいぶんな言われようだ。
「……俺、翠には優しいほうだと思うけど?」
 言うと、心底驚いたような顔をするからどうしてやろうかと思う。
「翠には優しい」――その言葉の意味を考えたりはしないのだろうか。
 願わくば、少しくらいは考えてほしい……。

 高校門を出て時間を確認すると、四時二十五分だった。あと五分もあれば公道に出る。ここまでくれば放送は聞こえないだろう。そして、四時三十五分のバスにも間に合うはずだ。
 これで俺の任務は完了。
「先輩はなんの用事なんですか?」
「オーダーしていたものを取りに行く。それだけ」
「何を?」
「行けばわかる」
 ケチ、と言わんばかりの顔をされても、言えるか……。
 プレゼントを渡すことに抵抗はない。でも、プレゼントを取りに行くという現時点でプレゼントの話をするのには抵抗がある。この差は何か――
 考えていると、隣から脈絡もない言葉を投げられた。
「先輩、写真撮ってもいいですか?」
「……却下。それ、海斗絡みか何かだろ?」
「当たり……。どうしてわかったんですか?」
「海斗の考えそうなことだから」
「……え?」
 全然わからないって顔。
「翠はわからなくていい」
 そうは答えたものの、少しくらい頭を使って考えろ、と思う自分もいた。

 窓際に座りたいと言った翠は嬉しそうに外を眺めている。
 一昨日、翠と一緒に歩いて初めて気づかされたことがあった。
 ゆっくり歩くと風を感じることができるのだと……。
 ほかにも空がどうとか道端のタンポポがどうとか、桜吹雪の中にいられるとか、そんなようなことを嬉しそうに話していた。
 今は……? 今は窓の外の何を見てそんなに嬉しそうな顔をしている?
 もしできるなら、翠の感覚で風景を見てみたいと思う。
 何がどう翠の目に映っているのか、自分でも見てみたい、感じてみたい。
 きっと、俺が見ている世界とは違うものを見ている気がするから。

 駅に着くと、まずは翠の用事を済ませることにした。場所的にも一番遠い楽器店から行くのがいいだろう。
 そのあとは姉さんに頼まれてるコーヒー豆の買出しと、最後にデパート。
 時間が時間ということもあり、改札階に上がるエスカレーターは程よく混んでいた。
 翠の用事はスペア弦を買うことだったか……。
 ハープと言われて頭に浮かぶのは、翠の家で見たフロアハープではなく、昨日、抱きしめるようにして弾いていた小さなハープ。
 状況が状況だったからかもしれないが、その記憶のほうが鮮烈だった。
「ハープ、昨日弾いてた曲の曲名は?」
「え……?」
「昨日、繰り返し同じようなフレーズ弾いてたけど……」
 原曲があるなら聞いてみたいと思った。けれど、翠から返ってきた答えは、
「……ごめんなさい。私、あまりそのときのこと覚えてなくて……」
 そうだった……。
 今朝、翠は何事もなかったかのように栞さんの家から出てきたのだ。弾いている記憶など無に等しいのかもしれない。
「……大丈夫なの?」
 雅さんの言葉にショックを受けたからあんな状態に陥ったのではないのか――
 じっと翠を見つめるも、翠は要領を得ない顔をしていた。
「いや、なんでもない」
 本人の意識下にないのなら俺が傷を抉る真似はしないほうがいい。
 視線を前方へ移すと、
「なんか、司先輩らしくないですね」
 投げられた言葉に自身のセンサーが反応した。
「俺らしいって?」
「うーん……俺様?」
 そんなことを言うのはこの口か……。
「いはいえふ(痛いです)」
 思わず隣を歩く翠の両頬をつまんでいた。
「魔が差した」と言葉を吐く人間を侮蔑の目で見てきたけれど、ほんの少し気持ちがわかったような気がする。
「俺、そんなに傲慢なつもりはないけど?」
 その言葉に翠はクスリ、と笑う。
「そういう物言いのほうが先輩らしくて好き」
 最後の二文字に全身が反応しそうになる。けれども言った本人は気にも留めていない。
「だから性質が悪いんだ……」
「え?」
 訊き返されたけど、何を答えるつもりもなかった。
「好き」なんて、サラッと言ってくれるな――

 楽器店に着いた途端、翠は勝手知ったる……というように歩きだした。
 真っ直ぐスペア弦の売り場に向かうと、いくつかの袋を手に取り、その隣にあった書棚に目を移す。視線を固定してから十秒後、くるりと振り返り、
「少し楽譜を見てもいいですか?」
「かまわない」
 翠が手に取ったスコアはモーツァルト。ハープのスコアではなくピアノ譜。
 ピアノといえば、初等部のころに習わされていた。が、やめてからは一度もピアノには向かっていない。
 以前、翠の家に行ったとき、本棚にはショパンの曲集ばかりが並んでいた。
 それを見て、母さんと好きな作曲家が同じだと思った記憶がある。
 母さんがショパンを好きになったきっかけは、静さんの生みの親、静香しずかさんの影響だと聞いていた。その静香さんも今は亡き人。俺は会ったことすらない。
 栞さんは後妻の柊子しゅうこさんとさとしさんの間に生まれた子で、静さんとは腹違いの兄妹になる。
 栞さんが生まれたときには静さんがすでに十五歳だったこともあり、十五歳も差があればうまくいかないなんてこともなかったようだ。
 怜さんは藤倉に住んでいたものの、柊子さんが地元の方が落ち着くという理由から、幸倉に住まいを移した。
 今では翠の家とは目と鼻の先、という距離に実家があるらしい。
 ふと翠に意識を戻すと、スペア弦とピース売りのスコアを購入していた。
 楽譜のタイトルは、ラフマニノフ嬰ハ短調プレリュード。それはいったいどんな曲なのだろう。

 楽器店を出ると、西日が眩しかった。
 外はまだ明るく陽射しも強い。六月とあって、あたりが暗くなるまでにはまだ時間があるようだ。
 駅までの道を歩きながら、
「ピアノとハープ、どっちが好きなの?」
 隣を歩く翠の顔色を気にしつつ尋ねると、
「んー……長くやっているのはピアノです。ピアノは三歳から、ハープは小学五年生のときから。どちらも好きですけど、表現しやすいのはピアノかな? 長く弾いてきた分勝手度合いが違うみたいで」
 気温がそれなりに高い割に、翠は汗ひとつかいていなかった。
 体温調節はできているのだろうか……。
 そんなことを考えながら、以前御園生さんが話していた情報を引き出す。
「ピアノはベーゼンドルファーが好き?」
「なんで……って蒼兄しかいないですよね」
 ようやく情報の一切が実の兄から漏れていることに気づいたようだ。
「当たり。うちの学校にベーゼンドルファーがあるって知った途端、あの人の目輝きだしたから」
「でも私、その話は蒼兄から聞いてなかったんです。オリエンテーションでミュージックホールを回ったときに先生の説明で知りました」
「近いうちに弾かせてもらえるよう手配する」
「え!? 本当ですか!?」
 翠は歩みを止めて俺を見上げた。その目の輝きぶりが異様すぎる。
「食いつき良好すぎないか?」
「だってっ、ベーゼンドルファーですよっ!?」
 翠にとってはそれくらい思い入れのあるピアノなのだろう。
「……それ、また貸しになったりしますか?」
 急に仕草が小動物っぽくなる。
「さぁ、どうかな」
 笑みを添えて答えてみると、それでも弾きたそうにもじもじとしていた。
 ピアノはすでに手配済み。万事問題なしというメールがさっき茜先輩から届いた。
 翠も、まさかピアノとの対面が明日だとは思っていないだろう。
 ピアノを前にしたらどんな反応が見られるだろうか。

 駅前まで戻り、コーヒー豆を買うついでに休憩を取ることにした。
 具合が悪そうには見えない。けど、具合が悪くなってからでは遅い。それなら、適度に水分補給くらいはさせたほうがいい。
 翠はルイボスティーをオーダーし、俺はアメリカン。
 席は店内と屋外の間くらいの場所。
 ここならエアコンが利きすぎて冷えることもないだろうし、外気をまともに食らうこともない。
 コーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻す。と、翠が笑った。
「何を笑ってる?」
「先輩、いつもコーヒーを飲むときに少しだけ表情が優しくなるんです。それを見れると得した気分になれるの」
 穏やかに笑って嬉しそうに話すから謎が深まる。
 どうしてそんなことで得した気分になれるんだか……。
「ずいぶん安上がりだな」
 それが正直な感想だった。
 コーヒーを飲む間、とくに会話らしい会話はなく、翠は道を行く人を見て楽しそうにしていた。俺はそんな翠を観察していただけ。
 翠はいつもカップを両手で持つ。まるで大切なものを包み込むように、掬い上げるように。
 そんな仕草は「優しさ」や「慈しみ」なんて言葉を連想させる。
 その華奢な手を外側から包みたい。でも、翠が求めるのは俺の手ではなく、秋兄の手なのだろう。
 けれど、翠は秋兄の手を拒む……。その手に包まれることを選ばない。
 そうして華奢な手を震わせるのだろうか。そして、自分の兄へと逃げ込むのだろうか。
 わかることといえば、決して自分のもとに逃げ込んでくることはないということくらい――
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