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葉野りるは

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April

司・十九歳の誕生日 Side 司 03話

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 翠と昇降口で別れると、俺はまっすぐ弓道場を目指す。
 顧問承諾のもと、スペアキーを手に入れたため、職員室へ行く必要はない。
 歩き慣れた小道を進むと、すでに道場が開いていた。
 的場を見れば安土に水がかけられており、的付けも済んでる。しかもふたつ――
 部員がふたりいるのか……?
 それはさておき、始業式の日に朝練をするような熱心が部員が後輩にいただろうか。
 部長を任せた如月か……?
 いや、いくらなんでも始業式の今日に朝練をする人間はいないだろう。なら誰が――
 そっと引き戸を開け射場に足を踏み入れると、開け放たれた道場に、正装した秋兄が弓を引いて立っていた。
 大三、引き分け、会……離れ、残心――
 久しぶりに秋兄の射を見て、非の打ちどころのないそれに嫉妬する。と、一陣の風が舞い込み、秋兄がこちらを向いた。
「やっぱ来たか」
 逆光の中に立つ秋兄の表情は読めない。それでも声は穏やかで、表情も穏やかな気がした。
「正装ってことは、今年も矢渡しの射手を頼まれた?」
「そう」
 秋兄は朗らかに笑う。
 毎回学期始めの始業式の日に、弓道部員の成功と無事、安全を祈って矢渡しの儀が行われ、終業式の日には納射会が行われる。
 矢渡しで秋兄が射手を務めるのに対し、納射会ではその学期一番活躍した部員が射手を務めることになる。
 しかし、秋兄が射手を務めるようになったのは俺が高等部に入学してからのことで、俺が卒業すればそれも終わるのかと思っていたが、どうやら違うらしい……。
 意外に思いながら秋兄を眺めていると、
「でも、それだけならこんな早くには来ないよ」
 確かに。入学式後のホームルームが終わるのはだいたい十時半ごろで、部活が始まるのは十一時と決まっている。
「ならなんで?」
「司がここに寄ると思ったから?」
「意味わからないし」
「我が従弟殿のスーツ姿を拝もうと思って」
 姉さんに始まり秋兄までいったいなんなんだか……。
「スーツ姿なんてそんな珍しいものじゃないだろ?」
 毎年クリスマスにはじーさんの誕生パーティーで着てるわけだし。
「今まで目にしてきたものとは意味合いが違うだろ? それに、大学合格時におめでとうも言ってなかったし、今日は入学式だし、翠葉ちゃんとの婚約の件もあるし、ひとまず『おめでとう』が言いたかったんだよ」
「あっそ……」
 秋兄は俺の姿をまじまじと見て、
「荷物少ないけど、司はスーツでやるつもり?」
「さすがに道着に着替える時間はないから。それにもう、『藤宮学園高等部』の刺繍が入った上衣を着るわけにはいかないし、袴の丈も合わなくなってきてる。近いうちに新調する予定」
「身長は伸びると思ってたけど、想像してた以上に伸びたもんな。……なら、シャツのボタンに弦が引っかからないように胸当てをするか――」
「Tシャツ持ってきたから、Yシャツの上に着てやる」
 榊の水を換えようと神棚に手を伸ばすと、
「もう換えた」
「ありがと」
「どういたしまして」
 俺は神拝を済ませると、弓と矢の準備を始めた。
 矢は矢立箱へ置き弓に弦を張る。把はの高さを確認したあと、麻ぐすねで弦をこすり弓置きに弓を置いた。
 スーツの上着を脱ぎシャツの袖を捲り上げると腕時計とベルトも外し、持ってきたTシャツをシャツの上に着る。
 準備ができたところで全身を軽くストレッチ。
 ストレッチの最後はゆっくりと肩を回し、肩甲骨を意識して動かしては僧帽筋を念入りに解す。と、控から本座へ入り、秋兄の左隣に膝をついた。
 ちら、とこちらを見た秋兄は、
「道着に着替える時間はなくとも、徒手射法はするんだな」
 そう言って笑うと、秋兄は的前に移った。続いて自分も的前に移動する。
 秋兄の後ろ姿を見ながら徒手射法――射法八節をするのはどのくらい久しぶりだろう。一昨年の夏――秋兄を緑山へ迎えに行って以来……かな。
 そんなことを考えている俺は、精神統一などできてはいない。
 わかっていながらも、なんだかものすごく懐かしい気がして、射に集中することができなかった。
 小さいころから秋兄の後姿を追いかけて、ほかの何を選ぶことなく、何を疑うことなく弓を手に取ったっけ……。
 中等部に上がるまではずっと、本家にある弓道場で弓を引いていた。
 教えてくれたのは、じーさんと琴平範士。
 俺たちをひとりの人間と認識し、藤宮のしがらみ関係なく接してくれた数少ない大人。
 だからこそ、俺と秋兄は弓道にのめりこみ、それと真摯に向き合ってこられたのだと思う。
 あのころから追いかけるばかりでここまできたけど、未だに追いつけてすらいない。
 いつか追いつける日が来るのかすらわからず、何がどうしたら追いつけたことになるのかすら明確ではないのに、あのころのように素直に追いかけることもできなくなった。
 俺と秋兄はずっとこのまま、一定の距離を保ったまま歩き続けるのだろうか。
 いつか追いつきたい、いつか頼られるようになりたい――
 そうは思うけど、たいていのことを卒なくこなすこの従兄に追いつけるのがいつのことなのかなどわからないし、そんな人間が俺を頼りにすることなんてないように思える。
 たとえば秋兄が頼るとしたら、蔵元さんとか唯さん、御園生さんであって、俺という選択肢が増えることは一生ないんじゃないのか――
 それもなんだか悔しいな……。ずっと側にいたのは俺で、ずっと見てきたのも俺なのに。
 そんなことを考えていると、不意に秋兄が振り返った。
「どうした?」
 たずねられてすぐ、反応することができなかった。
「心ここにあらず。そんな状態でここに立つ意味はないと思うけど? 考えごとがあるなら控へ下れ」
「悪い……」
 俺は一度控へ下り呼吸法で雑念を払うと、そこからすべてをやり直して満足のいく射法八節を行ったあと、弓を持ち素引きを数回行ってから矢を持つことにした。
 そのころには秋兄は弓を置いていて、控に移って俺の射を見ていた。
 秋兄の視線も感じなくなるほどに集中して矢を放つ。四射放っては秋兄と揃って矢取りへ向かうを数回繰り返し、きりのいいところで切り上げることにした。
 的に刺さった矢を引き抜きながら、そろそろ道具のメンテナンスが必要なころだな、と思う。
 矢を秋兄に預け、自分に用意された的も同時に回収する。
 的を収納棚に戻し、矢についた土をタオルで拭い終わるころには八時半を回っていた。
 大学へ行くには少し早いが、遅いよりはいいだろう。
 そんなことを考えていると、
「やっぱり本命は司だな……」
 独り言のように呟いたそれに振り返ると、
「少し話しがしたくてさ」
「話し……?」
「そんな大した話しじゃないよ。宣言っていうか、報告っていうか……ま、そんなとこ」
「何……」
 秋兄の報告とか宣言がいいものであったためしがない。
「司が翠葉ちゃんと入籍するのは六年後って聞いた。それが実現したら、静さんの次の会長には俺がなるよ」
「っ……」
「そんな驚くことでもないだろ? 俺だって翠葉ちゃんが今以上の危険に晒されるのは本意じゃない。翠葉ちゃんがおまえを選ぶなら、危険な道は俺が引き受ける。でももし、そのころまでに翠葉ちゃんとおまえが破局していたら、そのときはそのときで司にも半分を担ってもらう。もしくは、俺が翠葉ちゃんとうまくいくようなことがあれば、俺はおまえにすべてを押し付けるよ」
「どんな宣言だか……」
「まあね。でも、そのつもりだからよろしく」
「今の会社はどうするつもり? 起業した責任はあるんじゃないの? 社員だってこの四月から増やしたって――」
「それは問題ない。俺が会長職に就く際には藤宮グループの傘下に入れる。それが可能な保険はかけてある」
 どこまでも抜け目のない……。
 社名を「Fメディカル」にしたって聞いたときに、なんとなくそんな気はしてたけど……。
「話しってそれだけ?」
「そっ、大したことなかっただろ?」
 そう言って笑う秋兄を蹴飛ばしたかったけど、俺は睨むに留めた。
「破局とかあり得ないし……」
「そう? そんな捻くれた性格してると翠葉ちゃんに愛想尽かされちゃうかもよ?」
「翠の前ではここまで捻くれてない」
「へぇ……それは妬けるな。俺の前でももっと素直になってくれていいのに」
 その言葉に、ふと心をよぎる思いがあった。
「……――」
「なんだよ、急に黙って」
「……俺が素直になったところで秋兄が俺を頼ることなんて――やっぱなんでもない」
 うっかり口にしてしまったことが恥ずかしくて、とっとと弓道場を出ようと思った。
 焦ったままに神拝を済ませると、背後から声をかけられた。
「いつだって頼りにしてるよ、従弟殿」
「っ――」
「ライバルだし、年の差こそあるけど、司は唯に匹敵するポテンシャルがあるし、今すぐにだってうちの警備会社で使える人材だ。そういう意味でも頼りにしてきたつもりなんだけど……? じゃなければ、バイトになんて雇わない。それに、精神的な部分でもずいぶん頼ってると思うよ。俺が遁走したときや海外へ逃げようとしたとき、見つけ出して叱ってくれたのは司だろ? そういう部分で司に甘えてるなって思ってたわけだけど、司はどう思ってたわけ?」
「……別に」
 何をどう答えていいのかわからなくて、俺は秋兄の顔を確認することもせず射場をあとにした。
 更衣室で着替えながら思う。
「っていうか、あんな面倒な甘え方されても困るんだけど……」
 間違った道を行こうとしているなら殴ってでも引き摺り戻す心づもりはあるけれど、そう何度も間違った道を歩まれても困るっていうか、なんというか……。
 でも、的前に立ったときのモヤモヤとした気持ちはなくなっていた。
「頼りにしている」――そんな何気ない一言に、胸がじわじわと温かなものに侵食される感覚があって、それが「嬉しい」という感情であることもなんとなく把握できていて、なんだかものすごく奇妙な気分だった。
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