光のもとで1

葉野りるは

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第三章 恋の入口

16話(挿絵あり)

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「動揺」という言葉に、さらに動揺する。
 胸につかえた感じがするのは今も変わらない。
 これ、なんなんだろう……。
 さっきから何度も携帯のディスプレイを見ている。でも、依然数値は変わらない。
 強いていえば、少し脈拍が落ち着いたくらい。
 車が停まったのは、家の裏にある運動公園の駐車場だった。
「食後の運動。少し歩こう」
 言われて車を降りる。
 夜でもこの公園は意外と明るい。
 芝生が青っぽい光に照らされて、夜独特の光を放っている。
 途中にベンチがあり、そこへ座るように促された。
「寒くはない?」
「はい」
 本当は少し寒かった。でも、応えるための返事を考えることもできなかった。
「その返事は嘘でしょう?」
 秋斗さんは少し笑って自分が着ていたジャケットを肩からかけてくれる。
「でも、秋斗さんもシャツ一枚……」
「男のほうが筋肉付いてるから寒さには強いんだよ」
 言いながら私の隣に座る。
「司に見合い話がきてるって話は聞いていた。それが今日だったとはね……。通常、高校を卒業するまではそういう話はあまりこないんだけど、俺と楓が応じないからかな。そのとばっちりが司に行ったのかも。これは海斗も時間の問題だな」
 お見合い……。
 胸が……ぎゅ、ってなる。さっきよりも、ぎゅっ、て……。
 苦しい――思わず胸元を手で押さえるくらいには。
「ここ、痛い?」
 秋斗さんが自分の胸を指差して問う。
「胸……? 心? どっち?」
「どっち、でしょう……」
「残念ながら、それは翠葉ちゃんにしかわからないことだ」
 私にしかわからないこと……?
 さっきから、心臓を鷲づかみにされている感じがして、苦しい……。
「これ、なんだろう……」
 胸元を押さえたままひとり言のように口にする。と、
「恋、だと思う?」
「え……?」
 秋斗さんを見ると、真っ直ぐな目が私を見ていた。
「恋って……。恋って、こんなに苦しくなるものなんですか?」
 小説にはもっと楽しそうに書かれていたのに。
 こんなにぎゅってなるような本は読んだことがない。
「……翠葉ちゃん。試しに『恋』をしてみない?」
 いつもみたいに、なんでもないことのように提案される。
 何を言われたのか理解できずに秋斗さんを見返すと、
「僕と、恋愛してみない?」
「……また、そういう冗談を真顔で……」
 思わず視線を逸らしてしまう。
 すると、手を握られ「俺を見て?」と言われた。


            (イラスト:涼倉かのこ様)

 ゆっくりと視線を戻すと、
「冗談みたいな本気の提案だよ」
 顔は笑っている。でも、声と目が「本気だよ」って言っている気がした。
「どうかな? お望みとあらば、クーリングオフ期間も設けるけど」
 いつものように少しだけ茶化した話し方。
 私もいつものようにさらりと流せばよかったのに、どうしてかできなかった。
 手を引こうとしても、それすら許してはくれない。
「あのっ……」
「今答えを出さなくていいよ。ゆっくり考えて。誰に相談してもらってもかまわない。でも……最後に答えを出すのは翠葉ちゃんだ。いいね?」
 そう言うと、握っていた手を放した。
「さ、送っていくよ」
 動揺したままに秋斗さんの顔を見ると、いつもと変わらない穏やかな表情だった。
 ほっとさせてくれる笑顔。
 思わず、今言われたことはやっぱり冗談だったんじゃないか、と思ってしまう。
「あの……ここからなら歩いてひとりでも帰れます。ここまでで大丈夫です」
 今出せる限りの力で笑顔を作った。
 このまま冗談のように終わらせたくて、ひとりで帰ると申し出てみる。
 肩にかけられたジャケットに手を伸ばすと、秋斗さんの手に遮られた。
「それは聞けないかな。きちんと送り届けることを約束したうえで蒼樹から許可が下りているんだ」
 先ほど停めたばかりの駐車場に戻り、結局は送ってもらうことになる。
 さっきまで――ついさっきまで、ずっと楽しくて嬉しくて、びっくりしてばかりだったのに。本当に楽しかったのに……。
 今は車内の空気すら変わってしまった。
 何よりも、自分に何が起きたのかがわからない。
 話もなく五分ほど走ると家の前に着く。
「今日は、ありがとうございました……」
 シートベルトを外そうとしたら、その手を掴まれた。
「かなり態度には示してきたつもりだけど……。翠葉ちゃんはちゃんと言葉にしないと伝わりそうにないから」
 掴まれている手をたどって秋斗さんを見ると、真っ直ぐに私を見る目があった。
「僕は翠葉ちゃんが思っているよりはるかに翠葉ちゃんのことを好きだと思うよ。さっきはああ言ったけど……恋愛お試し期間が必要なのは翠葉ちゃんだけだ。僕は本気だからね」
 言うと、手をどけてシートベルトを外してくれた。
 車の外には音を聞きつけたのか、蒼兄が出てきている。
 蒼兄が近寄ってくると秋斗さんが助手席の窓を開けた。
「後部座席に翠葉ちゃんの荷物がある」
 秋斗さんは何事もなかったかのように蒼兄に声をかける。
 蒼兄はその言葉に従い、後部座席から私の荷物を下ろしてくれた。
 秋斗さんになんて言ったらいいのかわからなくて、車から降りるときもお辞儀しかできなかった。
 代わりに、蒼兄が助手席の窓から、
「先輩、遅すぎです……。でも、今日は本当にお世話になりました」
「いや、今日は俺もすごく楽しかったから。帰すの遅くなって悪かった」
 短いやり取りを済ませ、「じゃ、翠葉ちゃん、おやすみ」と窓を閉めた。
 車はあっという間に見えなくなる。
 今日……いったい何が起こったんだろう――

 車が見えなくなってもまだ目を離せずにいた。
「どうした?」
 蒼兄に訊かれ、
「あ……なんでも、ないの……」
「とにかく、少し冷えるから中に入ろう」
 蒼兄のあたたかく大きな手に背中を押されて玄関に入った。
 私がサンダルを脱いでいるときに、蒼兄が携帯のディスプレイを見たことに気づく。
 何か変だと思われているのだろう。でも、今の状態をどう話したらいいのかがまったくわからない。
 リビングを通り過ぎ、自室に入ると手を洗うこともうがいをすることも忘れてベッドに転がった。
 蒼兄は荷物をソファに置くと、
「何かあった?」
「……わからないの」
「ん?」
「何があったのか、どうしたのか、わからないの……。だから、何も話せない」
「……話ならいつでも聞くから。抱え込みすぎるなよ? もし、俺にも両親にも言えないなら、湊さんのところへ行くんだ」
 そう言うと、蒼兄は部屋を出ていった。
「なんだろう……」
 私、いったいどうしちゃったんだろう……。
 エレベーターのところで司先輩を見かけてからおかしくなった。
 あのときほど、今は胸も痛くないけれど……。あのときに感じた衝撃はなんだろう……。
 自分が何にショックを受けたのかが理解できない。
 あの場で起きたことを一生懸命思い返してみたけれど、どうしても答えが見つからなかった。
 答えが出るまでずっと考えていたかった。けれど、身体は相当疲れていたようで、気づいたら深い眠りについていた。


「翠葉ちゃん、朝だけど……起きられる?」
 栞さんの声で目を覚ました。
 どうやら着替えもせず、お布団にも入らずに眠ってしまったらしい。
「今ね、ものすごく熱が高いの。履歴を見ると、夜中からみたいなんだけど……。遊び疲れちゃったかしら」
 遊び疲れ……。
 そうかもしれない。昨日は本当に楽しかったから。
「とりあえず、洋服だけは着替えましょう?」
 言われてパジャマを渡された。
「……蒼兄は?」
「私が来てしばらくしてから大学へ行ったわ。蒼くんも熱には気づいていたみたい。この毛布を掛けてくれたのは蒼くんよ」
 私に掛けられていたのは蒼兄の毛布だった。
 そっか……。お布団の上でそのまま寝ちゃったから、自分の毛布を持ってきてくれたのね……。
「血圧は悪くないけど、熱はすごく高いの。水分摂れそう?」
「たぶん……」
「じゃ、ポカリスエット持ってくるから少し待っていてね」
 栞さんが部屋を出ていき、枕元に置いてある携帯を開く。と、ディスプレイには三十八度八分と表示されていた。
 血圧は八十二の五十八。確かに血圧数値は悪くない。脈拍も七十五、と正常値の範囲。
「……知恵熱、かな」
 自分でもわかってる。
 でも、誰かに話そうにも、何をどう話していいのかがわからない。
 こういうときはどうやって相談したらいいんだろう……。
 運動公園で持ちかけられた話にしても、シートベルトを外そうとしたときに言われた言葉にしても、秋斗さんがどういうつもりなのかがわからない。
 また、いつもみたいにからかわれているのかな、と思わなくもない。
 でも、それは自分がそう思いたいだけな気もする。
 あのとき、秋斗さんの目は笑っていなかったから。
 あれ……じゃぁ、どうしたらいいのかな?
 だって、飛鳥ちゃんは秋斗さんが好きなわけで……。佐野くんは飛鳥ちゃんが好きなわけで……。
 えぇと――
「だめだ……」
 頭が回らない。
 何をどう考えたらいいのかがまったくわからない。
 数学みたいに方程式で解けたらいいのに……。
 そんなことを考えていると、手の中にある携帯が鳴り出した。
 誰、だろう……。
 でも、話す気力もない……。
 誰だかわからないけど、ごめんなさい。話せるようになったらかけ直すから――
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