光のもとで1

葉野りるは

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第三章 恋の入口

06話

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 頭も気持ちも飽和状態で、ぼんやりと床を見ていた。
 すると、ポケットの中で携帯が震えだす。
 緊張しながらディスプレイを見ると、「藤宮司」と表示されていた。
 しかも、メールではなく電話のほう。
 これは出るべき……? 出なくちゃだめ……?
 自問自答していると着信は切れた。
 それから少しするとまた携帯が震え始める。
 今度はすぐに止まり、それがメールであることを教えてくれた。


件名 :いつまで篭ってるつもり?
本文 :かれこれ一時間近く篭ってるって聞いた。
   さっき、秋兄の部屋に入ったときに
   バイタルをモニタリングされてることには気づいた。
   その理由もなんとなくわかってるつもり。
   翠が言いたくないなら話さなくていい。
   ただ、もっと自分を大切にしろ、とは思う。


 遠まわしな言い方はしない。
 それがとても、先輩らしく思えた。
 震える指で先輩の番号を呼び出す。けど、ディスプレイに表示される番号を見つめるばかりで通話ボタンを押すには至らない。
「言いたくないなら話さなくていい」とメールに書かれていたからには、先輩は訊かずにいてくれるかもしれない。でも、それでいいのだろうか。
 きちんとこちらを見て話そうとしてくれている人に対し、そっぽを向いていることにはならない?
 あの日からずっと、気にかけてくれていた人に対してそれでいいの……?
 ……いいわけない。いいわけがない。
 ちゃんと私を見ようとしてくれている人とはきちんと向き合いたい――
 意を決して通話ボタンを押す。と、一コール鳴り終わる前につながった。 
『もしもし』
 携帯から、低く落ち着いた声が聞こえてくる。
 かけたのはいいけれど、何を話したらいいのかがわからない。言葉が出てこない。
 先輩とはちゃんと話さなくちゃいけない。そう思ったからかけたのに……。
『そこ、意外と冷えると思うんだけど』
 この人はいつだって身体の心配をしてくれる。
 冷たいな、と思うこともあるけれど、容赦なくて手厳しくても、こうやって心配してくれる人なのだ。
『翠は、人にどう思われているのかが気になるんだろ?』
 しんとした仮眠室に先輩の声が響き、心臓が止まるかと思った。
 どうしてこう、核心をついてくるのだろう。
『中学の同級生に会えばそのくらいは察する。でも、そいつらと俺って同類なわけ?』
「違うっ」
 反射的に声が出た。
 だって、それだけは絶対に違うから。そんなふうには誤解されたくないと思ったから。
『やっと喋った……』
 ため息と一緒に吐き出された言葉。
『俺はまだ怖い人?』
「それも、違う……」
『じゃ、何?』
 なんだろう……。
「先輩、かな」
『……先輩、か。それ、もう少し近づけない? 学年は違う。でも、年は同じだろ』
 ……そう言われてみれば年は一緒だ。でも、「先輩」として出逢っただけに、「年上」感が非常に強い。
『俺はもう少し翠に近づきたいんだけど』
「……どうして?」
『気になるから』
 その言葉に気持ちが沈むのを感じた。
 やっぱり、私はどこへ行っても誰にとっても心配する対象にしかなれないのだ。病人でしかないのだ。
『翠、顔を見て話したい。たぶんだけど、翠は勘違いしていると思う』
 何を……?
『仮眠室に入れてくれない? もしくは、迎えに行くから外で話そう』
 どうしよう……。
 先輩が何を伝えようとしてくれているのかは気になる。でも、顔を見るのは少し怖い。
 ……違う、逆だ。顔を見られるのが怖いんだ。
『無理にとは言わないけど……』
 その言葉に、通話を切られてしまう気がして血の気が引く。
 この人と切れてしまうのは、ここで終わってしまうのはいやだ――
『翠?』
「あのっ――……話はしたくて、でも、外に行くのは無理で、だから……」
『了解。そこで話そう』
 言うと、通話は切れた。
「怖い……」
 でも、ここで逃げてしまったら去年の夏と変わらない。光陵高校を辞めたときと変わらない。
 怖いけど、逃げたら一生このままで、ずっと変われない気がする。ちゃんとした友達なんてできない気がする。
 それに、先輩は歩み寄ろうとしてくれているのだ。だから私も、きちんと向き合わないと――

 五分ほどすると、仮眠室のドアがノックされた。
 ドアの外から、
「翠葉ちゃん、司が入るって言ってるけど大丈夫?」
「はい……」
 聞こえるかどうかも怪しい小さな声を返すと、ドアが開いた。
「えっ!? 電気点けてなかったのっ!?」
 びっくりした秋斗さんが照明のスイッチに手を伸ばす。
「やっ――」
 一瞬だけ照明が点き、すぐに消された。
 先輩が秋斗さんの手を押さえたのだ。
「秋兄、いい。照明点けなくていいから」
 それは秋斗さんに言っている言葉なのか、私に言ってくれている言葉なのか、よくわからない。
 でも、どちらであってもそれは私に対する配慮であり優しさ。
「翠、入るよ」
 短く断わられ、私はコクリと頷いた。
 先輩が入るとドアは閉められ、先輩はすぐ近くまでやってきた。
「とりあえず……」
 と、ベッドの上に置いてあった毛布を肩からかけられてびっくりする。
「言っただろ? ここ、意外と冷えるって」
 少し呆れたような声だ。
 確かに、この部屋は少し冷える。小さい部屋にもかかわらず、しっかりと空調が効いているためだろう。
「さっきの話の続き。俺が気になるって言ったのは、体調云々の話じゃない。ただ、人間として興味があるって話」
「え……?」
 驚いて顔を上げる。と、
「やっぱり勘違いしてたか……」
 先輩はベッドに腰を下ろし、私のことを見下ろす形で話し始めた。
「翠は反応が面白い。コロコロ変わる表情は見ていて飽きないし、会話の受け答えも新鮮だと思う。だから興味がある」
「人として……?」
「そう。だから、死んでほしくはない。もっと自分を大切にしてほしいと思う。それも負担? 迷惑?」
 顔を覗き込むように首を傾げられた。
「そんなこと、ないです……負担も迷惑も、かけているのは私だから」
「それだけど、俺は負担も迷惑もかけられた覚えはないけど? ……要は、そのあたりが原因でバイタルをモニタリングされてるんじゃないの?」
「っ……」
「話せるなら話して。翠以外の人間から聞くのは癪だから」
 なんだか、何もかも悟られている気がして、隠していることが無意味のように思えてくる。
 でも、だからと言って話せるかどうかは別問題。
 何をどこから話したらいいのかがわからない。
 なかなか言葉を口にできない私を前に、先輩は辛抱強く待ってくれていた。
「私、体調が悪いことを隠すとか意識してそうしているわけではなくて、ただ、好きな人たちに迷惑をかけたくなくて、負担になりたくなくて、ただそれだけで――」
 言葉に詰まってもなお、先輩はじっと耳を傾けてくれていた。
「いつも倒れるたび、誰かに迷惑をかけるたびに思うんです。すごく情けないなって……。情けなくて情けなくて、消えてしまいたくなる……。湊先生が言うには、こういう気持ちが具合が悪いことを申告できなくさせてるって……。それに、こういう考え自体が不整脈の原因にもなるって……私、知らなくて……。そういう話をしたとき、バイタルチェックの装置を見せられたんです。体調が悪いことを自己申告できないなら、これをつけないと命の保証はできないって言われました。私が人に助けを求めないから。私が自分を大切にしないから……。それは、人から見たら自殺願望に思われても仕方ないって。言われて初めて、自分のしていることに気づいたんです。でも、本当にそんなつもりはなくて――」
「……そんなことだろうと思ってた。翠はうちの生徒のくせに頭悪いな」
「もともとそんなに良くはないんです」
「そういう返答、そこらの女子からは返ってこない」
 先輩はくつくつと笑いながら、
「バイタルチェックの装置ってどんなの?」
「え……?」
「モニタリングされてることには気づいたけど、どういうシステムなのかは知らないから」
 あ、そうか……。
 私は左腕のブラウスを捲り上げてバングルを見せる。と、
「秋兄、珍しく凝ったもの作ったな」
 先輩は感心しているようだった。
「これで少しは楽になれたの?」
「まだよくわかりません。でも、蒼兄に『大丈夫か?』って訊かれる回数は減ったかも……? それに、ひとり行動も許されちゃったし、湊先生がこれは私の代弁装置だって言うくらいには画期的なアイテムなのだと思います。今ではパソコンと携帯からチェックできるみたいで、湊先生、秋斗さん、蒼兄、両親、栞さんが常にチェックしてくれています」
「……ならいいんじゃない」
 ……先輩とこんなに会話が続いたの、初めてかも……?
 それにいつもより優しい話し方。
 思わずまじまじと見てしまう。すると、
「あのさ……俺のことなんだと思ってるわけ?」
「……今日はすごく優しいなと……」
「……いつもは冷たいって?」
 コクリと頷くと、
「翠には甘いほうだと思う」
 その返事に少し驚く。
 ほかの人にはどれほどひどい対応をしているのだろう。少し考えただけでも恐ろしい。
「基本的に、自分から女子には話しかけない」
「え?」
「前にも話したけど、女子はうるさいし面倒だから苦手。でも、翠にはそれを感じないから別枠と認識している」
 小窓から入ってくる光がちょうど先輩の顔にあたってきれいだった。
「バイタルチェックのこと、なんで話すのを怖がった?」
「……先輩が指摘したとおりです。どう思われるのかが怖かった……。これをつけることになったいきさつを話さないとなんかごまかしている気がしてしまうし……。だからといって根本的な部分は自分が衝撃を受けたばかりだったから、それを話してどう思われるのかがすごく怖くて……」
 話しているうちにどんどん視線が落ちていく。
 最後には体育座りをしている自分の膝を見ている始末だった。
「顔、上げて」
「無理です」
「それでも上げて」
 頑なに膝を見ていると、ベッドから立ち上がった先輩が私の前にしゃがみこむ。
 私の顔を隠している髪を耳にかけると、顔を覗き込んで視線を合わせられた。
 露になった頬がひんやりとした空気に触れる。
「もし仮に自殺願望があったとして、それを知ってもさっき言ったことに変わりはない。自分を大切にしてほしいと思う。死んではほしくない。生きていてほしいと思う」
 先輩の目から視線が逸らせずじっと見ていると、目に涙が溜まり始めた。
「もし、誰かに変な目で見られたなら俺のところに来ればいい。俺は変わらないから。それと簾条も、見方を変えることはないと思う」
 そう言うと、毛布ごとぎゅっと抱きしめられた。
 一瞬慌てた。でも、伝ってくるぬくもりがあたたかくて、ほっとできて、抵抗する力はいつしか抜けていた。
 涙が次から次へと溢れてくる。
 困った……。優しくされると涙が止まらない。
 違う……受け入れられないと思っていたものを、受け入れられたから――
「……これ、御園生さんに怒られるんだろうな」
「え……?」
「事情はどうあれ、泣かしたことに変わりはない」
 視線を逸らした先輩は、ひどく面倒くさそうな顔をしていた。
「先輩、大丈夫……。これ、嬉し涙だから……。嬉し涙っていうか、ほっとしたら涙が出てきちゃって……。先輩、ありがとうございました」
「それ、どうにかならない?」
「え?」
「藤宮先輩はやめてほしい。……言ったろ、もう少し近づきたいって」
「でも、なんて呼んだら……」
「司」
「却下です」
「……妥協して名前に先輩」
「司、先輩……?」
 これなら大丈夫かも……?
「次に藤宮先輩って呼んだらペナルティつけるからそのつもりで」
 言うと、先輩は立ち上がって手を差し伸べてくれた。
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