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第二章 兄妹
16話
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「水分、摂るか? 水を口に含む程度なら許されてる」
蒼兄が水差しを手にした。
「うん、少しちょうだい」
水差しの先端を口に入れて、少しだけ傾けてくれる。と、口の中に冷たい水が広がった。
「ありがとう。冷たくて口の中サッパリした」
水差しをサイドテーブルに置くと、ベッド脇に置いてある椅子に腰掛けた。
蒼兄は何か言いたそうに口を開いては閉じる。話そうかどうしようか、そんな感じだ。
蒼兄、私もずっと蒼兄のことを見てきたんだよ。私の世界の大半は蒼兄でできているのだから……。だからね、蒼兄の表情を読み取るのは得意なの。
「蒼兄……私は蒼兄が大好きだからね。すごくすごく、大好きだからね」
「俺もだよ。何より翠葉が大事……」
「わかってる……。ちゃんとわかってるから、そんな悲しそうな顔はしないでほしい」
「翠葉……俺、どうしたらいい? どうしたら翠葉を支えられる? 負担にならずにいられる?」
「っ……」
湊先生との会話を聞かれたのかもしれない。もしくは感じ取ったのか――
「私は……。私は、いつも蒼兄に支えてもらってばかりだよ。とても感謝しているの……。言葉だけでは伝えられないくらい。その先の気持ちはね、私の問題なの。私が自分を受け入れられないから起こる葛藤だと思う。でも、それは口にしたくないの。口にしたらお父さんやお母さんが悲しむと思う。だから口にはできないの。……もう少し時間がかかるみたい。自分の身体を受け入れるのには……。でも、蒼兄のことは大好きだから」
どうしてかな……。ありのままを答えただけなのに涙が出てくる。そして、涙の向こうで蒼兄も泣いていた。
今はこんなことしか言えない。今の私じゃ蒼兄を救ってあげることはできない。
いっそのこと、離れてしまえば楽にしてあげられるのかもしれないのに、今の私にはそんな術すらない。
――健康な身体になりたい。
なんて簡単な言葉なんだろう。けれども、これほど鋭利な刃物はないと思う。
それだけを純粋に思っていたとしても、裏を返せば「どうして健康な身体じゃないの?」になってしまう。
両親が聞けば、「なぜ、健康に生んでくれなかったのか」と取らずにはいられないだろう。
だから、それだけは絶対に言わない。
ただ、「普通」を求めてる。それだけでいい。
健康じゃなくても、普通に過ごすことが可能なら、それでいい。
これ以上、家族を傷つけたくない……。
自分の中の葛藤が最高潮に達したとき、自分がどれだけひどい言葉を発してしまうのか――考えただけでも恐怖に押し潰されそうになる。
それこそ、家から逃げ出したくなるほどに怖い。
そんなことになるくらいなら、自分が……自分が消えてなくなればいい――
どうにもできない空気の中、ひとつのノックが変化をくれた。
「翠葉ちゃん、気分はどうだい?」
紫先生だった。
「だいぶいいです」
「そうかい? まだ三十八度台なんだからいいわけはないと思うんだけどなぁ。吐き気は治まったみたいだね。でも、今日一日は点滴で様子を見よう。調子がいいようならお昼には重湯を出すから食べてみようか」
ベッド脇まで来ると、モニターのチェックを始める。
「血圧は八十二の五十。まあまあだね。とにかく熱が下がるのを待とう。夕方までに三十七度前半まで下がれば今日は帰ってもいいよ。けど、三十八度近いならもう一泊しようか」
「はい。……今日は三十日? 明日は、一日?」
四日は無理だろうか……。
「何かあるのかな?」
紫先生に訊かれ、
「いえ――」
「言ってみなさい」
「……弓道の試合を見に行く約束をしていたので」
「いつ?」
「四日の午前中です」
「じゃぁ、それまでには治さなくちゃね」
朗らかに笑われて、不思議な思いで紫先生の顔を見ていた。
治る……? 自宅安静とか言われない?
「翠葉ちゃんの回復しだいだよ。……翠葉ちゃん、十ある力を全部出してはいけないし、君の十はほかの人の十には満たない。これは事実だ。でもね、だからといって全部を諦める必要はないんだよ? そこは間違えないようにね」
全部を諦めなくてもいい……?
でも先生……その見極めが私には難しいです。
そこに、またドアが開く音がした。
「紫さん、これ」
湊先生がトレイを紫先生に渡す。
まだ帰ってなかったんだ……。
「あぁ、ありがとう」
トレイには注射器と薬のアンプルが入っていた。
「回復が早まる魔法のお薬だよ。点滴にはビタミン剤も入っているし、翠葉ちゃんが寝て起きるころには熱が下がるように調節してみよう。だから翠葉ちゃんは休むこと」
そう言うと、点滴の途中から注射で薬を注入される。少しするとふわっとした感じがして、そのまま霧の中に意識を手放した。
でも、それで良かったかもしれない。
これ以上、蒼兄の悲しい顔は見ていたくなかったし、私が元気になれば蒼兄も笑ってくれる。
早く、笑っている顔を見たい――
「翠葉、起きられる?」
ん……。
「まだ眠い?」
薄っすらと目を開けてびっくりした。
「きゃっ……」
大声を出す寸でのところで口を塞がれる。
「人をよく見てから大声出しなさい」
ドスの利いた声を発したのは、顔を引きつらせた湊先生だった。
「びっくりした……」
「こっちのほうがびっくりするわよっ。ったく、何度人を司と間違えたら気が済むのよ」
ぶつくさと文句を言われたれど、そのくらいよく似ているのだ。
湊先生はモニターのチェックを始め、ステンレスのトレイに用意してきた薬を点滴に入れる。
「熱は三十七度八分、と。なかなか下がらないわね。寒気は?」
「ないです。むしろ熱いくらい……」
答えると、ナースコールを押す。
『はい。御園生さん、どうされました?』
スピーカーから聞こえてきた声に、
「湊です。アイスノン持ってきてください」
『はい』
視線を私に戻し、
「何か食べられそう?」
「……食べたくはないです」
「あぁ、そう。じゃ、重湯持ってこさせようかしら」
と笑みを深めた。
「食べられないんじゃなくて、食べたくないだけでしょ?」
「…………」
無言になると、「無言は肯定」と容赦なく切り捨てられる。
先生はもう一度ナースコールを押すと、「重湯を追加」とオーダーした。
それから十分と経たないうちにアイスノンと重湯が運ばれてきた。
「翠葉、食べながらでいいから聞きなさい」
それまでとは少し違う雰囲気で言われた。
そして、白衣のポケットから黒っぽい箱を取り出す。
「これね、GPSの探知とバイタルチェックができるディスプレイなの。こっちがバイタルとGPSを発進する側」
テーブルの上にふたつのアイテムが乗せられた。
ひとつはゲーム機と変わらない大きさのディスプレイ。それにはいくつかのボタンがついている。
もうひとつは、幅一センチくらいの曲線が美しい……バングル? ブレスレット?
「このバングルをつけていれば、どこにいても翠葉のバイタルチェックができる。不整脈や血圧低下、脈拍数まで。異常があればすぐに知ることができる。何か起きたときにはGPSで居場所を特定することも可能。そういう装置」
……なんのために?
「これ、つける気ある?」
「……それは、常に誰かに監視されているということ?」
「GPSで居場所を突き止めるなんて、よほどのことがない限りしないわ。ただ、バイタルのチェックはずっとしてる。どうしてだかわかる?」
「……いえ」
「翠葉が自分を大切にしないからよ」
思わず目を見開く。
湊先生の言葉はとても簡潔で、ひどく胸に刺さる言葉だった。
「あんたは人に助けを求めない。……わかってるわよね? その結果、死ぬ恐れだってあることは」
ごくりと唾を飲み込む。
決して、直接的にそう考えたことがあるわけじゃない。
でも、私がしていることや、時々消えてしまいたいと思うことは――つまりはそういうことなのだ。
「先生、私――」
「わかってる……。自殺願望ってわけじゃないんでしょ? ただ、気持ちに押し潰されそうで苦しくて、だからそういう選択をするんでしょう?」
涙腺が壊れたんじゃないかと思うくらいに涙がたくさん、次から次へと流れてくる。
湊先生がベッドの脇に座り、肩を抱いてくれる。
「今の翠葉に具合が悪くなったらすぐに言えって言っても難しいと思うの。言ってもらえたらこっちは助かる。でも、それで身体を守れても翠葉の心には負担になる。……それじゃ元の木阿弥なのよ。だから、翠葉の代弁してくれるための装置があったら助かる」
「でも、それは常にバイタルをチェックしている人が必要になるのでしょう?」
「そうね。私と秋斗、それから蒼樹は常にパソコン上からチェックできる環境を整えるでしょう。それが何?」
「……そこまで気を遣われるのはつらいです」
「バカね。一緒にいられない、どこかでひとりで倒れてるかもしれない。そんな不安からは解放されるのがこの装置の利点でしょうが……。少なくとも、あのシスコン兄貴にとっては宝物級の代物じゃないかしら」
不安から解放、される……?
「これね、本当は秋斗から蒼樹への誕生日プレゼントだったの。それを私が一足先に拝借してきたの。あまりにも蒼樹が翠葉の心配ばかりしてるからって、秋斗が蒼樹と翠葉のためにだけ開発したアイテムよ」
そう言って、バングルを私の手に持たせる。
ひんやりとした銀色の金属。唐草模様を彷彿とさせる曲線がデザインになっている。
とても、バイタルのチェックをするような装置には見えない。どう見ても普通のバングル。
「そっちは翠葉の誕生日にプレゼントしようと思ってたんですって」
「秋斗さんが……?」
「えぇ。実のところ、携帯にはすでにGPSが仕込まれてるみたいよ? 秋斗なんかにホイホイ携帯渡しちゃだめよ。何を仕掛けられるかわかったもんじゃない。今度から気をつけなさい」
あまりにもびっくりし過ぎて、私は何を言うこともできなかった。
「あら、びっくりして涙が止まったかしら?」
あ、本当だ……。
「あの男、忙しいくせにそういうことにはマメなのよ。もっとも、あんなところに引き篭もって遠隔操作で仕事を済ませようとするから、色々と仕事が増えるのに……」
まるで秋斗さんがあそこに引き篭もっているかのような物言いに唖然とする。
「あら、信じてないでしょ? 秋斗はね、ゆくゆくは藤宮警備、さらには藤宮を継ぐ人間よ? 本来なら本社で働くべき人間が、人間関係が面倒くさいって理由であそこに仕事場かまえて、通常の業務のほか、学園のセキュリティなんて仕事抱えてるんだから物好きとしか言いようがないわ。しかも、こういった小物を開発するのが趣味。間違いなくオタクよ」
ここまではっきりと、バッサリと言い切られてしまうと何を言う気も起きない。
ただ、秋斗さんがすごい人であることと、湊先生にオタク呼ばわりされていることはわかった。
「で? つけるの? つけないの?」
訊かれて、手元のバングルに視線を落とす。
「つけないっていう選択肢もあるんですか?」
「ないわね」
キッパリと言われてまた絶句。
「っていうか、これをつけてくれなかったらあんたの命の保証はできないわ。……少し考えてみなさいよ。これをつけることによって、蒼樹やご両親はあんたの『死』って恐怖からは多少なりとも解放されるのよ?」
あ……。
ずっと見つめていたバングルから視線を上げる。
「先生、これ、つける……。これをつけたら、少しは蒼兄やお母さんたちが安心できるのでしょう? それならつけます」
「……あんたは家族が大好きなのね」
「はい……。すごく、大切な人たち。私の人生に色を付けてくれた人たちだから」
「……こんなにも真っ直ぐ翠葉に想われてる人たちが羨ましいわ。若干妬けるわね」
先生の表情が優しいものとなる。
「湊先生も大切な人のひとりですよ? ……高校に入ってから、急に大切な人たちが増えてしまって……。とても幸せだと思うのに、この手から零れ落ちていくんじゃないかと思うと怖くて……。でも、手放したくなくて……。でも、いつかは手放さなくちゃいけなくなるような気がして……。幸せなのに、それ以上の恐怖がいつも心の片隅にあります」
「バカね。手放したくないなら、紐でもつけて手綱だけしっかり握っておけばいいのよ」
そんな言葉にまた救われる。
「それ、つけるとしたら腕か手首だけど、上腕のほうが心臓に近くていい。それに、上腕なら制服で隠れて見えない」
そう言って、私の手にあったバングルを湊先生が手に取った。
「それなら腕に……」
「これ、一度付けると特別な磁気を近づけない限りは外れないの。それでもいい?」
「はい」
迷いはなかった。
答えると、左腕にバングルが装着される。
ひんやりと冷たいそれが腕にピタリとはまった。まるで、私のためだけに作られたかのように……。
蒼兄が水差しを手にした。
「うん、少しちょうだい」
水差しの先端を口に入れて、少しだけ傾けてくれる。と、口の中に冷たい水が広がった。
「ありがとう。冷たくて口の中サッパリした」
水差しをサイドテーブルに置くと、ベッド脇に置いてある椅子に腰掛けた。
蒼兄は何か言いたそうに口を開いては閉じる。話そうかどうしようか、そんな感じだ。
蒼兄、私もずっと蒼兄のことを見てきたんだよ。私の世界の大半は蒼兄でできているのだから……。だからね、蒼兄の表情を読み取るのは得意なの。
「蒼兄……私は蒼兄が大好きだからね。すごくすごく、大好きだからね」
「俺もだよ。何より翠葉が大事……」
「わかってる……。ちゃんとわかってるから、そんな悲しそうな顔はしないでほしい」
「翠葉……俺、どうしたらいい? どうしたら翠葉を支えられる? 負担にならずにいられる?」
「っ……」
湊先生との会話を聞かれたのかもしれない。もしくは感じ取ったのか――
「私は……。私は、いつも蒼兄に支えてもらってばかりだよ。とても感謝しているの……。言葉だけでは伝えられないくらい。その先の気持ちはね、私の問題なの。私が自分を受け入れられないから起こる葛藤だと思う。でも、それは口にしたくないの。口にしたらお父さんやお母さんが悲しむと思う。だから口にはできないの。……もう少し時間がかかるみたい。自分の身体を受け入れるのには……。でも、蒼兄のことは大好きだから」
どうしてかな……。ありのままを答えただけなのに涙が出てくる。そして、涙の向こうで蒼兄も泣いていた。
今はこんなことしか言えない。今の私じゃ蒼兄を救ってあげることはできない。
いっそのこと、離れてしまえば楽にしてあげられるのかもしれないのに、今の私にはそんな術すらない。
――健康な身体になりたい。
なんて簡単な言葉なんだろう。けれども、これほど鋭利な刃物はないと思う。
それだけを純粋に思っていたとしても、裏を返せば「どうして健康な身体じゃないの?」になってしまう。
両親が聞けば、「なぜ、健康に生んでくれなかったのか」と取らずにはいられないだろう。
だから、それだけは絶対に言わない。
ただ、「普通」を求めてる。それだけでいい。
健康じゃなくても、普通に過ごすことが可能なら、それでいい。
これ以上、家族を傷つけたくない……。
自分の中の葛藤が最高潮に達したとき、自分がどれだけひどい言葉を発してしまうのか――考えただけでも恐怖に押し潰されそうになる。
それこそ、家から逃げ出したくなるほどに怖い。
そんなことになるくらいなら、自分が……自分が消えてなくなればいい――
どうにもできない空気の中、ひとつのノックが変化をくれた。
「翠葉ちゃん、気分はどうだい?」
紫先生だった。
「だいぶいいです」
「そうかい? まだ三十八度台なんだからいいわけはないと思うんだけどなぁ。吐き気は治まったみたいだね。でも、今日一日は点滴で様子を見よう。調子がいいようならお昼には重湯を出すから食べてみようか」
ベッド脇まで来ると、モニターのチェックを始める。
「血圧は八十二の五十。まあまあだね。とにかく熱が下がるのを待とう。夕方までに三十七度前半まで下がれば今日は帰ってもいいよ。けど、三十八度近いならもう一泊しようか」
「はい。……今日は三十日? 明日は、一日?」
四日は無理だろうか……。
「何かあるのかな?」
紫先生に訊かれ、
「いえ――」
「言ってみなさい」
「……弓道の試合を見に行く約束をしていたので」
「いつ?」
「四日の午前中です」
「じゃぁ、それまでには治さなくちゃね」
朗らかに笑われて、不思議な思いで紫先生の顔を見ていた。
治る……? 自宅安静とか言われない?
「翠葉ちゃんの回復しだいだよ。……翠葉ちゃん、十ある力を全部出してはいけないし、君の十はほかの人の十には満たない。これは事実だ。でもね、だからといって全部を諦める必要はないんだよ? そこは間違えないようにね」
全部を諦めなくてもいい……?
でも先生……その見極めが私には難しいです。
そこに、またドアが開く音がした。
「紫さん、これ」
湊先生がトレイを紫先生に渡す。
まだ帰ってなかったんだ……。
「あぁ、ありがとう」
トレイには注射器と薬のアンプルが入っていた。
「回復が早まる魔法のお薬だよ。点滴にはビタミン剤も入っているし、翠葉ちゃんが寝て起きるころには熱が下がるように調節してみよう。だから翠葉ちゃんは休むこと」
そう言うと、点滴の途中から注射で薬を注入される。少しするとふわっとした感じがして、そのまま霧の中に意識を手放した。
でも、それで良かったかもしれない。
これ以上、蒼兄の悲しい顔は見ていたくなかったし、私が元気になれば蒼兄も笑ってくれる。
早く、笑っている顔を見たい――
「翠葉、起きられる?」
ん……。
「まだ眠い?」
薄っすらと目を開けてびっくりした。
「きゃっ……」
大声を出す寸でのところで口を塞がれる。
「人をよく見てから大声出しなさい」
ドスの利いた声を発したのは、顔を引きつらせた湊先生だった。
「びっくりした……」
「こっちのほうがびっくりするわよっ。ったく、何度人を司と間違えたら気が済むのよ」
ぶつくさと文句を言われたれど、そのくらいよく似ているのだ。
湊先生はモニターのチェックを始め、ステンレスのトレイに用意してきた薬を点滴に入れる。
「熱は三十七度八分、と。なかなか下がらないわね。寒気は?」
「ないです。むしろ熱いくらい……」
答えると、ナースコールを押す。
『はい。御園生さん、どうされました?』
スピーカーから聞こえてきた声に、
「湊です。アイスノン持ってきてください」
『はい』
視線を私に戻し、
「何か食べられそう?」
「……食べたくはないです」
「あぁ、そう。じゃ、重湯持ってこさせようかしら」
と笑みを深めた。
「食べられないんじゃなくて、食べたくないだけでしょ?」
「…………」
無言になると、「無言は肯定」と容赦なく切り捨てられる。
先生はもう一度ナースコールを押すと、「重湯を追加」とオーダーした。
それから十分と経たないうちにアイスノンと重湯が運ばれてきた。
「翠葉、食べながらでいいから聞きなさい」
それまでとは少し違う雰囲気で言われた。
そして、白衣のポケットから黒っぽい箱を取り出す。
「これね、GPSの探知とバイタルチェックができるディスプレイなの。こっちがバイタルとGPSを発進する側」
テーブルの上にふたつのアイテムが乗せられた。
ひとつはゲーム機と変わらない大きさのディスプレイ。それにはいくつかのボタンがついている。
もうひとつは、幅一センチくらいの曲線が美しい……バングル? ブレスレット?
「このバングルをつけていれば、どこにいても翠葉のバイタルチェックができる。不整脈や血圧低下、脈拍数まで。異常があればすぐに知ることができる。何か起きたときにはGPSで居場所を特定することも可能。そういう装置」
……なんのために?
「これ、つける気ある?」
「……それは、常に誰かに監視されているということ?」
「GPSで居場所を突き止めるなんて、よほどのことがない限りしないわ。ただ、バイタルのチェックはずっとしてる。どうしてだかわかる?」
「……いえ」
「翠葉が自分を大切にしないからよ」
思わず目を見開く。
湊先生の言葉はとても簡潔で、ひどく胸に刺さる言葉だった。
「あんたは人に助けを求めない。……わかってるわよね? その結果、死ぬ恐れだってあることは」
ごくりと唾を飲み込む。
決して、直接的にそう考えたことがあるわけじゃない。
でも、私がしていることや、時々消えてしまいたいと思うことは――つまりはそういうことなのだ。
「先生、私――」
「わかってる……。自殺願望ってわけじゃないんでしょ? ただ、気持ちに押し潰されそうで苦しくて、だからそういう選択をするんでしょう?」
涙腺が壊れたんじゃないかと思うくらいに涙がたくさん、次から次へと流れてくる。
湊先生がベッドの脇に座り、肩を抱いてくれる。
「今の翠葉に具合が悪くなったらすぐに言えって言っても難しいと思うの。言ってもらえたらこっちは助かる。でも、それで身体を守れても翠葉の心には負担になる。……それじゃ元の木阿弥なのよ。だから、翠葉の代弁してくれるための装置があったら助かる」
「でも、それは常にバイタルをチェックしている人が必要になるのでしょう?」
「そうね。私と秋斗、それから蒼樹は常にパソコン上からチェックできる環境を整えるでしょう。それが何?」
「……そこまで気を遣われるのはつらいです」
「バカね。一緒にいられない、どこかでひとりで倒れてるかもしれない。そんな不安からは解放されるのがこの装置の利点でしょうが……。少なくとも、あのシスコン兄貴にとっては宝物級の代物じゃないかしら」
不安から解放、される……?
「これね、本当は秋斗から蒼樹への誕生日プレゼントだったの。それを私が一足先に拝借してきたの。あまりにも蒼樹が翠葉の心配ばかりしてるからって、秋斗が蒼樹と翠葉のためにだけ開発したアイテムよ」
そう言って、バングルを私の手に持たせる。
ひんやりとした銀色の金属。唐草模様を彷彿とさせる曲線がデザインになっている。
とても、バイタルのチェックをするような装置には見えない。どう見ても普通のバングル。
「そっちは翠葉の誕生日にプレゼントしようと思ってたんですって」
「秋斗さんが……?」
「えぇ。実のところ、携帯にはすでにGPSが仕込まれてるみたいよ? 秋斗なんかにホイホイ携帯渡しちゃだめよ。何を仕掛けられるかわかったもんじゃない。今度から気をつけなさい」
あまりにもびっくりし過ぎて、私は何を言うこともできなかった。
「あら、びっくりして涙が止まったかしら?」
あ、本当だ……。
「あの男、忙しいくせにそういうことにはマメなのよ。もっとも、あんなところに引き篭もって遠隔操作で仕事を済ませようとするから、色々と仕事が増えるのに……」
まるで秋斗さんがあそこに引き篭もっているかのような物言いに唖然とする。
「あら、信じてないでしょ? 秋斗はね、ゆくゆくは藤宮警備、さらには藤宮を継ぐ人間よ? 本来なら本社で働くべき人間が、人間関係が面倒くさいって理由であそこに仕事場かまえて、通常の業務のほか、学園のセキュリティなんて仕事抱えてるんだから物好きとしか言いようがないわ。しかも、こういった小物を開発するのが趣味。間違いなくオタクよ」
ここまではっきりと、バッサリと言い切られてしまうと何を言う気も起きない。
ただ、秋斗さんがすごい人であることと、湊先生にオタク呼ばわりされていることはわかった。
「で? つけるの? つけないの?」
訊かれて、手元のバングルに視線を落とす。
「つけないっていう選択肢もあるんですか?」
「ないわね」
キッパリと言われてまた絶句。
「っていうか、これをつけてくれなかったらあんたの命の保証はできないわ。……少し考えてみなさいよ。これをつけることによって、蒼樹やご両親はあんたの『死』って恐怖からは多少なりとも解放されるのよ?」
あ……。
ずっと見つめていたバングルから視線を上げる。
「先生、これ、つける……。これをつけたら、少しは蒼兄やお母さんたちが安心できるのでしょう? それならつけます」
「……あんたは家族が大好きなのね」
「はい……。すごく、大切な人たち。私の人生に色を付けてくれた人たちだから」
「……こんなにも真っ直ぐ翠葉に想われてる人たちが羨ましいわ。若干妬けるわね」
先生の表情が優しいものとなる。
「湊先生も大切な人のひとりですよ? ……高校に入ってから、急に大切な人たちが増えてしまって……。とても幸せだと思うのに、この手から零れ落ちていくんじゃないかと思うと怖くて……。でも、手放したくなくて……。でも、いつかは手放さなくちゃいけなくなるような気がして……。幸せなのに、それ以上の恐怖がいつも心の片隅にあります」
「バカね。手放したくないなら、紐でもつけて手綱だけしっかり握っておけばいいのよ」
そんな言葉にまた救われる。
「それ、つけるとしたら腕か手首だけど、上腕のほうが心臓に近くていい。それに、上腕なら制服で隠れて見えない」
そう言って、私の手にあったバングルを湊先生が手に取った。
「それなら腕に……」
「これ、一度付けると特別な磁気を近づけない限りは外れないの。それでもいい?」
「はい」
迷いはなかった。
答えると、左腕にバングルが装着される。
ひんやりと冷たいそれが腕にピタリとはまった。まるで、私のためだけに作られたかのように……。
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