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April
欲しかったもの Side 司 01話
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入学式の翌日、マンション内のスポーツジムへ出かけようとしたところに唯さんがやってきた――というよりは、玄関ドアを開けたら、すさまじく眠そうな顔をした唯さんが突っ立っていた、が正しい。
しかもこの男、口を開くなり文句を垂れ流す。
「っつか、なんでこんな早起きなんだよ。じじーじゃあるまいし、若者なら若者らしく夜更かしして、翌朝寝坊するとかしなよっ」
っていうか、出会い頭に文句言われる理由がさっぱりわからないんだけど……。
事実、待ち合わせの約束はしていないし、こんな時間に唯さんが俺をたずねてくるなど誰が予測できようか。
「何しに来たのか知りませんが、唯さんに文句言われる筋合いはないと思います」
思い切りスルーするつもりで簡潔に答えると、
「ちょっとちょっとー、そんなこと言っていいのー? 恩人には最大の敬意を払うべきだと思うんだけどー?」
恩人ってなんの話だよ……。
「話が全然見えないんですけど」
「じゃじゃーんっ! これが目に入らぬかーーーっっっ!」
まるで印籠のようにずずいと目の前に差し出されたのは、手のひらサイズの薄っぺらい紙。
威力もなければ後光も差さない。そこには二センチ四方のQRコードが印刷されているのみ。
「なんのQRコードです?」
「これは単なるQRコードであって、単なるQRコードじゃありませんっ!」
唯さんは意味深な話し方で、さも大切なものを扱うような仕草でその紙を扱う。
何度か言葉を交わしたにも関わらず、一向に唯さんの目的がつかめない。
そんな状況に、俺はイラつきを感じ始めていた。
「唯さんって、交換条件と面倒ななぞなぞ好きですよね……」
ポロリといやみを零すと、
「んー? 交換条件は生きていくうえで必須事項だからしょうがなくない? なぞなぞは趣味かなぁ?」
唯さんは実にのんびりとした調子で話す。
「大変申し訳ないのですが、こっちはその趣味に付き合う忍耐力を持ち合わせていないので、とっとと用件を話していただきたいんですが」
「これからも俺と付き合っていくなら忍耐力は必須だよー?」
「……そのあたりは善処するとして、それ、なんなんです?」
俺は手っ取り早くQRコードに話を戻した。
「秋斗さんと俺からのお祝い」
「は? なんの呪い?」
「ちょっとちょっとっ!? 『呪い』じゃなくて『祝い』だってば。いーわーいっっっ!」
「……なんの?」
先日届いた膨大な洋服が秋兄と唯さん、御園生さんからの入学祝いだったということは翠から聞いているが、秋兄からはそれとは別に誕生日プレゼントをもらっている。ほかに何かプレゼントを贈られる口実なんてあったか?
「秋斗さん的には誕プレの追加にしたかったっぽいけど、俺が強引に違う口実を立てました」
「だからなんの祝いなのかとっとと吐け」
「もー短気だなぁ……。ずばり、リィとの婚約祝いだよ、婚約いーわーいっ!」
「は……?」
虚をつかれた俺は、相当間抜けな顔をしていたと思う。
婚約したあの日、この人が俺と翠の婚約を心から喜んでいるようには見えなかったわけだけど、それは気のせいだったのか?
いやいやいや、それはどうでもよくて、今はこのQRコードの正体が問題なわけで……。
「ま、読み込んでみればわかるよ。ちなみに、君に渡すこれは、ほかの人間が持っているものとは別物だから」
別物……?
「ほかの人間が持つこれはスタンダードなものだけど、リィと君が持つこれだけはイレギュラー」
そのヒントにものが何だかわかった気がした。
「……バイタル、転送アプリ?」
信じられない思いで口にすると、
「ピンポーン!」
唯さんは右手の人差し指をピンと立てて答える。
「どう? もう俺を邪険になんて扱えなくなったでしょ?」
俺は何を答えることもできなかった。
これ、唯さんや秋兄の一存で俺に与えられたもの? それとも翠がオーダーした?
自分にとって都合のいい考えをいくつか出してみるものの、「翠にはつい先日断られたばかり」という事実が、打ち消し線となってすべての項目を消していく。
あのときは確かに、唯さんを懐柔するという策も講じた。けど、実際目の前に提示されると喜ぶでもなく、戸惑うでもなく、拒まなくてはいけない気に駆られる。
誰を欺こうともただひとり、翠だけは裏切ってはいけない、と心の奥底で警鐘が鳴る。
「何? 嬉しくないの? 欲しくないの?」
正直に言うなら、喉から手が出るほどに欲しい。とっととアプリをスマホにインストールしてしまいたい。でも――
「翠が承諾していないものを手にすることはできません……」
心の底から欲しいと願ったものを自らふいにしてしまった。そんな気持ちが湧いてくる。でもたぶん、間違った選択はしていない。
もしここでそれを手に取ってしまったら、俺は翠のバイタルを目にするたびに後ろめたい気持ちに囚われることになるだろう。
鬱々とした気分でいると、
「司っちは相変わらず律儀で、ある意味損な性格だよね?」
カラッとした声音で唯さんに言われた。
「でも、そんな司っちだからリィは君が好きで、俺はこれを渡す気になったんだよね」
「だから、翠が承諾していないものを受け取るつもりはないと――」
「承諾してるよ」
その言葉に思考が止まった。
承諾、して、る……? 翠、が……?
「あははっ! びっくりしてるねぃ」
そりゃ、びっくりもする……。
「俺、翠に頼んで断られたの昨日ですよ?」
「うんうん、それも聞いてる」
「じゃ、なんで……」
「そこは秋斗さんの説得の賜物かな?」
「秋兄の……?」
「そもそもは生徒会メンバーが大きな行事のときはリィのバイタルがわかる状態にしてほしい、って話から始まったわけだけど、そういう話の方向に持っていこうとしたのって司っちじゃないの?」
確かに昨日、飛翔に連絡を入れて翠のバイタルを気にするよう伝えはした。
飛翔が翠にコンタクトを取るとしたら、生徒会メンバーの前でだろうという予測はできたし、それを聞いた簾条が黙っていないであろうことも計算の内だった。
でもその余波が自分に及ぶことは絶対にない。そう思っていたのに――
「ま、その話の流れから、司っちにはバイタル転送してあげないの? って秋斗さんがリィにたずねたわけだけど、君が予想しているとおり、リィは『だめ』って答えた。そこをうまい具合に懐柔したのが秋斗さん」
唯さんはそのときの会話内容まで教えてくれた。
それは実に秋兄らしい説得方法で、人の意見を素直に聞き入れる翠らしい判断だとも思う。
……つまりこれは――手にしてもいいものなのか……?
じっと小さな紙を見つめていると、
「ほらほら、とっとともらってくんないかなっ? 俺、このあと帰って二度寝するって大事なミッションがあるんだけどっ?」
俺は震える右手でその用紙を手に取った。
「俺たち家族はなんの権限もないレギュラーアプリだけど、リィと司っちのアプリだけは違う。都合が悪いときには平常時のバイタルを送信させることができる機能付き。その部分だけが俺がいじくった、俺からのプレゼント」
「……ありがとう、ございます……」
「くくっ、相当びっくりしてんね?」
事実、どんな手を使ってでも手に入れようと思っていたものが、こんなにも簡単に手に入ったともなれば、こんな醜態を晒す羽目になっても仕方がないというもの。
「んじゃま、そういうことで!」
唯さんが踵を返して去る間際、こちらを振り返った。
「司っち、わかってると思うけど、あまりにも過剰にリィをセーブしようものなら、俺は容赦なく、またそのアプリを取り上げるからね?」
唯さんは俺に釘を刺すと、軽やかな足取りで階段を下りていった。
俺は急激に力が抜け、その場に座り込む。と、手で押さえていた玄関ドアがミッシと独特な音を立てて閉まった。
俺は玄関にしゃがみこんだままポケットからスマホを取り出しQRコードを読み込む。
アクセスしてインストールボタンをタップすると、すぐにアプリのダウンロードが開始された。
一分と経たないうちにインストールが終わり、いくつかの設定を済ませると、自分のスマホのホーム画面に翠のバイタルが表示される。
「八十八の六十五、脈拍は六十一……」
時刻は六時前。きっとまだ寝ているのだろう。
たかだか三つの数値を知ることができるようになっただけ。なのに、かけがえのないものを手にした気分で、初めて弓を手にした日のことを思い出す始末。
要はそのくらい欲しかったものということで――
「変なの……」
自分ではなく人のバイタルが表示されているだけだというのに、「お守り」に思えるのだから、これが「変」じゃなくてなんだというのか。
今までそこまでスマホに執着心はなかったが、これからはえらく執着してしまいそうだ。
「……俺も翠のことを言えないな」
やけに愛しいものへと変化したスマホを片手に、俺は新たに玄関ドアを開いた。
しかもこの男、口を開くなり文句を垂れ流す。
「っつか、なんでこんな早起きなんだよ。じじーじゃあるまいし、若者なら若者らしく夜更かしして、翌朝寝坊するとかしなよっ」
っていうか、出会い頭に文句言われる理由がさっぱりわからないんだけど……。
事実、待ち合わせの約束はしていないし、こんな時間に唯さんが俺をたずねてくるなど誰が予測できようか。
「何しに来たのか知りませんが、唯さんに文句言われる筋合いはないと思います」
思い切りスルーするつもりで簡潔に答えると、
「ちょっとちょっとー、そんなこと言っていいのー? 恩人には最大の敬意を払うべきだと思うんだけどー?」
恩人ってなんの話だよ……。
「話が全然見えないんですけど」
「じゃじゃーんっ! これが目に入らぬかーーーっっっ!」
まるで印籠のようにずずいと目の前に差し出されたのは、手のひらサイズの薄っぺらい紙。
威力もなければ後光も差さない。そこには二センチ四方のQRコードが印刷されているのみ。
「なんのQRコードです?」
「これは単なるQRコードであって、単なるQRコードじゃありませんっ!」
唯さんは意味深な話し方で、さも大切なものを扱うような仕草でその紙を扱う。
何度か言葉を交わしたにも関わらず、一向に唯さんの目的がつかめない。
そんな状況に、俺はイラつきを感じ始めていた。
「唯さんって、交換条件と面倒ななぞなぞ好きですよね……」
ポロリといやみを零すと、
「んー? 交換条件は生きていくうえで必須事項だからしょうがなくない? なぞなぞは趣味かなぁ?」
唯さんは実にのんびりとした調子で話す。
「大変申し訳ないのですが、こっちはその趣味に付き合う忍耐力を持ち合わせていないので、とっとと用件を話していただきたいんですが」
「これからも俺と付き合っていくなら忍耐力は必須だよー?」
「……そのあたりは善処するとして、それ、なんなんです?」
俺は手っ取り早くQRコードに話を戻した。
「秋斗さんと俺からのお祝い」
「は? なんの呪い?」
「ちょっとちょっとっ!? 『呪い』じゃなくて『祝い』だってば。いーわーいっっっ!」
「……なんの?」
先日届いた膨大な洋服が秋兄と唯さん、御園生さんからの入学祝いだったということは翠から聞いているが、秋兄からはそれとは別に誕生日プレゼントをもらっている。ほかに何かプレゼントを贈られる口実なんてあったか?
「秋斗さん的には誕プレの追加にしたかったっぽいけど、俺が強引に違う口実を立てました」
「だからなんの祝いなのかとっとと吐け」
「もー短気だなぁ……。ずばり、リィとの婚約祝いだよ、婚約いーわーいっ!」
「は……?」
虚をつかれた俺は、相当間抜けな顔をしていたと思う。
婚約したあの日、この人が俺と翠の婚約を心から喜んでいるようには見えなかったわけだけど、それは気のせいだったのか?
いやいやいや、それはどうでもよくて、今はこのQRコードの正体が問題なわけで……。
「ま、読み込んでみればわかるよ。ちなみに、君に渡すこれは、ほかの人間が持っているものとは別物だから」
別物……?
「ほかの人間が持つこれはスタンダードなものだけど、リィと君が持つこれだけはイレギュラー」
そのヒントにものが何だかわかった気がした。
「……バイタル、転送アプリ?」
信じられない思いで口にすると、
「ピンポーン!」
唯さんは右手の人差し指をピンと立てて答える。
「どう? もう俺を邪険になんて扱えなくなったでしょ?」
俺は何を答えることもできなかった。
これ、唯さんや秋兄の一存で俺に与えられたもの? それとも翠がオーダーした?
自分にとって都合のいい考えをいくつか出してみるものの、「翠にはつい先日断られたばかり」という事実が、打ち消し線となってすべての項目を消していく。
あのときは確かに、唯さんを懐柔するという策も講じた。けど、実際目の前に提示されると喜ぶでもなく、戸惑うでもなく、拒まなくてはいけない気に駆られる。
誰を欺こうともただひとり、翠だけは裏切ってはいけない、と心の奥底で警鐘が鳴る。
「何? 嬉しくないの? 欲しくないの?」
正直に言うなら、喉から手が出るほどに欲しい。とっととアプリをスマホにインストールしてしまいたい。でも――
「翠が承諾していないものを手にすることはできません……」
心の底から欲しいと願ったものを自らふいにしてしまった。そんな気持ちが湧いてくる。でもたぶん、間違った選択はしていない。
もしここでそれを手に取ってしまったら、俺は翠のバイタルを目にするたびに後ろめたい気持ちに囚われることになるだろう。
鬱々とした気分でいると、
「司っちは相変わらず律儀で、ある意味損な性格だよね?」
カラッとした声音で唯さんに言われた。
「でも、そんな司っちだからリィは君が好きで、俺はこれを渡す気になったんだよね」
「だから、翠が承諾していないものを受け取るつもりはないと――」
「承諾してるよ」
その言葉に思考が止まった。
承諾、して、る……? 翠、が……?
「あははっ! びっくりしてるねぃ」
そりゃ、びっくりもする……。
「俺、翠に頼んで断られたの昨日ですよ?」
「うんうん、それも聞いてる」
「じゃ、なんで……」
「そこは秋斗さんの説得の賜物かな?」
「秋兄の……?」
「そもそもは生徒会メンバーが大きな行事のときはリィのバイタルがわかる状態にしてほしい、って話から始まったわけだけど、そういう話の方向に持っていこうとしたのって司っちじゃないの?」
確かに昨日、飛翔に連絡を入れて翠のバイタルを気にするよう伝えはした。
飛翔が翠にコンタクトを取るとしたら、生徒会メンバーの前でだろうという予測はできたし、それを聞いた簾条が黙っていないであろうことも計算の内だった。
でもその余波が自分に及ぶことは絶対にない。そう思っていたのに――
「ま、その話の流れから、司っちにはバイタル転送してあげないの? って秋斗さんがリィにたずねたわけだけど、君が予想しているとおり、リィは『だめ』って答えた。そこをうまい具合に懐柔したのが秋斗さん」
唯さんはそのときの会話内容まで教えてくれた。
それは実に秋兄らしい説得方法で、人の意見を素直に聞き入れる翠らしい判断だとも思う。
……つまりこれは――手にしてもいいものなのか……?
じっと小さな紙を見つめていると、
「ほらほら、とっとともらってくんないかなっ? 俺、このあと帰って二度寝するって大事なミッションがあるんだけどっ?」
俺は震える右手でその用紙を手に取った。
「俺たち家族はなんの権限もないレギュラーアプリだけど、リィと司っちのアプリだけは違う。都合が悪いときには平常時のバイタルを送信させることができる機能付き。その部分だけが俺がいじくった、俺からのプレゼント」
「……ありがとう、ございます……」
「くくっ、相当びっくりしてんね?」
事実、どんな手を使ってでも手に入れようと思っていたものが、こんなにも簡単に手に入ったともなれば、こんな醜態を晒す羽目になっても仕方がないというもの。
「んじゃま、そういうことで!」
唯さんが踵を返して去る間際、こちらを振り返った。
「司っち、わかってると思うけど、あまりにも過剰にリィをセーブしようものなら、俺は容赦なく、またそのアプリを取り上げるからね?」
唯さんは俺に釘を刺すと、軽やかな足取りで階段を下りていった。
俺は急激に力が抜け、その場に座り込む。と、手で押さえていた玄関ドアがミッシと独特な音を立てて閉まった。
俺は玄関にしゃがみこんだままポケットからスマホを取り出しQRコードを読み込む。
アクセスしてインストールボタンをタップすると、すぐにアプリのダウンロードが開始された。
一分と経たないうちにインストールが終わり、いくつかの設定を済ませると、自分のスマホのホーム画面に翠のバイタルが表示される。
「八十八の六十五、脈拍は六十一……」
時刻は六時前。きっとまだ寝ているのだろう。
たかだか三つの数値を知ることができるようになっただけ。なのに、かけがえのないものを手にした気分で、初めて弓を手にした日のことを思い出す始末。
要はそのくらい欲しかったものということで――
「変なの……」
自分ではなく人のバイタルが表示されているだけだというのに、「お守り」に思えるのだから、これが「変」じゃなくてなんだというのか。
今までそこまでスマホに執着心はなかったが、これからはえらく執着してしまいそうだ。
「……俺も翠のことを言えないな」
やけに愛しいものへと変化したスマホを片手に、俺は新たに玄関ドアを開いた。
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