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November
陽だまりの音 Side 司 01話
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時刻が六時半を回ったころ、俺と翠はゲストルームへ戻るエレベーターの中にいた。
あとから乗ってきた翠は俺の前に立っていて、小さな頭を見下ろした直後、トン、と胸に小さな衝撃があった。
翠の背が、自分の胸に預けられたのだ。
なんとなく背があたってしまったとかそういうことではない。確かなる意思を持って、背を預けられた。
その動作に、抱きしめることを許された気がして、俺は背後から細い身体を抱きしめる。
藤山で話をしたあの日から、翠が翠なりに努力していることは事あるごとにうかがえた。
こんなふうにくっついてきたり、おっかなびっくりではあるものの、俺に触れようとしてくれていたり。そういうこと一つひとつが嬉しいと思う。
嬉しさや喜びを感じれば感じるほどに翠を欲し、翠が何を考えているのかまで事細かに知りたくなる。
翠の頭に顎を乗せ、俺は不満を口にした。
「ピアノがホームレッスンに切り替わったの、聞いてなかったんだけど……」
「え……?」
「だから、ピアノのレッスンがホームレッスンになったの、聞いてなかったんだけど」
大学受験の一件からこちら、割となんでも話し合うようになっていた。
俺も話す努力をしていたし、それは翠も同じだと思っていた。けれど、今日の予定やホームレッスンへの切り替えの件は何ひとつ知らなかったわけで……。
なんだかわかった気がする。
言ってもらえると思っていたものが知らされなかったとき、どんな気持ちになるのか。
今さらのように紫苑祭一日目の下校時を思い出す。
驚いたような顔で呆けている翠を見下ろしていると、翠ははっとしたように話し始めた。
「ホームレッスンに切り替えるって決めたのは先週の日曜日。ライブのあった日なのだけど、ツカサ、機嫌悪かったでしょう? それでなんとなく言いそびれてしまっただけ。他意はないのよ?」
言われて舌打ちしたい気分になる。
要因が自分にあったともなれば、これ以上何を言うこともできないわけで――
「レッスンのとき、俺もその場にいていい?」
「え?」
「だめなの?」
「えーと……」
翠は数秒してから口を開いた。
「問題ない、かな? でも、六時からレッスンが始まって九時過ぎまでだよ? 真白さんや涼先生、心配しないかな?」
「所在は明らかにしておくし、帰りは警護班に送ってもらうから問題ない」
「……そう。でも、どうして?」
いい加減俺という人間を理解してほしいし、理由くらい察してもらえないものか……。
「レッスンでも、翠を男とふたりにしておきたくない。仙波さんがどういう人間なのか、俺は知らないから」
もっと言うなら、あんな無邪気な顔で「大好き」とか言ってもらえる男に嫉妬したから。
それが音に対する感想だったとしても、あんな嬉しそうな顔で「大好き」という言葉を向けられる男に嫉妬した。
なんだか最近は嫉妬してばかりだ。
そんな俺と反して、翠は「クスリ」と軽やかな笑い声を漏らした。
「仙波先生は紳士だよ」
「それ言うなら、秋兄だって見た目も触りも紳士だろ? でも、中身はあんなだ」
腕の中で身体の向きを変えた翠は、肩を震わせて笑っている。そして、目じりに涙を浮かべながら、
「ツカサはちょっと心配しすぎ。仙波先生、レッスンのときはとっても厳しいのよ? でも、それも目の当たりにしたらわかるよね。うん、良ければ月曜日のレッスン、見に来てね」
そう言ってエレベーターを降りる翠を追いかけた。
「翠」
振り向いた翠の唇を奪う。
目を開けたままだった翠は不服そうに唇を尖らせ、
「もう……また外で……」
そんな言葉を漏らすくせに、どこか嬉しそうに頬を緩めるからもう一度キスをしたくなる。
もう一度キスをしたら今度は笑顔になるんじゃないかと思って。
キスしたい気持ちを抑え、
「エレベーターの中だとコンシェルジュに見られる可能性があるけど?」
平然と言ってのけると、翠はちょっと反抗的な目で睨み返してきた。しかし、それも長くは続かず、やっぱりどこか嬉しそうに表情を緩める。
いっそのこと、笑ってくれればいいのに……。
そんなことを思いながらかばんを渡し、「また明日」と声をかけると、翠も同様の言葉を返した。
この瞬間が少し好きだ。
翠の表情が少し翳り、「名残惜しい」という感情が垣間見える瞬間が。
翠がゲストルームのドアを開けるのを見届けてから思う。
あと何回――あと何度別れ際にキスをすれば、それが日常になるだろう。
あと何度キスを重ねれば、別れ際にキスを乞われるようになるだろう。
俺は「条件反射」における実験を、翠で始めていた。
あとから乗ってきた翠は俺の前に立っていて、小さな頭を見下ろした直後、トン、と胸に小さな衝撃があった。
翠の背が、自分の胸に預けられたのだ。
なんとなく背があたってしまったとかそういうことではない。確かなる意思を持って、背を預けられた。
その動作に、抱きしめることを許された気がして、俺は背後から細い身体を抱きしめる。
藤山で話をしたあの日から、翠が翠なりに努力していることは事あるごとにうかがえた。
こんなふうにくっついてきたり、おっかなびっくりではあるものの、俺に触れようとしてくれていたり。そういうこと一つひとつが嬉しいと思う。
嬉しさや喜びを感じれば感じるほどに翠を欲し、翠が何を考えているのかまで事細かに知りたくなる。
翠の頭に顎を乗せ、俺は不満を口にした。
「ピアノがホームレッスンに切り替わったの、聞いてなかったんだけど……」
「え……?」
「だから、ピアノのレッスンがホームレッスンになったの、聞いてなかったんだけど」
大学受験の一件からこちら、割となんでも話し合うようになっていた。
俺も話す努力をしていたし、それは翠も同じだと思っていた。けれど、今日の予定やホームレッスンへの切り替えの件は何ひとつ知らなかったわけで……。
なんだかわかった気がする。
言ってもらえると思っていたものが知らされなかったとき、どんな気持ちになるのか。
今さらのように紫苑祭一日目の下校時を思い出す。
驚いたような顔で呆けている翠を見下ろしていると、翠ははっとしたように話し始めた。
「ホームレッスンに切り替えるって決めたのは先週の日曜日。ライブのあった日なのだけど、ツカサ、機嫌悪かったでしょう? それでなんとなく言いそびれてしまっただけ。他意はないのよ?」
言われて舌打ちしたい気分になる。
要因が自分にあったともなれば、これ以上何を言うこともできないわけで――
「レッスンのとき、俺もその場にいていい?」
「え?」
「だめなの?」
「えーと……」
翠は数秒してから口を開いた。
「問題ない、かな? でも、六時からレッスンが始まって九時過ぎまでだよ? 真白さんや涼先生、心配しないかな?」
「所在は明らかにしておくし、帰りは警護班に送ってもらうから問題ない」
「……そう。でも、どうして?」
いい加減俺という人間を理解してほしいし、理由くらい察してもらえないものか……。
「レッスンでも、翠を男とふたりにしておきたくない。仙波さんがどういう人間なのか、俺は知らないから」
もっと言うなら、あんな無邪気な顔で「大好き」とか言ってもらえる男に嫉妬したから。
それが音に対する感想だったとしても、あんな嬉しそうな顔で「大好き」という言葉を向けられる男に嫉妬した。
なんだか最近は嫉妬してばかりだ。
そんな俺と反して、翠は「クスリ」と軽やかな笑い声を漏らした。
「仙波先生は紳士だよ」
「それ言うなら、秋兄だって見た目も触りも紳士だろ? でも、中身はあんなだ」
腕の中で身体の向きを変えた翠は、肩を震わせて笑っている。そして、目じりに涙を浮かべながら、
「ツカサはちょっと心配しすぎ。仙波先生、レッスンのときはとっても厳しいのよ? でも、それも目の当たりにしたらわかるよね。うん、良ければ月曜日のレッスン、見に来てね」
そう言ってエレベーターを降りる翠を追いかけた。
「翠」
振り向いた翠の唇を奪う。
目を開けたままだった翠は不服そうに唇を尖らせ、
「もう……また外で……」
そんな言葉を漏らすくせに、どこか嬉しそうに頬を緩めるからもう一度キスをしたくなる。
もう一度キスをしたら今度は笑顔になるんじゃないかと思って。
キスしたい気持ちを抑え、
「エレベーターの中だとコンシェルジュに見られる可能性があるけど?」
平然と言ってのけると、翠はちょっと反抗的な目で睨み返してきた。しかし、それも長くは続かず、やっぱりどこか嬉しそうに表情を緩める。
いっそのこと、笑ってくれればいいのに……。
そんなことを思いながらかばんを渡し、「また明日」と声をかけると、翠も同様の言葉を返した。
この瞬間が少し好きだ。
翠の表情が少し翳り、「名残惜しい」という感情が垣間見える瞬間が。
翠がゲストルームのドアを開けるのを見届けてから思う。
あと何回――あと何度別れ際にキスをすれば、それが日常になるだろう。
あと何度キスを重ねれば、別れ際にキスを乞われるようになるだろう。
俺は「条件反射」における実験を、翠で始めていた。
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