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第五章 うつろう心
23話
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翌日はひとりで登校した。
そんなに早く行く必要はないけれど、少しひとりになる時間が欲しくて、八時前には教室に着くようにマンションを出た。
徐々に登校してくるクラスメイトとおはようの挨拶を何度もした。男子が相手でも普通に挨拶ができて少しほっとする。
テストが終わったからか、桃華さんが登校してくる時間も平常運転に戻った。
「翠葉、今日、昇降口に四時集合だから忘れないでね?」
「え……?」
「やだ、忘れたの? 翠葉のお誕生会よ?」
言われてはっとする。でも、四時なら秋斗さんとお昼を食べる時間は取れるよね。
「楽しみにしてる」
誕生会という言葉にくすぐったさを感じ、照れ笑いが生じた。
「うーんと楽しみにしてて? 驚かせる自信はあるの」
桃華さんは自信たっぷりに微笑んだ。
この日、午前四時間の授業だったけれど、クラス中がずっとそわそわして落ち着きがないように見えた。
不思議に思っていると、帰りのホームルームが終わった途端に教室からごっそりと人がいなくなる。
みんな、そんなにも部活が待ち遠しかったのだろうか。
異様な光景を目にしたあと、私は少し緊張しながら図書棟へ向かった。
図書室では最終集計が行われているらしい。
司先輩に電話をかけて入り口のロックを解除してもらうと、
「秋兄のところ?」
「はい」
「大丈夫なの?」
小声で尋ねられ、
「わからない……。気持ち上では大丈夫なはずなんです。ただ、身体が拒否反応を起こすというか――でも、近寄りすぎなければ大丈夫だと思うから」
「……何かあればここにいるから」
そう言われてカウンター奥へと通された。緊張しながらインターホンを押すと、すぐにドアは開かれる。
「いらっしゃい」
秋斗さんはいつもと変わらない笑顔で迎えてくれる。それも今日まで、かな。
明日返事をしたら、今までのようにはここへ来られなくなる。
「翠葉ちゃん?」
「あ、すぐに作りますね」
秋斗さんの脇を通り過ぎ、慌ててキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けると、シーフードミックスが解凍されていて、その隣に玉ねぎがひとつちょこんと置かれていた。それからふたり分強のご飯も。
なんだか玉ねぎさんが居心地悪そうに鎮座しているように見えておかしかった。
ボールで乾燥ワカメを戻し、その間に玉ねぎを薄くスライスして水と一緒に火をかける。沸騰したところでコンソメスープの素を入れ、塩コショウで味を調える。最後に戻したワカメを入れればスープの出来上がり。
あとはフライパンにサラダ油を引いて、ある程度あたたまったところにシーフードミックスを入れ、塩コショウでさっと味付けをして炒める。そこへご飯を入れ、和風だしの素を振りかけて炒め、最後に鍋肌だから醤油を流し入れて全体を混ぜたら出来上がり。
正味十五分。
お皿に盛り付けると、私より先に秋斗さんがお皿を手に持った。
「運ぶよ」
うちでパスタを作ったときも、コーヒーを出したときも、こんなふうにさりげなく手伝ってくれた。
そんなことを思い出しながら秋斗さんを見ていると、「どうかした?」という顔をされ、「いいえ」と首を横に振る。
スープカップを持ってダイニングテーブルに着くと、秋斗さんが目の前で「いただきます」と手を合わせた。
チャーハンを口にすると美味しそうに食べてくれる。
やっぱり、こういうのは嬉しいな……。
「すごく美味しい」
「栞さん仕込ですから」
「あぁ、それならいつでもお嫁に行けるね」
お嫁さん、か……。
深く考えるのはやめよう。今日と明日だけは楽しく過ごしたい。
そう思っていると、
「俺がいつでももらうよ?」
秋斗さんに顔を覗きこまれてドキッ、とした。
「……明日。明日、ちゃんとお返事します」
上手に笑えたかは怪しい限り。でも、秋斗さんは何も訊かずに「わかった」と答えてくれた。
そういえば、警護が解除されたという話を詳しくは聞かなかった。でも、最初からあまり詳しくは話してくれなかったから、今回もそうなのかもしれない。
雅さんに会ったこと、蒼兄には話そうと思ったのに、蒼兄にすら言えなかった。司先輩にも気づかれさえしなければ言わなかっただろう。
考えても仕方のないことが頭の中をめぐる。
食後にハーブティーを飲んでいるとき、
「約二週間、お世話になりました」
頭を下げて秋斗さんにお礼を言う。と、
「俺は楽しいひと時でもあったんだけどな……」
「私も、とても楽しかったです」
本当に、すごく楽しかったのだ。それは嘘じゃない。
このまま一緒にいたいと思うほどには楽しかったし、幸せな時間だったと思う。
けど、それが夢のような時間ではなく、夢だったということにこの二週間で気づけて良かった。
痛い思いはした。でも、気づくきっかけをくれた雅さんには少し感謝している。
今、秋斗さんは食べ終わったあとの片づけをしている。私はソファに上がりこんでその後ろ姿を見ていた。
何度もここで料理を作りたかった。
「たまには作りに来てよ」と言われて快諾したのに、一回で終わってしまった。
食器洗いを終えた秋斗さんがカップを持ってこちらにやってくると、今日は私の向かいのソファに腰掛ける。
そういえば、今日明日は自分からは近づかないと言ってくれたのだ。
今は恐怖心はない。それより、もう少し近くにいたいと思うほど。
「秋斗さん……そっちに行ってもいいですか?」
私の言葉に秋斗さんは目を見開いた。
変化はそれだけではなく、全身に緊張を纏ったのが見て取れる。
やっぱり、昨日は傷つけてしまったのだろう。でも、時間を置いた今ですら、どうしてあんなふうになってしまったのかがわからない。
「無理しなくてもいいんだよ?」
「あの……気持ち上では無理なことだと思っているわけではなくて、身体と心が別々になっちゃった感じって……わかりますか?」
「……なったことはないけど、でも――翠葉ちゃんが今その状態ならば、俺の側には来ないほうがいいんじゃないの?」
でも、ここで諦めたらあと何時間? もう一日と半分も残っていない。
側にいられる時間は限られている。
「……側に、側にいたいんです――」
自分でも呆れるほどに小さな声だった。でも、言えた……。
勇気を出して顔を上げると、面食らっている秋斗さんがいた。
「無理はしないこと。……いい?」
コクリと頷き、ゆっくりと立ち上がる。一歩ずつ足を踏み出す度に身体が強張っていくのがわかった。
ソファの左端に座っている秋斗さんとは真逆。ソファの右端に腰を下ろす。ここまでは大丈夫。
私と秋斗さんの間には人ひとりが座れるほどの空間がある。
その空間をもどかしく思いつつ、でも、それ以上は近づいてはいけない気がして、
「秋斗さん、昨日と同じ……。手を出してもらえますか?」
「……翠葉ちゃん、無理してるんじゃないの?」
「…………」
「焦らなくても時間はあるんだから」
時間はないの……。
「手をください」
秋斗さんは渋々といった感じで右手をふたりの間に置いてくれた。
その手を取りたいと思う。もっと側にいたいと思う。だから大丈夫。絶対に大丈夫――
そっと、自分の左手を秋斗さんの右手に重ねる。その瞬間に心臓が駆け足を始めた。
「翠葉ちゃん、ここまでだっ」
瞬時に重ねていた手を引き抜かれた。
「やだ……こんなの、嫌なのに――」
ポロポロ、と涙が零れる。
「……司を呼んでくる。少しだけ待っててね」
言うと、秋斗さんはすぐに部屋から出ていった。
どうして――もう、時間はないのに……。
今がこんなで明日はどうなるの? 中途半端なまま薬漬けになるの?
「そんなの、嫌なのに――」
後ろでドアの開く音がし、「翠」と声をかけられた。振り返ると、しかめっ面の先輩が立っていた。
「無理はするなって言ったのに……」
私の前にしゃがみこんだ先輩に、
「司、先輩……こんなの、やだ……。こんなの、嫌なのに――」
「……とりあえず確認」
目の前に手を差し出された。その手に自分の手を重ねる。
司先輩はなんともないのに……。
司先輩は昨日と同じように私の隣に腰掛けた。間隔を空けずに座っているのに大丈夫。
「俺はクリアね……」
先輩が小さく息を吐き出すのがわかった。
「ほら」
つながれた手を引かれ、肩を抱き寄せられる。途端、それまで以上に涙が溢れ出した。
誰かに縋って泣きたかった。
先輩、今だけだから……今だけだから、少し泣かせてください――
そんなに早く行く必要はないけれど、少しひとりになる時間が欲しくて、八時前には教室に着くようにマンションを出た。
徐々に登校してくるクラスメイトとおはようの挨拶を何度もした。男子が相手でも普通に挨拶ができて少しほっとする。
テストが終わったからか、桃華さんが登校してくる時間も平常運転に戻った。
「翠葉、今日、昇降口に四時集合だから忘れないでね?」
「え……?」
「やだ、忘れたの? 翠葉のお誕生会よ?」
言われてはっとする。でも、四時なら秋斗さんとお昼を食べる時間は取れるよね。
「楽しみにしてる」
誕生会という言葉にくすぐったさを感じ、照れ笑いが生じた。
「うーんと楽しみにしてて? 驚かせる自信はあるの」
桃華さんは自信たっぷりに微笑んだ。
この日、午前四時間の授業だったけれど、クラス中がずっとそわそわして落ち着きがないように見えた。
不思議に思っていると、帰りのホームルームが終わった途端に教室からごっそりと人がいなくなる。
みんな、そんなにも部活が待ち遠しかったのだろうか。
異様な光景を目にしたあと、私は少し緊張しながら図書棟へ向かった。
図書室では最終集計が行われているらしい。
司先輩に電話をかけて入り口のロックを解除してもらうと、
「秋兄のところ?」
「はい」
「大丈夫なの?」
小声で尋ねられ、
「わからない……。気持ち上では大丈夫なはずなんです。ただ、身体が拒否反応を起こすというか――でも、近寄りすぎなければ大丈夫だと思うから」
「……何かあればここにいるから」
そう言われてカウンター奥へと通された。緊張しながらインターホンを押すと、すぐにドアは開かれる。
「いらっしゃい」
秋斗さんはいつもと変わらない笑顔で迎えてくれる。それも今日まで、かな。
明日返事をしたら、今までのようにはここへ来られなくなる。
「翠葉ちゃん?」
「あ、すぐに作りますね」
秋斗さんの脇を通り過ぎ、慌ててキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けると、シーフードミックスが解凍されていて、その隣に玉ねぎがひとつちょこんと置かれていた。それからふたり分強のご飯も。
なんだか玉ねぎさんが居心地悪そうに鎮座しているように見えておかしかった。
ボールで乾燥ワカメを戻し、その間に玉ねぎを薄くスライスして水と一緒に火をかける。沸騰したところでコンソメスープの素を入れ、塩コショウで味を調える。最後に戻したワカメを入れればスープの出来上がり。
あとはフライパンにサラダ油を引いて、ある程度あたたまったところにシーフードミックスを入れ、塩コショウでさっと味付けをして炒める。そこへご飯を入れ、和風だしの素を振りかけて炒め、最後に鍋肌だから醤油を流し入れて全体を混ぜたら出来上がり。
正味十五分。
お皿に盛り付けると、私より先に秋斗さんがお皿を手に持った。
「運ぶよ」
うちでパスタを作ったときも、コーヒーを出したときも、こんなふうにさりげなく手伝ってくれた。
そんなことを思い出しながら秋斗さんを見ていると、「どうかした?」という顔をされ、「いいえ」と首を横に振る。
スープカップを持ってダイニングテーブルに着くと、秋斗さんが目の前で「いただきます」と手を合わせた。
チャーハンを口にすると美味しそうに食べてくれる。
やっぱり、こういうのは嬉しいな……。
「すごく美味しい」
「栞さん仕込ですから」
「あぁ、それならいつでもお嫁に行けるね」
お嫁さん、か……。
深く考えるのはやめよう。今日と明日だけは楽しく過ごしたい。
そう思っていると、
「俺がいつでももらうよ?」
秋斗さんに顔を覗きこまれてドキッ、とした。
「……明日。明日、ちゃんとお返事します」
上手に笑えたかは怪しい限り。でも、秋斗さんは何も訊かずに「わかった」と答えてくれた。
そういえば、警護が解除されたという話を詳しくは聞かなかった。でも、最初からあまり詳しくは話してくれなかったから、今回もそうなのかもしれない。
雅さんに会ったこと、蒼兄には話そうと思ったのに、蒼兄にすら言えなかった。司先輩にも気づかれさえしなければ言わなかっただろう。
考えても仕方のないことが頭の中をめぐる。
食後にハーブティーを飲んでいるとき、
「約二週間、お世話になりました」
頭を下げて秋斗さんにお礼を言う。と、
「俺は楽しいひと時でもあったんだけどな……」
「私も、とても楽しかったです」
本当に、すごく楽しかったのだ。それは嘘じゃない。
このまま一緒にいたいと思うほどには楽しかったし、幸せな時間だったと思う。
けど、それが夢のような時間ではなく、夢だったということにこの二週間で気づけて良かった。
痛い思いはした。でも、気づくきっかけをくれた雅さんには少し感謝している。
今、秋斗さんは食べ終わったあとの片づけをしている。私はソファに上がりこんでその後ろ姿を見ていた。
何度もここで料理を作りたかった。
「たまには作りに来てよ」と言われて快諾したのに、一回で終わってしまった。
食器洗いを終えた秋斗さんがカップを持ってこちらにやってくると、今日は私の向かいのソファに腰掛ける。
そういえば、今日明日は自分からは近づかないと言ってくれたのだ。
今は恐怖心はない。それより、もう少し近くにいたいと思うほど。
「秋斗さん……そっちに行ってもいいですか?」
私の言葉に秋斗さんは目を見開いた。
変化はそれだけではなく、全身に緊張を纏ったのが見て取れる。
やっぱり、昨日は傷つけてしまったのだろう。でも、時間を置いた今ですら、どうしてあんなふうになってしまったのかがわからない。
「無理しなくてもいいんだよ?」
「あの……気持ち上では無理なことだと思っているわけではなくて、身体と心が別々になっちゃった感じって……わかりますか?」
「……なったことはないけど、でも――翠葉ちゃんが今その状態ならば、俺の側には来ないほうがいいんじゃないの?」
でも、ここで諦めたらあと何時間? もう一日と半分も残っていない。
側にいられる時間は限られている。
「……側に、側にいたいんです――」
自分でも呆れるほどに小さな声だった。でも、言えた……。
勇気を出して顔を上げると、面食らっている秋斗さんがいた。
「無理はしないこと。……いい?」
コクリと頷き、ゆっくりと立ち上がる。一歩ずつ足を踏み出す度に身体が強張っていくのがわかった。
ソファの左端に座っている秋斗さんとは真逆。ソファの右端に腰を下ろす。ここまでは大丈夫。
私と秋斗さんの間には人ひとりが座れるほどの空間がある。
その空間をもどかしく思いつつ、でも、それ以上は近づいてはいけない気がして、
「秋斗さん、昨日と同じ……。手を出してもらえますか?」
「……翠葉ちゃん、無理してるんじゃないの?」
「…………」
「焦らなくても時間はあるんだから」
時間はないの……。
「手をください」
秋斗さんは渋々といった感じで右手をふたりの間に置いてくれた。
その手を取りたいと思う。もっと側にいたいと思う。だから大丈夫。絶対に大丈夫――
そっと、自分の左手を秋斗さんの右手に重ねる。その瞬間に心臓が駆け足を始めた。
「翠葉ちゃん、ここまでだっ」
瞬時に重ねていた手を引き抜かれた。
「やだ……こんなの、嫌なのに――」
ポロポロ、と涙が零れる。
「……司を呼んでくる。少しだけ待っててね」
言うと、秋斗さんはすぐに部屋から出ていった。
どうして――もう、時間はないのに……。
今がこんなで明日はどうなるの? 中途半端なまま薬漬けになるの?
「そんなの、嫌なのに――」
後ろでドアの開く音がし、「翠」と声をかけられた。振り返ると、しかめっ面の先輩が立っていた。
「無理はするなって言ったのに……」
私の前にしゃがみこんだ先輩に、
「司、先輩……こんなの、やだ……。こんなの、嫌なのに――」
「……とりあえず確認」
目の前に手を差し出された。その手に自分の手を重ねる。
司先輩はなんともないのに……。
司先輩は昨日と同じように私の隣に腰掛けた。間隔を空けずに座っているのに大丈夫。
「俺はクリアね……」
先輩が小さく息を吐き出すのがわかった。
「ほら」
つながれた手を引かれ、肩を抱き寄せられる。途端、それまで以上に涙が溢れ出した。
誰かに縋って泣きたかった。
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