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April
司・十九歳の誕生日 Side 翠葉 03話
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ホームルームが終わったあと、私は紫苑ちゃんに断りの電話を入れてから弓道場へ向かった。
弓道場の周辺には数人の女子が集まっていた。
まあ、なんとなく理由はわかる。
矢渡しという儀式の射手が秋斗さんだと周知されているのなら、秋斗さん目的で女子が集まっても不思議ではないというもの。
どこにいたらその儀式を見られるのかがわからなかった私は、集まり出した女子の近くで待機していた。すると、ポシェットの中で電話が鳴り出す。
「はい」
『あ、翠葉ちゃん?』
「はい」
『今日、来られそう?』
「はい。今、弓道場まで来てみたのですが、すでに女の子たちの垣根が出来上がっていて、秋斗さんの姿を見られるかはちょっと怪しいのですが――」
『それなら、射場に入ってきて』
「え?」
『射場。弓道場のこと』
「でも私、部外者ですし……」
『顧問の了解は得てるから』
「そう、なんですか……?」
『そうなんです。だからほら、弓道場の裏手に回っておいで』
私はテンション高めな女子たちからそっと離れ、言われたとおり、弓道場の裏手へ回った。
そこには当然ながら弓道部の人間が集まっているわけで、この人たちを掻き分けて入っていくのはなかなかに勇気がいる……。
どうしたものか、と思っていると、中から秋斗さんが顔を出した。
「翠葉ちゃん、こっちこっち」
手招きされたけれど、
「あの、本当に入ってもいいんでしょうか……」
「うん、問題ないよ。ね?」
秋斗さんは近くにいる弓道部員を捕まえて返事を強要する。と、
「どうぞどうぞ」と三人揃って弓道場の中へ促すよう身振り手振りで招き入れてくれた。
入ってすぐの場所には棚が設置されており、そこにはたくさんの的が並べ置かれていた。
靴を脱いで上がったところに下駄箱があり、そこへ靴を収納するよう言われる。
飴色の木目が美しい通路へ足を踏み入れると、その通路にはふたつのドアがあり、女子更衣室、男子更衣室と書かれていた。でも、運動部には部室棟があてがわれているわけで、ここの更衣室はなんのためにあるのか。
「ん? 更衣室がどうかした?」
「え? あ、部室棟があるのにどうしてかな、って……」
「あぁ、弓道部は週に何度か錬士や教士、範士を招いて稽古してもらうんだ。その人たちが着替える場所というか控え室というか、そんな感じに使われてる。俺も今日はここで着替えたし」
「そうなんですね……」
秋斗さんに視線を戻すと、今日初めて秋斗さんを見たときの違和感に気づいた。
いわゆるよく目にする弓道着とは異なるものを身に纏っていたのだ。
生徒たちが着ているのは白い上衣に黒い袴。秋斗さんが着ているのは――
「紋付のお着物にグレーの袴……」
「うん。矢渡しは正装で行うものだから、どう? 格好いい?」
「はい。とっても」
正直に答えたつもりだった。でも、秋斗さんはどこかつまらなさそうに表情を曇らせる。
「どうかしましたか?」
「もう顔を赤らめてくれたりはしないんだな、って」
「え?」
「時期が時期だったら、こんな格好をした俺を見て、君は赤面してくれたんじゃないかな、って思っただけ」
あぁ……確かに。秋斗さんに恋していたあのころならば、間違いなく顔を赤く染めただろう。すぐにそれを想像できたのは、ツカサがこの格好をしていたら――と考えたからだ。
正装したツカサを見たら、間違いなく赤面する。それは藤の会で立証されている。
そう考えると、今私が好きなのは紛れもなくツカサで、秋斗さんではないのだ、とひしひしと感じる。
それは決して悲しいことではない。でも、どこか寂しさを覚えるのはどうしてなのか。
たぶん、「気持ちの移ろい」を意識するからだろう。
そんな気持ちを払拭するように、
「今日は格好いい姿を見せてくれるのでしょう?」
笑顔を作ってたずねると、
「そう。翠葉ちゃんに惚れてもらうためにがんばる」
「それ、なんだか動機が不純です。ちゃんと弓道部の安全と無事を祈って儀式に挑んでください。じゃないと弓道の神様に見放されちゃいますよ?」
「それは困るな……」
秋斗さんはいたずらっぽく笑った。
弓道場へ入ると、私は少し驚いていた。
外から建物を見る分にはそんなに大きな建物には見えなかった。けれど、弓道場内は思っていたよりはるかに広い。
ツカサから毎年五十人から八十人近い部員数になると聞いてはいたけれど、その部員全員が入っても余裕があるだろうくらいには広かった。
「ここは射場。あっちの的がある場所が的場。左脇にある小道が矢取り道」
「やとりみち……?」
「矢を取りに行く道だから、矢取り道」
なるほど……。
「とっても広いんですね……。外から見ただけじゃわかりませんでした」
「あぁ、うちの道場は十人立ちができるからね」
「十人立ち……?」
「そう。あそこに射位って書いてあるでしょう? あのラインに立って弓を引くわけだけど、十人の人間が並んで弓を引くことができる」
つまり、それなりのスペースがなければ十人立つことはできない、ということなのだろう。
秋斗さんはほかにも道場のことをあれこれとレクチャーしてくれた。
そして粗方話し終わると、
「翠葉ちゃんはここに座って見ていて?」
そう言って示された場所は、「審判席」という道場内で一段高くなった場所だった。
その数分後には弓道部の顧問もやってきて、弓道部員全員が弓道場に入り、「控」という畳が敷き詰められた場所へ奥から順に、正座で座り始めた。
場内の準備が整うと、場がしんとする。
矢渡しの儀が、始まる――
秋斗さんと介添え務める生徒がふたり、入場を始めた。
三人は場内に入るとそれぞれのタイミングで礼をして、まるで作法をなぞらえるように所定の位置へ向かう。
秋斗さんを頂点に、三角形をなぞらえるようにして座った三人は、号令をかけるでもなく、三人息を揃えてきっちりと礼をした。
その後秋斗さんは立ち上がると本座へ進み、第一介添え人である生徒は秋斗さんに付き従った。第二介添え人の生徒は射場を出て矢取り道を進んで的場へ向かう。
本座へ進んだ秋斗さんは膝を突いて浅く礼をすると、こちらへと向き直り、右手で弓と矢を支えた状態で、左腕を着物の中でもぞもぞと動かし始める。
何をしているのかと思ったのは一瞬。すぐに肌脱ぎをするのだと察する。
秋斗さんが器用に左腕を出し左肩を露にすると、「待ってました」と言わんばかりに黄色い歓声があがった。
こんなデモンストレーションがあるのなら、女子の見物客が増えても仕方がないし、黄色い声があがるのも頷けるというもの。
でも、もしこの場にツカサがいたら、さぞかし冷たい視線で見られたことだろう。
心が凍てつくようなあの視線で見られてまで歓声をあげられる人間がいるとは思えない。
――あ……つまり、場を制する人間がいなくなったから、今年からは思う存分騒げるということ……?
だから、こんなにもテンションが高いのだろうか。
そんなことを考えながら秋斗さんに視線を注ぐと、第一介添え人はすばやく秋斗さんの斜め後ろへ下った。
秋斗さんは一度正面を向き。左手に弓を持つと、的前と呼ばれる場所へ移動した。
真っ白な足袋を履いた足を摺り足のように運ぶそれが、厳かさに拍車をかける。
秋斗さんが持っているのは木でできた弓と白羽の矢、二本。
秋斗さんの所作を見ていると、その動作にツカサが重なって、ツカサが立っているのか秋斗さんが立っているのか顔を見ないと判別できないほどだった。
つまり、秋斗さんの所作もツカサと同じくらいに美しい動きなのだ。
秋斗さんは弓を引き二射皆中させると、荘厳さを湛えた動作で本座へ戻り着物に肌をおさめた。
そして、第二介添え人が取って戻ってきた矢は第一介添え人を介して秋斗さんへ戻され、三人は始まるときと同様に壁を背に三角形に並び、恭しく礼をして退場した。
ひとつひとつの動作に意味があるように思えたし、何かの作法に則って行動しているように見えた。
特別な儀式に立ち会えた高揚感に包まれていると、控に座っていた弓道部員たちがわらわらと動きだす。でも私は、神聖な空気に呑まれたまま審判席でひとり正座を崩せずにいた――
弓道場の周辺には数人の女子が集まっていた。
まあ、なんとなく理由はわかる。
矢渡しという儀式の射手が秋斗さんだと周知されているのなら、秋斗さん目的で女子が集まっても不思議ではないというもの。
どこにいたらその儀式を見られるのかがわからなかった私は、集まり出した女子の近くで待機していた。すると、ポシェットの中で電話が鳴り出す。
「はい」
『あ、翠葉ちゃん?』
「はい」
『今日、来られそう?』
「はい。今、弓道場まで来てみたのですが、すでに女の子たちの垣根が出来上がっていて、秋斗さんの姿を見られるかはちょっと怪しいのですが――」
『それなら、射場に入ってきて』
「え?」
『射場。弓道場のこと』
「でも私、部外者ですし……」
『顧問の了解は得てるから』
「そう、なんですか……?」
『そうなんです。だからほら、弓道場の裏手に回っておいで』
私はテンション高めな女子たちからそっと離れ、言われたとおり、弓道場の裏手へ回った。
そこには当然ながら弓道部の人間が集まっているわけで、この人たちを掻き分けて入っていくのはなかなかに勇気がいる……。
どうしたものか、と思っていると、中から秋斗さんが顔を出した。
「翠葉ちゃん、こっちこっち」
手招きされたけれど、
「あの、本当に入ってもいいんでしょうか……」
「うん、問題ないよ。ね?」
秋斗さんは近くにいる弓道部員を捕まえて返事を強要する。と、
「どうぞどうぞ」と三人揃って弓道場の中へ促すよう身振り手振りで招き入れてくれた。
入ってすぐの場所には棚が設置されており、そこにはたくさんの的が並べ置かれていた。
靴を脱いで上がったところに下駄箱があり、そこへ靴を収納するよう言われる。
飴色の木目が美しい通路へ足を踏み入れると、その通路にはふたつのドアがあり、女子更衣室、男子更衣室と書かれていた。でも、運動部には部室棟があてがわれているわけで、ここの更衣室はなんのためにあるのか。
「ん? 更衣室がどうかした?」
「え? あ、部室棟があるのにどうしてかな、って……」
「あぁ、弓道部は週に何度か錬士や教士、範士を招いて稽古してもらうんだ。その人たちが着替える場所というか控え室というか、そんな感じに使われてる。俺も今日はここで着替えたし」
「そうなんですね……」
秋斗さんに視線を戻すと、今日初めて秋斗さんを見たときの違和感に気づいた。
いわゆるよく目にする弓道着とは異なるものを身に纏っていたのだ。
生徒たちが着ているのは白い上衣に黒い袴。秋斗さんが着ているのは――
「紋付のお着物にグレーの袴……」
「うん。矢渡しは正装で行うものだから、どう? 格好いい?」
「はい。とっても」
正直に答えたつもりだった。でも、秋斗さんはどこかつまらなさそうに表情を曇らせる。
「どうかしましたか?」
「もう顔を赤らめてくれたりはしないんだな、って」
「え?」
「時期が時期だったら、こんな格好をした俺を見て、君は赤面してくれたんじゃないかな、って思っただけ」
あぁ……確かに。秋斗さんに恋していたあのころならば、間違いなく顔を赤く染めただろう。すぐにそれを想像できたのは、ツカサがこの格好をしていたら――と考えたからだ。
正装したツカサを見たら、間違いなく赤面する。それは藤の会で立証されている。
そう考えると、今私が好きなのは紛れもなくツカサで、秋斗さんではないのだ、とひしひしと感じる。
それは決して悲しいことではない。でも、どこか寂しさを覚えるのはどうしてなのか。
たぶん、「気持ちの移ろい」を意識するからだろう。
そんな気持ちを払拭するように、
「今日は格好いい姿を見せてくれるのでしょう?」
笑顔を作ってたずねると、
「そう。翠葉ちゃんに惚れてもらうためにがんばる」
「それ、なんだか動機が不純です。ちゃんと弓道部の安全と無事を祈って儀式に挑んでください。じゃないと弓道の神様に見放されちゃいますよ?」
「それは困るな……」
秋斗さんはいたずらっぽく笑った。
弓道場へ入ると、私は少し驚いていた。
外から建物を見る分にはそんなに大きな建物には見えなかった。けれど、弓道場内は思っていたよりはるかに広い。
ツカサから毎年五十人から八十人近い部員数になると聞いてはいたけれど、その部員全員が入っても余裕があるだろうくらいには広かった。
「ここは射場。あっちの的がある場所が的場。左脇にある小道が矢取り道」
「やとりみち……?」
「矢を取りに行く道だから、矢取り道」
なるほど……。
「とっても広いんですね……。外から見ただけじゃわかりませんでした」
「あぁ、うちの道場は十人立ちができるからね」
「十人立ち……?」
「そう。あそこに射位って書いてあるでしょう? あのラインに立って弓を引くわけだけど、十人の人間が並んで弓を引くことができる」
つまり、それなりのスペースがなければ十人立つことはできない、ということなのだろう。
秋斗さんはほかにも道場のことをあれこれとレクチャーしてくれた。
そして粗方話し終わると、
「翠葉ちゃんはここに座って見ていて?」
そう言って示された場所は、「審判席」という道場内で一段高くなった場所だった。
その数分後には弓道部の顧問もやってきて、弓道部員全員が弓道場に入り、「控」という畳が敷き詰められた場所へ奥から順に、正座で座り始めた。
場内の準備が整うと、場がしんとする。
矢渡しの儀が、始まる――
秋斗さんと介添え務める生徒がふたり、入場を始めた。
三人は場内に入るとそれぞれのタイミングで礼をして、まるで作法をなぞらえるように所定の位置へ向かう。
秋斗さんを頂点に、三角形をなぞらえるようにして座った三人は、号令をかけるでもなく、三人息を揃えてきっちりと礼をした。
その後秋斗さんは立ち上がると本座へ進み、第一介添え人である生徒は秋斗さんに付き従った。第二介添え人の生徒は射場を出て矢取り道を進んで的場へ向かう。
本座へ進んだ秋斗さんは膝を突いて浅く礼をすると、こちらへと向き直り、右手で弓と矢を支えた状態で、左腕を着物の中でもぞもぞと動かし始める。
何をしているのかと思ったのは一瞬。すぐに肌脱ぎをするのだと察する。
秋斗さんが器用に左腕を出し左肩を露にすると、「待ってました」と言わんばかりに黄色い歓声があがった。
こんなデモンストレーションがあるのなら、女子の見物客が増えても仕方がないし、黄色い声があがるのも頷けるというもの。
でも、もしこの場にツカサがいたら、さぞかし冷たい視線で見られたことだろう。
心が凍てつくようなあの視線で見られてまで歓声をあげられる人間がいるとは思えない。
――あ……つまり、場を制する人間がいなくなったから、今年からは思う存分騒げるということ……?
だから、こんなにもテンションが高いのだろうか。
そんなことを考えながら秋斗さんに視線を注ぐと、第一介添え人はすばやく秋斗さんの斜め後ろへ下った。
秋斗さんは一度正面を向き。左手に弓を持つと、的前と呼ばれる場所へ移動した。
真っ白な足袋を履いた足を摺り足のように運ぶそれが、厳かさに拍車をかける。
秋斗さんが持っているのは木でできた弓と白羽の矢、二本。
秋斗さんの所作を見ていると、その動作にツカサが重なって、ツカサが立っているのか秋斗さんが立っているのか顔を見ないと判別できないほどだった。
つまり、秋斗さんの所作もツカサと同じくらいに美しい動きなのだ。
秋斗さんは弓を引き二射皆中させると、荘厳さを湛えた動作で本座へ戻り着物に肌をおさめた。
そして、第二介添え人が取って戻ってきた矢は第一介添え人を介して秋斗さんへ戻され、三人は始まるときと同様に壁を背に三角形に並び、恭しく礼をして退場した。
ひとつひとつの動作に意味があるように思えたし、何かの作法に則って行動しているように見えた。
特別な儀式に立ち会えた高揚感に包まれていると、控に座っていた弓道部員たちがわらわらと動きだす。でも私は、神聖な空気に呑まれたまま審判席でひとり正座を崩せずにいた――
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