後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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酔うとは、斯くも面倒なものなのか

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 酒席はそれから戌の刻いっぱいまで続いた。
 俊熙は子豪に促されるまま呑み、その後磊飛も巻き込まれ、三人で妙な呑み比べとなった。
 時々香月も子豪に絡まれて杯を傾けていたが、太燿だけはまだ酒の解禁まで二年あるので高級茶や果実水をひたすら飲むしかない。
 運ばれた料理も流石は夏蕾一の青楼、皇宮にも劣らぬものでもてなされ、次第に俊熙ですらここに何をしに来たのか忘れそうになる始末だ。
 ただ、全員が明確に理解しているのは、これが束の間の休息であるということ。照らし合わせた情報からは、これから立ち向かうものがとても強大であり闇が深いものだということが判明しているのだ。酒くらい呑んでないとやってられない、というのが正直な感想だったりする。……東宮を守る芳馨たちには申し訳ないが。
「ねぇ俊熙、俺そろそろ東宮に戻らないと」
 太燿が、静かに呑み続けていた俊熙に耳打ちする。
 そう言えば戌の正刻の鐘が鳴ってからしばらく経つ。流石に皇太子を夜分までフラフラ付き合わせるわけにはいかない。
「そうですね…、お暇しましょう…」
「ちょっと俊熙、目ぇ据わってるんだけど」
「いえ、そんなことは」
「さては顔色に出てないだけで、相当酔ってるね?」
「……」
 俊熙は自分の頬に手をやって、その熱さに驚く。そんなに弱いはずはないのだが、子豪と磊飛の進み具合に付き合ったせいで知らず無理をしていたのか、それとも思ったよりこれからの動きに不安があったからなのか。わからないが、確かに、いつもより酔っている気がする。
「珍しいね、俊熙がそんな感じになるの。いつもは抑えて呑むじゃん」
「そうです、ね。すみません、宮へ戻りましょう」
 子豪と磊飛は酒の席で何故か意気投合したのか、今は隣同士に座って妓女にお酌をされながら呑み続けている。
「磊飛!そろそろ…」
 喧騒の中通るように大きめの声を出したが、その衝撃か頭がくらりとした。思わず額を押さえると、太燿がいる側では無い方から声が聞こえる。
「俊熙さま大丈夫ですか? 具合悪そうですけど…」
 顔を見ずともわかる、香月だ。その辺の妓女では無い。
「いや…大丈夫だ」
「あんまり大丈夫そうじゃないけどね」
 太燿の声は苦笑混じりだ。自身が『酔っている』と自覚すると唐突に身体が怠く、重く感じられてくるから不思議である。
「少し酔い覚ましてから、俊熙は戻った方がいいね」
「しかし殿下の護衛を…」
「そんな酔ってる俊熙、連れてたって何も頼もしくないけどね?」
 ぐうの音も出ないとはこの事である。太燿を守る身でありながら酒で正体を無くすなど言語道断だ。
「大丈夫、多分磊飛は元気でしょ。磊飛~、帰り護衛出来そう?」
「あ? 護衛? たりめぇだ、誰に聞いてんですか?」
「だってさ」
 磊飛は俊熙とは比べ物にならないほどの速さで体内に酒を摂取していたはずだが、流石の酒豪である、身体のつくりが違うらしい。
「なんだ俊熙、酒に呑まれちまったのか?」
 磊飛がドスドスと音を立てながら近寄ってくるが、その振動が頭に響く。ああこれは完全に酔っている。
「お前でもそんなことあるんだなぁ。これは帰って芳馨と雲嵐に報告しねぇと」
「やめてくれ…」
 嬉々として言う磊飛に、俊熙は力なく反論する。
「あの、どこか休めそうなお部屋でも支度お願いしてきましょうか?」
「んー、そうだねぇ。子豪に聞いてみよっか」
 ぼやける脳内にいくつか会話が入ってくるが、あまりうまく咀嚼出来ない。ただ背中を擦る手の温もりは感じていて、多分香月の仕業だと思うと何故か少しだけ心が和らいだ。
「俊熙、子豪が楼主に部屋ひとつ準備させるってさ。半刻くらい休んで酔い覚ましてから戻っておいでよ」
「面目ない、ありがとうございます…」
「珍しい俊熙が見れて俺は楽しかったけどね」
 くすくす笑う太燿に、苦虫を噛み潰したような表情で返してしまった。仕方ない、お言葉に甘えて少し休ませて貰おう。そう言えばここ数日、充分に睡眠もとれていなかったせいか疲れも感じる。明日からも大忙しなのだから、思い切って休息するのも大事だろう。
 俊熙が胸中で自分を納得させていると、太燿と磊飛は帰宮の準備を順調に整え、早速青楼を出ていくようだ。
「んじゃあ俊熙、また後でな」
「香月ちゃん、手間かけちゃうけどよろしくね」
「は、はい、承知しました」
 太燿が香月に何かをよろしくしたのだけ聞こえて、ん?と思わず左側を見る。
 そこには当たり前だが香月が居て、何故か妓女のような格好をしている――のはそうだった、そういう格好でわざと来たんだった。
 俊熙は思った以上に自分の思考回路がおかしくなってしまっていることを自覚する。
「…俊熙さま、部屋が整ったら教えて貰えるので、それまでここで我慢してくださいね」
 香月が俊熙の背中を擦りながら、言う。
 少し離れた所からは、子豪のものらしき妓女を呼ぶ声がする。どうやら子豪はいつもの妓女と別の部屋で懇ろするらしい。
「……お前、は、戻らないのか」
 脳みそがぐるぐるする。額に当てた掌はもう温くなっていて、思考はいつまで経ってもハッキリしない。
「はい、太燿さまから、俊熙さまの介抱を仰せつかったので…って、さっきその話されてましたよね?」
「え?」
 わからないが知らないうちに俊熙が是を唱えたらしい、しかし全く記憶にない。酔うとは、斯くも面倒なものなのか。
「すまない、迷惑をかける…」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
 とんだ失態を晒しているのに、香月の手は変わらずゆっくり背を支えてくれていて、俊熙は本当に周りの人に恵まれたなと、神への感謝を捧げるに至った。なぜそこに思考が至ったのかは謎だが。
「……あ、俊熙さま、お部屋案内いただけるそうです。立てます?」
 そう言って軽く腕を引かれて、俊熙も足に力を入れて立ち上がる。変わらず脳はグラグラしているが、思ったより足はしっかりしているようだ。
 香月に支えられながら、足を踏み出す。頭一つ分も小さい女性に支えられて歩くなど、正常な俊熙が見たら鼻で笑うこと間違いなしである。しかし今の俊熙は、その腕を香月から離すことは出来ない。
「さぁ着きましたよ俊熙さま」
 戸を開けて抑えてくれている妓女の横をすり抜けると、妓女が香月に向かって囁くのが聞こえた。
「朝まで取ってあるって、子豪サマが仰ってたわよ」
「えっ」
 香月が硬い声を漏らす。
 朝まで?そんなわけには行かない、早く戻って明日の調査手配をしなければならないのだ。
「ならん! きちんと、半刻で、戻らねば」
 強く俊熙がそう答えると、目を丸くした妓女がすぐに胡乱な眼差しを湛えて香月の肩を叩いた。
「ちょっと、あんたも苦労するわね。どこの娘(こ)か知らないけど、まぁウチのことは気にせず頑張って落としなよ」
「落と…っ!? 違います、私は妓女じゃ…」
 何か言い合っているが、すぐに妓女のすり足が遠ざかっていく音がする。「…もう」と横にいた香月が小さく呟いた。
「……俊熙さま、座ります? 横になります?」
 俊熙がぼーっとしていると香月に問われる。ひとまず、脳がグルグル回るので横になりたい。
「一旦横に……」
「わかりました、お連れしますよ」
 歩き出した香月に合わせて俊熙も足を動かす。
 と、足元にどうやら布があったようで、それにとられて俊熙が体勢を崩す。
「…っあ、」
 こういう時は俊熙も香月から手を離さなければならないのに、その腕はどうしてか離れず、更には香月も咄嗟に支えようと腕を掴んだせいで……二人はそこにあった布――もとい敷布団の上に、バターンと倒れ込む羽目になった。
「…、たた…」
 俊熙は咄嗟に香月を抱え込んで背中からそこに落ちた。その所為で背骨は痛いし、振動で頭も痛い。
「あたた、、す、すみませ、」
 仰向けになった俊熙の胸の上で、モゾッと香月が動いた。ここ数日で、この状況は何度か覚えがある。過去二回は俊熙も受け身をとったお陰で痛みは無いが、今回は身体がどうにもポンコツである。上半身すら起こせず、香月を胸に抱いたまま、俊熙は諦めて力を抜いた。
「し、俊熙さま、ごめんなさい、大丈夫ですか!」
 顎の下から香月が言い募る。
 怠惰な気分になってきて、首と目線だけでそちらを見下ろすと、そんな惰性も吹き飛ぶような光景が目に飛び込んできた。
 肌色。
 そう言えば今日の香月は胸ぐりの深い衣装を着ていたんだった。細かい装飾の施された衿はいつもは胸の前で固く重ねられているのに、今日は肩の骨が見える部分まで大きく開かれている。
 そのせいで、肌色の面積が、広い。
 しかも男にはないその柔らかさが、本人の自重により俊熙の胸元に押し付けられていて、それがこの角度だと良く見えてしまうのだから大変よろしくない。
 くらりとしたのは、その色香か、酔いか。
 ――目に毒だ!
 心配してくれている香月には悪いが、今は酒に呑まれていると自覚出来ているので何かが起きてしまう前に離さなければならない。
「…大丈夫だ、私こそ…」
 香月から腕を離すと、その腕で自分の目元を覆った。
「酔いが、回っている。すまん」
 明日からはまた、闘いの渦中だ。こんな所で心を乱している場合ではない。
 香月がゴソゴソと身動ぎして、慌てて俊熙の上から降りていくのを感じる。
「すみません本当に、ご気分とか大丈夫ですか? お水持ってきて貰いますから」
 そう言うと香月はカタンと扉を開けて部屋を出ていく。
 隙間から入り込んだ風が俊熙の胸元を吹き抜けて、香月が残した温もりを丸ごと連れ去って行った。


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